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「春の裾」  作者: 宇地流ゆう
第2話 祈りと束縛
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1. 祈りと束縛



 翌日。目を覚ますと、心優しい夫ジェームズの笑顔がある。

 そんな彼に一抹の罪悪感を抱きながらも、戸を叩いた声に、私は思わずびくりとする。


「兄さん、おかえりなさい」

 そう笑顔でいう彼だが−−−−−

 


 窓からは、朝の柔らかな光が差し込んでいた。わたしが目を開けると、彼はもう起きていたのか、枕に頭を預けたまま優しくこちらを眺めている。


「おはよう、ジゼル」


 そのどこか抜けたような穏やかな声を聞くと、なぜか安心感を覚える。とりわけ、あんな悪夢を見たあとでは。


「お早うございます、あなた。体調はいかが?」


 わたしは優しく微笑み返した。ソファでうたた寝をしたせいで身体がこわばっている。わたしは肘掛けから手を離して、そっと夫の手に添えた。


「君のおかげでだいぶ良くなったよ。不思議なことに、もう身体中ぴんぴんしているんだ。そのまま眠ってしまったんだね……昨日は世話をかけて申し訳なかったよ」


「とんでもございませんわ。あなたが良くなって安心致しました」


「うん」


 彼は居心地悪そうに返事をしたかと思うと、上半身を起こしてベッドを出ようとした。


「あら、もうお起きになるの?」


「ああ、何が原因の不調だったか知らないが、もう何ともないんだ。むしろ昨日夕食を抜いたせいで腹が減っている」


「そうなの、おかしな病気ね。でもよかったわ」


 わたしは不思議がる様子を見せながらも、無関係な夫を巻き込んだことに今更良心が痛んだ。夕食を欠席する理由のために、この人に下剤を飲ませる必要があったのだろうか。


「いや、人の疑念を払うためには念には念を入れ」ってあの人は言っていたし、この薬のおかげでわたしはあの重苦しい夕食会に出席せずに済んだことは有難いけれど。


 と、寝室のドアがコンコン、と突然ノックされる。


「だれだい?」


 寝衣から着替えようとシャツに腕を通しながら、ジェームズが答える。何か悪い予感がよぎったのもつかの間、その予感は当たってしまった。


「兄さん、僕です」


 その声によって一気に昨日のことが思い出されてしまう。よりによってどうして朝からこんなところへ?


「なんだ、ユアンか!入っていいぞ」


 ジェームズは事もなげに、いや、むしろいささか嬉しそうな様子で答え、そそくさとドアを開けて迎える。


「兄さん、おかえりなさい」


「はは、ただいまはお前だろう。長旅ご苦労だったな」


 二人は軽く抱き合ったが、その肩越しにユアンがこちらに視線を投げかける。まったく、昨日彼がこの邸に帰還して以来一度も心が休まらない。


「ジゼルさん、いえ、姉さん。おはようございます」


「おはようございます」


 わたしはなるべく視線を逸らして控えめに挨拶をする。


「ああ、そうか。昨日わたしが狩りに出ている間に顔を合わせたのか。そう、新妻のジゼルだ」


「ええ、結婚式に出られず本当に残念でした。ジゼルさんの花嫁姿はお綺麗だったろうに」


 彼の社交挨拶、しかし昨日のことがあってはわたしにとっては微妙に聞こえる言葉に、なぜかジェームズは一瞬顔を赤くしたようにも見えた。


「ああ、綺麗だったよ」


 それを聞くと、ユアンはわたしのほうへ意味ありげな視線を気付かれないほどほんの一瞬だけ送る。わたしは意味もわからぬまま眉を寄せる。


「そういえば、兄さん昨日突然腹を下したんだって?もう大丈夫なんですか?」


 次の瞬間には、ユアンはかなり心配そうに兄を見つめている。


 一体だれがこの兄想いのよき弟を疑うことができるだろう。イギリス中の名探偵を集めたって昨日の突発的腹痛の真相は解き明かせないだろう。


「あ、ああ。そうなんだよ。もう今はなんともないんだが。山向こうで少し風に当たりすぎたかな」


「まったく、狩りもほどほどにしてくださいよ。そうだ、なんなら兄さんの好きな銀食器など眺めて体を休めては?」


 ユアンはそう言いながら、鮮やかな赤のビロードに包まれた小箱をポケットから取り出して、兄に差し出す。 


 彼が蓋を開けて見せると、中には白銀に光る豪勢な装飾の織り込まれたフォークがうずくまっている。


「パリからのお土産です」


 ユアンがにこりと笑うと、ジェームズはおおっ!とすぐさま興奮の色をにじませる。


「素晴らしい、綺麗だなあ。ありがとうユアン」


 彼はそう言いながら愛おしそうに弟にハグをする。これだけ見ていれば、ただの微笑ましい兄弟の再会以外のなにものでもない。


 わたしが昨日、あの廊下を通らなければ、あの消えたメイドを追っていなければ、わたしは今もユアンの正体を知らずに、好青年の義理の弟として認めていたのだろうか?


