浸潤、侵呪
黒い鍵が差し出される。
それを受け取れば、リカルドはまた彼の部下としてミカエラに仕える事が出来る。
手をゆっくりと鍵へと伸ばした。
正直言ってジヴェルの事は好きではない。謝罪されたとしても、彼の考えがあったといっても結局は歪んだ方法だった。
きっとこの鍵にも歪んだ思惑がある、それは間違いない。
「良いのですか? それは貴方を苦しめますよ、リカルド様」
それを本人が肯定する。
先ほどの謝罪など、彼にとってどれほどの意味があったのかは分からない。そんな風に言われては。
だがもう今更、同じ聖女の使いです、と自己紹介する気にもなれなかった。
鍵を手に取る。
しかし、執事はまだ手を離さない。
「リカルド。その鍵に願った後、その鍵をこの小瓶の中身と一緒に飲み込んでいただきます」
ジヴェルが先ほどの小瓶を目の前に持ってくる。中身は近くでならよく見えた。赤黒い液体が中で溜まっている。
「これは私の血」
「え……血!? 血を飲むのですか!?」
普通に考えれば嫌だ。血液というだけでも嫌なのに、目の前の男となれば尚更。
するとジヴェルの方も困ったような顔をした。リカルドが思っているよりも、この男の感情や表情は豊かなようだ。
「……ですが、飲んでいただかない事には。これを触媒にし、鍵を願いと共に取り込む事で、発動した魔法を貴方の力の足しにする。そして取り込まれた魔力に対して、呪いを掛けるのです」
「ええと……オレ、魔法の事は……」
リカルドの持つ火と水の属性はお互いに打ち消しあう。そういった者は他にも居るのだが、普通であればどちらかの属性に限定して魔法を扱うよう訓練するものだ。
しかし、リカルドは元々の魔力量自体が少ないために制御しにくく、殆どの魔法が扱えない。
そうは言ってもエイシャよりはマシなようだが、魔法への疎さは人一倍だった。
「簡単に言えば、貴方の中に私の魔力を取り込ませ、その私の魔力に対して私の呪いを掛けるのです。貴方に呪いが発動する時は闇の魔力に身を焼かれます」
それは今度こそ、彼の呪いで死ぬ事になるという事なのかも知れない。
だが、後に引く事も出来ない。
「そして、これを人間に試すのは私も初めてです。私の魔力も……貴方と別に相性が良いわけではありません。それを願いによる闇魔法で接木するようなもの」
ようやく鍵から手を離した執事がリカルドを見つめる。
「ですが約束致します。当たり前ですが、私は貴方に対する責任を放棄しません……貴方が後悔しない道だったと納得出来るように」
アイスブルーの瞳がリカルドの黒い瞳を真っ直ぐに射抜いた。
「オレは……オレはずっと、誰かよりも劣って生きてきました。それはここでも。自分より下の子どもに、執事殿にも、誰からも。そしてそれが、自分の力だけではどうにも出来ない領域にすら原因がある事も分かっています」
そんな事を話したい訳ではないのに、独白が口をついて出ていく。
ジヴェルは黙ってそれを聞いた。
「ミカエラ様は恐らくオレなど眼中には無いのです。貴族位も下、能力も抜きん出ている訳ではないオレなど。でも……」
自身の過去をいつかは誰かに話す事があるのかも知れない。今ではないにしても、それがリカルド自身の背中を押した。
「せめてここで、慕う方の力になりたい。劣ったオレでも、少しでも、執事殿の手を借りてでも」
「ええ、なれますとも。少しばかりですが、力添えを。苦しみと共に力を……」
リカルドが鍵を両手に持って目を閉じた。
執事の言葉を思い出す。
鍵を掛ける元々の理由──それは簡単だ。
「オレに……オレに、守る力をください!」
黒い鍵が青く輝く。
それが間違いなくジヴェルの魔力で発動している事がよく分かった。
「よく間違わずに願うことが出来ました」
