7. 狐の片手袋
「……ご機嫌よう、ジギタリス」
彼女はまるでオペラ歌手のようにゆったりと螺旋階段を降りてくると、ユアンの前で立ち止まり、少し含みのある笑顔でそう言った。
「ご機嫌よう、レッド・ローズ」
ユアンのほうも、爽やかな笑みを貼り付けているが、なんとなく皮肉が滲んでいる気もする。
「何かありましたの?そんなに焦った顔をして、貴方らしくもない」
アヴィエッサは少しだけ面白がるように言い、近くの果物皿から葡萄の実を一つ取って齧る。
「焦ってなんかいませんよ、少し残念に思っているだけです」
ユアンは笑顔を崩さないまま返した。
「どこかの女王蜂が、有能なはずの働き蜂の蜜を吸い尽くしてしまって、もう使い物にならないなんて」
ユアンの言葉は暗喩に埋め尽くされたが、「有能なはずの働き蜂」が、もしかして先ほどから名前が上がっている「スヴェン」という男なのかもしれない、と私は密かに考察を巡らせる。
「あら、働かせすぎは良くないでしょう。どんな者にも褒美をあげなくちゃ。それに、ご自分のことは棚上げですの?」
「……というと?」
「エルヴィ、と言ったかしら……小さな片手袋くんと、今の今までお楽しみになっていたのは貴方の方ではなくって?」
アヴィエッサは煽るような視線で、鋭い指摘をする。
「……」
ユアンがすぐに言い返せなくなっているのを見るのは、少し珍しい気がした。エルヴィというのは、もしかして午後に見かけた美青年、エルヴァールのこと…? それに、方手袋って、さっきも聞いたような———
「……貴方、スヴェン、あの馬鹿フェルのせいで怪しい二人の男を取り逃がしたんですよ?」
ユアンが苛立ちを隠せないように言うと、アヴィエッサはわざとらしく眉を上げる。
「まあ、そんな些細なことで?」
「そう、最初は……いや、今の今まではそう思っていた。僕が手を下すまでもない、ただのごろつきだと」
ユアンはあの男たちが逃げていった娼館の出口の扉を睨みながら低い声で続ける。
「でもよくよく考えると、ふと嫌な予感が湧いてきたんだ。—————『地獄の業火クラブ』だよ」
「……」
アヴィエッサはそこで、ふと動きを止めて彼を見つめる。 『地獄の業火クラブ』……? またしても聞いたこともない怪しげな言葉に、私は眉を寄せる。
「ジギタリス、それは貴方自身の問題ではなくって?」
しかし次の瞬間には、アヴィエッサは冷ややかに彼を見つめていた。
「地獄の業火に焼かれるか、地獄の業火で彼らを焼くか……」
彼女の意味深で不穏な響きのある言葉に、ユアンも微かにピクリと反応するのを感じる。
「まあ精々、自分の毒が自分へ回らぬように気をつけることね」
と、彼女は軽い忠告を残したかと思うと、また葡萄の実を一つ口に含んで、パッと切り替えるようにドレスの裾を翻す。ソファで盛り上がっている客たちの方へ混ざりにいく彼女を見送るユアンは、どこか複雑な表情を浮かべていた。
「……ねえエリーヌ、最近あの女、僕に冷たくないか?」
彼はまるでこそっと母に文句を言う子供のように、エリーヌに耳打ちした。
「さあ?御姉様はいつもあのようですわ」
が、エリーヌは爽やかな笑顔で彼に返す。
「違うんだ、きっと彼女は僕のやり方が気に入ってない。全く……ここのオーナーは僕だというのに」
納得いかないような顔をするユアンに、エリーヌはふう、とため息をつく。
「ですが、ここを盛り上げているのは、紛れもなくお姐様。ユアン様の問題はユアン様の方で解決していただかないと」
「君は、わかってないんだ。『地獄の業火クラブ』は想像以上に厄介な奴らなんだよ」
「あの、『地獄の業火クラブ』って一体———?」
私は堪えきれずに、思わずそこで口を挟んでしまい、エリーヌとユアンが同時にこちらを振り返る。彼らは私の存在を一瞬忘れていたようで、エリーヌが小さく咳払いをする横で、ユアンはまたあの爽やかな笑顔を貼り付けて言った。
「姉さんには関係ないよ」
