第三十四話 前進
その帰り道、決心を固めた私は6年間一度も押した事のない携帯番号を押していた。彼が出るなんて期待はしていない。それどころか、他の人が持ち主になっていて迷惑をかける事だけは避けたくて。そのくせ1度だけ、どうしても押してみたい番号だった。だからオンフックを押した直後、私は早口で言いきった。
「兄貴の事、今でも好きです。きっと、一生好き。でももう諦めます。他の人と一緒になります。」
呼び出し音が続き、言い終わったはずなのに切る事が出来ず。電話の向こうで人が出る気配に慌てて携帯を閉めていた。
「馬鹿みたい。」
でもそれは、私なりの前進のつもりだった。
その晩お父さんは深夜勤だった。母さんは交番勤務の広川さんと4年前に再婚したのだ。
あの頃母さんが仕事を変えてから二人で話しをする事も多くなって。その時、昔父ちゃんの死を知らせにきた広川さんの話しになった。実はあれからもずっと面倒を見てくれていたのだと。母さんが仕事で遅くなる時には彼がいる交番で時間をつぶしていた事なんかを話すととても驚いて、ぜひ礼を言いたいと言った。それが縁だった。広川さんは6年前に奥さんを亡くし、男独りで小さい子供二人を育てていたのだった。
今では5人の家族で広川さんの家にひしめき合って暮らしている。そこは古いながらも庭付きで。母さんはガーデニングと称し家庭菜園を広げ、最近はパッチワークにはまっている。それからガキどもが毎晩の様におかず争いを繰り広げ、朝飯の為に早起きをしていた。
そんな二人が寝付いた22時、私はお風呂に入って落ち着いた後母さんに言った。
「笹川さんの話し、受けようかと思うけど、どう思う?」
彼女はこたつ越しに身を乗り出し私の手をしっかりと握り何も言わずに頷いた。
母さんの反応を見て自分の選択が間違いじゃないって思った。そう、これがいい。そう思う。
広川さんと再婚してからの母さんはよく
“女の幸せは結婚だ。”
と言うようになった。二人きりでくつろぎながらお茶を飲みながら過ごしている、そんな夜は特に。
「私じゃ無理だって。」
多分湯呑みから立ち上がる湯気のせいで左頬の傷が浮き上がっているに違いないと意識しながら私は答える。
すると時母さんは決まって瞳を逸らす。私もうつむく。母さんが心配してくれているってのはよくわかっている。
「これでもいいって人がいたら、そのとき考えるよ。」
実のところ母さんが思うほどこの傷は悪さをしていなかった。でも彼女にはそう思っていてもらった方が便利だった。恋人なんていらないから。
専門学校に通い始めの頃、確かにこの傷に負い目は有った。誤摩化す為に慣れない化粧をしたほどだ。でも次第に人の目も気にならなくなり、ノーメイクでコンパに出るほど図太くなった。そう、意外なほど傷を気にしない男の人も多いのだ。何しろ、絵里子さんの娘だ。素は良い。
今時カレカノがいないのは不自然な事なんだろう。その気は無くてもとりあえず付き合ってみて少しづつ好きになってくれれば良いと言われ、そんな何人かと付き合った事も有った。早く兄貴の事を忘れたかった。センスのいい男もいれば、話しの上手な男もいた。キスの上手い男も。でも、駄目だった。男の仕草一つ一つに兄貴を思い出し、抱きしめられるたびにこの人じゃないと心が軋み、それ以上の関係に進む事が出来なかった。
相手が私を好きだと言えば言うほど罪悪感を覚え、こんなにいい人なのに愛し返せない自分が嫌になった。
「僕の名前は、元晴。はじめじゃない。」
最後に付き合った人の言葉が心に残る。
その彼はボクシング部の後輩だった。ほとんどの連中とは縁が切れていたが、菊池とは部の相談事で連絡を取る事が多く、大学に進みアマチュアボクサーをしている彼の応援にだけは行っていた。その彼が一つ階級を上げてチャレンジをしたときの事だ。
「初戦勝ったらつき合ってください!!先輩!!」
大勢のギャラリーの中で叫ばれたから期待に応えてやった。
「1R KOで勝ってこい!!」
でそのとおりになった。
「済みませんねぇ、先輩。僕とつき合う事になっちゃって。」
周りがちゃかすものだから、自然に断れない雰囲気になって、だらだらとおつきあいを始めた。
彼は気さくで、面白く、何より性格が合った。
でも始まりがそんなんだから、別れ際に軽くキスをするだけのプラトニックな付き合いが半年も続いた。その彼がある時真顔で
「誕生日に欲しいものが有る。」
と言った。
夜景の綺麗なホテルにチェックインし、おどおどする私の手を引いてバーまで連れて行かされ
「こういうとこ、緊張する・・・・。」
「あなたのそう言う所が好きなんです。」
菊池はおかしそうに笑うと高過ぎるスツールに腰掛ける私を支えてくれた。
そしてもういい加減踏み出そうと思い進んだ関係の先に兄貴がいた。
その最中に瞳を閉じながら兄貴の名前を呼んでいた。
今まで上手くやって来れたんだから何とかなると思ってたのに・・・・。
ショックだった。
ご免なさいを呟きながら私は泣きじゃくっていた。
菊池の腕の中にいながら思い描いたのは兄貴以外の何者でもなく、あの腕のぬくもりや肌の匂いは色鮮やかに私の中に生きていた。
そしてその時の私は、あろう事か泣く事であの人の事を思い出そうとさえしていた。
「昔の人だから。もう、忘れたい人だから。」
忘れなければいけないから。強引でもいいから他の男に抱いて欲しかった。自分を塗り替えて欲しかった。
菊池はそんな私をシーツごと包み、服を着る様に言った。
「忘れられない人がいるって事、知ってた。」
その言い方は嫌になるほどあの人に口調に似ていた。
「忘れさせてみせるって思っていたけど、駄目だったね。でも、なんだか諦めがつきました。良いんですよ、その人の事、忘れない方が良い。その人はあなたにとって本当に大切な人なんだから。むしろ忘れるべきじゃないんだ。」
彼の背中越し、コンドームをまとめる、パチンって音が今でも心に残っている。
もう恋なんてできないと思った。
その気持ちは今でも変わらない。
後で聞いた話だけれども、母さんと父さんは見合い結婚だったらしい。
「初めて会った時、こんながさつな人は勘弁って、本気で思ったのよ。」
母さんは昔を笑った。
「でもあの人、しつこくってね。負けちゃったのよ。」
俺の記憶の中の父さんと母さんはいつも笑っていて、本当に幸せだった・・・・・。
だからそう言う選択も有るんだって初めて思えた。愛せなければいけない、なんて事は考えなくて。
期待とか希望ではなく、何も無いまっさらな所から作る関係が。
Left Alone つづく
電話の向こう?そりゃ、兄貴がいたんですよ♪