4. 裏庭
私は意を決して館の入り口に近づくと、微かに軋む黒塗りの扉を開けた。
瞬間、ブワッと生暖かい空気が私の肌を撫で、同時に嗅いだことのない不思議な匂いが私の鼻腔になだれ込んでくる。
甘い香水の匂い、だけでは片付けられない。
数多の薔薇、芳醇なワインに混じるスパイス、チョコレート、煙草の葉、水タバコの蒸気から香る、熟れた南国の果実、それから……熱を持った人々の肌の匂い。
入り乱れる香りに一瞬くらりとしながらも、私はなんとか中へ足を踏み入れ、扉を閉じ、改めて中を見渡す————
そこには、およそ想像もしていなかった世界が広がっていた。確かにここは普通の娼館ではない。それはまるで、この世で一番奇妙な魔術師の隠し持つ、淫靡な裏庭のようだった。
建物自体は、ロココとバロックを組み合わせたような様式で、高い天井や壁は華々しいレリーフが施されている。金、赤、黒といったけばけばしい色使いはあれど、それだけを見れば、昔はここが「ただの娼館」であったことがわかる。
が、この館の異様さはそこではない。確かコレットは、先代のオーナーが亡くなった後に、ユアンが主となって「模様替え」を施したと言っていたけれど……
館の大広間には、「装飾」というにはまるで一貫性のない謎の珍品が所狭しと飾られており、まるで大きなヴンダーカマー(※1)のようだ。
東洋の神と思しき神像の横に、昨日見たものよりももっと巨大な象牙製のディルドが立っているのにまず目がいく。が、その上の棚には、『純粋理性批判』と英題のついたドイツ語の分厚い哲学書。隣には、異国の女と男が行為に及ぶ「性の指南書」のような書物と大きな版画が掲げられている。
繊細で美しい金細工があったと思えば、その横には革製ベルトや拘束具、乗馬鞭、どことなく淫らな雰囲気の、猫を模した仮面にやわらかいミンクの尻尾、見事な孔雀の羽 ————
しかしその反対の隅には天球儀、計測器や天秤といった、学者の机にあるような科学器具が美術品のごとく飾られている。不気味な数珠や見たこともない禍々しい仮面がこちらを睨み、ガラスケースには可愛らしい珊瑚や貝殻が集められ、鮮やかに煌めくビーズのカーテンが鹿の角から垂れ下がっている————
一言で言えば悪趣味だ。かなり、悪趣味だ。まるでこの館の主を表すかのように倒錯的で、異常で狂気じみている。
が、なぜかそれだけで終わらないのが奇妙である。異様さが混じり合っていつの間にか一種の調和を生んでおり、いつの間にか幻想的で耽美な「夢世界」を創り上げている。この謎の現象に、わたしはなぜか悔しささえ覚え始める。
それに……この大広間にいる人々も、その装飾品に負けず劣らず多種多様だ。
密やかな笑い声を交わす下流貴族の若い男女もいれば、赤いビロードのソファにゆったりともたれながら一人で煙管を蒸す熟年婦人、美青年を両脇に抱いた、やつれた作家風の男は手元の紙と睨めっこし、時折彼らの囁きを聞いては、思いついたように紙に文字を滑らせる。
天井から垂らされたシルクのヴェールの陰で、濃密なキスを交わす二人の女の影に、青年の奏でる古典的なリュートの音色に静かに耳を傾ける白髪の老紳士。
葡萄の実を口づけで移し交わす四人のカップル、しきりに政治討論をしている貴族たちに、大きなテーブルで遊女達と賭け事に夢中になる大商人。かと思えば、学者風の男は娼婦に目もくれず、天秤の上に飾られた希少な石を興味深そうに観察している————
彼らを見れば、ここがただの娼館ではなく、文化と知識と政治が交わる密やかな夜のサロンであることはすぐにわかった。皆それぞれに思い思いの「悦楽」のためにここに集まっており、それは必ずしも「性的な欲」だけではない。
一体、何なのここは—————
しばらくその雰囲気に気圧されて立ち尽くしてしまう。が、あまりに呆然としていてはかえって怪しまれると思い、とりあえず羽織っていた上着を脱ぎ、当たりを見回しながらも、「案内人」はいないのかと探り始める。
と、その時、後ろから不意に誰かに腕を掴まれた。
「お嬢ちゃん。一人かい?」
驚いて振り返ると、そこには酒が入っているのか、顔を赤らめた男がいる。
「え……」
私が戸惑っていると、男の友人らしき者がそばのソファから立ち上がってこちらに近づくと、私をチラリと観察するように視線を流す。
「君、ここは初めて?」
「あ、あの……」
確かに初めてだが、どう言葉を返していいかわからずにどもっていると、初めの男が、どことなく含みのある笑顔で私を覗き込む。
「初めてじゃないとしたら、君は『役者』さんかな?」
「や、役者?」
と、私が思わず聞き返すと、大きめの男がパッと思いついたように言う。
「ああ、わかった、『娼館に迷い込んだ純粋なお嬢様』役だろ、いいぜ、すごくそれっぽい」
彼らの言うことの意味がわからず戸惑っていると、その男の手が私の腰に触れて、思わずビクッとする。
「おお、いいねえその反応、とてもリアルだ。ね、どうだい、俺たちと一緒に遊んでいかないかい?」
役者だ何だのと言う言葉はよくわからないが、わたしを舐めるように見つめる彼らの視線が、どんな「遊び」に私を誘っているのか、そこでようやく理解する。
「えっと、それは…」
と、断りの言葉を考えているうちに、そのうちの一人が強引に私の腕を掴んで引き寄せ、そのまま娼館の奥へと進んでいく。
「えっ、ま、待ってください、私は……」
と、手を振り解こうとしても、その力強い腕はびくともしないどころか、もう一人の男が脇を固めて、逃げ場を塞ぐ。
「はは、可愛いな。まだ慣れていないんだろ?」
男はそう言いながら、赤いヴェールの垂れ下がった暖簾をくぐって、暗い廊下に入る。どうやら個室が並ぶ廊下で、各部屋のあちこちから、微かに淫らな声が響く。
「俺たちが存分に慣らしてやるからさ、『迷い込んだお嬢様』?」
ハッとして隣の男を見ると、彼らの笑みは段々と本気のそれに変わっており、私は背筋が凍るのを感じた。
「や、やめて…」
私は本気で抵抗しようと身体を捩ったが、男達はそれを制して、左側の個室のドアを開く。
だめ、連れ込まれてしまう……!
絶望を感じた瞬間、背後から聞き覚えのある声がした。
「ちょっとそこの御三方」
※1ヴンダーカマー ; 珍奇な品々を集めた「驚異の部屋」。中世から続く博物学的コレクションの原型。
次回、第3話 5. 道化
「ロイヤル・ローズ」に足を踏み入れたはいいものの、怪しい男二人に連れ込まれそうになるジゼル。絶体絶命の彼女は……




