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「春の裾」  作者: 宇地流ゆう
第3話 ロイヤル・ローズとジギタリス
9/13

2. 花園

 ⚠︎同性愛表現あり



「ユアン様、僕が欲しくないの....?」

 甘く誘うような声で迫る美青年。いけないとわかりつつも、彼らの話を立ち聞きしていたジゼルは、ある衝撃の事実を耳にする。

 



「ねえユアン様、最近全然手紙をくれないじゃないですか」


 木影の向こうから、庭師との会話とは全く違う甘い声色が聞こえてくる。


 そして、先ほど私が想像していた「貴族の男妾のような美青年」が、実はその通りだったことを悟る————でもその貴族というのが、あのユアン・トレバートだったなんて。


「フランスの長旅から帰ってきたばかりなんだ。エルヴァール、許してくれるかい?」 


 と、あの独特で滑らかな声が青年にそう返す。いとも自然に罠に誘い込むようなあの囁き方を、私が聞き間違えることはない。


「でも、ユアン様。僕だっていつ貴方と会えなくなるかわからないんですよ」


 エルヴァールと呼ばれた青年は少し拗ねたように言った後、そっとユアンの方へ自分の身体を寄せる。


「……僕が欲しくないんですか?」


 まるで絡みつくような甘い囁き声に、息を呑む。


 ちょっと、こんなところで何する気なの…と思いながらも、彼らから目を離せない自分がいる。


「欲しくないなんて僕がいつ言った?君がこうやって来てくれるのを待っていたというのに」


 ユアンの言葉は嘘か本気かもわからない……まあ、それは今に始まった事ではないが。


 そんな甘い声をかけられたエルヴァールはふっと吐息を漏らし、さらにユアンの方へ顔を近づける。


「ユアン様、ロイヤル・ローズへ遊びに行きましょうよ? 僕が貴方の旅の疲れを癒して差し上げますから……」


 ロイヤル・ローズという聞いたこともない言葉に、私は眉を寄せる。


「……やれやれ、そんな提案をされたら断れないな」


「もちろん、貴方の好きにしていいですから。僕の身も心もユアン様のもの、めちゃくちゃにされたっていいんですから」


 と、何だか危険な色を孕んだ誘いに、ユアンはそっと彼の唇に人差し指を押し当てる。


「危ういことを言っちゃダメだよ。世の中にはそんな君につけ込む劣悪な奴もいるんだから」


「でも、ユアン様が守ってくれるでしょう?ユアン様の娼館は貴方の王国、誰も好き勝手できないんですから」


 ……え?


 『ユアンの娼館』?『王国』? 私はその信じ難い言葉を心の中で繰り返す。


 どういうこと……ユアンが娼館を持っている?でも体裁と上流貴族の品格を重んじるトレバート家が、娼館経営を三男に任すなんて絶対にあり得ない。


 だとしたら、ユアンが裏で手を回しているということ? でも、一体何のために?


 いや、と私は瞬時に考え直す。娼館という場所は、情事に紛れて、貴族や商人たちが裏取引を行うとっておきの隠れ蓑でもある。そのことを考えると、彼が街の娼館に何かしら絡んでいるというのは、今までに分かった彼の性格ややり方からみて、不思議ではないかもしれない。


