4 意識している自覚はある
幼い頃の蓮は、私よりも小柄で華奢な男の子だった。
2つ年下の健太の方が、蓮より背も高く、ずっと逞しい体つきをしていた。体格が良い上に、気も強くて腕っぷしも強い健太に、蓮はいつも一方的に虐げられていた。
健太いわく苛めているつもりはなかったようなのだけど、乱暴に腕を引っ張れば痛いし、遊んでいる最中のおもちゃを貸せと言っては、強引に取り上げられたら悲しいものなのだ。実際、蓮はよく泣いていた。
優しいけれど気弱な連は、私よりも年下の、守るべき対象のように思えた。
本当は同じ年なのに、当時の私にその意識はなかった。
「ちょっと健太、これ蓮の分のおやつでしょ」
「知らねーよ。蓮はもう自分の分食ったんだろ」
「ウソつかないの。私ちゃんと見てたのよ。あんたが、蓮のおやつを横取りするところ」
「あっ、それは俺の!」
「蓮に返しなさい」
健太からおやつを取り上げて蓮に返すと、ありがとうと愛らしく微笑んでくれる。その天使のような笑顔に私は大いに満足し、3人目の弟のような感覚で蓮を可愛がっていた。
乱暴ものの弟たちと違って大人しい蓮は、典型的な「可愛い弟」だった。優しくしてあげると、無邪気に笑って素直に私に懐いてくれる。
そう、まるで、愛らしい小犬のように。
「蓮! どうしたの、そのひざ」
「ぐすっ……ヒック……」
「たいへん、血が出てるじゃない。ちょっと足だして。手当てしてあげる」
「ありがとう、紗英ちゃん……」
蓮と私はいつだって、私の方が守る側で、蓮が守られる側だった。蓮はしょっちゅう泣いていたけれど、私は一度も蓮の前で泣いたことはなかった。
「ねーちゃんは蓮に甘いよなー。蓮もそんなケガくらいでピーピー泣くなよ」
「健太! あんた蓮に乱暴なことばかりしてんじゃないわよ」
「乱暴なことなんてしてねーよ。ちょっと俺様の宝物を見せてやっただけじゃねーか。そしたら、蓮がビビッて勝手にこけたんだよ」
「宝物って……やだ、それゴキブリじゃない! なにそんなもの虫かごに入れてんのよ。まさか飼うつもりじゃないでしょーね? 冗談じゃないわよ、逃がしなさい」
「あっ、返せよこのくそばばぁ!」
蓮にとって私は強い紗英ちゃんで。健太に睨みを利かせる頼もしい存在で。大きくなるにつれて一緒に過ごさなくなってしまったけれど、それでも、これからも私と蓮のポジションはこのまま、いつまでも変わらないのだと私はずっと思っていた。
◆ ◇
夕食の後、弟たちに引き留められて、蓮はリビングでゲームの相手をさせられていた。
さっさと帰ればいいのに。悠長に、後片付けなんて手伝おうとするからだ。
弟たちとくつろぐ蓮の姿を見ていたくなくて、部屋に戻る。いつもなら、夕食の後はさっさとお風呂に入るのだけど、蓮がリビングにいる状態でそんなことはしたくない。
宿題は夕飯前に終えている。読みかけの本を手にしてみたけれど、1階から聞こえてくる騒がしい声が気になって、ちっとも本に集中できない。諦めて家の外に出た。
そういえば、このところ忙しくて散歩もろくにしてなかったな……と反省しながら、お散歩グッズを片手に庭の片隅にある小さな小屋に近づくと、大きな犬が私に気づいて飛びついてきた。
カスタード色をしているからプリンと安易に名付けられたこの子は、康太が誕生日に強く希望して飼い始めた我が家の愛犬だ。毎日散歩もするし、エサやりもする!と主張していたにも関わらず、今ではほとんどのお世話を私が代わりに行っている。こうなる予想はついていたので飼いたいと言い出した時には激しく抵抗したけれど、両親と弟たちに潤んだ瞳でせがまれて、しぶしぶ了承してしまった。
ほんっと、康太も親も、ねだるのが上手いんだから……。
まぁ、可愛いからいいけどさ。
柔らかな毛並みに沿って背を撫でると、プリンが嬉しそうに喉を鳴らした。日々お世話をする私に、プリンはよく懐いてくれている。生意気な弟たちよりもずっとずっと可愛い、私の癒しだ。
「ちょっと待ってプリン、はしゃぎすぎ」
久しぶりに構ってもらえるのが嬉しいのか、プリンはそのままぐりぐりと私の身体に頭を押し付けてきた。荷物を抱えた右手を宙に浮かせてバランスが取れないまま、勢いよく押されて後ろに倒れそうになる。
「っ!」
足がよろめく。
こける!と覚悟してギュッと目を閉じたけど、衝撃を予想した私の身体は冷たい地面などではなく、温かくてしっかりとした腕に支えられていた。
