第三十九話 Pain
彼の進もうとしている間違った道を引き返して欲しい、そう言いかけたその時、丸まっていた背中が不意に振り向き、
「辛い。」
と言った。震える唇が、
「辛い。」
と。
「勇利が泣くのが辛い」
と。それは初めて見る兄貴の弱い部分だった。強くてたくましいと信じていたその人が、かすれた声で私を呼んだ。
「勇利、お願いだから泣かないで。」
突然、その言葉がまっすぐに心に落ちて行く。この人は本当に辛いのだ。私の為に心が弱くなってしまい、辛いのだ。私が隠しているはずの気持ちをこの人にだけは吐露してしまう様に、この人はそんな私の全てを飲み込んでくれていたんだ。だから、辛いんだ。
どこにこんなに水が有ったのかと思えるほど涙が湧き上がる。この涙は兄貴の為だと思う。兄貴が辛いのが辛い。
私も兄貴の感情を飲み込み、二人はまるで一つの人間の様だった。その胸に手を伸ばそうと動きかけた瞬間彼の体が降りてきて、まるで宝物の様に包み込まれ、
「なぁ、頼むよ。俺だって、俺だって幸せになりたいんだ。」
その感情の波に飲まれた。私は兄貴の一番柔らかくて傷つきやすい内側に守られていた。この世でたった一つ信じられるもの。それが、この人だ。
不意に
“絵里子さんも納得してくれた。”
たった今兄貴が言ったその一言が心に浮かび上がってきて、全ての謎が解けたようだった。簡単な話しだ。母さんだ。
以前から母さんが兄貴を警戒していた事ぐらい知っていた。それにあの時受けた検査がレイプ検査だってことぐらい気づいてた。痕跡だって残っていたはずだ。それを聞かされた母さんは必死で私を守ろうとしたに違いない。たとえ私が合意の上だって言ったとしても兄貴はずっと年上で。怪我の上に避妊していないと分かったら騙されていると思ったとしてもおかしくなかったから。
きっとあの時母さんは兄貴を私に近づけない方がいいと考えたんだ。だから電話番号も教え無かった。それなら兄貴から連絡が無かった事も納得できる。全てのつじつまが合っていた。私から連絡がない事で兄貴は家まで会いに来たに違いない。そこで母さんと会って話しをしたんだ。そしてその時、母さんは彼が二度と私に近づかけないように釘を刺したんだ。
“本当に愛しているというのなら、身を引くべきだ。”
そんな感じで。だから兄貴は私から離れる以外なかったんだと思う。優しい人だから。
「愛している。愛しているから、一緒になりたい。俺だって、幸せになりたいんだ。」
彼の声がこだました。
そう、この人は私を愛していたから、二度と会えなくなったのだ。 私はほんの少し笑った。先を越されて負けてしまった気がする。私の方がもっと、もっと愛しているのに。私もあなたを愛している。私だって、あなたじゃ無いと幸せになれない。
この完璧なひとが、私の肩で泣いていた。
その晩彼は目を腫らした私を
“初めてのデート”
に誘ってくれた。本当にこれは
“初めて”
だった。記憶が有って、歳月が有って。温め続けたものが有ると言うのに、私たちはまだ告白もしていない恋人同士みたいだった。
笹川さんが着物の代わりに手配してくれていたラベンダーブルーのワンピースに着替え、私たちは歩いて少しの観覧車に向かった。空を漂う15分の間、私たちは何も言葉を発しなかった。そのくせてっぺんでは触れるだけの優しいキスをくれた。
並んで歩き、兄貴はただ微笑んで私の指を弄ぶだけ。時々もっと近づきたそうな素振りを見せては止め、体を引いては恥ずかしそうに目を伏せた。
レストランは週末という事も有ってどこもかしこも込んでいて入れそうにない。私は食欲が無かったけれど、兄貴が、
「仕方が無いから、今日は部屋で食べよう。」
と頼んでくれたルームサービスは思いのほか美味しかった。この人といるからだ。私は彼の差し出すお茶を受け取りながらそう思った。
食事の後、兄貴はお風呂にお湯を溜め私に入るように勧めた。今晩は帰らない手はずになっている事を感じ、無性に甘えたくって、考える事を放棄して湯船につかった。シンクの横には着替えにとパジャマの用意までされていた。
