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「春の裾」  作者: 宇地流ゆう
第3話 ロイヤル・ローズとジギタリス
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5. 道化

 

 「ちょっとそこの御三方」


 と、その時、後ろから聞き覚えのある声がした。

 

 驚いて振り返ると、そこには、はだけたシャツの隙間からあちこちに熱い口づけの跡を覗かせた、いかにも軽薄そうな男が、その乱れた髪を無造作にかき上げながらもこちらに近づいてくる。


「何か色々と誤解されているようですね」


 男は私と二人の男の目の前に立つと、爽やかな笑顔でそう言った。が、その奥にはナイフの刃先のような鋭さと冷ややかさが滲み出ており、場の空気が一瞬で凍りつく。


「……誰だテメエ?」


 と、二人の男はなおも私の腕を離さないまま、疑いと警戒の姿勢で低く言う。


「僕も役者ですよ、『道化』です」


「ああ?道化?」


「でなければ『悪魔』、でなければ『天使』…」男はうーん、と考えるようなそぶりを見せた後、「まあどうだっていいか」と明るく笑った。


「ユ、ユア…」


 私は思わず彼の登場に安堵の念すら湧き上がって口を開きかけたところ、彼はそれを遮るように飄々と言い放つ。


「とにかくその子は僕が買ってるんです。離してもらえませんか?」


 彼はそう丁寧に男達に言ったが、その瞳は決して笑っていないし、何なら次の瞬間には本当にナイフが出てきそうなほどの殺意さえ宿している。


 いや、ちょっと待って……「買ってる」?


「何言ってんだ、この子は俺たちが最初に…」


 と、反論しようとする男の言葉はそこで途切れた。ユアンは一瞬でスッと間合いを詰めたかと思うと、その男の下腹部に何か鈍器のようなものを勢いよく殴り込む。


 その衝撃に男は「ぐはっ」と短く呻いてすぐさま身を崩す。


 えっ……


 その拍子に男の手が私から離れたのはいいが、もう一人が「てめえ!」とすぐに反撃しようとユアンに殴りかかろうとしたその時 ———


「薔薇の掟第1条、暴力禁止」


 ユアンは目を閉じながら、まるで規律を唱える司令官のように冷ややかに言った。


 殴りかかろうとしていた男は、場を制するような冷静な響きに、思わずピタリと動きを止める。


「第2条、愚鈍禁止、第3条、下品禁止、第4条、不潔禁止、第5条、15歳以下禁止」


 何やら訳のわからない掟を五つ並べた後、彼は呆れたようにはあ、と大きなため息をつく。


「5つ全部破ったやつなんて珍しいよ、救いようもなく愚かで幼稚で不潔で下品だ……君たち一体どこから紛れ込んだんだ?」


 と、ユアンは冷めきった目で床にうずくまる男と、何に縛られているわけでもないが身動きのできないもう一人の男を交互に見やる。


「掟ひとつ破るごとに対応する罰が課せられるって知らないのかい?まあ、今回は特別に僕が罰を考えてあげるよ」


 ユアンは先ほど男の腹部を殴った鈍器 ————それは、象牙でできた立派なディルドということがわかる————をゆっくりと手の先で回しながらも静かに腕を組み、低い声で告げる。


「君たちがどんな身分でどんな生活をしていようが、今後はもう二度と外を歩けないだろうね……それどころか、生きることを諦めたくなるかもしれない」


 その蛇のように鋭い瞳と、悪魔のように歪んだ笑みは、それが単なる脅しではなく「確定された未来」を告げているかのようだ。


 その言葉と表情に一瞬にして背筋を凍らせた男たちは、なんとか最後の体裁とプライドを保つためだけに、「……けっ!」と唾を吐きながらも、怖気付いたようにそそくさと逃げていく。


