73:姫君の決意
“私はただ……母さんに幸せになってもらいたかっただけなんだ”
――復活する神話の存在。覚醒を遂げる魔の軍勢。
戦況が二転三転する中、男装の姫君・スクルドは、未だに気を失い続けていた。
彼女は淡く夢を見る。
黒髪の母と、当たり前に街を歩く自分の姿を。
手を繋ぎ、笑い合い、誰に憚ることもなく、日常を送る光景を。
されど、それは叶わない。
黒髪の者とその縁者が、平和に暮らせる場所などなく――そもそも。
“母さんっ、母さん……!”
スクルドの母は、ラグナルの手によって亡き者にされてしまったからだ。
親子で仲良く生きる未来など、もはや永遠に訪れるわけがなかった。
ゆえにスクルドは目覚めない。
あまりに無慈悲な結末を前に、心が罅割れた結果だった。
“ああ……母さんこそが、私の全てだった。そんなアナタがいなくなってしまったのなら……私は、もう……”
さらに深くへと沈んでいく意識。
今のスクルドにとっては、眠りこそが救済だった。
目覚めなければ現実を認識せずに済む。
眠りの中なら、ときおり平和な夢に浸れる。
もう、何も見たくはない。
このままずっと、優しい暗闇に囚われていたかった。
“かあ、さん――……”
かくして、スクルド・フォン・ニダヴェリールは闇の底へと墜ちてゆく。
全ての痛みを忘れるために。自我すら霧散するような、死の眠りを目指して……。
――されど、その時。
『あまえるな、バカ』
辛辣なる言葉と共に、強烈な衝撃がスクルドの腹部へと炸裂した――!
◆ ◇ ◆
「げっほぉおおおッ!? げほっ、がほっ……!」
強制的に目覚めるスクルド。
痛む腹を押さえながら、ベッドの上で悶え狂った。
「な、なに……が……?」
訳が分からないが、まるで容赦のない一撃だった。
何日も眠っていたことが幸いする。もしも胃の中に食べ物があったら、我慢が出来ずに吐き散らしていただろう。
「ぁ、あはは……おはようございます、スクルドさん」
と、そこで。困惑する彼女の耳に、苦笑交じりの挨拶が響いた。
気付けば自身のすぐ横に、メイドのレイアが立っていた。
一瞬「うっ」と身構えてしまう。
エレン・アークス曰く、彼女は実は怨霊で、しかも人類の七割を滅ぼしたあの『初代魔王』だという話だ。可愛らしい容姿からはとても想像できない正体である。
――だが、それよりも気になる存在がレイアの側にいた。
その白く美しい獣を前に、スクルドの表情が気まずくなる。
「っ……お前は……」
『ブルルルヒッ!』
不機嫌そうに唸る一角獣。
この者こそ、スクルドが散々に酷使してきた俊足の魔獣・ユニコーンである。
最高速度はシルバーウルフに劣るが、それでも通常の馬よりは速く、体力にも溢れた優秀な魔物だ。
それゆえに国によって乱獲され、騎士団の足とされた経緯がある。
「そうか……私の腹をどついたのはお前か……」
されて当然だな、と呟くスクルド。
文句なんてあるわけがない。これまで彼女は多くの任務にこのユニコーンを同伴させ、無茶な命令を出し続けてきたからだ。
優秀さを示し、黒髪の縁者だと疑われないために。
民衆たちに愛され、いつかは王となって母の待遇をよくするために。
そのためにスクルドは奮闘してきた。
王として母を幸せにする――そんな夢を叶えるためなら、こんな魔物など使い潰しても構わないと思いながら。
『ヒヒィイイン……ッ! ブルルヒ……ッ!』
怒りの唸りを上げるユニコーン。
エレンのように魔物の言葉は分からないスクルドだが、罵倒されていることだけは確かだった。
乾いた瞳で魔獣の叫びを受け止める。
「ははっ……いいさ、好きなだけ罵ってくれ。殺したいなら殺してくれて構わない。それくらいのことは、してきたからな」
むしろ、あの世で母とまた会えるのなら本望だとすら思う。
それほどまでに、姫君の心は弱り果てていた。
「私はもう、疲れたよ……」
もはやこの世に未練はない。