ジヴェルがまだ輝きを放つ鍵をリカルドからヒョイと取り上げて、先ほど置いた小瓶を開いた。
鍵が宙で溶かされ、小瓶の中に注がれる。
「さあ、これを飲み干しなさい」
差し出される小瓶を受け取り、生唾を飲み込む。
これを口にすればきっと。
唇をあてがい、青い輝きと鈍い赤の混じる液体を一息に嚥下した。
ジヴェルも静かに見守る中だったが、何の異変もない。
強いていえば胃の中が少し重い感じがするだけだ。
「執事殿、何も……」
何も起こらない、そう言おうとした時だった。
「ぐっ、が!」
腹部からの急な激痛が走る。
それを見たジヴェルも驚いてリカルドに駆け寄った。
「ああ、あが、がぁ……!」
血を吐くのではないかと思うような痛みが暴れだす。
あまりの痛みに声もそれ以上は出せず、息も吸うことが出来ない。
立っていられなくなったリカルドが床に倒れ込むと、ジヴェルがリカルドの肩を掴んで何かを言ったのが振動で分かったが、内容は分からなかった。
鈍痛まで孕んだ刺すような痛みが腹部から締め上げるように段々と全身に拡がっていく。四肢に、首元に。
これが頭にまで来るのか、と痛みに耐えながら恐れを抱く。
せめて意識が途絶えてくれたら良いのに、残酷だ。
頭部に到達した痛みが脳内を掻き回す、何も考えられずに口からは唾液が垂れていく。涙が溢れていく。
そして一際強い激痛が一瞬で全身を駆け巡った。
「カヒュッ……!」
短く息を吸い込むと、全身が既に冷や汗でびしょ濡れになっている事に気が付いた。
痛みはもうないが、全身の力が入らない。
ジヴェルの声が聞こえてくる。
「リカルド、意識はありますか?」
それに応えるように、小さく言葉を紡いだ。
「……け、けいやく……を……」
情けないが、彼の契約にしがみついていなければ、自分に居場所などもう何処にもない。
「そんな事は後ですよ、まずは休みなさい!」
そう言ってジヴェルがそっとリカルドを抱き上げる。
ああ、なんて情けない。これではまるで自分が姫君か何かみたいだ。悔しい。
でももう、きっとこれで。
執事に横抱きにされたまま、執務室から出ていくのをぼんやり視認して、それからリカルドの意識は落ちた。
「リカルド君はどうだい?」
暗がりに数本のトーチを灯しただけの執務室でブローデンが言う。
執事は珍しく公爵の椅子に座らず、立ったままで答えた。
「まだ昏睡しています。恐らく……魔力の籠った金属と私の血液が彼の全身に定着するまでは」
「そうか。まさか、君がそんな人体実験まで始めるとは思っていなかったよ」
非難する気持ちを込めて言い放つ。
しかし執事はそれに対する反省はしなかった。
「苦しめる事は前もって言いました。これまでの事も謝罪しておりますし、何より彼が望んだのです」
「それしか選べないように追い込んだんじゃないのかい?」
「いいえ? 後で彼に聞けば良いでしょう?」
いつになく機嫌の悪い執事がそっぽを向いて答える。
この状態の彼に、午前中にエイシャを連れて見せたものの事が知れたら、と少し冷や汗を浮かべた。
「とにかく、手紙の返事もいただきましたから少し外出します。リカルドの事もありますので、用が済めばすぐに戻ります。それと……」
珍しく、ブローデンに対して睨みを利かせた執事が闇を纏いながら静かに言い放った。
「リカルドはクアッドの研究とも別件として扱うように、お願いいたしますよ」
闇がジヴェルを飲み込んで消える。
その後でブローデンはため息を吐いた。
「マスターキー、一本無くなっちゃったか……」
シルヴ・フェン・グリスラム伯爵。
彼はこのノーラン領のアーテルにある関所で、手紙を読み返していた。
もう返事を出した手紙だ。甘い匂いのするそれを改めて見返す。
部下達ももうここには居ない。自宅のある者は家族の元へと帰り、寮に住まう者らも先程関所の建物を出たところだった。
