第三十三話 分岐点
そんな彼の姿を、あの頃に憧れていたはずの未来の自分の姿だと思った。いつかきっとなれる、思慮深くて人を思いやれる人間。そうなれた基を羨ましいと思うと同時に、自分の現実を直視させられた気がした。私はあの頃から百々巡り(どうどうめぐり)で変化が無く。心のどこかで基と兄貴を恨み続け。その感情を醜いと思いながらも消せずにいた。だからこそ、謝るのは本当は自分なんだって、反省しなければいけないのはこっちだって突きつけられた気がした。
「相変わらず、基は阿呆だなあ。」
目頭が熱くなるから、それをぐっと堪えた。
始めようとしなければ始まらない関係だった事を彼は知らない。それを許したのはむしろ私。私は間違いを覚悟で道を進んだ。その事を彼は知らない。
一年生の寺島亜由美ちゃんが私に声を掛けてきたのは私たちが二年の11月を少し過ぎた頃だったと思う。
彼女は基を好きだと言った。私に基に釣り合わない、だから別れて欲しいと。
こういう女の子は以前から多かった。がさつな男女で、成績も下から数えた方が早い母子家庭の奨学生は遠慮しろと面と向かっていってくる子もいたほどに。
私達は別に付き合っている訳じゃないから好きにしろと言うと、
「じゃあ、私、告白しますから!!」
ほとんどの子がそう言って食い下がった。その後の事なんか興味が無かった。
でも、その子は違った。
「付き合っていないのに寝るんだ。凄い。えちとも?」
私は肩をすくめただけだった。なんとでも言えばいい。どうして知っているのかなんて聞き返す義理も無い。見た目の彼女はいわゆる高校生らしくて可愛い女の子。男子に人気がないとは到底思えなかった。グロスは透明、マスカラは控えめ。キメの細かい肌にピンクのほっぺ。すんなりと伸びた足とペニーローファー。基の隣に腕を組んで歩く彼女を想像し、何となくそれも悪く無い気がした。派手じゃない所が彼に気にいられる確率大だった。
彼女は基がごく普通に男の性欲を持っている事を知っている。
私は
“ダッチワイフ、お役御免”
悪くない。
その時の私は笑っていたんだと思う。唖然とする彼女にこう勧めた。
「自分は今の所“女房”だけど、君には“愛人”の選択も有るよね。」
と。
「本妻お墨付き、なんてどう?基がその気になれば入れ替わるなんて簡単だろ?その為にさボクシング部の女子マネにならない?そこで自然に落としてみたら?その方が可能性上がるんじゃない?俺は止めないよ。」
彼女は真っ赤になって、受けて立つと言った。
その後彼女は入部し、雑用を真面目にこなしながら少しづつ基との距離を詰めていった。それでも彼が私を抱く事には変わらず、彼女がイライラしているのは明らかだった。
だからその背中をそっと押した。
「ま、みんなの前で告くるくらいしてみれば。」
12月30日。恒例の初詣の集合時間が連絡網でまわったその日の事だ。気の強い彼女なら私の前で告白すると思った。私が嫉妬で見苦しいマネをしても後の祭りだと。
案の定彼女は初詣の帰り際、基と仲のいい部員が残っているその場で告白した。もちろん私もいる。
基は
“えっ”
て顔をして一瞬私の方を見た。というか、見た気がする。彼女が告白を始める素振りを見せた時、私はさりげなく幸治の隣に行き新年の練習会の話しを始めていた。そして彼女の告白にさもびっくりした顔を見せ、幸治と顔を見合わせた。いかにも基本人には興味が無いとでも言うように。それからみんなと一緒に冷やかした。
彼は一度視線を落とし、ご自慢のえくぼを作り、その場で彼女にOKの返事をした。
みんなで基の肩を叩いた。もちろん私も。それから二人を残して帰った。
お似合いの二人は上手くいくはずだった。そのはずが彼はなんだか日増しに疲れていくようだった。挙げ句に