最大にして唯一の夢は、跡形もなく消え去った。
新王ラグナルを殺したい気持ちはあるが、たとえアレを排除したところで、母が返ってくるわけがない。
それに、そちらはきっとエレン・アークスがやってくれるだろう。
あの男の子は自分よりも強い。彼に任せておけば安心だ。
「さぁ、殺せよユニコーン。その自慢の角で、私の心臓を貫けばいい……っ!」
そうしてスクルドが、胸元を突き出した時だ。
――ぱぁんっ、と。乾いた音が、頬から響いた。
「……えっ……?」
遅れて感じる、鈍い痛み。
レイアによって頬を叩かれたと気付いたのは、約数秒後のことだった。
「な、なにを……!?」
「黙りなさい、馬鹿娘」
冷たい声が言葉を遮る。
優しげな雰囲気から一転。威圧するような視線を放つレイアに、スクルドは「ひっ……!?」と悲鳴を漏らした。
腫れた頬に冷や汗が流れる。
「……アナタの気持ちはわかります。
わたくしも、魔物たちを幸せにしようと奮闘し、無残な結果に終わってしまった過去がありますからね。
お母様を救い出せないまま亡くしてしまったこと……さぞや辛かったでしょう」
しかし、と。
レイアはそこで言葉を切り、
「たとえどんなに辛くても、命を捨てることだけは許しません。
わかりませんか? 娘であるアナタが死ねば、それこそお母様の人生は、何も遺らない最悪のモノになってしまうんですよ」
「っ……!」
唇を噛み締めるスクルド。
それは嫌だと心が叫ぶ。死してなお、母を不幸せな目には合わせたくなかった。
「そして何より……スクルド姫。アナタは命を投げ出す前に、自身の『罪』と向き合わなければなりません」
そう言って一歩下がるレイア。
彼女は「今から、この子の言葉を訳して聞かせます」と告げ、ユニコーンの背中を一つ撫でた。
「罪と向き合え……だと?」
その一言に、スクルドは困惑する。
それならばすでに自覚済みだ。このユニコーンにはずいぶんと無茶をさせてしまった。
先ほども言った通り、好きなだけ罵ってくれて構わない。気が済むまで頭を下げてみせよう。
そんな覚悟がスクルドにはあった。
――だがしかし。
白き一角獣がレイアと共に放った言葉に、スクルドは目を見開くことになる。
『「――おかあさんが死んでよかったね。わたしのママも、おまえに乗り潰されたんだから……!」』
「なっ……!?」
瞠目するスクルド。突然の言葉に衝撃が走る。
そんな事実は知らなかった。まるで意味がわからなかった。
思わず、お前は何を言っているんだと否定しようとして――そこで彼女は思い出した。
まだ騎士として駆け出しだった頃。
与えられた一頭のユニコーンを、あっという間に駄目にしてしまった一件を。
「まさ、か……」
口元を押さえるスクルド。
優秀な騎士でもある彼女だが、当たり前ながら未熟な時期もあった。
騎士になったばかりのスクルドは、乗馬の技術がまるでなかった。
「そん、な……」
されど、悠長に訓練などしていられない。
早く王になって母親を幸せにするんだと、男装の姫騎士は野に駆け出した。
そうして彼女は、馬体に負担のかかる乗り方をしていることも気付かず、西へ東へと任務に赴き――そして。
「……そうか。あいつは、お前の母親だったのか……」
そして……そのユニコーンは半年ほどで死亡した。
当然だ。時には疲労で動けなくなってしまった彼女を、『呪縛の魔法紋』によって無理やり働かせることもあったのだから。
「ああ……これではラグナルのことを責めれないな……。それじゃあ私、ゴミクズじゃないか……」
皮肉極まる最低の真実。
己が母を幸せにするため、誰かの母を奪ってしまっていた罪に、スクルド・フォン・ニダヴェリールはいまさら気付いたのだった。
しかもその娘を次の奴隷として酷使してきたのだ。
所業の鬼畜さでいえば、ラグナルの公開処刑にも匹敵するものだろう。
『「そのとおりだよ、ママ殺し。おまえは最低のゴミクズだ。わたしがどんな気持ちでおまえを乗せてきたか、わかる……!?」』