小さなトーチを灯し、座った彼がため息を吐く。手紙をそっと机に置いた。
また近いうちに手紙が届くのだろう。気が重い。
そう考えながら豊かな銀の毛並みで覆われた尻尾を垂らした、その時。
「お久しぶりです、グリスラム伯爵」
甘い匂いと共に背後から声がした。
間違いなくそれは手紙についた匂いの主で、それがズルズルと背後で音を立てる。
「なっ……あ」
振り向くが、驚きのあまりに言葉が出ない。まさか……まさか手紙の主……本人がここに来るとは思っても居なかったからだ。
「何も仰らなくて結構。あなたの意見や話を聞く気は毛頭ございません……後程、"はい"か"いいえ"ぐらいは訊きますので、そのつもりで」
この男の匂いは知っている。だが、記憶している匂いとは違っていた。だが間違いなく知った人物の匂いだ。
トーチの灯りに照らされた男の姿は執事服で、胸元に深い赤のネクタイをリボンのように軽く結んでいる。
薄暗いよりも暗いこの部屋の中で、彼の目が淡く青く光っていて気味が悪い。
「急にこのような訪ね方で申し訳ありませんねえ……お手紙のお返事、ありがとうございました」
そう言って一礼するが、違和感しかない。彼は不遜だが、シルヴに彼をどうこうする事は出来ない。
「ご足労頂くとは思っていませんでしたからな……」
「……何も仰らなくて結構だと言いました。まあ良いでしょう、いつ書かれるか分からない手紙を待つよりも、私自らが動く方がはるかに早いのですよ。それに……手紙で送るとまずい物もありましてねえ」
冷たい温度が彼の周りにあるかのような圧力を感じて全身の毛が逆立つ。それを抑えながら彼の話を待った。
「先日は私の部下がお世話になりました。至らぬ部下ではありますが、こちらの思惑を知りながらもリカルドを丁寧に扱ってくださった事、感謝致します。そして彼から貴方に関する報告を受けました……情報の提供に関しても、手紙への返事に関しても、貴方には礼の限りを尽くさねばなりません」
言いながら目を伏せたのが見える。
彼から送られた手紙は、この件に関する協力を要請する内容がかなり遠回しに書かれていたが、シルヴ自身の事は書いていなかった。
シルヴはこれを承諾したが、それに対する礼といったところ。シルヴ自身の罪……ハーフの搬入を許している事には触れていない事から、それは別件として捉えていると思って間違いない。
「先に言いますが、別に殺しはしませんよ。貴方もこのノーランの領民ですし、優秀な人材を潰すほど愚かではありません」
自分の考えを先読みでもしているのか、極端ではあったが予想していたことへの回答を先にくれる。
聡いと持て囃されてきたシルヴであったが、この男はシルヴとは別の方向で聡い。
「今日は主にその件で。当然、貴方は許されるべきではありませんし、正直私も腹立たしい。ですが、貴方への評価は先程話した通りです。手紙の返事も色が良かった事ですし、熟考した結果なのですよ」
そう言って手を胸元へと入れ、何かを取り出した。
折り畳まれた1枚の紙。
「シルヴ・フェン・グリスラム。私の部下となりなさい」
その紙を手に、一歩、また一歩と近付く彼に毛が逆立つのをもう抑えきれない。
彼……ジヴェルはシルヴよりもはるかに強い。
「これを手紙で送るわけにいかなかったのです。これは大切な契約書ですから。貴方が私に忠実な部下として尽くしてくださるのであれば……貴方の身は私どもがなるべく保証致しますし、御子息を探す事にも協力は惜しみません。私の下で民に尽くし、その罪を贖いなさい」
そしてジヴェルが彼の前で止まった。シルヴの瞳を真っ直ぐに見つめる。
彼のアイスブルーは魔力を持っているかのように妖しく揺らめいて見えた。
「さあ、"はい"か"いいえ"か。答えを聞きましょうねえ……」




