第三十七話 紙一重
「ご、ご無沙汰しています。」
彼を正面から見る事ができず、どう反応していいのか分からなくってとっさに頭を垂れた。兄貴のため息の様な深呼吸と、沈黙。それが何を意味しているのかなんて分かりはしない。ただ、彼が躊躇わず一直線に私の所まで進んで来た事が怖かった。どうして私の事を見つけたりしたんだろう。どうして気づかなかったフリをしてくれなかったんだろう。どうして声なんかかけて来たんだろう。どうして・・・・。今更何だと言うのだ。古い知り合いですって顔で過去を忘れ挨拶でもしたいのか?そんな思いがぐるぐる回り、話す言葉が見つからず立ち尽くしていた。逃げ出せるのなら逃げ出したい。振り向いてしまった自分の馬鹿さ加減を罵った。先を急ぎ行かなければいけないって思ってもらえる口実を必死に探す私に
「ずいぶん綺麗になった。」
彼の言葉は表面だけで滑っていった。
「あれから元気にしていたかい?」
それは私たちの間には何も無かった様な落ち着いた口調だった。独りで苦しんでいた自分が限りなく馬鹿に思えた。
「はい。おかげさまで。」
愚にもつかない社交辞令。
“おかげさま”
なんて無いのに。
「“僕はまだ未熟だ。”彼はそう言ったの。」
母さんの言葉を思い出した。
じりじりと顔の怪我が治るのを待ちながら、会いたくて、会いたくて、でも会いたいと言い出す勇気がなくて、悶々と彼からの電話を待ち続けたあの日々を。捨てられたかもしれない、捨てられたかもしれない。捨てられたんだ。秒単位で悩んでいたあの切り刻まれていく様な時間の流れを。のど元を過ぎると熱さを忘れるというけれど、そんなの嘘だ。込み上がって来る気持ちは現実で、胃の周りがギュッて締め付けられて、目の前が白くなりそうだった。
そのくせ
「それならばよかった。」
彼の声は軽かった。そのはずが。再び訪れた沈黙は重く、錘を足につけ水の底へと引きずり込まれていく気分だった。もうここにいたくない。逃げようとする私を兄貴の一言が止めた。
「話しがしたいんだが。」
それは誘いと言うより懇願のように聞こえた。でも私は首を振っていた。時間が癒してくれない傷もある。私のそれは乗り越えたかの様に見え、ぱっくり口を開けていた。誰が好き好んで塩をすり込むと言うのだろう。
「どうして?せっかく会えたのに?」
私は二度と会いたくなかった。あの時の事を謝ろうとしているならむしろ聞きたくなんか無い。
「結婚しますから。」
もし母さんに言った言葉の本当の意味が
“責任をとるにはまだ未熟だ”
だったとしても、今更蒸し返して欲しくなかった。
「こんな私でもいいって言ってくれる人がいるんです。そのお話で今日ここに来ました。ですから、もう、あなたとはお会いする気はないんです。」
慇懃で無礼で冷たく言い放った。自分の声が自分の声じゃないみたいに響く。微かに身体を硬くした兄貴の横をすり抜け行き過ぎようとした私の腕を強い手がつかんだ。
「待って。」
その悲痛な声に涙が出そうだった。間近で見上げるすぐ目の前にはこの6年間毎晩のように夢見た顔が有った。
独りにして!
心が暴れた。兄貴といると壊れそうになる。本当は今でも好きで好きで忘れられないのだから。愛しているからこそ、どうして捨てたのかとなじりたくなる。
あの時私を抱いた直後、一生待つと、私が基ときっちり別れるまでいつまでも待つと言ったその唇が恨めしい。この人は信じられる人だって、今でも信じている自分がいて。違うと言い聞かせながら、それでも無垢な子供の様に信じてしまう自分が哀れだった。だから許せと言われても許せない。愛と憎しみは表裏一体だ。逃げる覚悟の私を
「行かせない。」
凍り付いた表情の兄貴が抱きしめた。その力は強かった。
ただでさえ気分が悪かった。その上、兄貴に会ってショックだった。胸元から何かがせり上がり、足下がふらつく。嘘をつかれるのはもう嫌だ。
どこかで聞き覚えの有る声が
「早く部屋へ。」
そう言った。私は倒れかけたらしい。意識はすぐに戻ったけれど、なんだか訳が分からないうちに兄貴に抱えられ部屋まで戻った。不思議な事にこんな時だって言うのに兄貴の香りを覚えていて、少し汗ばんだその匂いのあまりの生々しさに、これは現実じゃないかもしれない、そんな風に思えてしまった。そう、これはあの春の日の続きかもしれない。本当の私は保健室で寝ていて、短い時間で堕ち込んでしまう悪い夢の中にいるんだ。
それを引き戻したのは
「もう、我慢し過ぎなの、優里ちゃんは。」
そう言う心配そうな声だった。とっさに
「大丈夫です。」
返事をすると、
「だから!!」
笹川さんが顔を歪めたのが見え
「もう、無理するのはやめなさい。」
その声は諭す様に聞こえた。
Left Alone つづく