第十五話 禁句
もう兄貴は来ない、そう覚悟していたけれど、次の週末もコンビニの袋を持ってやって来た。何事も無かったかのように。
今いるのは報道班で警察絡みが多いと話してくれた。最近結婚した高校の時の親友の奥さんというのが、同じ時期に剣道をしていたライバル校の選手の妹だと言う。ライバルの人は警察官になっていて、偶然にも広報担当の部署で会ったらしい。
「人の縁って分らないと思ってね。」
彼はにやにや笑った。
「その後飲みに付き合わされたのはいいけれど、仕事の話しは一切なしで、義弟の悪口をさんざん聞かされたよ。僕はその義弟の友人だって言うのにね。」
兄貴はいつもと代わらない。俺は胸を撫で下ろした。
家に帰ると兄貴は自然にちゃぶ台に座った。
「運べよな。」
俺は温め直した総菜や箸、取り皿を差し出した。
「すまん、すまん。」
同じようにご飯を食べる。二人で眠そうにあくびをする。
「土曜の練習が有る時はどうしていた?」
「11時には間に合うから、遅れて行く事にしていた。」
「タフだなあ。」
「若かったから。それに気を張っていると何とかなるもんでさあ。」
我ながらよくやったと思うよ、うんうん。
「17で若かった、かぁ。」
兄貴は苦笑した。
「18、俺この前18になったんだよ。これで晴れて深夜バイトアンド夜歩きオッケー、補導よさらば。」
「じゃあ、お祝いしないとな。」
兄貴は少し考える様な仕草をした。俺はそっとその背中に周り首筋を揉んだ。
「何がいいかな。」
兄貴が使っている万年筆がいいなあ。あのカッコいいヤツ。
「みんなで旨いものでも食べに行こうか。」
みんな?
「来週勇利君の試験が終わるんだろう。基もセンターが終わるし。息抜き兼ねてみんなで懐石なんてどうだ?」
ああ、そうか。この人は基の為にここに来ている様なものだもんな。俺は少し意地悪く考えた。もしかしたら俺が受験直前の基に近づかないように監視しているのかもしれない、なんてね。
「イタリアンの方がいいかな?」
「そんな事無いよ。ほらさ、きちんとした所に着ていく服無いからさ。それに基は二次試験の方がキツいだろう。そんな暇無いよ。」
「そうか。」
俺は広い肩を指先で押して行った。本当は恐る恐るだった。この前みたいになりたくなかった。いつ兄貴が嫌悪感を示すか分らない。それでも少しでも兄貴の役にたちたかった。
「だったらスーツにしようか。」
俺は一瞬手を止めた。思ってもいなかった。高給取りはプレゼントの額も違うらしい。確かに俺のサイズだと吊るしのスーツは売っていないだろう。いくらやせていてもウエスト58の男はいないから、セミオーダーだ。でもまさか高校卒業してまで男装しようとは思わなかった。まあ確かに似合うだろうけど、俺は別にそう言う疾患を持っているわけじゃない。中学校はセーラー服を着ていたし、春には女物のパンツスーツを買おうと思っていたぐらいだ。はっきり言って兄貴ほど騙される人間も珍しいと思う。確かに入学当初、俺と基は二卵性の兄弟みたいにそっくりだった。でも俺の体型はあの頃から卒業まぢかの今までほとんど変わっていないし、反対に基は一周り半でかくなっている。再び揉み始めた指先に思い切り力を入れ、痛みが出るほど押してやった。
「っつう。」
兄貴が呻く。ここまで騙してしまうと、今更女ですって言えないよなあ。てか、兄貴鈍すぎ。
「今回は遠慮しとく。知り合いが作ってくれるっていってくれてるんだ。」
俺はいい男3人スーツ姿で闊歩する様子を想像した。見るからにエリートサラリーマンに現役運動会系男。それと自称小柄ジャニーズ。自虐的だなあ。すっげぇ格好いいじゃん、ちょっと着崩せばそのまんまホストクラブの1・2・3なんてね。
「はい、おしまい。」
最後にびたんと平手で背中を叩いてやった。
話しは終わり、そう言っているのが分ったんだろう。兄貴はさっくりと立ち上がった。
