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「春の裾」  作者: 宇地流ゆう
第3話 ロイヤル・ローズとジギタリス
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1. ロイヤル・ローズとジギタリス

◎ 第2話「祈りと束縛」3 、第2話「祈りと束縛」5(R18版) の続きエピソードです。


 礼拝堂で、まんまとユアンの手管に絡め取られてしまった私。

 翌日、夫ジェームズとのささやかなアフタヌーンティーにて、夫との夫婦仲を考えていたはずが、なぜか昨夜の熱が蘇り....

「ジゼル、やはり、僕の病気が移ったんじゃないかい?」


 ジェームズが心配そうにこちらを伺う。


 咲き誇る薔薇の芳醇な香りに囲まれ、小鳥の囀りを聞きながら、夫と一緒にささやかなアフタヌーンティーを楽しむそんな午後 ––––––––


「そんなことないわ、平気よ……少し寝不足なだけ」


 ああ、この穏やかな時間を心置きなく楽しめることが出来たらどんなによかったか。


 昨夜、あの礼拝堂にて悪魔のように迫る彼から逃れられても、私はまだ落ち着くことができなかった。そして、寝台に横になったまま眠れぬ夜を過ごしたのは言うまでもない。


 ユアン・ミキシミリアム・トレバート。


 彼がこの屋敷に帰ってきてからまだ3日も経っていないというのに、多少の難はあれど、私のそこそこに平穏だった生活が狂っていくのを感じる。


 それに一番厄介なのは、邸の誰も–––––––少なくとも、裏でユアンの使いをしているメイドたち以外は誰も–––––––彼の悪魔的本性を知らない。


 私は誰かに打ち明けることも、頼ることもできない。そして唯一、私に優しく接してくれるこの夫にも……


 「貴方の弟は優しい仮面を被っているだけで、裏では私を弄ぶ変態サディストなの」なんて口が裂けても言えることじゃない。


「ジゼル、この邸はその……君の家に比べれば不便が多いかもしれないが、もし何かあれば、僕を頼ってくれて構わない」


 と、私を気遣ったジェームズが、そんな優しい言葉をかけてくれる。


「ジェームズ様……」私が彼を見つめると、


「もうジェームズ様ではないよ」と彼は少し笑って、私の手の上にそっと自分の手を重ねる。


「ええ、あなた。ありがとう」


 その温かさを感じながら微笑むけれど、彼に優しくされればされるほど、私はもどかしさを感じてしまう。


 私たちの夫婦仲は良好なはずなのに、何かが足りない。政略結婚とは言えど、これからはこの方と人生をずっと共にしていくのだ。この曖昧な空気をそのままにしておくわけにもいかない––––––––


「その、えっと……私たち、ずっと寝室を分けたままでいいのかしら」


 私はそれとなく話を切り出した。


「あ、ああ、そうだな。それについては明日父上に相談をしようと思っていたところだよ」


 と、ジェームズは見えすいた嘘をつきながら曖昧に微笑む。


「いえ、寝室が分かれていてもいいのだけど、その……」


 私が言わんとしていることを察したのか、彼はそこで「ああ…」と短くつぶやいた後、ぎこちなく咳払いをする。


「あの時は、その、僕が至らなかったせいで君に負担を…」


「そ、そんなことないわ、もう一度試してみればいいのだし」


 ジェームズとの初夜は、この一瞬で気まずくなってしまったアフタヌーンティーよりもさらに気まずくぎこちないものだった。


 あの夜———彼は緊張して手が震えていたし、口づけもまるで機械的で、私も彼をどう受け止めればいいか戸惑っていた。


 結局彼のものは興奮することもなく、その気まずさにお互いに息が詰まって、ただ文字通りに「寝室を共にした」だけだったのだ。


 まったく、私がこんなことを言うのもおかしいけれど、このお年になっても、ほぼ経験がないなんて。


 ご婦人方の話を聞けば、銀食器集めの前は錠前と時計のカラクリにはまっていたそうで、女性への興味は長男と三男に全て持っていかれたと冗談を言われるほどだ。


 確かに彼の口づけや愛撫は、まるで久しく女性の肌に触れていないといったような手つきだった。


 それに比べて……


 ユアンの、あの息を奪うような熱いキスや、触れたところから瞬く間に私を乱れさせていく鮮やかで妖艶な手つき、濡れた声や瞳は、私の理性を簡単に崩していった –––––––– と、そこまで考えて、私はハッと我に帰って呆然とする。


 ど、どうして今ユアンのことを思い出すのよ! 