 私はその後ろ姿を呆然と見つめながらも、ユアンに目を移す。


 彼は、まだ手にディルドを抱えながらも注意深く彼らの去っていった方を睨みながら、何かを思考しているようだ。


「あ、あの、ユアン…」


「まったく」


 口を開こうとした私を遮り、彼はこちらを振り返って大きなため息をついた。


「一体何度僕を驚かせるつもりですか?姉さん」


 こちらを見つめる表情は相変わらず意図が読めない。


「な、なんで貴方がここに……」


 確かユアンはもう邸に帰っているはずなのに。しかも、ほんのついさっきまで情事に励んでいたというようなその様子…


「それはこっちの台詞ですよ」


 と、一見穏やかに見えて微かに探るような視線が投げられる。私はそこで思わず口をつぐんでしまった。


 「あんたと謎の美男子の密会を立ち聞きして、コレットからこの娼館の情報を仕入れ、潜入調査に来た」なんて、言えるもんですか……


 ユアンは私が黙りこくる様子をしばらく見ていたが、次の瞬間、パッと明るい笑顔を作る。


「まあ、せっかく来てくれたんです。僕のお相手をしてくれますよね?」


「は?」


「さっき言ったじゃないですか、貴方を買うって」


「か、買うって」


「君のためなら何ポンドでも出しますよ、さ、僕にいくら出して欲しいですか?」


 と、ユアンは流れるような手つきで私の腰を引き寄せる。距離が近くなった途端、彼の胸から女物のきつい香水の匂いが漂って鼻を刺激した。


「ちょ、ちょっと待って、私を娼婦にするつもり!?」


「だったら僕に金を出しますか?」


「そういう問題じゃないでしょう!」


「じゃ、どういう問題です?貴方がここに居ること、貴方の方から白状していただけますか?」


「そ、それは……」


 ああ……何やっているの私。潜入捜査のはずが、まさかの魔王城の魔王に捕まってしまうなんて。彼に捕まった時点で、もう逃げ場などない ————


「というか、僕に感謝して欲しいくらいですね。先ほど僕が現れなかったら、姉さんどうなっていたと思います?」


 ユアンが冷ややかな目でこちらを見下ろし、私は一瞬息を呑む。


「……っ!」


 そ、そうだ…あの乱暴な男たちに連れ込まれそうになっていたこと、そして彼がどこからともなく現れて、瞬く間に二人の男を圧倒していたこと。


「ま、まさかディルドで男の腹を殴るなんて…」


「え?そこですか?」


「正直はじめて見たわ」


「姉さん、僕に感謝の言葉はないんですか?」


「それに、薔薇の掟って何なの」


 私は彼の恩着せがましさを無視しながら、先ほどから気になっていたことを全て口にした。


 そうだ、魔王に捕まってしまったのなら、もういっそ魔王本人から聞き出せばいいんだわ、この娼館のこと、人々のこと、先ほどあの男たちが言っていた『役者』のこと、それから奇妙な五箇条の掟。


 ユアンはそんな私をしばらく見つめた後、いきなりプッと吹き出して、ディルドを手に持ったまま腹を抱えて笑い出した。


 ……?


 私が訳もわからずその場に立ち尽くしていると、ユアンはふう、と一息ついてこちらに向き直り、なぜか目を輝かせて言った。


「決めました。僕はもう全財産を投げ打ってでも姉さんを買いますよ」


「は?」


「先ほどまで男どもに乱暴されそうになっていたと言うのに、怖がるどころかさらに踏み込んでくるなんて。まったく…こんなご婦人、初めてですよ」


「何を言って……」

 

 と、私が反抗する間も無く、彼は私を遮って、まるで楽しそうに娼館の部屋を紹介し始める。


「さて、どこの部屋がいいですか?おすすめは『シャフリヤール王の部屋』です。ここは最近流行りの千夜一夜物語にインスピレーションを受けたもので、一番人気ですよ。オリエントなら『楊貴妃の間』、風呂とワインを楽しめる『古代ローマの浴場』それから『クレオパトラの密室』……」


