黒い鍵
契約書が1枚、真っ黒になってボロボロと崩れていった。
そろそろだと思っていた、その読みは正しかったようだ。
アーテルの屋敷から帰ったジヴェルが地下の自室でそれを確認する。
契約書が効果を発揮しきって崩れる瞬間を目にするのは珍しい。
「鍵が完成した……」
リカルドに渡していた鍵。クアッドの薬と共に忍ばせた鍵を馬鹿正直に持って帰った彼は、その愚直さで己が身を救われている。
(……鍵があっても無くても死にはしないが)
ともあれ、今この瞬間を持ってリカルドはジヴェルの部下では無くなった。
今はミカエラと共に外出しているようだが、後程彼を呼ぶ必要がある。
光が全くないこの部屋で小瓶を取り出した。それに何かを注ぎ込み、蓋をする。
(さあ、どちらでも構わない)
小瓶をそっとジャケットの内側にしまって姿を消した。
「入りなさい」
リカルドがジヴェルに呼ばれて執務室に入ろうとドアを開けると先客が居た。
「言っておいた仕事が能力不足でこなせないのであれば私の判断ミスです。お前に出来ない仕事を押し付けたのですからねえ!」
聞けば嫌味ったらしい言い方だが、それを否定したのは前に立つ赤黒い鱗の竜人だ。
「出来るっつーの! 舐めんじゃねえよ!」
あの執事に噛み付くように吠えている男……リカルドも最近何度か城で見かけたことはある。ザクラムと言ったか、アーレラがすれ違う時にあまり良い顔をしなかったのを思い出した。
何かは分からないが、出来ていないから怒られているのでは、と心の中で突っ込む。
「出来てから言いなさい……リカルド、モタモタしないでください。入るように言いましたよ」
「は、はい」
リカルドが慌てて執務室に入る間に、ザクラムがブツブツと言い訳を始めた。
「だって初めてだしよ、その、なんだよ、やっぱ夜だしよ」
図体のデカい男が小さくなってモゴモゴと言い淀んでいる姿は何故か可愛らしいものがあるが、これをジヴェルが見逃してやるのかは分からない。
そもそも、ジヴェルに口答えをしている彼が信じられないのだが、リカルドはそれを深くは考えなかった。自分なら、きっともっと酷く怒られていただろうな、と何の理由もなく思う。
「まったく……一応報告は聞きました。今回は見逃しますが、次はありません……下がりなさい」
執事は首を横に振り、有無を言わせぬ態度で払う仕草を見せた。
ザクラムが納得いかない顔で退散する。ちらとリカルドを見たが特に何か言うわけでもなく、そのまま部屋を出ていく。
扉が閉じてしばしの静寂。滝の音がいやに聞こえる。
「……何か言いたい事が多そうですねえ……リカルド」
静寂を破る執事の発言からは、リカルドの考えなどお見通し、と言ったような凄みが含まれているかのようだった。
ジヴェルも実際はそこまで読んではいない、だが大まかな事は粗方察することが出来る。
崩れた契約書がその証明のようなものだ。
「リカルド・エトア・ステラー。先刻をもって貴方は、私の部下では無くなりました」
その言葉に目を見開く。そのまま執事の顔を見ると、いつもと変わらぬ無表情があった。
昼間でも薄暗いこの部屋で彼のアイスブルーの瞳がぼんやりと光って見える。
「それは……」
「契約書が呪いを発動しきって消えました。貴方が持っている鍵はもう完全に黒く変色しているでしょう。こちらへ」
言われたリカルドが慌てて首に下げた鍵を取り出す。
持っていろと言われた鍵は黒く鈍い輝きを放っていた。
この鍵はリカルドに掛けられたジヴェルの呪い……彼に逆らうと自身の持つ属性が身を焼くという呪いを吸収するという物。
それを恐る恐る執事の目の前に差し出し、机に置いた。
「……この鍵は、この城のマスターキーです。全部で3本、クアッド様、ブローデン様、そして私が所有していました。これは私が持っていたもの」
ジヴェルが僅かに俯き、何かを思案する様子で口を閉じる。
彼にしては珍しい様子で、それがリカルドにもジヴェルが迷っているのだと分かった。
「初めに謝りましょう、申し訳ありませんでした」
「なっ……?」
まさか、このジヴェルからそのように声を掛けられるとは思ってもおらず、面食らう。
「一体、一体どういった話ですか? 説明が欲しい……執事殿の呪いも、鍵も、オレが部下でなくなった事も、全てが分からないままで進んでいる……!」
執事がそれに頷いて、だが目をそらして話し始めた。
静かに話す彼の眉間に皺があり、あまり気の進んでいない様子が伺える。
「……私の掛けた呪いは、貴方自身の枷となって苦しめていました。貴方の持つ火と水の属性は元々あまり量が多くありませんね?」
