トラウマ
あの交差点へ。
さっき連れて来れられた喫茶店では、あの唐突に始まった事件のことは触れて貰えなかった。
というより、俺が楓に話す勇気がなかったといった方が正しいかっただろう。
それにしても理由があるのだろうか…。
分からない。
足取りはスクランブル交差点に近づくにつれ無意識に速くなっていった。
子供、じいちゃんばあちゃん、カップルを追い抜きましてや腕時計をちらちら見ながら次のクライアントに向けて歩くサラリーマンのスピードに付いていった。
ついさっき、自然の摂理を初めて忘れた世界を実感した鷹山街道前のスクランブル交差点に来た。
そこは今見ると、何事もなかったように人、自転車、車が行き来している。
本当に今までと変わりない日常だった。
違和感だらけで、今そこで立ち止まってるのも辛い。
タイムリープして、今日の朝起きたところからやり直したい。
…けどあれだけの人が集まって、数えきれない人が押しつぶされた。
放送局は無視してないはず。
俺は、モニターを見た。
しかし、画面は真っ黒。
故障したのだろうか…。
でも、TVが映るモニターがあるのはここだけじゃない。商店街の中にもある。
だがその先は一つ難関が待ち構えていた。
だけども、越えなければそこへは行けない。
俺は、信号が青になるのを待ち続けた。
しかし横断歩道のすぐそばにいた俺は、必然的に先頭に立っていた。
一歩踏み出せば直射日光に照らされて、蜃気楼漂うアスファルト。
ちらちら対角線上の向こう側だったり後ろに視線を変えると、あの時みたいに人がぞろぞろと集まって来た。
逃げ場が無くなった。
もう歩行者用信号機の横にあるタイマーの赤い線が一つしかなくなった。
今逃げても、交差点のアスファルトの上に押し出されるのは目に見えていた。
「やめてくれ…」
思わず、他の人に聞こえないように囁いた。
一人無事で他の人は灼熱のアスファルトに圧し潰された光景を再現されるという恐怖があったから。
またあいつに見られている。
俺はそんな恐怖を感じた。
まるで石化したかのような足は、黒いアスファルトの上に踏み出す勇気を失った。
頭の中では「行くな!!」と、そう警告していた。
刹那―――緑に近い青色のゲージが満タンになった。
「うわっ!」
青に変わったと同時に人がなんの躊躇なしに動く。
両肩を通りゆく人にぶつけられ靴の底がアスファルトに触れた。
幸い歩行者用信号機が青で車はなかなか通れないものの、恐れていたあの場所にまた足を踏み入れてしまった。
横断歩道を先頭で渡るのがトラウマになったと言ったら、バカにされる。
そういった矢先、悪寒を感じた。誰かがこっちを見ているような、そんな気がした。
(来るなよ…。やめろよ…)
来るな来るな来るな来るな来るな来るな来るな来るな来るな来るな来るな来るな来るな来るな来るな来るな来るな来るな来るな来るな来るな来るな来るな来るな来るな来るな来るな来るな来るな来るな
気持ち悪くなるくらい、『来るな』と心の中で唱え続けた。
交差点の中央に近づいた時、俺は精一杯ダッシュした。
かなりのスピードでスクランブル交差点の中央のエリアを通過。
周りの視線は一瞬こっちを向いたが、すぐ向けるべきところへ直った。
速度を緩めることなくそのまま一気に商店街の歩道へ駆け抜けた。
みんなは思ったことはあるのだろうか。横断歩道のを歩くのが怖いと。
「はぁ…はぁ…はぁ」
簡単に口にする嫌な思い出って、実はそんなに怖くない。
本当に怖い悪夢は、思い出すのが嫌なくらい怖い。
俺はすぐそばにあったコンビニでタオルを買い、付いてあった包装紙やタグを引きちぎった。
少し中指に切り傷が入ったものの、血が滴れるほどではなかったが、痛みより忘れたい気持ちの方が強かったせいか、痛覚に勝ってしまった。
でもそれに気づかず、商店街の中へ歩いた。
商店街の出入り口程では無いにせよ、それでも家庭用の中でも大きいクラスのモニターが見えた。
その辺りには吊るされたモニターを囲むように、リゾートホテルでよく見かける曲線が目立った白いプラスチック製の椅子と円形の木のテーブルがあった。
しかもモニターは、出入り口の前と同じようにみんなに見えるようにと2つを背中合わせで宙づりに設置してあった。
今も稼働しているモニターの右下に表示されている時間は、午前11時30分を表示している。
あれから、もう2時間経ったのか…。
正直本当のことを言ったら、警察や消防隊員達、特殊部隊やレスキュー隊の人たちが大慌てで緊急出動して街を封鎖して、みんな家から外に出さないように行政も動いてただろう。
なのに、あの光。
楓から『見るな』と言われて、目を瞑った。
あの光の正体は知らない。
楓の喫茶店に行った時に聞いておけばよかった。
でも、不思議だけど混乱しないで済んでるから本当にあの光は
あったことをなかったことにする光。
それは確実だ。
あの場にいた俺と楓以外全員見たのだろう。
もし誰かが覚えていたら、ウイルスの感染力よりも速いスピードであの事件の出来事は飛び交っている。
だからこそ、悪い意味で混乱していない。
2人だけじゃ「さっき横断歩道でなぜか分からんけど人が押しつぶされていた」と言っても誰も信じないだろう。
でもTV局は逃さない。
そのはず、監視カメラには映ってるはず。
俺は、昼のニュースでその時が放映されるのをただひたすらに待ち続けていた。
※
1時間くらい待った。
一向にあのニュースをする気配がなかった。
それどころか、芸能人たちが集まる昼のバラエティ番組が始まった。
もう、何時間待っても何も変わらない状況に打ちひしがれた俺は、白い椅子から立ち上がり、帰路に向かった。
(これはただの夢なんだよ)
誰かが囁いたような気がする。現実逃避がピークに達しているのだろうか?
