第二十八話 “ 絵里子さん ”
彼女が帰ると入れ違いに絵里子さんが部屋にやって来た。
「先生と話しをしてきたの。CTの結果もレントゲンの結果も異常なしですって。でも、今日はこのままベッドの上で安静にしていて様子を見るそうよ。何も無ければ明日には帰れるから。」
彼女は椅子に座らず俺を見下ろした。それからすっと目線を逸らしながら言った。
「お友達の所に連絡しないとね。心配しているんじゃない。」
そうだ、忘れてた。というより、忘れていたかった。もう外は夕焼けで、あれから何時間も立っている。兄貴の怪我が心配だった。そうだ、兄貴の怪我。あれは鼻の奥の血管が切れた時の出血だ。
「電話しなきゃ。」
俺は慌てて携帯を探った。
「駄目でしょう。」
その手を母さんが止めた。
「病院の中は携帯禁止。」
ああ、そうか。忘れていた。
「ちょっと公衆電話行ってくる。」
そんな俺の手を母さんは握った。
「いい、遊里、よく聞いて。」
その声は穏やかだけどとても緊張していて。
「あなたは脳震盪を起こしたの。自分じゃ気付かなかったかもしれないけど、病院に着いても朦朧としていたの。ひどい目に合っているの。あなたはしっかりしているつもりかもしれないけど、本当は違うのよ。」
俺は彼女が何を言いたいのか解る気がした。俺は肩を落とした。
「本当に、何にも・・・・。階段から落ちただけだから。」
必死に言い分けを考えた。絵里子さんが考えている様な事じゃないよ。俺は別にそんな目に有った訳じゃない。強姦された訳じゃない。でも、それを言う事は出来なかった。
「基の家の階段、足滑らせて一番上から落ちで、がんがんがんって、いったから。それで頭ぶったせいで脳しんとう起こしたんだよ、きっと。傷もその時出来たんだし。」
「分かってる。階段から落ちた話しは聞いたから。もう過ぎた事は忘れましょう。そんな事、思い出したくないでしょう。でも、これ以上母さんを心配させないで。言う事聞いて、今は体を休める事だけに集中して。お願いだから。私はあなたの母さんなのよ。」
母さんは握る手に力を込めた。俺は答え様が無くて、その手にしがみついた。
「どうしてもって言うんなら、私から友達に連絡してあげるから。遊里は今ベッドから出ちゃ駄目。いいわね。」
その声は初めて聞く、母さんの泣きそうな声だった。
そう言えば、俺は母さんが泣く姿見るのは今回が初めてだ。父さんが死んだ時でも、俺の記憶の中の母さんは泣いたりはしなかった。
ご免ね、母さん。心配かけて。俺、本当に親不孝だよね。
「母さんの言うとおりにする。おとなしくしてるね。」
そんな俺を母さんは柔らかい目で見つめていた。不思議だなあ。母さんとこうして話すのが久しぶりな気がする。
「何か、飲み物買ってきたげるから。それまで友達の電話番号と、言いたい事、メモしときなさい。」
そう言うと少し鼻をすすり、部屋を出て行った。
母さんが出て行った後こっそり携帯を取り出すと、マナーモードで気づかなかった着信が12件も入っていた。でもその名前は全て基だった。
『 今どこ? 』
『 大丈夫か? 』
『 心配だ。 』
震える声が何度も俺の名を呼ぶ。
『 ゆうり 』
一番小さい音で、布団を被ってこっそりと聞いた。本当は基の声なんか二度と聞きたくなんか無かった。でも、聞かない訳にはいかなかったから。
『 こんなつもりじゃなかった。 』
『 どうすれば良い?どうすれば良い?』
『 付いていけば良かった。俺、心配で死にそうだよ。ゆうり。返事してくれよ。』
『 声、聞かしてくれよ、頼むから。』
『 許してくれ。俺だって・・・苦しいよ。』
『 会って話し、しよう、な?謝るから。今までの事のも、全部。悪かった。俺が悪いってわかってるから。謝らせてくれよ。』
『一度だけでも良い、お願いだから会ってくれ。俺の話しも聞いてくれよ、頼むから。』
『本気だったんだ。本気で愛してるんだよ。お前の事。だからもう傷つけたくなんか無いんだよ。それだけは分かって欲しいんだ。』
彼がいくら泣こうか俺の心には届かない。歯を食いしばり、唇を噛んだ。
俺が悪いって、本当は分かってる。あの状況で基を責めるのは間違ってるって。あいつの気持ち、知ってて。勘違いを放っといてそのままにして来た俺がいけないって。その上、兄貴と寝たのもバレている。きっと。それは俺なりの直感だった。だから基はあれほどまで怒ったんだって。俺が浮気をしたって事だけじゃなくて、あの誠実な兄貴を汚したって。
でも、だからこそ兄貴に当たるのはお門違いだ。
基の兄貴を盗った。仲の良かった兄弟の間を引き裂いた。その罪悪感以上に、兄貴に手を出したヤツを許せなかった。
兄貴の事が心配だった。
俺は入院案内の裏の白紙面を出し何度も繰り返し覚えてしまった番号を書いた。
兄貴の一度もかけた事の無い携帯番号。でも、何を言えばいいんだろう。
“ 今、病院です。たいした事はありません。後で連絡します。心配はいりません。それより兄貴の怪我が心配です。今晩は携帯が繋がりません。明日、また。”
とでも?
