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第十七話 失態

 結局送ってもらう事にした。

 大丈夫、絵里子さんには適当に言い訳を考えよう。

“タクシーを待ったけど来なかったんだよ、それじゃあって事になってさ。”

 こんなとき女でよかったって思う。嘘がすらすら浮かんで来るから。

 家についた後も彼女はぐっすりと寝込んでいるようだった。

 俺はコートを脱ぐ兄貴を横目で見ていた。最近兄貴には兄貴の香りがあるって気づいた。兄貴はタバコを吸わないけれど、着ている服はいつもヤニ臭い。職場で吸う人がいるらしい。その中にエッセンスみたいに兄貴の香りが混じっている。コロンを付けているんじゃなさそうだし、アフターシェイブローションとも違う。とにかく兄貴の香りだ。

 俺はコートをハンガーにかけながら深呼吸して、こっそりその香りを吸い込んだ。

 その日はおだまきを作ろうと思った。茶碗蒸しの中に饂飩が入っているアレだ。

 圧力鍋をセットして強火にする。

 兄貴が来たらと思って頂き物の煎茶を用意しておいたんだけど、なんだよ、日切れしているじゃん、どうしようこれ。味落ちてるかなあなんて悩んで、新しいのを探した。その時突然響いた蒸気の轟音。

「うあっ。」

慌てて火を弱くしようと身を乗り出し、その指がつまみに掛かった瞬間、

「勇利!!」

俺はその声よりも早く兄貴に後ろに引き寄せられ、両手でかかえられていた。兄貴は少しして抱く腕に力を込め、二人の体は隙間無いほど重なった。

 兄貴の心臓の上に俺の耳があたっているから、背中越しに兄貴の早鐘みたいな心臓の鼓動が響いて来て、それに気づいた俺の心臓はもっと早いリズムを刻み始める。

 ガスの火は消えてしまっていて。

 しゅんしゅんという音が少しずつ間隔を置く。という事は、二人ともしばらくそのままだったって事だ。

 ・・・・俺達は何をしている?

「だ、大丈夫。」

体を硬くする兄貴の腕をポンポンと叩いた。

「圧力鍋、初めてだよね。これ、音はうるさいけど安全なんだぜ。そんなに驚くなよ、だらしない。」

その手はゆっくりと放され兄貴のショックを物語っていた。

「全く、男って結構気が小せぇよなあ。」

そのままもう一度火を付け、再び圧力がかかり鍋が鳴りだすのを待つ。今回は二人とも驚く事は無かった。火を絞り、圧力弁が緩やかに回るのを見ていた。

「な、怖くないだろう。」

兄貴はばつが悪そうにしながら、渡された箸と茶碗を持っていった。

 二人ででか椀のおだまきをお玉ですくって食べた。


 こうしていると貧乏だけれど幸せな夫婦みたいでおかしかった。

 この前と同じ。俺は恐る恐る肩を揉む。

「兄貴、何かに憑かれたんじゃない?こり過ぎ。」

口は平然を装いながら、心臓はドキドキしていた。

「相変わらず、硬てぇ。ちょっと服脱いで。」

暖房のスイッチを最大にしてジャケットとベストを脱がせた。脊柱にそって指を下ろす。つぼにはまる度に、うって声を殺して唸るのが可愛いと言えば可愛い。

 特に腰は硬い。本当にディスクワークが多いんだな。

「あんま、無理すんなよ。」

一度腰壊すと、一生駄目になっちゃうぞ。


 なかなか筋肉に入っていかない指に業を煮やし、俺は額を兄貴の背中につけて指を押し込んだ。こうすれば額が支点になってやり易いんだ。

「ぐえっ。」

潰れたカエルの様な声。

「我慢、我慢。」

俺は意地悪く囁いた。

「絵里子さんが起きちゃうから静かにしろ。声たてんなよ。」

この言葉はさすがに効いたのか、それからはじっと耐えているようだった。指の抵抗が少しづつ軽くなる。揉みほぐれて来た証拠だ。指の刺激を“押す”から“揺する”に替えた。こうすると深い筋肉に刺激が入る。体の奥の疲れが取れて楽になるはずだった。ただそれだけのはずが兄貴の腰に当てた俺の手のひらがその肌の感触を吸収し始めた。痛み刺激の後に弛緩を始めた筋肉が薄いワイシャツ越しに伝わる。

 ヤバかった。

 糊の利いたワイシャツが言葉の無い部屋にかさかさなった。


 気づくと二人とも息を殺していた。

「もう、こんなもんだよな。」

俺は名残を惜しむように手を放した。

 自分の中に渦巻くものの正体を俺は知っていた。

 そう言えば基と最後に寝てから3か月経つか。それまで週2でしてたもんなあ。そりゃ、したくなるよな、普通。体ってそんな風にできてるもんだよな。何てったって、後半は好かったもの。

 俺はそんな“女”の自分が嫌いだ。誰でもいいなんて惨めだ。ましてや兄貴に欲情するなんて馬鹿げている。

「ありがとう。もう、帰る。」

兄貴はさっさと服を身に着け玄関をくぐった。

 その後ろ姿はぴりぴりしていた。

 慌てて後を追い、送ってくれた礼だけは言おうとした。そのはずが言えず、結局振り向かずに歩く兄貴の背中を見ながら車の所まで来てしまった。

 兄貴は車に乗り込んで助手席の窓を降ろし、何か言いたい事が有るのか、そんな目で俺を見た。

「あ、ありがとうを言おうと思ってさ。」

それからちょっと頑張って口の端を上げた。

「でももういいから。お店もそろそろピークシーズンはずれるし、俺も受験終わって2月から絵里子さんの職場の近くでバイトする事になったし、何とかなるから。そこのバイトが上手くいけば中古の車が手に入りそうなんだ。だから、もう送ってもらわなくてもいいよ。今まで本当にありがとう。助かった。」

するとこわばった顔が言った。

「迷惑だったか。」

この人でもこんなに冷たい声が出るんだ。でも言わしたのはこの俺。

「違う。」

女は嘘が上手。

「でもさ、基がいい顔しないだろ。」


本当は兄貴といるのが怖いだけ。自分の中にいる“汚い女”が目を覚ましそうで。


「あいつが頑張ってんのに、俺ばっか楽したら悪いじゃん。それに兄貴は本当は俺の兄貴じゃなくてさ、基の兄貴なんだし。独り占めしたら駄目じゃん。」

俺の手はポケットに入ったままだ。俺の方に身を乗り出していた兄貴が座席に戻る。きっとこのまま会わなくなる、そんな気がした。

「信じて欲しいんだけど、俺さ兄貴が本当の兄貴だったらどんなに良かったかって思うんだ。本当に、俺・・・・・。」

苦しくて言葉が詰まった。

「今度産まれてきたら、弟にしてくれよな。」

その言葉が終わらないうちに目の前でウインドウが上がり、兄貴の車は滑らかに行ってしまった。


                 Left Alone つづく 




もしこの時、彼女が行動を起こしていたらどういう事になっていたと思います?

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