第二十一話 ミルクティ
朝の7時。
鍵をよこしたという事は、起こせという意味だろうと思った。
玄関脇の駐車場にシルバーグレーのプリウスが無い事を確認し、ほっとしたような寂しいような複雑な気分で鍵を差し込み、
「おはようござんす。」
小さく声を掛けてから家の中に入り込んだ。
今日は基の大学入試の発表の日だ。偏差値59。ぎりぎりのボーダーラインに彼はいた。それを一緒に見に行こうと誘われたと思った。多分彼は受かっている、何となくその予感が有ったから。
それを一緒に喜ぼうと。
俺は彼の親友?それとも・・・・?
最初から決まっていた事だ。俺が選択するのは基との友情以外にない。
暑い日も寒い日も一緒に戦って来た。単純に練習をする事だけじゃない。ボクシング部全体の士気を盛り上げる為に調整したり、いろいろな所に顔を出し練習できるきっかけを作ったり。全てをボクシングに費やした。確かに基と寝ていた事は恥ずかしい事かもしれない。でも、それ以上に俺たちは必死でやって来たはずだ。
彼の手を取れたらどんなに楽だろうと思う。きっと基はあの笑顔で俺を抱きしめ、一生大切にしてくれる。見栄えも良くて頭も良くてセックスも上手で。不満なんか無い。でも、一番大切な所が違うんだ。
ともすれば比べそうになる。兄貴は俺に絶対無理強いなんかしないし、俺がしたいと思えるまで待ってくれる。あの人は俺を見守ってくれる。
何よりも、まっさらになった何も無い俺が心に思い浮かべるのは兄貴ただひとりだから。例え実らないって分かっていたとしても、根付いてしまったこの気持ちを殺す事なんか出来ない。
関係を修繕したかった。10年20年後、親友としてのこの3年間を笑って話せるようでありたかった。俺たちがボクシングに明け暮れたこの時間は宝石のような時間だったんだと一生大切にしたかった。
だから今更彼を傷つけたくない、なんて生温い感情は捨てた。
とりあえずすぐに部屋に向かうのは止めようと思った。基の部屋は危ない。
そうだ、携帯を鳴らそう。どうしてそれを思いつかなかったんだろう。
それから一度外に出て、電話をかけた。
鳴らした携帯は家の中では響かなかった。それどころか電話に出た基は寝ぼけてなんかいなくって、後ろで電車が出発するアナウンスが聞こえた。
「今どこだよ。」
『どこって、筑波に向かうとこ』
基気は同時に受験した友人とわざわざ大学まで結果を見に行く所だと言う。俺は拍子抜けした。
「なんだよ、7時って夜の7時かよ。」
電話向こうで基が笑った。
『なんだよって、なんだよ。俺んちにもう来てんの?そっか。じゃあ、できるだけ早く帰るから、夕方には必ずそこにいてくれ。上手くいけば5時には帰れるから一緒に飯食おう。今晩は俺が用意するから作んなくっていいよ。週末バイトがキツいって言ってだろう。俺のベッド使って寝てな。寝込み襲わないから安心しろ。』
その後ろで誰かの冷やかす声が聞こえた。
『電話じゃあ、何だし。もう、結果は出てるだろ。今晩直接会って話そう。ここまで来るとさすがに覚悟できている。俺も男だしな。』
そうだ、結果なんか出ている。今更待つなんて意味が無いんだ。もう待つべきじゃない。分かっている。試験の結果がどうあれ、俺は基と別れる。
「ありがとう、でも、いい。その前に話しておきたい事が有る。」
電話でなんて卑怯だって分かってた。でも、今まで引き延ばしすぎたんだ。
『今じゃなきゃ、駄目かよ。』
「今、言いたいんだ。」
俺は言葉を強めた。
「俺は、お前の事・・・・」
“愛してなんかいない。”
それを彼が遮った。
「悪い、電車来た。じゃあ、夜に。会って話そうぜ。」
手の中の携帯は中途半端な音を奏でていた。
なんだか疲れてしまい、鍵をかけるのもそこそこに基の部屋に行った。
その窓際にはベッドがあって。
俺はそこで何度も彼に抱かれた。その度に感情を殺していた。彼はその事に気づいていたはずだ。それなのにこのベッドで休んでいろという。
皮肉な話しだ。俺はダッチワイフとして以外、この部屋にいた事、無いじゃないか。
ベッドの上で待つ気なんか無かった。かといってリビングに行く気になれず。結局布団だけ拝借し床に転がった。
ふわふわの羽毛布団は基の汗の匂いがした。
それから俺は泥沼のように眠って、目が覚めた時には10時を少し過ぎていた。人は一時間半のサイクルで寝るって言うけれど本当だなぁ。
と、丁度そのとき玄関の開く音がした。基気が帰って来たととっさにそう思い部屋を飛び出し階段を下りかけた。
違う。
俺は足を止めた。
そのはずが無い。大学までは片道3時間。往復で6時間。結果を見たりしたら最低でも7時間はかかる。学校への報告もある。基だって帰りは5時って言ってたじゃないか。玄関の見える踊り場手前で足を止め、俺はそっと引き返した。