 ––––まあ、彼のことだから、疑り深いわたしを放っておくとは思えないし、私は遅かれ早かれ彼の駒になっていただろうけど。


 と、そこでわたしは今夜東の礼拝堂へ問答無用で呼び出されていることを思い出して途端に表情を強張らせる。


 一体何が起きるかわかったもんじゃない.... でもあんな脅しをされていては、行かないという選択肢も恐ろしい。


「ジゼルさん?」


 ユアンの声に、はっと我に帰る。ジェームズも不思議そうにこちらを見ている。


「顔色が優れないようですね。ジェームズの不調が移ったりしてませんよね?」


「え、大丈夫かい?ジゼル。すまない」


 ジェームズははっとしたようにわたしのほうへ近づいて額に手を伸ばそうとするもんだから、この兄弟の性格が天と地ほど違っていることに呆れる。


 ジェームズは本当におっとりしていて、優しく、純粋な人だというのに。


「大丈夫、大丈夫よ」

 わたしはなんとか誤魔化し笑いをする。


「ソファで寝ていたから体が強張っただけ」


「兄さん、ひどいな。ジゼルさんをソファで寝かせるなんて。夫婦なら兄さんの隣で寝かせてあげればいいのに」


「それは……」


 と、ジェームズは言葉に詰まる。奥手とは知っているけど、このことに関すると急に気まずい様子になる。ユアンはもちろんそのことを知っているみたいに彼をつついているようだ。


「まだ夫婦別室なんですね、羨ましいや。僕とジュリエッタの部屋も分けてほしいと父さんに言おうかな」


 そう、結婚式もあげて夫婦になったものの、わたしはまだ来たばかりで二人用の寝室に移らずに客間を借りている。それに、ジェームズも自分の長年の寝室の居心地がいいのか移ろうとしないのだ。


「では、そろそろ戻ります。兄さん、あまり無理をしないように。ジゼルさん、お会いできてよかったです。ジゼルさんも熱には気をつけて」


彼は屈託のない笑顔で両方に挨拶をした。


 彼が部屋から去ってようやく、わたしは胸をなでおろしたい気持ちになったが、そんなことは夫の手前できないので、そのまま笑顔を絶やさずにいた。


「いやね、熱が移るわけないのに。本当に大丈夫よ、わたし」


「そうかい?昨日つきっきりで看病してくれたのに申し訳ない。せめて僕のそばに……」


 口数の多い弟にあれこれ言われ、居心地悪そうにしている夫の頰に、わたしはそっと手を添えた。


「あなた、考えすぎよ。ユアン様もあれこれ言いすぎだと思いますわ。さ、今日は執務も多いのでしょう?ウィリアム様がサボっていらっしゃるから」


「そう、そうなんだよ」


 ウィリアム様は長男といえど好き勝手に遊んでいて、父親に頼まれた執務の半分もこなしていない。

 三男は三男で頼まれたことをやるタイプじゃないので、結局次男のジェームズが全てを請け負っているといった具合だ。


まったく、こんな兄弟たちの統べる屋敷に嫁いでしまった時点で運の尽きかもしれない……早々にも三男の裏の顔を知ってしまって、ついでに脅迫されているなんて、前途多難どころの話ではない。


わたしはジェームズが早々にも着替えて仕事モードに入る傍、久しぶりに晴れている窓の外をぼうっと見つめたが、心は天気と反対に重々しく、その晴天すら虚しく見える。


 木々の茂みの向こうには、古い石造りの礼拝堂の、屋根の十字架が見え隠れしていた。



次回、2. 礼拝堂


 夜の礼拝堂は、私が唯一心の拠り所としていた場所。しかし、ユアンのあんな脅しを受けた後では「行かない」という選択肢はない。躊躇していた私の背後に、またもや幽霊のように現れるユアン。


「約束通り、1人で来てくれて嬉しいです」

「さて、夜のお祈りをしましょうか?」と誘う義弟に私は−−−−−

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