妙に疲れを感じベッドについた私を、彼は布団ごしに撫でるように優しく叩いた。それは私が眠りにつくまで続いた。降り注ぐそれはまるで慈雨のようだった。
明け方、私は隣で眠る彼に手を伸ばしていた。懐かしい香り、懐かしい感触。たった一度の事なのに、その何もかもを鮮明に覚えている。だからその胸に顔を埋めその全てを確かめた。
「兄貴・・・・。」
思わず漏れてしまった呟きに、薄目を開けた彼が囁いた。
「はじめ。」
なんだかおかしかった。私は笑いを噛み締めながら、彼の名前を呼んだ。
「肇、肇。」
言葉が転がるように飛び出した。
「他の事なんか、どうでもいい。」
恨みも、苦しみも、悲しみも。兄貴以外の事なら全部捨てられるから。私は彼のパジャマの下に手を添わし、ぬくもりを感じた。
「他の事なんてどうでもいいから。」
それから彼の躯にしっかりと自分を巻き付けた。たった一つ。兄貴だけが欲しい。彼は私の目を覗き込み
「お帰り。」
を言った。
『ただいま。』
その言葉を言いたかったけど、言葉にできなくて、そのまましがみつく手に力を込めた。
彼は何も聞かずに私の中に小さなビックバンを残した。
私はその原始的な感覚に酔いしれた。この人を思う時に感じる恋の痛みとも少し違う、胸元に向かって昇って来る歓びに、自分が女だと強く感じた。
自宅に帰ると、母さんと父さん、それからガキども二人が待っていて。兄貴は私よりも少し前を進みまるで盾になろうとしているかのように振る舞った。一通り挨拶が終わった後、それまで神妙にしていた弟達はやいのやいのと騒ぎ始め、どこで覚えてきたのか耳を塞ぎたくなる様な露骨な質問にみんな慌てた。
「仕方ないなぁ、こいつら、黙らせてきます。」
私は二人の首根っこを掴み、玄関に向かった。
「ケーキ、買ってこよう、な。」
それから弟達に耳打ちした。
「父さんが一緒だったら、たくさん買ってもらえるかもなぁ。こういう時の父さんは太っ腹だから。」
お決まりのように弟達は狭い家の中で
「父ちゃん!!!」
を連呼し始め、広川さんが慌てて飛んできた。
「ねぇ父さん、一緒にケーキ買いに行こうよ、ね。」
私はとっておきの笑顔を取り出した。広川さんは女の子が欲しかったらしいく、その分私に甘い。
ほんの少しだけ、母さんと兄貴に時間をあげたかった。あの二人が密約を交わす時間を。6年前、何を話し合ったかは知らないけれど、多分二人とも私に知られたくないと思っている事だ。だからそれを隠すお手伝いをする。
過ぎた事をとやかく言う気はなく、もちろん誰も責める気なんかない。兄貴も母さんも私の事を想っていたからした事だって分かっているから。
「姉ちゃん、でっかいケーキがいい!」
「でっかいケーキ!」
ガキどもがショーケースに向かって叫ぶ。
「じゃあ一番大きいのをお願いしようか。」
父さんは迷わずそれを指差した。
「優里はチョコレートが大好きだったよな?ちょうど良いんじゃないか?」
私は28cmというあり得ない大きさのケーキに目を見張っていた。
「これ、本当に食べれんのかなぁ。」
疑う私にお店の人が苦笑いをしていた。
「だいじょ〜ぶ♪だいじょう〜ぶ♪」
その拍手のついたコーラスに他のお客さん達が笑っている。
「ご家族、仲がいいんですね。」
白髪のおばあちゃんが声をかけて来た。
「ええ、そうなんですよ。」
父さんが胸を張った。
「とっても仲がいいんですよ。それにね、娘の結婚が決まりましてね。」
そう言って私の方を少し見た。
「もう一人、家族が増えるんです。」
その横ではきらきらと目を輝かせた弟達が期待に胸を膨らませ私を見上げていた。
帰った私に兄貴は
「ありがとう。」
と小さな声で囁いた。
私にはその理由が分った。
みんなでケーキを分けて食べる。みんなで分ける。独りじゃない。みんなで分ける。
「そっちがでかい!」
「じゃんけんだ!」
「姉ちゃんは太るから小さいのだよね!」
そのちゃぶ台の下で、笑っている彼の手が私の手をそっと包み、独りじゃないと教えてくれた。
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