 “姉さん、まさか感じてるの?”


 彼の囁き声が、まるですぐ耳元で響くかのように蘇る。


 まさか。あり得ない。あんな変態サディストの狂人に?人を騙した挙句、礼拝堂で平然と不道徳を働く、あの悪魔の手に?


 私は無意識に自分に対して「ない、絶対にあり得ない」と呟きながら首を振っていたのかもしれない。


 その様子を怪訝な様子で見つめていたジェームズは、またしても「ジゼル、どうしたんだい?」とこちらを覗き込むので、私は無理やりに誤魔化した。


「いえ、何でもないわ。それにしてもこのスコーン、どの給仕が焼いたのかしら?香ばしくてつい手が進んでしまうわ」


「はは、そうだね、この紅茶によく合うよ」


 そんな当たり障りのない会話で気を紛らわしながら、このささやかな茶会をなんとか平穏なものにしようと微笑む。


 そうよ。もうやめておきましょう、この話は……




 紅茶とお茶菓子を堪能した後、ジェームズは「そろそろ執務に戻るよ」と、少し残念そうな顔をしたあと、庭園を後にする。使用人がそれを片付ける中、私は何となく暇を持て余し、少し散歩をすることにした。


 珍しくご婦人方がいらっしゃらないし、稀な快晴を少しでも楽しんで気を紛らわそうと、生垣に挟まれた狭い道を歩いていた時だった。


 ふと背後から誰かの鋭い視線を感じ、思わず振り返る。


 が、そこにいた誰かは、たった今茂みに隠れたと言わんばかりに、足音が微かに遠ざかっていき、揺れる低い木々から葉っぱが落ちているだけ。


 ……誰かしら。


 普通のご婦人であれば気にしないで流しておくだろうが、この邸で生き抜くと決めた私は、この小さな引っ掛かりを無視しておくわけにいかなかった。


 それに何と言っても、この邸の使用人は皆、給仕や貴族らの世話や邸の手入れ以外にも、どうやら『仕事』を割り当てられているというのは、ユアンがメイドを密通に使っているのを目の当たりにした私にとっては、想像に難くないことだった。


 現に、彼は使用人が「どこにでも自然に居合わせることができる」という利点を活かして、この邸における隠された力関係を測り、自分の有利な立場を築くために最大限に利用しているんだから。


 ……全てあの人に監視され、彼の思うがままに支配されるわけにはいかないわ。


 少しでも隙をついて、彼の弱みの一つでも握っておかなければ、またこちらが追い詰められてしまう。 


 そこまで考えた私は意を決して、邸へ戻る道を諦め、ドレスの裾をたくし上げて茂みを乗り越える。


 五月の新緑で生い茂るこの庭園の端っこは、まるで迷路のように入り組んでいたが、「一人になれる場所」をこの一ヶ月で探し当てていた私は、この道の構造を少なからず知っていた。


