第六話 基の兄貴
「どうして勇利君がこんな所にいるんだ。」
予想もしていなかった事、しかも名前まで呼ばれて俺は一発で目を覚ました。
そいつの吐く息はやたらと酒臭かった。
「すみません、笹川さん。先に返ってください。この子知り合いなんです。」
笹川とよばれた派手な女の人は、さっきまでの攻撃的な声とはうって代わり、
「ふうん。」
と首をかしげた。
「肇ちゃんの恋人?」
「馬鹿言わないでください。」
男は苦笑いした。残りの男達がおおっとどよめく。自分で言うのもなんだが、俺は美少年の部類に入るらしい。
「ここからはプライベート、はい、帰ってください。」
お仲間を強制送還した後、男は広川巡査に私の事を訪ね始めた。広川さんは答えに詰まっていた。何しろ、俺が
“このひとだれ?”
て顔していたんだから。迂闊に他人にいらない事を話してはいけない。常識だ。
彼はその沈黙を勘違いしたらしかった。
「さっきも言いましたが、この子は僕の弟の友人んなんです。僕はこういうものですが」
と言って名刺を2枚差し出した。なるほど、この人はこういう場慣れをしている人らしい。酔っぱらいの割にしっかりしているじゃないか。2枚出した名刺は、名刺が本物である証なのだから。
「弟は高校でボクシングをしています。この勇利君は、そこのマネージャーなんですよ。」
どうやら俺を、補導されたまではいいけれど黙んまり決めた少年Aと勘違いしたらしい。
「僕でよかったら話しを聞きたいんですが。」
何ともお固い人だ。広川さんは名刺を私に見せた。
“木下肇”
「なんだ、基の兄貴かよ。」
私はすっとんきょんな声をあげていた。
その時携帯が鳴った。
案の定マスターからのお迎えコールだった。
「じゃ、そういうことで。広川さん、ありがとう。」
俺はお巡りさんに手を振ると兄貴をそのままに置いて交番を出た。
「おっ、ちょっと、待ちなさい。」
彼は慌ててついてこようとした。振り切れないだろうなあと思いつつ、自分のこんな生活を他人に知られるのが嫌で、厄介だと思った。
「これからお仕事だから。」
勝手知ったる道を酔っぱらいやアフターのアフターみたいなお姉様の間を交わしながらすたすたと歩く。かなり酒臭く、相当酔っているはずのこの人はそれでもがんばって付いてきた。
「君は、何なんだ。」
しつこく腕を掴まれた。
「ちっ。」
面倒くせぇ。
「あそこの交番は、俺にとって喫茶店がわりなの。俺はこれから仕事明けの母親を迎えにいって、彼女を休ませて、お店掃除のバイトにいそしむ訳。オッケー?」
眉間にしわを寄せた顔。ま、解るはずが無い。
「詳しく説明してくれ。仮にも君は高校生だろう。」
それからこう言った。
「こんな事が学校に知れたら、あまりいい顔をされないと思うが、どうだろう?」
なるほど、さすが有名どころ出版社勤務。俺はさっきの名刺を思い浮かべていた。さすがに言葉の使い方が適切だって。
別に学校にばれてもたいした事は無い。その為に絵里子さんのお迎えの時には必ず交番に顔出して悪い事していませんよってアピールしているんだから。でも波風は立たない方が良いに決まっている。だから俺は諦めた。
「ついて来なよ。そこで、説明してやっからさ。」
案の定絵里子さんはソファーで酔いつぶれていた。こう見えてお客さんがいる時はしゃきっとしているって言うからたいしたものだと思う。片付け途中のマスターとママさんに付いて来たいらないお客の事を説明する。
「親友の兄貴。来る途中で見つかって、不審がるから連れてきた。」
二人は、
「あっそう、じゃあ、後はいつもどおりよろしくね。」
って感じで何事も無かったかのように帰っていった。さすが水商売。何に動じる事も無い。
俺は兄貴の事は放っておいてミネラルウオーターのボトルを開けると、とりあえずソファに横たわっている絵里子さんの口に含ませた。二日酔いは辛いから。
