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屑になりたい 第1話 茶色い表紙の小説 

東京府、東村山にある強制収容病院に一通の手紙が届いた。

差出人は昨年、妻となったと志子からであった。

拝啓


同情程愛情から遠いものはありません。


貴方は小説の中でそうお書きになられました。貴方と私が暮らしていた小さな街から一人の青年がいなくなれば、僅かな村人たちしかいないのですから行方を詮索する者、勘の良い者の中には同情めいた感情を持つ者もきっといたことでしょう。


貴方の仰るとおり同情の心の片隅には、愛情の欠片ほども無いように思われます。そこに残されたのは勝手きわまる疑念と噂の域を超えた言葉だけでした。


 あの日は赤い季節でしたわね、稲穂はすでに刈り取られたあとで夕日を隠せるものは、やはり紅葉した山の頂きか実をたくさん付けても、もぎ手を無くそうとしている柿の紅だけで御座いませんでした。


 茜色の街を追われる貴方の背中を赤トンボが追いかけるように飛び回っていたのですから、季節は晩秋の頃だったと記憶しています。異様な防護衣を身に纏った村の役人方や巡査と思われる方たちに囲まれ、まるで連行されていく犯罪者のように私の瞳には映り、決して消え去る事のない光景となって今も思い出します。

いったい貴方に何の嫌疑が掛けられているのでしょうか。私はただ独り、不安な日々を過ごすしか御座いませんでした。貴方のお父さまはなにもお話になりませんでしたし、貴方のご友人も口を閉ざし、まるで貴方という存在自体を無き者のように、私には何もお教えくださいませんでした。役場にお勤めされている方々にもお会いして、貴方がいったいどこへ連れて行かれたのかをお聞きいたしましたが、誰ひとり教えてくれる方はいませんでした。私たちの媒酌人をしてくださった巡査の安藤様も口を閉ざしたまま、次なる村へと転勤してしまいました。

 貴方が隣町で金品を盗んだ悪党だったとか、人を殺めた過去が判明したとか、根も葉もない噂ばかりがひろまり、翻弄される日々も御座いましたが、決してそのような罪びとに陥る方ではない事は重々存じ上げていたつもりで御座います。


 突然、私の前からいなくなってしまった貴方からの文が届くことも無く、私はただただ途方にくれるしか御座いませんでした。貴方にとって私はいったいどのような存在だったのでしょうか、疑いの想いを抱いた事も幾度も幾度も御座います。私の出来うる術をすべて使い尽くしても、貴方がどこに行かれてしまったのかを知る事は出来ませんでした。


 そんな折、実父のお伴をして海峡を渡り大坂に一泊する機会を得る事が出来ました。


 瀬戸内の波はとても穏やかで、うっすらとした海風が放つ潮の香りは私の身体の内を通り抜けていくようで御座いました。あの日から黒く纏わりついて離れようとしない私の心情とは裏腹に、海風が髪を煽りながら岸に到着すると旅行気分も内心備え、人込み溢れる雑多な商店の端にある書籍屋さんに何の目的もなく入っていきました。

 貴方もご存知のとおり『女は読書と編み物を嗜むべし』との父の言葉に従って育てられた私ですから、書物に興味を抱くのはごくごく自然の成り行きだったのかもしれません。ちょうど店先から向かって右側の棚に溢れ出しそうなほど並ぶ本たちの中に、一冊の茶色い表紙をした小説を見つけました。私の背丈と同じ高さであったからでしょう、聞き覚えもない作家であるにも関わらず、不意に手に取ってしまったその小説を括り、読み始めてしまった私に向かい番頭さんと思われる男の方は私を咎めることなく、著者の身に起きた不幸をお話しくださいました。


 名を隠し変えて、生きながらえる事を選んだ病者の生命の糧、いいえ証を残そうと執筆された小説であること、私とほとんど変わらぬ年齢であり二十歳そこそこの男性が執筆し出版に至ったことなどをお教えくださいましたが、著者の本名や現況はご存知ではないようでした。


 あのK先生がお褒めになられ、出版に至った経緯までも教えてくださり、私の興味はますます湧いて止まる事はございませんでした。


 一冊の書物を買うに足りる持ち合わせもございましたので、手に持ったまま番頭さんの元に本を渡し買い求め、宿に戻ると一晩で読み終えてしまいました。三篇の短編小説からなるものでしたが、ふと気になる思いが私の内に生じてしまい、居ても立ってもいられなくなりました。鼓動はドクドクと音をたて早くなり、息苦しささえ覚えるほどで御座いました。