「っ……」
謝罪の言葉すら、吐けない。
頭を下げて済むような罪ではなかった。
それこそ、命を差し出さなければ贖い切れないほどの重罪だ。
『「おまえ、本当にひどいやつだよね。黒髪のおかあさんには愛を注いでおきながら、もうひとつの差別存在である魔物たちは、普通に迫害してたよね」』
「……あぁ」
『「あまりにも勝手すぎるよね。おかあさんの話のおかげでエレン様に殺されずに済んだけど、ソレがなかったらおまえ、普通に死んでいい差別主義者だったよね」』
「そうだ……」
静かに頷き続けるスクルド。
反論する余地など一切ない。幼げな語り口から放たれる言葉は、全て真理を突くものだった。
『「ねぇわかってる? おまえがもはや役立たずなことに。
エレン様と手を組んだとき。そのときおまえは、王位継承権第一位だった。黒髪の人間だとバレてなかった。ゆえに、あのときのおまえには戦争を早期解決させられる力があった」』
「……そうだな。魔王軍に私がいるのといないのとでは、大きく違っただろう」
もしもエレンと魔王軍が、スクルドを仲間にせずに王国と戦争した場合。その時は血みどろの展開となったはずだ。
なにせ全民衆からしたら、エレンという存在は理解が出来ない。
“この黒髪の異能者が王になったら自分たちは何をされるんだ”と恐怖し、それゆえに全力で戦い続けただろう。
しかし、そこにスクルドがいれば訳が違う。
正当な王族が仲間に付いているのならば、そこまでの暴虐はしないだろうと民衆たちは信じたはずだ。
たとえ後から『噂通りに黒髪の子でした』と暴露しても、軍事支配が終わった後ならば、人々も粛々と受け入れざるを得なかっただろう。
だが、
『「だけど状況は変わってしまった。ラグナルとかいうヤツが、ニンゲンたちの怒りを煽る形で、おまえを黒髪の子だとバラした。今のおまえは、全部の国民から嫌われた存在だよ。もはや何の役にも立たない」』
「……」
スクルドは、頷く。
自分はもはや役立たずのゴミだ。宮廷魔術師としての実力も、強力な魔人たちがいるこの場所では大してたものではない。
自分は罪深いだけのゴミクズだ。
『「だから死んでよ」』
「すまん無理だ」
――しかし。
ユニコーンのその言葉だけは、受け入れることが出来なかった。
たとえ自分が役立たずで、目の前の彼女から母を奪ってしまった鬼畜だと理解していても。
スクルドは、きっぱりと首を横に振った。
『「……それは、どうして?」』
「さっき魔王様に怒られた通りだよ。娘の私が死んだら、それこそ母は浮かばれなくなる」
『「わたしのママを殺したと知ったよね。ママの気持ちを考えるなら、やっぱり死ぬべきじゃないかな」』
「それは出来ない。お前のママより、私は自分の母が好きだ」
『「最悪じゃん……」』
……開き直ったような言葉に、ユニコーンはドン引きする。
されど、怒りはしない。
一角獣は溜め息を吐くと、シーツを噛んでスクルドの頭に被せた。
『「顔、めちゃくちゃなことになってるよ。涙でグチャグチャだし唇は嚙みすぎて血が垂れてるし、マジで見てて怖いから……」』
「それは、すまない……っ!」
シーツで顔を拭うスクルド。
もはや、王子としての冷たい美貌はどこにもなくなっていた。
「ごめん、なさい……ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……っ! 本当は、死んであげたいけど、だけど……出来ないんだ……っ!」
涙声で何度も謝る。
彼女は開き直ったわけではなかった。
葛藤して、自己嫌悪して、一瞬のうちに何度も死ぬべきじゃないかと迷って。
それでも、自分の母のために生きるべきだと願ったのだった。
「償いならば何でもしよう。だけど、死ぬことだけはもう出来ない。たとえ罪深くて、役立たずで、全国民から嫌われた存在に堕ちようが、私はそれでも生きねばならない」