「この人が私の母親。綺麗な人だろう。いつもは絵里子さんって呼んでる。で、ここが職場。かきいれ時は絵里子さんがんばりすぎて、潰れちゃうんだ。そのお迎えにくるんで、あの交番でスタンバイしていた訳さ。交番のおっちゃんは古い馴染みだし、ここから家まで車で30分有るから、あそこで待っていた方が都合いいんだ。」
夜遅くなるとここまで来るのに足が無かった。まさか自転車でくる事はできない。帰りは一応お店持ちだからいいとして、来るのにタクシーなんか使ってられなかった。それなら24時間営業の喫茶店にいた方が金がかからない。
俺は彼にも水を渡した。兄貴は遠慮する事無く
「ありがとうと。」
ときれいな仕草で飲み干した。
時計は午前5時を少し過ぎていた。
「絵里子さんはこれから少しここで休ませてもらうんだ。」
この時間に捕まるタクシーは少ない。
「その間、ここの掃除をしたり、在庫の確認をするのが俺のアルバイト。ま、兄貴も疲れていそうだから、そこに座って寝てれば?」
俺はそう言いながら椅子をテーブルの上に乗せ始めた。
「でもさ、こんな事、基に話さないでくれるか?」
俺は何気なく切り出した。兄貴のさっきまで見せていた険しい表情はなりを潜めていて、俺のやっている事をじっと見つめていた。この人は真面目な人なんだなって思った。きっと基の事が心配なんだ。仮にも弟の親友が週末の繁華街で交番にいるようじゃ、そりゃ不安だろうから。
自分だってこんな生活が好きな訳じゃない。できるものなら絵里子さんにこんな仕事を辞めて欲しかった。自分の体を切り売りしている様なものだ。でも母さんには母さんのプライドが有って、どうしても自分の力で俺を高校だけは卒業させてやりたいって思っている事も知っていた。
手に職のない綺麗なだけが取り柄の女、しかも40歳だ。親子二人が食っていく為には、自給880円のスーパーのパートなんかじゃやっていけなかった。
そのくせ俺にはバイト禁止と言うから変なものだ。
唯一やらせてくれるのがこの店の掃除バイト。絵里子さんが酔いつぶれた日にだけの臨時の仕事。
俺はお店の電球をぜんぶチェックし、傘を雑巾で拭いた。
「俺の自宅での生活と学校の生活は関係無いから。それに俺達は上手くやっているつもりだしな。」
それは兄貴に言うというよりも自分自身に言い聞かせている言葉だった。
少し間を置いて、静かに響く声が
「それはどういう意味で言っているのかな?」
って言って来た。
ああ、頭のいい男は嫌いだ、と俺はため息をついた。
「勇利君は基のことを見くびっているのかい?それともこの僕が君を軽蔑する事を牽制しているのかな?」
そう言う意味でとってほしくなくて、もったいぶった言い方をしたって言うのに。
「まあ、それも有るし。」
俺は少し口ごもった。
「別に親が水商売しているからって基が俺の事を馬鹿にしたりさげずんだりする訳ないって知ってるさ。それに兄貴は仮にも基の兄貴だぜ。そんな人間じゃない。でもこんな」
って俺はあごで周りを指した。
「暮らしをしている事を惨めだと思われたくない。」
そこに有るのは安っぽい調度と糖質のこびりついたボトルキープとイミテーションの“退廃“
「俺の母親がこういう仕事をしてる事、基は知っているけど、見ると聞くとじゃ全然違うだろう。」
俺は兄貴に背を向けた。お店の中はアルコールの据えた匂いといぶされたタバコの香りともう一つ、人間特有の嫌な匂いが染み付いていた。
「基の兄貴は俺にとって他人だし大人だから良いけどさ、基は親友だろ?だから同情されるのは辛いんだよ。」
もうそれ以上何も言えなくなっちまって・・・・・。
「ああ」
って兄貴はそこで一息ついた。
「そうかも知れない。」
その声は静かで、何もかも呑み込んでいてくれるようだった。振り向くと彼は何とも言えない穏やかな表情を浮かべていた。
「別に躯を売っている訳じゃなし。君は君の生き方を誇ればいい。」
だから
「ありがとう。」
俺はいつになく素直な気持ちでそう言った。滲む目を隠しながら。
俺はソファで寝ている二人に毛布をかけた。それから小さな扉を目一杯開いて朝の空気を入れる。
こんな場所でも朝になると朝の匂いがするから不思議だった。
Left Alone つづく