第三十二話 呼び名
あの春から6年が経つなんて。それは長い様で短かった。時間が経つって事はこういう事なんだと思う。あれほど辛くって、本当に明日が来るのかなって思えるほど苦しんでいた毎日が、振り返ってみれば過去になっている。そしてあの思い出は少しづつ自分の傍から遠ざかり、いつしか実際に有った事とは思えないほどになっていた。過去は過去だった。
何しろ今の私は毎日を平凡に暮らしている。あれから普通に学校に行き、卒業し、普通に就職して。職場と自宅を往復しながら時々ジムとスーパーに寄って帰る単調で変化の無い暮らし。
ボクシングに対する情熱は冷めたとまではいかないにしろ、今では惰性を帯びつつあり、社会的に孤立してしまいそうな自分をなんとか奮い立たせ外の世界に目を向けさせている、そんな部分が大きかった。
そんな私の気持ちとは裏腹に目の前の男は始終笑っていた。もともと根が明るく、炭酸飲料水みたいな性格で。でも、24と言う歳になってもへらへらしているその姿はむしろ気味が悪く、彼が緊張している事を暗示していた。しばらく天気や行政といった当たりさわりの無い話しで時間を過ごした後、彼は思い出した様に
「そうそう、俺、こういうものです。」
ごそごそと内ポケットに手を突っ込むと、クリームがかった名刺を差し出した。
“ 特許部 特許二課 主任 弁理士 木下 基 ”
両手でそれを受け取り、指先で上質紙の滑らかさを感じ彼のステイタスの高さに気がついた。きっと彼の
“ 主任 ”
と言う肩書きは実質、そうなのだ。
それから彼は弁理士と言う聞き慣れない職種について教えてくれた。
「こう見えてもスペシャリストだぜ。」
基が噛み砕いて話してくれているはずの専門用語のほとんどは理解できず、仕事柄ワイドショーネタにばかり詳しくなった私との生活の違いを見せつけられているようだった。それはアレから二人が歩んで来たはずの道のりそのものなのだろう。私は流され、彼は努力を。物事は結果が全てだ。
「出世株?」
からかうと
「そりゃもう。」
と笑いながら2杯目のビールを口にする。その口元が瞬間素に戻るのを目の端がとらえていた。蛍光灯の明かりの下、名刺から浮かび上がる金色のエンブレムが眩しかった。目の前の基はもう高校生ではない。あの頃の兄貴と同じ、立派な大人だった。
そのくせここまで来ておいて別の話しではぐらかし、肝心な事は何も話しださない基。テーブルの上の焼き鳥は冷め、ジョッキが再び空になろうとしている。私も駄目な人間だけど、こいつもそうだ。私はなんだかおかしくなった。彼は彼なりに勇気を出してここまで来たはずなのに。数年前にやって来た畠山もこんな風にふらりと現れた事を思いす。もっともあいつの場合、あの頃の事を謝り、今の彼女を大切にしたいと、言いたい事だけ言って去ってしまったけれど。
笑ってうつむいてしまった私に彼が不信そうに首をかしげる。いいよ、もう。私から切りだすから。
「名前を替えたんだ。」
見つめている基に自分の名刺を渡した。彼は驚かず
「知ってる。」
と目を落とした。それから受け取ったその長方形の紙をしげしげと眺め、戸惑う様な、困ったような、それでいてほっとした様な表情を浮かべていた。多分、畠山から話しは聞いていたって事は想像がついた。彼と会った時、名字が変わる事を話していたから。
でも、私は基に名前が変わったと言ったのではない。替えたと言ったのだ。その事に彼は気づかない。基に認めてもらうまでは『ソープランド山口屋』なんて、ふざけながら貶めていた
“山口遊里”
の名前は
“広川優里”
になっていた。
高校時代、どうしても戸籍上の名前を書かなければいけない書類に本名を書いていると基は名前を変えろと言ってきたものだ。
「俺の女房が“遊里”じゃなぁ。いくら親父が付けてくれた名前でも“色里”なんて、さすがにNGだろ。今さ、こういう名前のトラブルって多いから、簡単に改正できるんだぜ。」
軽い口調で話してはいるものの、目は真剣で。その後彼は必要手続きについて色々と資料を探してくれたのだった。
