第二十六話 傷
暴力シーンが有ります。苦手な方は回避願います。
何も怖い事なんか無いって思った。兄貴のまっすぐな瞳に俺の姿が映っていて、その唇の端が緩やかに上がる。視線を交わし合う事がこんなに素敵な事だなんて。めちゃくちゃドキドキして、自分の中に眠っていた
“ 女の子のかけら ”
がきらきらきらめいているみたいだった。恋って甘い。そして今の俺は言葉も発せずただ想うだけの人魚姫じゃない。彼は目の前にいて、俺を受け止めてくれる。
「ねぇ。」
「ん?」
好き。
「キスして。」
この人は俺を甘やかしてくれる。顎を持ち上げられ、キスをもらい、彼のたくましい背中に腕をまわした。彼に包み込まれる快楽に酔っていた。
最初に気づいたのは冷気だった。北側の玄関から続く廊下から冷えた空気が流れて来て。それが危険を告げた。
はっと顔を上げると、まだ帰ってくるはずの無い基が唖然とした顔で俺たちを見つめていた。
「お前ら、何やってんの?」
ひどく乾いた声だった。
俺が基を見たのと、彼が俺達に冷たい言葉を投げつけたのはほぼ同時で。
何をしているのか分からないはずが無い。抱き合い、キスをして気持ちを確かめ合っていた。それ以外の何者でもなかった。
だからその視線。その視線に体が凍るかと思った。それは子供の頃くそおやじにやられそうになった時にも感じた事が無い感覚だった。逃げようと思っても逃げられない。そう思った。
彼の怒りが怖いんじゃない。それ以上に、追いつめられている基が怖かった。
それは基であって基じゃなかった。
近づく彼からは憤怒の青白い炎が見えるようだった。
俺の舌は凍り付き、言うはずだった言葉もどこかへ消え去って、思わず兄貴にしがみついていた。
「ぃやっ!」
来ないでくれ!!
兄貴の腕がしっかりと俺を抱きしめ、二人基と向かい合い、
「基に話が有る。」
兄貴は躊躇わなかった。そんな彼を遮り
「離れろ。」
聞き慣れたはずの声がそう命じた。
「離れろって言ってんだよ。」
彼は怒鳴るでも無くそう言うと、予想もしていなかった強い力で俺を兄貴から引き離し、よろめく俺を無理矢理向かい合わせに立たせた。
「何やってんだよ、勇利。」
俺の顔を覗き込み、基がこの現状を必死になって否定しようとしているのが分かった。
「しっかりしろよ。お前、俺の女だろう?」
その声は悪ふざけをとがめる小学校の先生のようだ。俺に言い訳をしろと言っていた。それから、謝れと。
謝れ?
基は何を言っているんだ?
沸々と沸き上がる思いがあった。
俺はお前の女になんかなった事、一度も無い。
俺はお前の所有物じゃない。
俺にだって俺の気持ちが有るんだよ、なぁ、基。お前がそれを大事にしてくれなかっただけだぜ。それどころか今まで踏みにじっていたじゃないか。それなのに、何言ってやがる。
ふざけるな!!
俺は渾身の力で基を振り払った。基は意外な顔をした。
俺の中で何かが切れた。きれいごとじゃない。俺はお前と別れたいんだ!こんな関係、もう、嫌なんだ!!
「俺はお前のモノなんかじゃない。第一、基は俺の気持ちなんかおかまいなしだったじゃないか。結局抱くのが目的だったんだから。だからいっその事、ずっとダッチワイフのままでよかったんだ。それなのに、何を今更。恋人みたいなふりは止めてくれ。俺達は愛し合って抱き合ったんじゃない。後悔しないって言ったのは、お前の方だ!!」
俺が壊したんじゃない。お前が壊したんだ!!
俺が好きでお前に抱かれていたと思っていたのか?俺が抱かれた後、どんなに惨めな気持ちになったか、考えた事があるのか?どれほど俺がお前の事、愛せるようになろうと思ったか、考えた事あるのか?でも、駄目だったんだよ。
そりゃ、気持ちよかったさ。でもな、まるで反比例のグラフみたいに俺の中は冷めてったんだよ。感じれば感じるほど、お前じゃ無い事が解るから、お前の事愛してるんじゃないって解るから、どんどん自分が惨めになってったんだよ。こんな事続けている自分が大っ嫌いになってったんだよ。
「畜生!」
そうさ、大嫌いだ!!大嫌いだ!!