あれから二人はどうなったんだろう。不意に体が冷たくなっている事に気がついた。
ああ、取り返しのつかない事をした。
兄貴に会いたい。とにかく会って抱きしめて欲しい。兄貴の無事を確かめたかった。
俺は独りぼっちだ。
どれだけそうして頭を抱えていたんだろう。時間が経っていた。でもまだ母さんは帰らない。兄貴に話したい事がありすぎて、言葉にするのが怖い。
ふと思い出してまだ電源を切っていなかった携帯から基の番号を検索した。
変な話しだ。兄貴の番号はそらで言えるのに基の番号は電話機に覚えさせている。数字を見れば基だと分るけど、自分ではそれを覚えていない。その上今の俺はあいつと直接話す勇気がなく、母さんに別れを言わせようとしていた。番号を書き写し、デリートし、電源を切り、もうこれっきりと呟やく。
“ こちらの心配はいりません。無事です。それよりも新しい生活を頑張ってください。”
そのメモを帰って来た母さんに渡した。
「これが友達。それと、こっちがその兄貴。」
紙には二人の携帯番号以外に書く事が出来なかった。
「俺が階段から落ちた時、兄貴が受け止めようとしてくれたからさ。絵里子さん、知ってるよね。ほら、時々車で俺たちの事を送ってくれたあの人だよ。兄貴はとっても良い人だから、俺の体の事、心配してると思うから。大丈夫って、俺は平気だって伝えてね。兄貴が悪いんじゃないんだから。」
気がついたら、弁解じみた事を言っていた。
その晩絵里子さんは仕事を休んだ。
「もうそろそろ私も歳だから。」
そして、面会時間ギリギリまでいて他愛の無い話しをし、帰り際、
「ねぇ、遊里。母さん今の仕事、辞めてもいいかなぁ。」
ってぽつんと言った。
「母さんも、疲れちゃった。遊里にこれまで以上に負担かけるかもしれないけど、いいかな?」
私はぽかんと口を開けていた。それを見て母さんは目を伏せた。
「いいよ。」
俺は心のこもらない声で答えていた。
「母さんがそうしたいなら。」
それからじわじわと言葉の意味が分かってきた。
「俺も少し疲れてきた。家に帰っても絵里子さん、いないし、すれ違いばっかりで、なんだかさ、今まで一緒に暮らしていて、一緒に暮らしていないみたいだったから。」
体が震えているなんて。
「母さん、他人みたいだったもん。俺、母さんの事大好きなのに、見捨てられてるのかなって思ってた。たった二人だけの家族なのに・・・・・」
俺は初めて母さんに本当の事を言っていた。
「俺、正直言うとね、母さんがいなくて・・・・・寂しかった。」
そんな俺の肩を母さんが抱いた。
「ありがとう、遊里。本当はね、さっきお店に辞めるってお願いしていたんだ。母さん、もう “絵里子さん” は辞めたかったんだ。」
この時初めて俺は母さんと親子の会話をした、そんな気がした。
Left Alone つづく