忘れていた現実
炎天下。ニュースでよく見るモヤモヤとした蜃気楼が風景の向こう側のアスファルトを歪ませていた。
見ているこっちはフラフラしそう。白地に英語の文字がプリントされた半袖と薄い通気性のいい紺色のジーンズに茶色の革のベルトを少し垂らして着ている俺――北方凪は暑さ対策をしたつもりが、裏目に出て日焼けしそうだった。
できるだけ影があるところを通りたかったが、頼りの影も「直射日光は嫌い!」とアピールするかのように、心細い。
(あぁ、影も嫌いか)
と、見る度思ってしまう。
早朝と夕暮れはあんなに元気そうなのに…。
「もう嫌だ。音楽聞いて涼もう」
俺は黒と赤色のイヤホンを耳にかけて音楽を聴きながら歩くと同時に、そこから聞こえてくる透き通った声が聞こえてくる。聴いていたらこんな酷暑も忘れそうだった。
いい声。いつかこの人が開くライブ行きたい。
この声はとある動画サイトの歌い手さん。
いろんな曲をカバーしていて、巷で人気になっていて、彩音葉という名前で活動している。
この曲が彼女の声によって何故か涼しくなる。この季節にぴったりの歌手だ。
『もしもあの日に戻るなら…ピーッ』
「あれ、電池切れた?そう言えば充電するの忘れてた…。まぁいいや」
ちょっだけショックを受けつつも、俺はショルダーバッグの中に音楽プレイヤーを入れた。
※
しばらく歩くと大きな通りに出た。
商店街前のスクランブル式の交差点。大抵はスラッシュのような形だけど、ここではちゃんと対角線が出来ている。
商店街の出入り口には、映画館のスクリーンのようなとても大きいモニターが天井から吊るされており、右折限定含む片側3車線の道路を挟んだ向こう側にいる俺でも、今何の番組をしているかが分かる。
その時はちょうど天気予報をしていた。
今日最高気温38度。真夏だから仕方ない部分もあるかもしれないが、大抵の人は加減してほしいと思っている。俺もその1人。
『熱中症には十分気をつけてください。では、気圧配置です』
ちらっと見ると、雲ひとつ何もなかった。
太平洋高気圧が今日も頑張ってる。
だけど、時々台風という凶暴な流れ弾を作るから厄介だ。
これだけは夏休み中来ないでほしい。
道路にある自動車用の信号機が赤になった。
もうすぐ、歩行者用の信号機が青になる。
大抵のスクランブル交差点の信号機は歩車分離式。
青になったら、真っ先に商店街の建物の中に入ろう。あそこは涼しくて天国だから。
歩行者用の信号機が青になる。
俺は青になるのが待ちきれなくて少しフライングしてしまったが、そのおかげで誰よりも速く、白い帯が交差している中間地点にたどり着いたところで、スマホのバイブレーションが鳴り出し、俺はつい立ち止まってしまった。
《《非通知設定》》
スマホのこの表示を見たとき背筋が凍ると同時に、思わず画面に触れてしまいロックを解除してしまう。
(こんなの無視すればいい…)
とポケットに入れようとした瞬間、右手親指からツルツルとした感触がした。嫌な予感がすると、すぐにスマホを取り出した。
見るとそこには通話中の3文字が表示されている。耳を当てざるを追えない状況だ。
「…もしもし」
「いきなりなんだけど…その場に止まってモニターを見てくれないかな?」
「えっ…」
知らない声。少年のような声だ。
だが、その声の持ち主を今聞くのが初めてだった。
「誰…?」
「それは後々分かるよ。それじゃあ3…」
謎めいた言葉を残して、非通知設定の謎の男はいきなりカウントダウンを始めた。残り3から1つずつ減るため、今から逃げようにしても逃げ切れる自信すらない。
「2…1…」
(何が始まるんだ…?)
1人交差点の中心で謎めいた恐怖で立ち往生しているのを露知らず、そそくさと歩く歩行者。
——刹那。商店街のモニターが何の突拍子もなく画面が真っ暗になった。
その瞬間、交差点を歩いている人、そうでない人が一斉に立ち止まった。
まるでこの光景を見計らっていたかのように——
「0」
その瞬間。
ここにいる全てのスクランブル交差点の対角線上にいる人が全て倒れた。
違う。倒れたんじゃない。
見えない何かに押しつぶされている!