 ユアンは私の腰と手を掴んだまま、半ば強引にエスコートするように廊下を進んでいく。


「ちょっと待って、だからどうして私があんたの相手をしなきゃいけないのよ!」


 身を捩って振り解こうとしたが、ユアンの手は緩まるどころか、その一瞬の間に、背中を廊下の壁に押し付けられてしまう。


「姉さんの方から娼館にやって来たんだろう?まさか娼館に来て何もせずに帰るなんて言わないよね?」


 そう言ったユアンはふと笑顔を収めて、今度は半ば私を脅すように言う。


「違うわ、私はただ貴方が……というか、貴方もう邸に帰ったんじゃなかったの?」


「僕の予定まで聞いていたんですね。で、他にどんな情報を知りました?」


 ユアンはもう笑っておらず、まるで捕まえた敵から情報を引き出す尋問官のようにこちらを見据えている。


 ここまで来たら、もう彼の心理戦に乗るしかない……


「……私がその情報を知ったら、貴方に損があるってことなのね?」


 慎重に言葉を選びながらもユアンをまっすぐに見上げて質問を返すと、ユアンは一瞬動きを止めてこちらを見つめたが、すぐに「面白い」といったように口の端を上げ、まるでチェスの次の一手を繰り出すように口を開く。


「それはもちろん、情報によりますよ。でも大事なのは情報が『何について』かではない。情報の『数』です」


 ユアンの表情は、まるで幾重にも重なるトランプカードのように、その奥底が見えない。


「そう簡単に数えられるものかしら。一つの芋を掘れば、自然と芋蔓が連なって出てくるように、全てが顕になっていくわ」


 引き下がらずに言い返すと、彼は目を細めたあと、皮肉めいた笑みを浮かべる。


「で、僕の庭を勝手に掘り返した気分はどうです?豊作でしたか?」


「そこに虫がいないか確かめるためよ。特に、貴方のような得体の知れない悪魔の庭、どんな恐ろしい虫が潜んでいるかわからないもの」


 そう皮肉を返したが、ユアンはそこで、はあ、とつまらなさそうにため息をついた。


「姉さん、もうこんなゲームはやめてもっと楽しいことをしませんか?」


「する訳ないでしょう、何も教えてくれないのなら、私はもう帰りますから」


 彼が離してくれないなら、いっそその股間を蹴ってこの悪趣味な娼館からさっさと離れるのが一番いい手かもしれない。


「僕の相手をしてくれるなら全て教えますよ」


「そんなあからさまな誘い、二度と乗るもんですか」


 私が切り捨てるように断ると、ユアンは少し考えを巡らせるように、宙に視線をやる。


「僕だって少し気になってるんです。姉さんを襲おうとしたあの二人、僕の娼館のルールを全く知らなかったのに、『役者』のことだけは知っていた。あれはきっと誰かがここに送り込んだ馬鹿なスパイですね……」


「スパイ?それって貴方が牛耳るこの娼館を探りに来たってこと?」


「おや?やはり、僕がここの裏オーナーだって知っているんですね?」


 と、ユアンがそれとなくカマをかけていて、思わず乗っかってしまったことをそこで悟る。


「情報源は誰ですか?もしかして……」


 とユアンがさらに鋭く探りかけてくるのに気づき、私はハッとする。


「やめて、あの子に罪はないわ。私が聞き出したのよ」


 コレットの勇気と、誠実な表情を思い出す。罪を犯したものには容赦なく制裁するこの冷酷な支配者が、コレットが情報を漏らしたことを知ったら、彼女の身に何が起こるかわからない。


「……大丈夫ですよ。コレットは僕の忠実な右腕ですから」


 と、ユアンは私の表情を見たのか、そう静かに返す。


「コレットが貴方に話していいと思ったんなら、僕はコレットを信じるしかありませんが…」


  そう言ったユアンの片手が、スッと私の頬に触れ、かかっていた髪を優しく払う。


「やっぱり君をこのまま逃すわけにはいかないな」


 その瞳が一瞬キラリと光る。見覚えのある表情。隠し扉で口づけを迫ったあの時、そして私を礼拝堂で私を組み敷いたあの時の……


 私は本能的に危険を察知し、すぐに両手で彼を跳ね除けようとしたが、それを見越したように、彼の手は私の両手首をまとめて掴み上げる。


 カラン、と音を立てて彼の手にあったディルドが床に落ち、私の両手首はいとも簡単に壁に貼り付けられてしまっていた。


「っ……!」



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