 ————それに娼館って、あの変態男の色欲を満たすには、うってつけの場所じゃない。


「仕方ない子だね、執務を片付けるから待っておいで」


 ユアンのそんな声が聞こえてハッとする。


「はい、ユアン様」


 エルヴァールは嬉しそうに声を上げたかと思うと、まるで楽しみで待てないと言わんばかりに、ユアンの頬をスッと包みながら唇を重ねる。


 でもそれはただの軽い口づけに終わらない。エルヴァールは妖艶に身を捩りながら、もっと深く求めるようにユアンの唇を貪る。


 しかしユアンはそれを拒んで制するばかりか、彼の熱に応えながらも段々と夢中になっていくように、首の後ろに優しく手を回して深く舌を入れながら彼の呼吸を乱していく。


「……んっ…はぁ、ユアン様…」


 薔薇の咲き乱れる庭の陰。甘く蕩けた顔をする美男子と、彼を優雅に乱していく貴族の青年。絡み合う濡れた唇、あたりに響く淫らな吐息。


 そんな背徳と禁断の官能画のような光景に息を呑みながらも、私は段々と後ろめたさを感じて、サッと身を翻す。


 これ以上ここにいたら、ユアンに気づかれてしまう可能性があるのはもちろんのこと、あの二人の蠱惑的な雰囲気に、いつしか自分まで呑み込まれてしまうような気がした。


 —————でも、「ロイヤル・ローズ」って…?



 ◆



 侍女が私の髪に櫛を通すのを鏡越しにぼうっと見つめながらも、つい先ほどの出来事を思い返して、心はどこか落ち着かない。


 お付きに選んだ唯一の侍女コレットは、そんな私の様子に気づいたのか、ふと口を開く。


「奥様、今日は広間でのご夕食会はないそうですね。お部屋でご用意いたしましょうか?」


 彼女は私が邸のあらゆる社交の場を苦手としているのを知っていた。そして、私も彼女の前では下手な飾りだてをせずに、少しだけ本音を話せる気がしていた。


「ええ、そうね。ようやく殿方たちの下手な冗談を聞かずに、ゆっくり頂ける気がするわ」


 私のちょっとした皮肉に、コレットはクスッと笑って頷いた。彼女のその素朴な笑みは、ご婦人方の棘のある笑いに比べれば、いくらか心を落ち着けさせるものだった。


 彼女は丁寧に私の髪をすいた後、鏡台の上の髪留めを手に取って後ろ髪をまとめ上げていきながら、静かに口を開く。


「ジゼル様は、あまり豪華な召し物をなさりませんが、本当にお綺麗ですわ」


 またそんな見えすいたお世辞を……と思ったが、そんな皮肉ばかり言ってはただの捻くれた婦人になりかねないと思い、「そう?」と短く言って微妙な笑みを返した。


「ええ、他のご婦人方は皆、幾重のお化粧を欠かしませんが、ジゼル様は何も飾らずとも、品がありますわ。ジェームズ様はお幸せな方だと……あ、すみません、こんなことを勝手にベラベラと」


 コレットは慌てて口を閉じ、再び髪を結い上げ始める。


「その、コレット、私……」と、私はおずおずと口を開く。


「ジェームズ様の夜のお通いがもう一ヶ月もないこと、貴方も知っているわよね」


 思い切ってその話を挙げると、彼女は「お、奥様…」と一瞬困惑しながらも、否定することもできないみたいだった。


「それは、奥様のせいではないかと」


 コレットは俯きがちに、でもはっきりと告げた。


 ……本当にそうかしら?


 今日のアフタヌーンティーでも、夫にその話を持ちかけたというのに、結局ぎこちない空気で終わってしまったし、それに私はあろうことかユアンのことを思い出してしまって……と、またすぐ頬が勝手に赤くなるのを感じる。


 ウィリアム様ご夫婦にはもう御子女がいらっしゃって、次は私たちの番。周りからのプレッシャーを受けながらも、私たちは一向にその一歩を踏み出せず、その間にも私は彼の弟に迫られて、拒むこともできずに翻弄されているなんて……