「「あぁぁぁぁぁぁぁ!!!」」
「嘘だろ…何やってんだよ!おい!やめろ!!」
気づけば通話が切れていた。
「くそっ」
すぐさまスマホをポケットに入れて周囲を見渡した。
交差点に倒れている人、助け出そうと交差点にの中に入る人、ましてや動画を撮る人なんかもいた。
それよりも先に俺の一番近くにいる人を、一刻も速く何の影響のない中心部まで運ぼうと近づいた。
しかし、スクランブル交差点の中央から抜け出そうとすると謎の圧力がかかり、左腕が灼熱のアスファルトへ急降下し、体のバランスを崩した。
「ぐあっ…」
まるで火の通ったフライパンに炒められるような感じ。灼熱の太陽によって熱くさせたアスファルトはまるで人を調理かのように下準備されている。
何とか左腕を左右に捻って熱したアスファルトから脱出することができたが、左腕には少し擦り傷が出来た。
これがきっかけで、俺は見えない重力の結界に閉じ込められていることに気が付いた。
どういう原理なのかは知らない、超能力としか言いようがなかった。
『皆さんこんにちは、僕の名前はBAN。この国の新たな支配者になる男です』
突然モニターのスピーカーから聞き覚えのある声――さっきの非通知設定で俺にかけてきた男だ。
モニターから出る音だけでは無く、どこにあるか分からないスピーカーからも聞こえる。ここにいる全員に聞こえるようにハッキングしていたのだろう。
『今、スクランブル交差点が大変なことになってますね。あの押しつぶされる人が危ないですね』
この地獄をまるで憐れんだような口調。こいつが犯人の1人だということはすぐに理解できた。
「やめろ!!」
俺は、スクリーンに向かって叫んだ。
叫んだはずだった。
(そんな嘘だろ…)
気づけば商店街の歩行者用道路、反対側の歩行者用道路には見たことないような数の人だかりができていた。
レスキュー隊員、警察官、重力に押しつぶされている人のだれかの親
その人達がみんな人込みをかき分けてこっちに来ようとしていた。
「やめろ…来るな…来るな!!」
その期待に裏切られるかのように、次々と人が来れば人は何かに押しつぶされた。
俺の耳には悲鳴と謎の男の声しか聞こえてなかった。
『皆さんこれが、現実です』
「何が現実だ!残虐じゃないか!!……やめてくれよ…お願いだから…」
もう何やっても無理な気がした。
科学者でも発狂しそうなこの空間に、1人だけ無事というこの狂いたくなるような世界が俺を虐めているようだ。
『今日は見せしめということで、ここまでにしましょう。それでは良い《《限りある》》1日をお過ごしください』
その瞬間、交差点のアスファルトの上にいた人全てがその場で意識を失った。
勿論俺を除いて。
どうしようもない衝撃に俺は、ただ、その場で立ち尽くしてしまった。
なぜ俺が、残酷な光景を見なければならなかったのか…。
『最後に僕からのプレゼントです』
もう嫌だ。聞きたくない。
(消えて…消えてくれ…消えろ!)