だが左手に出来た擦り傷が、逃げている俺を追いかけるかのように記憶を呼び起こしている。
でも、これは過ぎたこと。錯覚なんだ。錯覚でいいんだ。
その方が楽——
「何逃げようとしてんの?」
「だ――――」
「振り向くな。振り向くとお前を…殺す」
背後に誰かいる。
けど、背筋が圧迫される感じがした。
恐らく本当に殺そうとしてる。
そんな危険な雰囲気を全身で感じた。
危険だこいつ。
しかも2人組…。
「誰——」
「無駄だよ。普通の人には僕たちが見えない。むしろ、君のおかしな態勢しか見えていないよ」
確かに、人が立ち止まらずに行き交ってる。
老若男女がちらっとこっちを見る程度だ。半ば発狂している俺の表情が可笑しかったのか、嗤う人もいた。
「いやーさっきはごめんね。驚いたでしょ。周りが圧し潰されてるのに一人だけ交差点の真ん中で立ってるって。これ以上残酷なことないよね?」
一人は、純粋な少年のような通る声だった。
非通知でかけてきたやつとモニターの声とほぼ一緒だからこいつで間違いない。
「質問に答えろ」
一人は、冷酷な殺人鬼のような低く冷たい声。
「これ以上ない…」
それしか答えられない。
「そっか」
(殺される…違う。こいつら遊び感覚だ!)
「じゃあ行こうか。カジャ」
「……命拾いしたなガキ」
「……」
※
俺は、しばらく後ろを振り向けなかった。
振り向くと殺される。
どこかにいったはずなのに、まだ頭と体が振り向くなと全力で答えていた。
あの2人組は、あの事件の犯人。
もしもあれが本当なら、1人は普通の人には見えない能力を持っている。誰にも気づかれることなく、行動できる能力。もしかすると、さっきの脅迫された時は見えていたのかもしれない。そうなれば、自らの姿を見せる数が調整できるということになる。厄介だ。もう片方は人の素肌を灼熱のアスファルトに不思議な力で触れさせた。恐らく重力を扱う能力だ。
…………。
「もう散々だ!!」
全く知らない赤の他人が何事かと俺に視線を向けて来たが、全く気にしない。むしろこの数時間で頭がパンクしそうな出来事が多過ぎて、可笑しくなりそうだ。
俺はその後どこにも寄らず真っ先に家に帰った。
※
「ただいまー」
俺が家に帰った時、妹が駆け下りていく……訳ない。
「兄おかえりー」
黒髪のツインテールの妹――巫穂はカウチソファをゲーム機やらノートパソコンやらで占拠していた。
「アイス買ってきたー?」
こいつは外で起こった出来事も梅雨知らず、頼まれてもいない食べ物をおねだりし始めた。
「買ってないよ」
「えー…この暑さだったら買ってくるでしょ」
「いや自分で買えよ!」
「やだー暑いもん」
「俺にアイス買って来いってか?」
「うん」
「うん!?」
もう炎天下の中を歩きたくないし、今日殺されかけたのを思い出すともう外に出たくは無い。
「ごめんな巫穂。俺もう外出たくない」
「え…兄。引きこもりになるの?」
正直その言葉に心臓がドキッとした。もしもあの出来事がまた起こると、本当にそうなってしまいそうなのが怖かった。
「ならねぇよ。けど…今日はもう出たくない」
巫穂の前ではやたら強がる俺、だけど本当はズタボロなんだ。
『分かってくれ』とは言わないけど、心身共に追いやられているのは感じて欲しかった。
「どうしたの?元気なさそうだけど。なんか見たくないものを見てしまった顔してるけど」
「なんでもねぇーよ」
昔から妹の勘は鋭い。
顔に出ていたのだろうか。
「そっか。あと母ちゃん5日くらい戻らないだって。昼ご飯はご飯は適当に作っといたからあとは頑張ってねだって」
「頑張ってね!?」
何を頑張るんだよ…全く。
よく見るとテーブルの上には茶封筒があり、中には諭吉さんが5枚程入っていた。
俺はテーブルに置いてあった作り置きの昼飯を食べた後、風呂場に直行しシャワーを浴びた。今日の出来事を汗ごと水に流したい気分だった。
そして新しい服に着替え、自分の部屋に行って昼寝した。
——忘れるために
今日という日が夢だったって思えるように。