“女ってどうしてあんなに面倒なんだよ”
と愚痴までこぼし始めてしまった。
「何贅沢言ってやがる。亜由美ちゃん取られて地団駄踏んでる男がどれだけいると思ってんだ。仮にも“彼女”なんだから手間暇かけて可愛がったげなきゃ。」
すると彼は
「ボクシングする時間が削られても平気なのかよ。」
と恨めしそうに呟いた。私はしれっと言ってやった。
「基なら大丈夫、タフだから。それよりなんだよ“手間ひまかけるほどの価値のない女”が好きなのか?このぐうたらめ。」
二人きりの部室で笑い飛ばしてやった。
後で考えるとそれは辻褄が合わなかった。私は基に
“もっと可愛がって欲しかった”
と言っていたとも取れる訳だ。あの時の私達の関係を
“血の通わない人形”
と定義していたのは私自身だったはずなのに。
それでも基が本来の切れを無くしている事は気がかりだった。
私は昼休みに亜由美ちゃんを呼び出し少しクレームをつけた。基のペースが落ちていると。
正直、彼女は女子マネとしてかなりがんばっていたと思う。自分の頭を使う訳ではないつまらない雑用もきちんと手を抜かずにやっていたし、基とつき合っているからと言って部活中にそれを持ち込む事はほとんどなかった。だからむしろ私の中の彼女の評価は高かったのだ。
それでも
「本妻としてはそこんとこ、気になる訳よ。」
彼には全国で活躍してもらうつもりだったから。
彼女は私を睨んだきり何も言わなかった。風の強い日で彼女の長い髪が宙を舞っていた。
そんな3月のある日、彼女は突然マネージャーを辞めた。
誰にも何も言わず。
暗黙の了解で基と彼女が別れたらしいとみんなが知っていた。
彼は悩んでいた。私は手を出貸すべきじゃない、もう手を離れた事だ。そう分っていたからその問題には触れず、以前の様に馬鹿話をしながら一緒に下校した。
部の休みだったその日、久々に夕焼け空を見ていた。いつになく茜色が空一面に広がっていて、その時基が言った。
「やっぱ俺、ボクシングに集中している方がいいわ。」
何を言いたいのかピンと来た。だからすぐに断ろうと思った。もう十分義理は果たしたはずだと。それなのに私は、
「そうだな。」
と言って額面通りに受け取った様に見せかけ誤摩化した。それから後は二人黙りこくって分岐になる基の自宅まで歩いた。彼は立ち止まり
「誰にも負けたくない。勝ちたいんだ。」
別れ際の玄関でそう言った。射抜く様な眼差し。殺し文句だ。その事を二人とも知っていた。基は私を落とすつもりで矢を放ち、私は逃げればいいものをただ呆然とその言葉を胸に受けた。
彼は立ち尽くす私の手を引いた。
私の心の中に基からボクシングを奪うモノに対する嫉妬が有った。その事はよくわかっている。だからこそ
“彼にボクシングを続けさせる事ができるのならば・・・・”
誰かが心の中で囁いた。
“今までだってやって来た事。引き換えにするのは容易い”
それが悪魔だったと気づいたのは、基の部屋で後ろから抱きしめられた時だった。
窓から空を眺めているとゆっくりカーテンが閉められて。彼は私の首筋に唇を這わせ言葉にならない何かを呟きながら、以前より長く服を着たまま寄り添っていた。
もう逃げ出せなかった。
息を詰めるようにジーンズが降ろされ、しゃがみ込みながら尻から膝の裏、くるぶしへと口づけが落とされていく。背中からまわった手が俺の眼下でシャツのボタンを外していき、ブラの外れた胸元をそっと包んだ。
基はため息をついた。
私は基自信すら気づいていない彼の想いをひしひしと感じとっていた。
“悪魔の囁き”
それは分岐点だ。私はその選択を間違えた。もし彼を本当に大事に思うなら、それは決して受け取ってはいけない気持ちだったのだ。