そう強く念じていた時だった。
「はっ…!」
誰かに右腕を引っ張られた。
無意識に腕を引っ張る相手を見てみると、しなやかなオレンジ色の髪、おそらくロングに近い長さだろう。今はなびいて正確には分からない。バランスの整った華奢な体はモデルやっていてもおかしくない。顔見えないけど、見た目こんなかわいいのなら恐らく美少女だと思いたい。でも何で後ろは騒がないんだろう?違う。さっきのことであっちに目が向いている。
「目を閉じて」
「えっ…」
普通ではありえない行動を指示され、俺は戸惑った。
「早く」
「あ…うん」
少女に言われるままに俺は目を閉じた。
バランス感覚を失った俺は不安定な足取りになりながらも、手を引かれてくれてるおかげでとか走り続けることができた。
「っ!何だ!?」
後ろの方で何かが光ったのが目蓋の裏で分かった。
しかも無音で。
「もう目を開けていいよ」
俺は、目を開けた。
しかし、風景は何も変っていない。
「何で目を閉じてなんて言ったの?」
「今声を出さないで…」
「あ…うん」
しばらく腕を引っ張られたまま蜃気楼漂う炎天下の中を走り続けた。
でもなぜか、暑くなかった。
※
「ふぅ…ここまできたらもう大丈夫」
「いや…そうでもない気がするけど…」
少女に手を引かれて行った先は、鷹山商業高校近くにある喫茶店——采だった。
どこか路地裏に連れてかれると思ったが、真っすぐ広い通りを直進しただけ。
俺の服が汗を吸って湿っているのに対し、少女は汗ひとつなにもかいてない。都合のいい体質だ。
背はおそらく160センチ前後だろう。
178センチの俺の顎の高さだから。
顔は小さく、キリッとした細い眉毛。どこかの国の人とハーフだと思わせるターコイズブルーのような目の色をしていてるものの、やはり目立つのは銀色の羽の形をしたネックレスと左手3本の指に付けられたシルバーの指輪。小指には一つの羽毛を巻いたような指輪、中指に十字架、人差し指にはKの刻印をしたシルバーアクセサリーのリングを付けていた。右手は何もつけていない。
俺がシルバーアクセサリーの指輪の中で唯一分かるのは、小指を巻くような形の羽毛のリングを付けると、幸運を呼び寄せるとか…このくらいしか知らない。
「うわっ…これはやばいね。さっ、中へ入ろう」
汗で水浸しになった服を見て、少しだけ汚物を見るような目で見てきた少女は掴んでいた俺の右腕をとっさに離したと同時に、店のドアを開いた。
「あっ…おう」
カランコロンと、良い音色を響かせて店内に入るドアを開いた。
「ただいまー」
まるで自分の家のかのように、少女は入っていった。
というかここが少女の家でもあるのだろうか。
中へ入ると、ジャズの音色が聞こえ、古風な木をふんだんに使ったアンティークなテーブルと椅子。カウンターの棚は、コーヒー豆が見えるように透明のボトルに入っていた。その右隣にはコーヒーカップがあり、スモールからトールサイズくらいのグラスもある。アイスコーヒー専用だろう。どちらも綺麗に置かれている。
「お帰り楓。ん?方凪ちゃん?」
「こんにちはとっつあん…」
「とっつあんいうな」
顔が濃く髭も濃く、コンビニなどに売ってる煙草より、葉巻が似合いそうなダンディーな人がカウンターに立っていた。
(いや、どっかのマフィアのボスだよね)
とっつあん(橘次男さん)
あの少女の名前、楓と言うのを初めて知ったの同時に、とっつあんに娘がいたのも初めて知った。
「え……この人のこと知ってるの?」
楓は驚いていた様子だった。
でもまぁ…この後アニメでよくある秘密組織のメンバーを自己紹介をする展開だっただろう。
少しばかり展開を裏切り、楓に申し訳ない気分になった。
とっつあんは、俺の父さんの親友で昔からよく通ってたから顔見知りである。
「そりゃ…方凪ちゃんの親父と親友だし何より常連客や。」
俺と楓はカウンターの中央の椅子に座った。
思い返せば1ヶ月に1回くらいはここに来ている。
高校のテスト期間中は週に4回ほど問題集とノートと筆記用具を持ってこの店に来ていた。
ここの落ち着いた雰囲気は自分の家より心地よいし、なりより誘惑がないし。
とは言いつつも、ここに何度も来たにもかかわらず昨日までで楓と会ったことないし、見たこともない。普段は裏口から出入りしてるのだろうか。
「ていうかさ…楓。なんで方凪ちゃん連れてきたの?」
「まぁ…とっつあんには秘密かな?」
「あれか…アシスタントか?」
(え…アシスタント?何の?)
「違うよ!それより‘‘奥’’へ行かせてよ!」
「駄目だ。いくら知ってる人だろうと行かせることはできない」
「何で!?」
「あの…喧嘩は…」
目の前で急に始まった親子喧嘩を止めようとしたものの、とっつあんの口から出たものは、俺の人生を一変させるきっかけになった。
「お前の秘密暴かれたいんか?」
(秘密…??え?)
「とっつあん…」
「ん?」
「秘密ってなに?」
「あ……忘れてくれるって言ったら…コーヒー一杯無料とか…あはは」
バン!!!
