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年配の医者が息を切らせながらやってきて、診断した結果、俺の右足は骨折、右小指は突き指ということだった。
医者の診療所まで行くことになったが、少しの振動で激痛が走るので、とても気力と体力と時間を使う移動になったことは言うまでもない。
野外劇場のすぐそばに小さな診療所があって、医者はそこから飛んできてくれた。
「その身なりを見る限り、旅をされているのでしょう。怪我が癒えるまでここで休んでいかれては?」
「有難い話ですが、俺は向かわなければならない所がありまして、すぐにでも発ちたいんです」
「それは困りましたね。その怪我ではしばらくは痛みで思うように動けないですよ」
「……そうですよね」
足の骨を折ったのは初めてだ。俺は山育ちだが、やんちゃな暴れん坊ではなかったので、大怪我をしたことが無かった。骨折がこれほどまでに痛いものだとは、想像を超えていた。
診療所は二階建てで、一階は治療場、二階は医者の住居になっているらしい。俺は一階の入院室と書かれた寝台が置かれただけの小さな部屋に案内された。
医者が用意した痛み止め薬を水で胃に流し込んでいると、扉が三度叩かれる。顔を出したのは、サラと呼ばれていたあの、若い歌手だ。
「お父さん、急患なんだけど……」
「ああ、今行くよ」
医者はすぐに立ち上がると、俺に会釈をしてすぐに部屋を出て行ってしまった。
「お父さんっていうことは、ここは君の実家か?」
「そうなんですよ。旅人さん、家はこの通り入院患者もいない診療所なので、気にせずに休んでいってください」
サラは年の頃、二十歳前といった感じでカナスタと一緒にいたあの髪の多い少女と歳が近いように思えた。
「いや、長居をするつもりはない。治療費を払ったらすぐに出て行く」
「治療費なんていいですよ」
サラは両手を左右に振りながら、笑顔で断るのだが、大人としてそういう訳にはいかなない。
「そう言う訳にはいかない。アルス国の通貨に両替してからになるから、少し待ってくれ」
「本当に大したことをしたわけではないのでいいですよ。それにソラヤちゃん達からも貰ってませんから」
「え?」
あの三人と一羽、この家の好意甘えすぎて、治療費すら払っていなかったとは。薬一錠すらただではないのだから、カナスタは保護者として何をやっていたのやら。
「そもそも、あの三人はどうしてここに?」
この質問に、サラはニコニコと笑顔交じりに経緯を話して聞かせてくれた。
彼女の話によれば、ソラヤとキュフ、カナスタと赤い鳥のロアはアルス国に来る途中、椿獅子に遭遇したそうだ。あの獰猛な獣をなんとか追い払うことが出来たが、その際にカナスタが利き腕を怪我したという。
傷は脱臼と切り傷で、俺ほど治るのに時間が掛かる傷ではなかったそうだが、念のためにこの診療所で数日過ごしたらしい。
「つまり、あいつらはただ飯まで?」
「いいえ。家の手伝いをしてくれて助かっています。ソラヤちゃんは薬の事が分かるみたいだから調剤の手伝いをしてくれていますし、キュフ君は歌を歌ってくれますし、ロアは書類を届けてくれますから」
あの赤い鳥は伝書鳩だったのか。どう見ても鳩よりだいぶデカいが、賢い鳥なのだろう。
再びこの部屋の扉が叩かれて、顔を出したのは噂したばかりのあの二人だった。
「サラさん、ここに居ますか?」
「ソラヤちゃんどうかした?」
ソラヤは俺とサラの会話を邪魔してしまったのではないかと心配するような顔でこっちを見ているので、俺も仕方なく「どうした?」と聞き返した。
「あの、フォンさんの怪我は大丈夫ですか?」
「大怪我だけど、安静にしていれば大丈夫だよ」
「そうなんですね。あの、私達は明日出発することにしました」
サラの表情が一瞬固まって、平静を装ったような声音で「そうなんだ」と返事する。
「サラさん、フォンさんをお任せしてもいいですか?」
「ええ、もちろんよ。家は診療所なんだから、心配しないで」
ぎこちない笑顔でサラは頷いて、旅の支度は済んでいるのか、地図は手に入ったのかとか、傭兵は雇えたのかなどをソラヤに聞いている。その間、キュフが俺の横にヒョコヒョコやってきて、近くの椅子に腰かけた。近くで見れば見るほど細くて、俺の骨より簡単に折れてしまいそうだ。