それに対してリカルドが頷く。これ自体はジヴェルも知っているはずだった。
「私の掛けた反逆の呪いは、術者の魔力が契約者の魔力に絡んで成立します。そうでなくとも、僅かずつとはいえ聖女の使いとして魔力を常に吸収されている貴方に、この私の呪いは随分な重荷だったようです。貴方の少ない魔力に私の重たい魔力がしがみついていたようなものです」
「それでは……」
それを聞いて合点がいったような気がして唇を動かす。
ジヴェルが頷いた。
「貴方の不調は主に私の呪いが原因だと考えられます……早めの解決が出来なかった事は間違いなく私の非だとお伝えしておきます。そして次に……」
言いながら机に置かれた鍵にそっと指先で触れる。
黒い鍵は真っ黒で、ジヴェルの手によく似合うと思った。それが何故かは分からない。
「呪いもそもそもは私の魔力。私はそれを回収したかったのです。だからこの鍵を持たせ、貴方に掛けた呪いの発動条件を厳しくしました。貴方が私に対して抱く、僅かな反感やイラつきですら呪いが発動するように」
ジヴェルの言う通りなら、リカルドがこの鍵を持っていなかった場合は死んでしまっていた事になる。渡された初めから鍵を肌身離さないように言われていた訳ではない。
「オレは……殺され掛けたのですか……?」
声が震えているのが自分でも分かる。この男には、ひょっとしたら自分など元々不要だったのではないかと、そう考えてしまったが恐らく間違いではないのだろう。
それを声に出して確認するのはもう、先ほどの言葉で十分だ。
だが、目の前の男はそれに対して首を横に振った。
「発動したとて死にません。特に貴方は、酷くて数日寝込む程度です」
ジヴェルがキッパリと答える。あれだけ身を焼くと契約時に脅していたのにも関わらず、死なないと言い切る。その根拠も分からないが、とにかく何らかの言葉を投げつけたい衝動を堪えた。だがそれも瞳に滲んでいたようだ。
「……とにかくどちらにしろ貴方は死にません。鍵を持っていなかったら数日寝込んで呪いが一気に解除できただけの話です。随分と煽らせては頂きましたがねえ」
そうは言うが、最も手っ取り早い解除が契約書の破棄だった事は黙っておく。煽ることで少し遊びたいつもりもあったからだ。
「その呪いを吸収したこの鍵は一種の魔道具となっています。元々魔道具として作った物ではありませんが、良い働きをしました」
静かに椅子から立ち上がったジヴェルがその鍵の横に小さな小瓶を置く。小瓶の中身は光の加減でよく見えないが、何か液体が入っているのはわかった。
「鍵に願えば一度だけ、願いに近しい闇の魔法を扱えます。鍵の形に収まっているので、出来ればそれに応じた願いがよい……鍵を掛ける元々の理由を考えるのが一番かも知れませんねえ」
そして次に机の引き出しからは一枚の紙を取り出す。
それは見覚えがある紙……契約書だった。
「……それはもう一度、執事殿の部下として契約を結ぶ、そういう事でしょうか」
睨みつけるかのように毅然と言う。自分も元々は子爵とはいえ貴族、爵位は伊達ではないように背筋を整えた。
「……それは委ねます。契約を結ばないのであれば、貴方の立場はただの聖女の使い。ミカエラ嬢と同じく、貴方にも従僕をあてがって公爵令息の扱いを受けていただきます。普通に考えていただければ、これは今よりもよい待遇ではありますよ」
確かに、ジヴェルの言う通りではある。今の自分は聖女の使いであるにも関わらずこの男の部下……それもミカエラの言うとおりであれば、不自然にも貴族ではないであろう彼の部下だ。
だが、それは……。
「それは……ミカエラ様にお仕えする事が出来ないという事でしょうか……」
「そうなりますねえ……」
振られはしたが、未だ好きではある。それもまだ整理はつかないが、まだ彼女のすぐ側でいたい気持ちがあるのだ。
聖女の使いとしての扱いを受ければ、常に彼女の側に居続けるのは難しいだろう。
「では……」
呪いをもう一度受けるとしても執事殿の部下に。そう言おうとした時だった。
「先に言っておきますが……私の部下になるのであれば幾つか条件があります。ただ呪いを掛けるだけではありません……それはもう失敗しているでしょう? 勿論、貴方に悪いことばかりではありませんよ、きっと」
執事が黒い鍵を手に取る。
「貴方が私の部下という立場を利用してミカエラ嬢の側に居るつもりであるなら尚更そうして頂きたい」
鍵をリカルドに差し出す執事の表情はいやに優しかった。
「この鍵に『力が欲しい』と願うのです」