その瞬間、何とも言えない静寂が通過した。
楓がカウンターのテーブルを強く叩いたのだ。
「方凪だったら…いいよ。あと私のこと楓って呼んで…」
「ちょ…え?」
(何でなの?初対面だよ…俺は君のこと知らないんだよ)
「…そっか。方凪ちゃん…これから起こることを決してここにいる人以外誰にも言うなよ。もしかしたら…君をこの世界から隔離しなければならなくなる。今なら、逃げたって構わない。またここ来るときコーヒー代全部タダでも飯代タダでもいい。」
「その前に、一つ聞いていい?」
「ん?」
「何で僕なんですか?」
「……それは」
「あなたの父親、北方氏郷の息子であるから」
とっつあんのセリフを奪うかのように、いつの間にカウンターにいた楓が言ったことは拍子抜けだった。
俺がその理由を考えても結論に結びつかない。
それだけじゃ理由にならない。
俺の父さんの息子だから?笑わせ無いでほしい。
2人が二次元の世界みたいなことを言ってることに俺の頭が混乱し始めた。
「氏郷さんがなかなか帰ってこない理由が分かる?」
楓が自分でコーヒーをドリップしながら聞いてきた。
何故、俺の家の家庭事情を知っているのかは分からない。けど、楓は知っていそうな口調だった。
「分からない…けど、気になってた」
父さんは大型連休とお盆と年末年始のタイミングの時しか中々帰ってこない。
この夏もお盆には帰ってくるとは言ってたが…。
何でだろう。
母さんに聞いても、度重なる出張で帰ってこれない言ってた。
でもその時までは…サラリーマンの中でも海外出張行くほどの位の役職かと思っていた。
「氏郷さんは、この世界にはいない」
「え…?」
本当に驚いた時こそ、リアクションが出来なくなる。固まってしまう。
とてつもない異次元な発言に言葉が出ない。
もう何を考えても疑問符しか浮かばなかった。
「父さんは何をやってんの?」
もう聞くしかなかった。
『嘘だ』と現実逃避したってここは現実だから、何も変わりゃしない。
父さんの仕事。
家に帰ってこれない仕事。
度重なる出張以外で家に帰ってこれない仕事。
何をやってるか知りたい。
「それを、今度見に行くの」
楓はドリップしたコーヒーをそのままトールサイズのグラスに入れた。
「あの世界には、‘‘私’’みたいな人がたくさんいる」
楓は、湯気が立つグラスをそのまま触れたのと同時に、コーヒーから沸き立つ湯気が収まった。
「だからこそ、‘‘他でもない’’方凪に見てもらいたい。これ、サービス」
楓は自らが淹れたコーヒーを俺の座席の前に置いた。
触れてみるとアイスコーヒーと同じくらい‘‘冷たかった’’。
これが不思議ということなんだろうか…。
「さっきの事件が少し納得できた気がする…」
もう今日で2度…正確には3度体験したのだ。
『どうせ夢なんだろう?』と思いたい。
でも、実際頬をつねってみても夢の中みたいに場面が変わらない。
試しに楓が淹れたコーヒーのグラスを触っても、冷たい。
冷たいんだ。
感覚神経がそう答えている。
俺は、グラスを手に取りコーヒーを飲んでみた。
冷たいながらもコクがあり、酸味も苦味も程よい。
錯覚じゃない。
これは現実なんだ。
なんでこうなるかの理屈は知らない。意味不明《どっか飛び越えた》。
これが限られた人が出来るこの世界の裏設定なんだろう。
「さあ上の服はここに置いといて。今持って帰るのもちょっとあれだから」
楓は変わりの服が入ったダークブラウンのしなやかな素材のバスケットを用意した。
俺はそれを貰い、楓が見えない店の奥で着替えた。
黒の無地のTシャツと青の迷彩柄のストレッチジーンズを着ている状態になった。
おそらくとっつあんの服。
「じゃあまたここに来て。あの世界に行くか行かないかは、方凪の判断に任せるよ。行くんだったら‘‘奥’’に連れて行ってあげる。あと、変な奴と遭遇したら真っ先にここに逃げてくることね」
「…分かった」
(不審者に遭遇した時に逃げる家じゃないんだから…)
けどこれはこれで、心強い。
でも結局来ないといけない。服を預けたから。
俺は渋々嵌められたことを実感しながらも、この喫茶店を後にした。
足取りは、つい先ほどまで起こっていた事件現場へと自然に向かっていた。