第八話 諍い
未成年の飲酒は法律で禁止されております。
それから時々基の家で兄貴と会う事があった。
その度に俺は穏やかな視線を感じていた。
俺は日頃基や他の部員の食い物にうるさい。食い物は筋肉を作るだけじゃなくて脂肪になるし、時として内蔵を痛める事が有る。若いから無理がきくけど、その溜まったストレスが本番直前に出て来るかもしれないからだ。頑張りどころで頑張れなくて後悔するなんて悲惨だと思う。だから毎日体重と体脂肪を測らせ自制を促す。
かといって高校男子、しかも運動部がそんな事聞くはずが無い。という訳で、月に一回はわざとはめを外すようにみんなに言っているのだ。好きなもの食って、好きなもの飲んで、一晩中騒げ、と。
人というものは変なものでこういわれると欲が減退するらしい。しかも日頃節制していると、フライドチキンだとかジュースをその日一日にたらふく食べようとすると体が受け付けなくなっていたりする。だいたい胸焼けがおき、脂っこい食べ物や甘ったるい食い物が嫌いになってしまうものだ。
その反動か、みんなめっぽう弱いくせに酒は好きだった。
基と俺がゲーセンやカラオケやさんの周りにいると事情を知らない女の子が声をかけて来る。いわゆるナンパ?基が乗らない時は、まぁだいたいほとんどがそうだけど、ヤツが俺に指を絡め、二人見つめ合ってにっこりすれば解決する。今はやりのアレだな。
でもあんまり頻回にそれをしていると他の連中に
「シャレにならん。」
と笑われるし、別の意味で危ない男から声がかかる事もある。二度三度とストーカーまがいの目に有った事もある。しかも男だし。
ホストになんないかって勧誘も結構しつこい。髪は短いのに私服のせいか18程度には見えるらしい。年齢言って退散してもらおうとすると、誕生日を教えろとまで言ってくる。
“大人になったら男のロマンを見せてやる”
その意味が分からず少し話しを聞いてやったが、たいした事じゃなかった。要は金と女と車の話しだ。
欲しくないものはいらない。
だからボクシング以外、外で遊んでもつまらなかった。
てな訳で、月に一回ぐらいは仲間と基の家で宴会をするようになった。
やたらとでかいテレビと恐ろしくいい音の出るスピーカーのあるそのリビングは完全防音だそうで、騒ぐならこっちにしろと兄貴に言われ、それでは遠慮なくとおおいに盛り上がった。快適なソファに毛足の長い絨毯。モデルルーみたいに整理され、ともすれば冷たく感じそうな部屋なのに、そこには温かい家庭の匂いが有った。
男二人で住んでいるのに、おかしいや。女二人で暮らしている自分の小さなアパートの方が、80年代のテレビのセットみたいに作りもの臭いって思えるなんて。
俺は心の底で小さなため息をついた。
いつだって11時を過ぎた頃に基の兄貴は帰って来る。そして風呂に入った後、もうぼちぼち眠くなり始めた俺たちと、時々一緒に飲む様になっていた。
一応俺達は未成年な訳で、大人というものは注意する義務が有るはずなのに、この人は至ってのんきだった。自分用のウイスキーを持って来て(さすがにこれは飲ませてくれない)いつの間にかまぎれて話しに加わっていたりして。
結構飲んで酔っぱらうんだけど、いらない説教をぶったり、人の悪口を言ったり、責めたりする事は無くて。だからもちろん俺の秘密も守られていた。
今から思えば、そうやってやってくるのは、基や俺たちを心配してくれていたんだと思う。
そんな兄貴だから俺たちは密かに慕っていた。
彼が手にする“バカラ”とか言う重たいグラスを見る度に、この人は成熟した大人で、この7年という歳の差は一生埋まらないんだって思った。でもそれと同時に、超えられない存在がいる事に何とはなしに喜びも感じていたんだ。
兄貴が基の自慢だって事はみんなが知っていた。頭がいいとか、カッコいいって事じゃない。兄貴は俺達“子供”を“大人”と対等に扱ってくれていたからだ。
だからその夏休みの夕方も特になんの問題も無いはずだった。
基は俺を抱きたいとき下唇を噛みながら俺を見つめる癖が有る。部の帰り道に二人で歩きながら時々感じる気配で分かるようになった。