「おじさん、どうしてアルスにやって来たの?」
「行くところがあるからだ」
「その足が治るまで行けないね」
「いいや、すぐ行かなくてはならないんだ」
「そこって馬車で行ける所?」
「いいや。山道だな」
「僕は無理だと思うな」
そう言って、いたずらっぽく口角を上げて、包帯でぐるぐる巻きになった俺の足をポンと軽く叩く。その瞬間ずきんと痛みが走って、俺は不細工なうめき声をあげた。
「キュフ、フォンさんに悪戯しちゃだめだよ」
ソラヤに怒られながら、可愛い顔で謝っているが反省しているようには見えない。
「ごめんね、おじさん。お詫びに、僕たちがそこにお使いに行ってもいいよ」
「どういう意味だ?」
「何か届け物があるなら届けるし、人に会いに来たんならその人をここに連れてくる」
「結構だ」
俺が愛想なく断ると、キュフは明らかに不機嫌そうな顔をして、こちらを睨みつけてくる。
「ついさっき出会ったばかりなんだから俺のことなど気にするな。自分たちの旅に戻ればいい」
彼にとってはカナスタが怪我をさせたと思ってなにか手伝えないかと気を遣ってくれているのだろうが、子どもに任せられるような案件ではないんだ。
「困っている人には手を差し伸べなさいとニト様から教わったんだ。僕たちの好意を素直に受け取ってみたら?」
「ニトサマなんて知らない。大人の事情に首を突っ込まない方がいい」
ソラヤが急に「ニト様はすごい人なんですよ。グッタの僧侶様なんです」と俺の知らない単語への回答をくれる。ちなみに俺はグッタ国の僧侶は、あまり信用していない。
「大人の事情って、もしかして……痴情のもつれ?」
「おい少年、どこでそんな言葉を覚えた。そもそもそんな事情ではない」
「じゃあ、どんな事情?」
あまりにしつこくキュフが質問するので、ソラヤとサラがこれ以上追及するなと声を掛けるが、何故かキュフは引こうとしない。
「少年よ、大人には軽々しく口にすることが出来ない内容の話という物があるんだ。俺の事なんかはすっぱり忘れろ」
「僕はとても嫌な予感がずっとしているんだ」
「予感?」
「その予感の答えをおじさんが持っているような気がする。この予感はルクスを出たあの日からずっと続いている」
ルクスとはグッタ国の首都。そうか、ソラヤとキュフはグッタでカナスタと出会ったのか。
「なぜ、少年の求める回答を持っているのが、俺なんだと思うんだ?」
細く白い指が俺の右耳を真っすぐに指す。銀製の流麗な曲線を描いた耳飾りに少年の指が映り込む。
「この耳飾りをどこかで見たことがあるんだ。ある人がこれは水を模したと言っていた。僕は……ぴったりだねと答えたような気がする」
「……」
少年は自分の頭の中の微かな記憶を掘り起こすように言葉を選んでいる。
「キュフ、その記憶はアロアの記憶なの?」
「ううん、違う。これは僕の記憶だ」
首を横に振る少年にソラヤは「記憶が少し戻って良かった」と彼の手を握って喜んでいるが、俺とサラはまったくついていけていない。二人は何の話をしているのだろう。
「ちょっと待て、アロアとは誰だ。お前はキュフという名前なんだろう?」
「アロアはこの体の名前。キュフは僕の自身の名前だよ」
「ますます分からなくなったんだが……」
「おじさんは戦争で必勝祈願に生きた魂を連れて行くという「勝魂」という古い習わしを知ってる?」
それはずいぶん古く魔法があった時代の風習で、現代には残っていないと言われている秘術だ。
「ああ、聞いたことはある」
「去年グッタとケルウスとの小さな戦があってね、そこに僕はケルウスから魂だけで戦地に連れてこられたらしい。そして何かの事情で野放しになり、ふらふらしている所をソラヤに見つけてもらったんだ」
にわかには信じられない、まるでお伽話を聞かされている気分になってくる。魔法が失われたと言われる現代で、そんな芸当が出来る人間が存在するとは思えない。
「魂だけだと自然に還ってしまうらしく、僕は魂が再び自分の体に戻れるように仮の体が必要になった。それからいろいろあって、瀕死状態のアロアというルシオラの少年に出会い、体を貸してもらったんだ」