 もう一度最初の短編を読み返してみて、私の思いは予測ではなく想像の域を超えた確信へと変わっていきました。


 貴方は文章を書くのがお上手でしたわね、そしていつの日か真の小説家になる事を夢見ていました。


 もしや貴方は病者となられて、私の買い求めた小説の中にいる『癩』者たちと暮らしているのではないかと思うようになったのです。


 一昨年の冬でした、貴方は暖を取るために囲炉裏に手を伸ばし、温まった頃合いを見計らって私の頬を両の手掌で挟んでくださいました。その時、貴方の手掌は尋常ではない熱を保ち、私の頬は一瞬で赤く変わるほどで御座いました。あれほどまでにご自身の手掌を熱しておきながら、その痛みに気が付かず、翌日には両の手を毛糸の手袋で覆い隠すほどで御座いました。よほどの火傷だったとお察し致しましたが、あの時は病を思うよりも貴方の忍耐強さを思わされ、深く気に留める事は御座いませんでした。貴方の手掌や指は熱を感じてはいなかったのでしょう。熱いという感覚を無くされた手の神経ではあっても、触れるという感覚は残されていたのだとご推察致します。


 なぜなら貴方は私が手にした小説の著者であると確信しておりますし、もしそうでなければこの私が書き始めた手紙は誰のご自宅にも、貴方にも届かずに私の手元に戻されてくるはずでしょう。読まれることのない文であるなら、私は自分の内に生まれてしまった疑念や感情を赤裸々に綴る事が出来ますし、おそらくは貴方であろう小説の著者に届くのであればお話したい事が山のように御座います。


 まずは貴方の現在の病状をお聞かせくださいませ。私には貴方が患われた病気の怖さは判りかねます、ですが貴方と思われる作家がお書きになられた小説の通りならば、それは『生き地獄』そのもののように思えてしまうのです。貴方は今、発病されているのでしょうか、まだ、保菌者のうちに留まっていらっしゃるのでしょうか。いつ、ご自身の体調の変化にお気付きになられたのでしょうか、どちらに致しましても私は貴方を恋しく思い、その想いに偽りは御座いません。


 真実を知ったとしても私は決して同情致しません。貴方は名を伏せておられますし、生まれ故郷もお忘れになられたかのように小説の中では『大きな蜜柑の木』以外、お触れになっておりませんので貴方の綴られぬ想いをご推察致しております。


 届かない手紙かもしれません、届いても読まれる事なく捨てられる拙い文かもしれません。それでも構いません、それを承知の上で投函させて頂きます。


 貴方の今、いらっしゃられるご住所をお教えくださいましたのは転勤なされた安藤様より、書簡にてお書き添えいただきました。私の予測をありのままに綴り、安藤様に手紙をお送りしましたところ、小説は読んでいらっしゃられませんでしたが『きっと同一人物であろう』と教えてくださいました。もし、この小説の著者が貴方であるならば、現在の居住地は東京の外れにある全生病院であると教えてくださいました。


 小説の主人公はご自身の足で病院に辿り着き、その当日に垣根の中にもぐり込み自死を試んでおります。どうか貴方、自死などお考えにならず、今ある命を大切になさってくださいませ。病気の真髄を知らぬ愚かで身勝手な妻と受け取らないでください。確かに私には判りかねる絶望と恐怖があるのでしょうが、どうか私のただひとつの願いである生きる事をお続けくださいませ。頃合いを見計らって私は東京へ出向き、貴方に会いにいきます。貴方がお書きになられた小説から察すると面会は許されるようですもの。きっと私は貴方に会いに行きます。春の季節か秋になるのかまだ分かりませんがお約束いたします。面会びとが訪ねてきたら、それは私ですので必ずお会いくださいませ。そのとき貴方の病状が進んでいても、全身を包帯でぐるぐるに巻かれていたとしても必ず私にお会いくださいませ。


 私は貴方がお書きになられた小説の中にある『大きな蜜柑の木』という文字を見つけて、私の夫であると確信致しました。どうか貴方、ご否定なさらないでください。そして私を貴方のもとへ導く道標をお教えくださいませ。


                           かしこ


        昭和十年十一月一日

                              と志子

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