部の練習はキツく、全員がへとへとだった。その反動だろうと思うけど、基の性欲は増していた。
それは基との約束だから。基が抱きたい時に抱いてもいいと。基がボクシングに打ち込める為なら抱かせてやると。ただしあくまで体だけの条件だった。
ダッチワイフ。それがこの時の俺の名前だからな。
その日もいつものように彼の為にダッチワイフになった。
彼の家に着き部屋に上がる。扉が閉まったその瞬間から俺は基のモノになる。
2度の行為の後、シャワーを借りた。微かに疼く女を俺は冷たいシャワーで完全に洗い流す。
基の部屋を出るとまるでスイッチが切り替わったように俺達は親友に戻った。
基はできた男で、たとえ暗がりの部室でも、深夜の帰り道でも、二人きりのリビングでも一片たりともそのそぶりを見せた事が無い。見事なまでに自制されていて、ともすれば油断しがちな瞬間でも決して気を抜かない。だからこそ最近は抑制が外れた彼のベッドの上が怖かった。
彼はそんな俺の不安を知らない。
それでもいつもみたいに夕飯を作り、ボクシングのタイトルマッチを見た。
スーパーバンタム級だから基より少し重い。というか、本来基の身長でフェザーは軽過ぎだと思う。もしかしたらそこがこいつの限界かもしれないと薄情にも思った。彼はボクシングだけをするにはあまりに魅力的だ。高い身長に長い手足。よく動く足。優秀なアウトボクサーだけれど、彼の“太らない”は“筋肉も太くなれない”と同義語だから。
でも大会まで残り10日。その不安はもう忘れる事にした。
俺達は試合展開の話しなんかしながらじゃれていた。もちろん、友人として。
そこに兄貴が帰って来た。
早い帰宅だというのに、いつもよりも疲れて見えた。
案の定不機嫌で、俺は何となく嫌な予感がした。
「帰れ。」
兄貴の言葉は簡潔だった。その言葉にはあからさまに俺を嫌がる響きが有った。
何が気に障ったのか分からない。
なんだよ、いつの間に俺の事がそんなに嫌いになったんだよ。何か悪い事したって言うのかよ。俺は動揺した。俺はこの人が大好きだったのに。俺と基の関係にお前は関係ないじゃないか。それに俺は好きでここに来ているんだ。そう思いながら、胸がちくちく痛んだ。
好きでいる?嘘だ。
本当はそれだけじゃない。それを思い出したとたん、俺は無償に腹が立って来た。
そうだよ、俺は薄汚いよ。兄貴みたいにいいお育ちで、順風満帆いい大学でて立派な仕事に就いている人間になんか分んないだろうよ。俺は自分の事切り売りしているみたいなもんだもんな。援交してんのと変わんねぇよ。もらうものが現金かどうかの違いでさあ。でもさ、それでも手に入れたいもんが有るんだよ。俺にはそれが必要なんだ。
でなきゃ俺だって壊れちまう。
「俺にはボクシング以外、しがみつけるものが無いんだから!!」
気がついたらその言葉を吐き捨てていた。
何も言えなくなった俺を兄貴は送ると言った。あいにくの土砂降りだ。自転車じゃ帰れない。しかも金曜日。俺は引きずられるように車に押し込まれた。
「勇利君がそこまでボクシングに固執するのはどうしてなんだ。何か“好き”以外の理由があるはずだ。」
兄貴の口から出た言葉は空気の様で何を言われたかすぐには分らなかった。でも、ほんの少しの時間を置いて、なにを言われたのか解ると、それは痛い痛いカマイタチになって俺を襲った。
「はっ。」
きっとこの人は俺の悲しみを分かっちゃい無いんだ。そう、悪気なんか無いんだと自分に言い聞かせる。
兄貴の車は時速60キロを保ち、俺の家へと向かう。この人は自制心の固まりで、急ブレーキを踏む事すらさえ無い。そして俺は信号機の赤を滲ませた。
「君は泣き虫だな。まるで女の子みたいだ。」
彼はそう言うとうるさいほどによく降る雨の中、車を路肩に止めた。
「僕は君を泣かせたい訳じゃない。」
でも、俺は泣いていた。泣くつもりなんかあるもんか。誰が泣きたくてなくんだ?それでも涙は止まらなくって、悔しさのあまり、噛み締めた唇が千切れた。
泣くつもりなんか無かった。
彼は俺を抱きしめた。
何考えてんだ、こいつ。
でも、俺の涙は止まるどころか、勢いを増していた。
Left Alone つづく