 曲がりくねった細道を一本入ると、そこには梯子を木に立てかけて鋏で刈り入れをしている庭師の姿が見える。


 が、どこか不自然だ。彼の手入れしている木の周りには、なぜか全く葉っぱが落ちていない。


 帽子を深く被って黙々と作業をしているその男は、まるで自然さを「装う」ためだけにこちらに背を向けてその動作を繰り返しているように見えた。


 考えすぎかもしれない。でも……


 私は思い切って彼に近寄ってみる。


 と、その庭師はこちらに気づいたのかパッと私を振り返り、慌てて帽子を脱ぎながら、その土汚れた頬を拭いながら気まずい会釈をする。


「あ、ああ、マダム……すいやせん」


 私の行く道を遮っていると思った彼は頭を下げて謝りながら、梯子を降りようとする。


「いえ、気にしないで。それより…今庭で作業をしているのはあなた一人なの?」


「へっ?」


「その、先ほど茂みから何か大きな鳥が羽ばたいた気がして」


 私は何となく含みを持たせて探りを入れる。


「……大きな鳥、ですかい」


 男は、私の言葉に引っかかりを感じたように繰り返す。


「私の見間違いならいいのよ。ほら、こんなに素敵な庭園を鳥に荒らされるわけにはいかないじゃない?」


 私が言うと、彼は瞬時に顔を強ばらせる。


「は、はぁ……そりゃまぁ、そうでさな」


 ……この男、何かを隠していそうだ。


 次の問いかけを迷っていたその時、男はパッと何かに気づいたように木々の向こう側に一瞬目をやった。しかしそれを悟られないようにすぐにこちらに顔を戻す。


「すいやせん、マダム…邪魔しちまってみてぇで。ではあっしはこれで……」


 と、まるで逃げるようにそそくさと道具を片付けると、彼はこちらの返事を待たずに反対方向へと去っていく。


 先ほど茂みに消えた者と同一人物かは分からないが、今の庭師の様子を見てさらに疑念を抱いた私は、こっそりと彼の後を尾けることにする。


 一旦探り始めたんですもの。あの男が一体どんな裏の「仕事」に関与しているか突き止めるまで、邸に大人しく帰るなんてできそうにない。


 息を押し殺し、砂利石を踏まないように注意深く忍び足で彼の跡を尾けていると、ふと潜めた声で誰かを呼び止める声が耳に響いた。


「おい、ナット」


 私はどきりとして反射的に足を止める。


 茂みの向こうに少し開けた場所があり、放置された古い腰掛けが見える。と、その影に隠れていた人影がスッと立ち上がる。


「あ……坊ちゃん」


 ナットと呼ばれた先ほどの怪しい庭師は、その声に足を止めて、男に近寄る。


 少しつま先立ちをして木々の隙間から男の影を確認すると、ターコイズ色の薄手のコートを羽織った若い青年が見える。


 ……見たことのない顔だわ。


 少し安っぽさを感じる服装を見ると、どこかの下流貴族の子息だと思われるが、そんな俗なコートを羽織っていても、なぜか普通のお坊ちゃんではないと感じさせるのは、稀に見る彼の美貌のせいだと気づく。


 繊細な白い肌とか細い腕、桜色の唇と長い睫毛がどこか儚げで、中性的な容姿は、貴族の男妾と言われても納得してしまうような魅惑的な雰囲気を漂わせていたのだ。


「ユアン様はまだかい?」


 と、その青年が小声で言った瞬間、私の心臓がどきりと跳ねた。


 こういう密かなやり取りに、なぜ決まってあの人の名前が出るのだろうと思いながらも、私は次の会話に耳をそば立てる。


「いや……邸の侍女からは、まだ執務中と伝えを受けたばかりでさ」


 男が告げると、青年の方はふっと残念そうにため息をつく。


「そうか…なんだか忙しそうだな、ユアン様」


「坊ちゃんが来なすったこと、伝えて来やしょうか?」


「ああ、頼むよ。それと、彼が来たらいつものように見張っておいてくれるかい?」


 言いながら、青年は上着のポケットからスッと小銭を取り出して彼に「お駄賃」をやる。


「はい、もちろんでさ」


 庭師はそれを受け取ると、そそくさと邸への道に消える。


 一人になった彼が周りを伺うような素振りでふとこちらに顔を向けようとしたので、私は思わず背を向けて隠れる。


 何やってるのよ、私……と思いながらも、見てしまったものはもう遅い。ユアンとこのお忍びの美青年、一体どんな関係が?


 謎が謎を呼ぶ、簡単には解かれない深い蔦の茂るユアンの裏庭に、私はもう足を踏み入れてしまっていた。


 そう、その蔦がいつしか私の腕や足に絡みついて、秘密の花園から抜け出せなくなってしまうという危険を顧みずに。


◎次回、2. 花園


 ぎこちないアフタヌーンティーを終え、庭園を散歩していたジゼルは、ふと背後から誰かの視線を感じる。茂みに隠れたその人影を追っていくとそこには......

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