私に応えなければいかなくなった基は、恐ろしいほどのペースで自分を取り戻し、あのスランプが嘘のようだった。
でも契約はそれだけじゃ終わらないって本当は分かっていた。
今回は私自身、確信犯だった。二人で傷付く道を選んだ。
「どちらか一方が悪いなんて関係じゃなかったはずだ。お前だけじゃない。私だって悪かった事、知っているだろ。私の方こそ謝んなきゃいけないくらいなのに。」
この6年間抱え続けた謝罪の言葉だった。あの頃の私たちは幼く、未成熟で、目の前にある事しか見えずにいた。でも今ならよくわかる。責任はフィフティフィフティ。
「知らなかっただろうけど、私は基が傷付く事知っていて関係を持ったんだよ。お前、いいヤツだから割り切れなくなるだろうなって。それでもインターハイに行って欲しくって焚き付けてたんだから、今思えばこっちの方がひどいヤツだよ。」
彼の人の善さにつけ込んだのはこの私。ひたすらに真っすぐな基を知っていて、彼が壊れる予感から目を逸らしたのだから。
「基に会えて良かった。このままだとずっと罪の意識持ったまま生き続けていくとこだった。基に悪い事したって。基にしこりを残させて、嫌な思い出ばかり作ってしまって。今さ、本当にいい男になった基見て、感動してる。基も幸せそうで良かった。」
私は初めて基の前で涙をみせてしまった。
あの人以外の事で泣く事があるなんて。この6年間、考えた事が無かった。
「会いにきてくれて、ありがとう。」
涙を隠す事も忘れ、彼の大きくてしっかりとした手を握りしめていた。
またいつか会えたらいい、そう私たちは微笑んだ。
彼は別れ際紙袋に入った小箱を取り出し
「3年間のお礼。」
そう言ってえくぼを見せた。
「勇利は甘いもの嫌いだって覚えてるけど、たまにはいいだろ?ここのチョコ、凄く美味いんだぜ。騙されたと思って食べてくれ。」
緑のラッピングの上には、はなかなか口にする事が出来ない有名ブランドのロゴが入っていて
「うわっ、金持ち。」
私は少し驚いた。あの頃の私は彼の前で甘い物を口にした覚えがほとんど無い。それは選手だけが減量していてトレーナーの私が好き放題していたらフェアじゃないって思っていたからだった。彼はその事を私が甘いものが嫌いなんだと誤解していて、そう言う物を勧められ困っている私の代わりに断りを入れてくれさえしたものだった。それなのに今の彼は
「チャレンジしてみなよ。以外と好きになるかもよ。」
そう言って箱を差し出す。人は“変化する”と言う事を言いたいに違いない、そう思った。
「美味そう。」
受け取ったその箱は以外と重さが有り、手の中にずっしりと響いた。
「ガキどもと一緒に頂くわ。御馳走さん。」
「うわっ、それ子供に食わせんのかよ。もったいねぇー。」
彼はあきれた様に笑い、
「じゃぁな。」
と手を振った。
酔いも冷めつつある中、独り歩きながら空を仰いだ。星の見えない濁った空。それでもどこか懐かしい。
基は過去にケリをつけにきた。それが出来た彼を羨ましいと思うと同時に、言葉の端に見え隠れしていた女性の姿に安堵した。心の奥では、今でも彼は私にとってとても大切な友人で。そんな彼の幸せを無条件に喜べる自分が嬉しかった。
基があの人の話しをあえてしなかった事にも気づいていた。何しろ兄弟だから、全くの音信不通とまではかないだろう。だからそれはきっと、私に対するある種のいたわりなんだろうと言う事はうすうす感じた。多分、あの人はあの人で幸せになっているのだ。
それ故に、彼は自分の気持ちの整理と一緒に、私の背中を押してくれたんだと思う。彼の勇気に感謝したい。心からそう思う。だからその一歩を、踏み出そう。
Left Alone つづく
基に誤解されている事をすっかり忘れているお馬鹿さんゆうりでした。
それも、分岐点です。