「っぶな……、大丈夫?」
顔をあげなくても分かる。私の、だいっきらいなヤツの声がする。
どうして……ここにいるのよ。
「……へーき……」
健太と康太に挟まれて、仲良くゲームしてたじゃない。あんたと同じ空間にいたくないから外に出てきたのに。
「うわ、めちゃくちゃ紗英に甘えてるね。プリン」
ぐりぐりとプリンに押されて、よりいっそう深く蓮の腕の中に沈み込んでゆく。背後に感じる温もりに、否応なく意識が集中してしまう。
じわじわと頬に熱が集まっていく。
あの日を、思い出してしまいそうになる……。
「……なんで蓮がここにいるのよ」
「紗英が外に出ていくのが見えたから。一人でどこか行く気なら、危ないからついて行こうかと思ってさ」
「一人じゃないわ、プリンと一緒よ」
「これから散歩?」
「そう。最近、構ってあげてなかったし」
よっぽど嬉しいのか、プリンの勢いは止まらない。けれど、プリンと私をまとめて受け止める蓮の身体は、ぐらりと揺れたりなんてしなかった。
どうしてよ……。
むかむかと腹が立ってくる。片手が塞がっていたとはいえ、私は簡単によろけてしまったのに。どうして蓮はびくともしないのよ。
可愛い顔をしている癖に。あんなに泣いていた癖に。蓮の、癖に。
私が守ってあげていたのに。
震える私の耳元で、蓮がくすりと笑った。
「可愛いね」
「どこがよっ!」
「だって、振り切れそうなほど尻尾ぶんぶん振っちゃってさ。プリンは、紗英のことがよっぽど好きなんだね」
あ、なんだプリンか。
なんだ、私じゃないのか。
って。別に私はどうでもいいし……
「よしよし、分かったから一旦下がって。このままじゃ紗英が倒れちゃうよ?」
そう言って、蓮が私越しに手を伸ばしてプリンをゆるりと撫でた。私のことが大好きなはずの愛犬は、大きな手に撫でられて嬉しそうに身をよじり、私からあっさりと離れて蓮に擦り寄った。
……なによ。プリンまで騙しちゃって。
「うん、いい子いい子。これから一緒にお散歩しようね」
「え、ついてくる気なの?」
「うん。……駄目?」
「駄目よ」
きっぱりと言い切ると、蓮がプリンを抱きしめながら、しょんぼりとした様子で私をじっと見上げてくる。
なによその顔。上目遣いとかあざとい奴め。
そういうのに私が弱いってこと、分かってやってるでしょ。
ほんっとーに腹が立つ。
「そんな格好じゃ駄目よ。行くなら温かいもの羽織ってからにしないと。そんな薄いシャツ一枚で出掛けたら風邪引くわよ」
私の返事に、蓮がぱあっと顔を輝かせた。
なによ。そんなに喜ぶことないじゃない。そんな顔して、私まで騙そうとしないでよ。
ほんっとーに苛々する。
騙されてなんかやるものか。
「平気だよ。そんなに寒くないし、このままでいいよ」
「今あんたが寒くないのは、プリンが温かいからよ。上着取ってこないなら、ついて来ないでよね」
冷たく言い放ったはずなのに。蓮が一瞬きょとんとして、それからふふっと嬉しそうに笑った。
「紗英はやっぱり優しいね」
「いいからもう、早くして!」
なによ。どこが優しいのよ。ふざけたこと言ってないで、さっさと取りに行きなさいよ。
どんな顔をすればいいのか、だんだん分からなくなってくるじゃない。
プリンの背中に頬を埋めて無邪気に笑う蓮は、昔とあまり変わらないように見えるのに。なにか裏があるように感じてしまうのは、きっと私も変わってしまったから。
あの日から、私たちの関係は確実に変わってしまった。
「分かったよ、取ってくるから待ってて」
「急いでよね。早くしないと先に行っちゃうから」
「うん、紗英は本当に可愛いね」
「~~~っ!!!馬鹿なこと言ってないで、さっさと行ってきなさいよ!」
なによ。なによ。なによ。
私今、腕組んで、あんたを威圧してるんだけど!
どこに目ついてんのよ。可愛いなんてありえない。絶対絶対ありえない!
なに目を細めて笑ってんのよ。
それ絶対馬鹿にしてるでしょ。怒っている私を見て、面白がっているんでしょ。
頬が真っ赤になってしまってる、この私を。
ほんっと、ありえない。ありえないありえないありえない。
――――でも何よりも一番ありえないのは。
こんな蓮のことを、意識してしまっていることだ。
理不尽な感情が胸に詰まって小さく喘ぐ。
手を振りながら、軽やかに消えていくヤツが心底恨めしくて、私はその背中をじっと睨みつけていた。