今帰って来たのは会いたくないあの人だ。
俺は部屋の隅で膝を抱えていた。もう眠れなかった。今日は平日で会社員の兄貴が真っ昼間に家に帰って来るなんて考えもしなかった。
イライラする。
いっその事、家を出ているんだった。
こうやって挨拶もしないでじっとしているなんて、本当に子供だと思う。でもやりようが無かった。あの人の顔を見たら何かが狂ってしまう気がした。
だからといってトイレを我慢できるはずも無く。
俺はそっと階段を下りた。トイレ手前で水の流れる音にしまったって慌ててきびすを返したけど後の祭り。姿を消すのに間に合わず、ドアの開く気配にもう一度振り返りさりげなさを装った。
「あ、お邪魔しています。鍵は基から借りました。」
少し頭を下げごまかす。目を合わせられない。
彼はいかにもくつろいでいるといった風情で俺を見た。カジュアルなブルーのストライプシャツにサーモンピンクのベスト。履きくたびれたチノパン。結局どこをとっても品がいい。そう言えばこの人は本当かどうか知らないが、司法試験現役合格のスーパーエリートだったと聞いた事が有る。この人だったらって信じてしまいそうな噂だった。
「君が来ているなんて気づかなかった。久しぶり。」
嘘つけ。知っていたくせに。俺は思わず目を上げた。
兄貴の瞳は乾いていて何を考えているか分らなかった。
「ああ、どうぞ。」
彼は素早く場所を譲るとリビングの方へ向きを変えた。開いているドアからは兄貴が好きだと言っていたバイオリンの音が聞こえた。クライスラーだ。
興味無さげな兄貴の背中に、さっきまで会いたくないって思っていたはずの気持ちがどこかへ行ってしまい、反対にこんなもんだよなと俺はいわれのない寂しさに囚われた。
どうせ俺は弟の男友達でしかないからな。
閉まろうとするドア越しに、
「試験はどうだった?」
不意に声が掛かり俺に話しかけている事に気づく。
「おかげさまで合格しました。」
心なしか兄貴の声が緊張している気がした。
「おめでとう。頑張ったかいがあったね。」
さすがに今回はお祝い云々は無いらしい。
「さっき基から電話が有ったけど、結果知っている?」
「あ、いやちょっと。」
あわてて俺は顔だけを扉から覘かせた。
「後で本人から直接聞く事になっているから。ごめん。」
日差しを背に受けて兄貴の顔は見えない。ほんの少し見つめ合った気がする。
「良かったら、何か飲まないかい?」
ためらいがちにかけられた言葉を遮る様に俺は扉を閉めた。
せっかくの社交辞令を無視した自分の幼稚さがいやだった。
便座に座って落ち着くというのも情けないけど、頭を抱え、もう少し大人にならなきゃって思う。この年になって八つ当たりだなんて。
「さっきはご免。切羽詰まっててさ。」
俺はリビングのドアを少し開けて声をかけた。返事は無かった。
しゃあない。
そのまま引き返そうとすると、
「どうぞ。」
と柔らかい声が聞こえた。兄貴はキッチンエリアから出てくる所で、手には白い食器を持っていた。
「少し甘いからお好みとは違うと思うけど、たまにはいいだろう。」
渡されたそれはミルクティらしい。白濁した褐色。微かにシナモンの香り。
勧められた訳じゃないけど勝手にソファに座わり、彼の視線を感じながら含む。
「おいしい。」
ほっこり、そんな味だった。頬が緩む。確かにほんの少し甘いけどくど味はなく、まろみがあって温かい。両の手のひらに吸い付く様な、これはカフェオレボールだろうか?その重さが心地いい。何とはなしに兄貴の味だと思い、立ち昇る優しい香りを吸い込んだ。
兄貴の事を一言で言えば
“寛容”
だと思う。
俺はついついそれに甘えてしまう。そんな自分が嫌になる。限界ぎりぎりまで縋ってしまいそうで怖くなる。もうそうなったら俺は止まれないだろう。兄貴の迷惑そうな表情が目の前をちらついた。それでもきっと俺は引き返せない。
表面にできた薄い膜を啜った。まだ父ちゃんが生きていた頃、絵里子さんが作るホットミルクが好きだった。白砂糖じゃなくてザラメを使い、最後にシナモンシュガーをほんの少しふる。幸せの味だ。その水面に張った膜をもぐもぐと食べるのが大好きだった。
天国の父ちゃんは何をしてんだろう。今頃生まれ変わっているのかな?
Left Alone つづく
そろそろらぶあまモード入ります♪激甘の予定です。温かいお部屋、二人っきりの密室♪
それと、基バージョン(未公開)よりえろえろシーン一部抜粋の
「彼女。」投稿しています。
Left Alone ここまでおつき合いいただいた強者でしたら耐えられるような、かなりきつい内容です。
15禁すれすれ。エピローグの一言に力込めてます。ぜひごらんになってください。