「将来の為に目だけ通しとけ。なんなら俺がお前に名前つけてやるから。」
それから私以上に気合いを入れて勝負運を示す漢字をいろいろと調べてくれたりもした。
あの頃の彼は頼もしい友人だった。
その彼は、
「広川さんかぁ。」
まるで老眼かの様に名刺を近づけたり離したりしながらしげしげとそれを見ていた。それからひょいと裏返し、英語の表記に少し驚いた様に片眉を吊り上げる仕草。それをほんの少し優越感を感じながら眺めていた。今更だけど、少しぐらい見栄を張りたい気持ちがそこには有った。
「国際的だろう?勤め先の母体がグローバルな会社で、柔道とマラソンの日本代表組織委員会と契約していてさ。会社方針なんだ。」
私だってきちんと生活をしているのだと。
「そうか。お前も頑張ってんなぁ。アドバイザーかぁ。」
でもその表記がただの肩書き職だなんて恥ずかしくて言えなかった。
彼はそっと微笑んで名刺入れにそれを仕舞った。それから一息、小さなため息をつくと
「広川さん、かぁ。」
とほんの少しえくぼを見せながら眉をしかめ、
「もっといい名前、有っただろうに。」
そんな言葉が漏れた気がした。その意味が辛くて
「木下とか?」
そう切り返しそうになり、口の中で何かをゴニョゴニョと呟いていて。
「ゴメン、忘れて。」
二人同時に同じ言葉を言っていた。
時間が経った。そう言いながら、未だ乗り越えられない事があるって。彼の目を見る事が出来ずうつむいた。
それでも、彼の言葉に責める音色はみじんも無く、
『いい名前』
が兄貴の名前だって、直感的に分かった。基があの状況を受け入れていて、今の彼は私と兄貴が上手くいって欲しかった、そう思っている事を感じ、何だか頭が痺れている気がした。
もしまた会う事が有ったら、謝ろう。以前に何度か思っていた事が有る。その考えが心の中を浮き沈みしていた。
どれだけそうやっていただろう。ふと我に返り、ああって。
姓もそうだけど、名前を変えたんだよ、基。その事をじわりと実感し、彼にとって私は過去の人間なのだと気がついた。その事を寂しく思うと同時に心の重荷がとれた気がした。
「あの時は、本気だった。本気で、兄貴の事しか見えてなかった。」
きっとそれが一番の謝罪の言葉になるんじゃないかって思えたから。基はぽんぽんと私の頭を掌で叩いた。それから
「今、幸せか?」
とおずおずと尋ねた。
「ああ。いい家族に恵まれた。」
その時の彼は少し間を置いてから頷いた。
「おめでとう。」
彼が心から祝福してくれようとしている事が解った。悪夢の様な6年前が夢だった、そんな感覚にとらわれそうになる。
「今日はお前に謝りにきたんだ。ああ、来てよかった。」
基は苦しそうに口元をゆがめそのくせ笑った。
「友達がさ、言ったんだよ、勇利に会いに行けって。ただ悩んでいるだけじゃ一生悩み続けるだけだって。でさ、自分と向き合ってカタ付けろって。俺が本当にお前の事を愛していたって言い切れるならできるはずだって。知ったふりしてさ。俺はそいつと話していて気がついたんだ。本当はお前にいくら感謝してもし足りなはずなのに、ずっと自分ばかりが辛いと思って恨んでいたんだって。自分の気持ちを押し付けるだけ押し付けといて、肝心のお前の気持ちは見ないフリして来たんだ。その事に何となく気がついていたけど、認めてしまうのが怖かった。でもさ、この歳になってようやっとその事に向き合えるようになったんだ。許して欲しい。俺のした事。いや、許してもらわなくてもいい。俺が自分のした事が解るようになったと、それだけ、知ってもらえればもう何も望まない。今更言うのもなんだけど、俺たちは誰よりも濃い“青春”って時代を過ごしたんだと思うんだ。」
じんわりと滲んでいる瞳を、私から目を逸らそうとしなかった。
「勇利。」
彼が呼ぶ私の名前はあの頃の新緑の様な輝きを含んでいた。
「幸せになれよ。」
Left Alone つづく
彼女の名字代わってます。でも、どこかで聞いた名前じゃないですか?