 いや、あんな淫乱悪魔に惑わされてはだめ。


 そうよ、受動的に事態の好転を待っていては、また敵に弱点を突かれるだけ。社交界は静かな戦場のようなものなのだから。


 いくら相手が計算高いユアンだとしても、その素性を暴いて、弱みの一つや二つ握ることができれば————


 数刻前、庭園の陰で密会していたユアンとあの美少年エルヴァールが「ロイヤル・ローズに遊びに行く」という話を思い出した私は、思い切って口を開く。


「コレット、つかぬことを聞くけれど」


 使用人というのは、ほぼ街から邸へ奉公にきている。ならば、街の噂や事情に詳しいはず。この子に多少勘違いされようと、口止めをすればいいだけ。


「ロイヤル・ローズって、何かしら?」


 と、コレットはその名を聞いた瞬間に身体を固まらせ、思わず髪飾りを落としそうなほど動揺した様子を見せる。


「……え?」


 十中八九、「いえ、奥様。それは一体?」とキョトンとされるか、娼館であると知っていて「奥様それは…」と微妙な笑みをされるかどちらかだと思っていた私は、彼女の予想外の反応に逆に驚く。


「えっと、ロイヤル・ローズ、ですか?」


 と彼女は、動揺を隠すように自然を取り繕って聞き返したが、同時にこちらを探るような目線を向ける。


「どこでそれをお聞きに?」


 さっき、ユアンとその男妾が遊びに行くって立ち聞きしたのよ、とはもちろん言えず、他の言葉を探す。


「えっと……その、今日庭師たちがしきりにその話をしていたのよ。盗み聞きをするつもりはなかったのだけれど、とても盛り上がっていたから少し気になって。でも……貴方の反応から見るに、貴族の妻が行くべきところではないようね」


 と、私はほんのりとそれが「娼館である」という事実を滲ませて、相手の反応を伺った。


「ロイヤル・ローズは……ロンドンの街で最も有名な高級娼館でございますわ」


 と、やがて彼女は顔を俯かせたまま、少し声を抑えるようにして呟いた。


 ロンドンで最も有名な高級娼館? 「ユアン様の王国」って、確かエルヴァールが言っていたけれど……


「このお屋敷の皆様はわかりませんが、ロンドン中の貴族が密かに足繁く通っているとか。噂にしか聞いたことはありませんが」


 と、彼女は付け加えてから、なぜかさっさと切り替えるように「さて奥様、私は夕食の準備を」とそそくさと周りを片付けようとするので、余計に疑念が深まる。


 彼女は何か隠している…?


「この邸の方達も、例外ではないんじゃないかしら」


 と、私は思わず彼女を引き留めるように言った。彼女は一瞬動きを止める。


「ほら、ウィリアム様やユアン様って、随分と好色だと聞いたから。特にユアン様なんてそういったお戯れが好きだと……」


 私は軽い冗談のように見せかけて、それとなく彼の名前を出してみる。と、コレットはなぜかこちらに向き直って、真剣な顔で私を見据える。


「ユアン様は……違いますわ」


 小声なのにはっきりと断言するように言った彼女は、どこか今までとは違う表情だ。


「あら…そうなの?ではただの噂だったみたいね」


 私はなるべく穏やかな笑みを作ったが、コレットはまだ気まずそうに俯いており、何かを言いたげな表情だ。


「コレット?どうかしたの?」


 様子を伺うように少しだけ近づくと、彼女はパッと顔を上げた。


「奥様、ユアン様は皆様がおよそ思っていらっしゃるような方ではありませんわ」


 いきなり面と向かって告げられた私は驚いて息を呑む。


「そ、そうね。あ、いえ、そうなの?」


 と、私は思わず彼女の言葉に頷いてしまった後、慌てて「彼の本性を知らないご婦人」を演じなければと、首を傾げる。


「奥様……、いえ、ジゼル様」


 と、コレットはなぜか私の名前を呼び直す。


「もし、誰にもこのことを口外しないとお約束してくださるなら…」


 と、彼女は極めて慎重に、でも真剣な面持ちで私をまっすぐに見つめる。


「私はロイヤル・ローズについて、ユアン様について……お話しいたしますわ」


 私は静かに息を呑んだ。それは私が一番欲していた謎の鍵。まさか一番近いところにいた侍女が、それを手に握っていたなんて。


 私は真剣に彼女を見つめ返し、はっきりと言った。


「……決してしないわ、コレット」

◎次回、3. ロイヤル・ローズ



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