「おい、途中から説明が雑になったぞ」
「だって、一旦、あの赤い鳥の中に居たとか話すとますますややこしくなるでしょう?」
「あ、ああ」
確かに情報が突飛すぎて理解するのに時間が掛かりそうだ。そうだ思い出した、あの赤い鳥は魂を食うというアピス人に嫌われている鳥だったな。
つまり、魂を食う鳥は、飲み込んで消化するという訳ではなく、体内に保存することが出来るという意味だったのか、なるほど。
「ちょっと待てよ。ならどうして赤い鳥の名前はロアなんだ」
「この体の貸してくれたアロアを忘れないように、鳥にロアってつけたんだ」
「そ、そうか」
聞かなければよかった。もっとややこしくなってしまった。おじさんの頭では理解するのにしばらく時間が掛かりそうだ。
「フォンさん大丈夫です。私は三度この話を聞かせてもらいましたが、理解するのをやめましたから」
サラは白い歯を見せながらあっけらかんと答える。きっとその割り切り方が一番脳に優しいのだろう。世の中の事は深く理由付けして解釈せず、聞き流すぐらいがちょうどいいのかもしれない。
「それで本題に戻るが、体ではなく魂の記憶としてこの耳飾りに見覚えがあるという訳なんだな」
「そうそう。記憶の中では耳飾りは左右同じ形だけど、表面が違ったはず。一方はピカピカでもう一方はくすんだ感じ」
キュフの言う通り、この耳飾りは右用と左用と二つ存在する。そして一方は輝くように綺麗に磨かれ、もう一方はくすませて左右の違いを出している。
俺の耳に輝くのは一つだけで、輝かない方だ。
「細工模様のどこかに水が入っていたと思うんだけど、違った?」
まるで間近でこの耳飾りを観察したことがあるかのように言い当ててくる。彼はどこでこの耳飾りを知ったのだろう。
「水じゃない。水銀だ」
耳飾りを外して、中央部にある小さな硝子窓を少年に見せる。窓は二重になっていて、その間に水銀が閉じ込められているのだ。
「珍しいですね」
キュフの後ろからソラヤとサラも覗き込んで、その古の技に驚いた。
「今ではどうやってこんな風に水銀を閉じ込めたのか分からない。謎の多い技術だ。どうしてそれを少年が知っている?」
キュフは細い首を傾げて、「僕にも分からない」と小声で答えた。
「それで、この耳飾りと嫌な予感との関係はなんだ?」
「うーん。まだよく分からないんだけど、たぶんゼノたちが不穏な動きを始めたことと関係があるのは間違いないと思う」
少年の言葉にソラヤが彼の名を呼んでそれ以上話すなと呼び止める。ぽかんとしているのはサラだけで、俺たちは急に気まずくなって黙ってしまった。
「キュフ君、ちょっと来てくれるかい?」
部屋の扉が開かれて、医者が顔を出した。少年はすぐに返事をして、医者の許へ駆け寄っていく。
「フォンさん、考えといて。僕たちにお使いを頼むかどうか」
キュフの後を追って、ソラヤも医者と共に一階へと下って行った。
「あの二人はしっかりしてますし、良い子ですよ。協力してもらうというのばどうですか?」
サラが耳飾りを丁寧に返してくれる。ひんやり冷たく、細工が凝られている割に妙に軽い耳飾りだ。
「誰も巻き込みたくないんだがな」
扉の向こうから少年の美しい歌声が響いてい来る。それはとても悲しく、切ない旋律で胸の奥で疼くようだった。
「この歌は母を慰める歌ですね」
「サラはルシオラの歌に詳しいのか?」
「いいえ、それほどではありません。ただ、ここ最近よく聞くので」
「よく聞く?」
「はい。この歌は魂の入っていない子どもを産んだ母に歌われる歌なんです」
ここ数年、よく耳にするようになった。魂無しの赤子が生まれるという。
何故魂が入っていないと分かるのかと言うと、ルシオラがレクイエムを歌おうとせず、例え歌ったとしても体から魂が出てこないからだとか。
どうしてこんな悲しいことが起きるのかとゼノの間でも話題に上ることがあり、ランテルナを見かけなくなったことに何かしら理由があるのではないかと説く者もいたが、最終的には誰も分からないままだ。
魂はどこから来るのか。
その答えは誰が知っているのだろう。
「ああ、やっぱり。ルシオラには敵わないな」
俺が黙って考え込んでいる間に、サラはそう呟いて部屋を出て行ったのだった。