それとなく蓋をするように言う彼の様子に、私はますます疑念を抱かざるを得ない。が、彼はそこで話を切り替えるように「はあ、」とため息をついた。
「今夜は散々だったな……。とりあえず、君はもう屋敷に帰った方がいい、家族に怪しまれる前にね」
そんなユアンの何気ない言葉に、今度はエリーヌが鋭く口を挟んだ。
「姉さん?家族?」
聞き返されたユアンは、小さなミスを犯してしまったかのように、はっと口をつぐむ。しかし次の瞬間には、それを取り繕うようにエリーヌの方へ軽く片目を瞑ってみせる。
「エリーヌ、このことはもちろん秘密にしておいてくれ」
「珍しいこともあるものですわ————。ユアン様の狐の片手袋が、まさかユアン様の『義姉様』であるなんて?」
「勘違いしないでくれ、姉さんは姉さんだ」
ユアンは彼女に向かってそう訂正したあと、改めて私に向き直った。
「さて姉さん、今日ここで起こったことは綺麗さっぱり忘れてほしい。君がペラペラと喋るような阿呆ではないことは十分解っているけれど、これを盾に僕に対抗しようなんて考えているなら、辞めた方がいい。これ以上、不用意に危険に巻き込まれたくないだろう?」
彼はいつもの軽やかな調子を崩さなかったが、そこにはやはり静かな脅しが滲んでいるように思えた。
元はといえば、この策士の秘密を暴くためにここへ乗り込んだと言うのに、結局は彼を包んでいる何層もの謎が深まるばかり。そんな彼に、なすすべもなくただ戸惑っている自分がいるのに、がっくりと肩を落としたくなる。
「では、僕が馬車を手配いたしますので。ああ、ちょうどオペラ座の劇が終わる頃では?劇場の前に着かせれば誰も不審には思わないでしょう。もし『なぜ夫と一緒に行かなかったのかしら』なんて疑いの種を撒かれたら、すぐに言ってください。五月蝿い紳士淑女の方々を黙らせる道具はたくさんありますから」
彼はいかにもあの屋敷を掌握する策士のごとく、流れるような口調でそう言いながらも、「馬車代に」と数ポンドを私に手渡し、再び館の奥へと姿を消してしまった。
私はその後ろ姿を見送りながらも、彼の計算し尽くされた、冷酷でいて鮮やかな策略の網に、このロンドン社交界で彼に太刀打ちできる者はいないんじゃないかとさえ思い始める。それに、このロイヤル・ローズという最大の裏社会サロンを取り仕切っているなんて、一体彼の手札がどれほどあるかわかったものではない————
「……ねえ、エリーヌ。一つ聞いてもいいかしら」
去り際、私はエリーヌを引き止めて密かに聞いてみた。先ほどから気になっていた、『狐の片手袋』や、アヴィエッサの言っていた『ジギタリス』について、それが何を意味しているか————
「『ジギタリス』は、このロイヤル・ローズにおけるユアン様の通り名ですわ。その花は別名、『狐の手袋』……そして、『狐の片手袋』というのは、ユアン様の愛人、お戯のお相手を意味していますのよ」
そう微笑みながら答えたエリーヌに、私は思わず顔を赤くしてしまう。
ユ、ユアンの愛人?仮にも私はジェームズ様の妻、義弟の愛人になんてなってたまるもんですか。
私は慌てて否定したが、エリーヌはただ「ふふっ」とただ謎めかしたように笑うだけで、本気には受け取っていないようだった。
————— 後でわかったことだが、ジギタリスの花言葉は「不誠実」。強心剤として使われることも多いその花は、少量であれば薬になるが、一歩間違えれば、猛毒にもなる。
一体誰が名付けたのかは知らないが、ユアン・トレバートという男を、皮肉にも見事に表す花だった。
「深く関われば、猛毒」。そんなことはわかっていたはずなのに、私はまたしてもその罠にかかってしまうことになるのだった———。
次回、第4話 1. 「王の間と地獄の火」
トレバート家の新妻であるジゼルは、ついにイギリス国王であるジョージ3世と正式に謁見する。しかし、そんな華やかな上流社交界の宴の裏で、不穏に動く影があった……