「大嫌いだ!!」
腹の底から叫んでいた。
俺達は憎しみあう敵同士みたいに対峙した。俺だって正面から決着つけたかった。
それが、兄貴に後ろから抱きかかえられ少し後ずさった。
“ いけない。”
彼の腕が止める。俺はソファの向こうに押し出され、逃げろって言われてるのが分かった。
俺を追いかける基を兄貴がつかみ、
「よすんだ!」
「放せ!!」
基が肩を回し腕を払う。それから、脇を締めビボットターンで拳を固め・・・・。右の肘が下がった。
「止めろ!!」
叫びは届かなかった。兄貴の心臓の下に突き上げるような拳。鈍い音。彼はそのまま手を留め、押し込むように膝を折り腰がねじれる。それはまるでスローモーションを見ているみたいだった。
兄貴のせいなんかじゃない!!
「俺が決めたんだ!」
俺たちの事にこの人を巻き込むな!
「ふざけやがって!!」
兄貴をかばおうと慌てて止めに入った俺。泣き出しそうな、すがりつくような目が俺を見る。でも、そんなのご免だ!!同情なんかしてやるものか!
お前は自分が何したのか分かってんのかよ!!
強い力を両肩に感じた。つかまれた。ああ、良いさ。でもな、力で何とかなるなんて思うなよ。にらみ返す俺に
「なんで・・・・」
彼が言いかけ・・・・でも、それは最後まで聞く事ができなかった・・・・。
ぐわんっ
頭が揺れた。
何が起こったか解らない。
吐きそうだ。吐きそうだ。
ああ、吐きそうだ。目の前、暗いよ。
気持ち悪い。
涼しい風が目の前をよぎった。
兄貴と視線が合った。どうしてそんな驚いた顔するんだよ。
・ ・・・俺、今どこにいるの?
頭の上で何か音がして。見上げると、何かが落ちて来た。
何だか見覚えが有る。俺の顔に当たったそれは、前の方に大きくバウンドして。
兄貴、あれっ?血、出ていない?出てるよ、血。ああ、止めないと。鼻血だね。頭高くしてね、喉に落ち込まないように。気持ち悪くなるからね。
ああ、吐きそう。
血?この血は俺の血?
ぽたぽたぽた・・・・?
手についてるよ。左?左の頬?血が出ている。でも、痛くないよ、大丈夫。それより・・・・気持ち悪い。
何みんなしてそんな顔するんだよ。これだから男は駄目なんだ。これ程度の血が出たくらいで怖じ気づくなんて。
それより病院へ行かなきゃ。気持ち悪い。何かが変だ。
救急車?そんなの大げさだ。
怪我って言ったって、どうせ顔だろ?お前知ってるじゃん。顔は血管発達してるから、小さな傷でも血が出やすい様にできたんだよ。騒ぐ必要なんか無いんだって。
え?一緒に行く?基が?いいよ。独りでいける。子供じゃないんだからさ。格好悪りぃ。独りの方がいいんだよ。
じゃあな、また。ああ、部屋汚してご免、悪いな。後始末、よろしく。恩にきるよ。
自宅の近くの市民病院に行こう。後で保険証持ってくるのが厄介だから。保険証と言えば俺は今年度までひとり親福祉対象だ。今は3月だからラッキーと言えばラッキーか。医療費が少し安くなる。でも4月1日からはどうなるんだろ。
ああ、嫌だな。また絵里子さんに迷惑かけちゃうよ。
今日は自転車じゃなくてよかったなあ。ふらふらする。
タクシー。ナイスなタイミング。
だからさ、驚かないでよ。たいした怪我じゃない。でもさ、タクシーとラッキーってちょっと似てるよね。ははは。
何、俺、変。・・・・酔っぱらってるみたいだよ。
Left Alone つづく