決意を新たに――スクルド姫は前を向く。
母親譲りの青い瞳を輝かせ、真っ直ぐにユニコーンの顔を見据えた。
その強き視線に、一角獣は押し黙る。
『「っ……最低。本当に最悪。ママを殺しておいて、自分だけは生きようなんて。おまえ本当に大嫌い」』
「わかっているさ。私も自分が大嫌いだよ」
『「うるさいアホ。これでも食ってろ」』
そう吐き捨てると、ユニコーンはベッドの側にあった小棚をどついた。
その上に置いてあったリンゴが、ぽとりとスクルドの手元に落ちる。
「これは……エレンが置いていってくれたのか?」
『「そうだけど違うよ。……あのラグナルのショーの後。知らない黒髪の子供がね、エレン様に渡してきたんだよ。
“王子様は私たちの仲間だったんだね。これ、王子様に食べさせてあげて”――って」』
「っ……!?」
目を見開くスクルド。予想外の好意に、リンゴに伸ばそうとしていた手が強張る。
『「全国民から嫌われたって言ったけど、あれはほんの少しだけ嘘。
たしかにおまえはほとんどのヒトから嫌われんだろうけど……黒髪の者たちの中には、仲間意識を覚えるやつもいたみたいだよ」』
「……そうか」
それは、言ってしまえばただの同情心だった。
黒髪の者たちとて馬鹿ではない。スクルドが黒髪の縁者だとわかっただけで“全力で応援しよう!”とはならず、ただ少しだけ“身分を隠すために苦労してきたんだろうなぁ”と思っている程度だろう。
だけど、それでも。
「そうかぁ……私にもまだ、気にかけてくれる者たちがいたか……!」
スクルドの胸が熱くなる。
今度こそリンゴを拾い上げ、勢いよくガブリと噛み付く。
酸味と甘みが口内に広がる。
「あははっ、美味しいなぁ! 死んだ母さんにも食べさせたくなるくらい美味しいっ……!」
『「なにも食べずに寝てたしねぇ、おまえ。……どーでもいいけどおまえが寝ていた間のことを話すよ。
ブチ切れたエレン様はいくつもの都市を陥落させて、今は王都に向かっているよ」』
「ふむ、落とした都市の民衆たちは?」
『「みんな逃げたよ。ただ、黒髪の者たちは保護したから、そいつらがけっこうな数いる感じ」』
「そうか」
リンゴを芯まで食べ終えると、スクルドはベッドから起き上がった。
身体の節々がだるくて痛い。されど、気力は十分だ。やるべきことはすでに決まった。
そうして外に出ようとするスクルドに、なぜかユニコーンが追従した。
「む……お前、どうしてついてくる? 私のことが嫌いじゃないのか」
『「何言ってるの、大嫌いだよ。おまえには本当に死んでほしいし、これからおまえが何をしようとしているのかも知らない」』
でも、と。白き一角獣は姫君を睨みつけながら、
『「スクルド。おまえが無意味で無価値に死んだら、わたしのママが死んだことまで無駄になっちゃうの。
だからおまえは、ママのためにも何かを成して死になさい。それまでは足になってあげるわ」』
「……そうか。ありがとう、ユニコーン」
かくして、彼女たちは歩み出す。
笑えるほどに駄目なコンビの誕生だった。
片や親の仇で、片や人語が喋れないなど、もはや相性がどうこうという話ではない。
レイアに見送られた時点で、意思の疎通は出来なくなるはずだった。
だがしかし。
『いまなら何言ってもわからないはず。この馬ァ鹿!』
「馬はお前だろう」
『ッ!?』
――驚愕するユニコーンの様子に、スクルドは愉快げに微笑んだ。
どうやら正解だったらしい。完全に理解したわけではないが、鳴き声のニュアンスを感覚で捉え、ユニコーンの辛辣かつ少し子供っぽい性格も判断材料として、見事に彼女は愛馬の言葉を当てて見せたのだった。
「ふふ……エレンも最初は、こんな風に探り探りだったのかな」
戦地で戦う魔王を想う。
あの少年のためにも、自分に出来ることをしよう。今の自分だからこそ可能なことがあるはずだと、スクルド・フォン・ニダヴェリールは真っ直ぐに前を見るのだった。