「ありがとう。欲しいものが決まったら教えてくれ。」
それから振り返る事無く部屋を出て行った。
またやった。肝心の俺が、ありがとうを言っていないじゃないか。
その夜軽く走りに行って帰って来ると、絵里子さんがテレビを見ながらぼんやりしていた。
「ただいま、絵里子さん。」
母さんは軽く頷いた。今日はお店が休みの日だった。いつだって疲れている。そんな彼女を昼間だけでも静かに休ませてあげたかったから俺はなるべく家にいない。二人分の朝ご飯と、お昼の弁当。夜に軽くつまめるものを用意して。
いつからだろう、お互い一緒にいても話しをしなくなってしまった。時々俺といるのが辛いんじゃないかと思う気がしてならない。
だから彼女から話しかけてくれて本当に嬉しかった。
「最近、明けで送ってくれている人、だあれ?」
寝ているように見えて母さんは気づいていたらしい。
「ああ、あの人ね。友達の兄貴。仕事がえりに拾ってくれるんだ。」
俺は話しを続けたかった。
「とってもいい人だよ。俺達の事、心配してくれてる。送ってくれって頼んでいないのに、世話してくれるんだ。」
絵里子さんは返事をせず、テレビを見続けていた。
その反応はいつもと変わらなかった。
風呂に入り髪を乾かす俺に彼女が何気なく言った。
「遊里はあんまり友達の話ししないわよね。」
って。だって母さん、聞いてくれないじゃないか。
「あの人、本当は遊里の恋人?」
「まさか。」
違うよ、そんなはず無いじゃないか。あの人は“高嶺の花”だよ。俺なんかが好きになっちゃいけない人だ。
「違うよ。」
「じゃあ、送ってもらうの止めなさい。これからはタクシー使うの。」
一瞬何を言われたか分らなかった。テレビの奥で誰かが笑う。
「人に借りを作ると、ツケを払わされるわよ。」
「えっ?」
指で摘まれたメロンソーダ色のゼリービーンズが彼女の口元で止まった。
「真面目そうに見える人に限って、裏が有るからね。」
それはゆっくりと体の中に吸い込まれて行った。
頭に浮かんだのは、金縁眼鏡にワイシャツを着た中年の男。その男は俺を膝に乗せ、囁く。それから、髪の毛を梳いて、撫で付け、口に含む。それから・・・・
「冗談じゃない!!兄貴はそんな人じゃない!!どこ見てんだよ!!」
人には沸点が有る。その時の俺はまさにそれだった。
「あんたみたいに、糞みたいな男につかまるもんか!!」
気づいた時には両の手を握りしめ、ぶるぶると震えながら立っていた。
絵里子さんはびくりと振り向き俺を凝視した。その顔は蒼ざめていて・・・・!!
俺は何を言ったんだろう。
その手をじんわりと開いた。
「ごめんなさい。つい、かっとなった。」
引きつるのもかまわず、必死に笑った。
「ほら、今週俺、受験だからなんだかさ、ぴりぴりしちゃっててさ。」
俺はザックの中から持って帰って来た教科書をバラバラと出した。
「正直、自信ないし。ごめん、八つ当たりしちゃったね。ああ、今日はもう寝るわ。なんか勉強疲れかな?知恵熱出たりしてね。」
彼女は挑みかかる様な顔で俺を見つめている。
ごめん、母さん、本当にごめん。母さんにひどい事言うつもりなんか無かったんだよ。謝るからさ、忘れてくれよ。もう二度と言わないからさ。
「そうだ、受験の日は朝早いから、迷惑かけたらごめんね。」
俺はじりじり下がった。
「言いたい事が有るんなら、はっきり言いなさいよ。」
低いながらきっぱりと彼女はそう言った。
「嫌だなあ、母さん。言いたい事なんて・・・・。実はさ、ほら、よくある話しでさ、最近男の事で友達と揉めていたんだ。でさ、兄貴だけはいつも中立でいてくれる人だから、ありがたかったんだよ。さすがにその人の事、あんな風に言われてさ・・・・」
どうして俺は泣いているんだろう。
「悲しかった。」
最初に目を背けたのは絵里子さんの方で、俺はそれを合図に隣の部屋に行った。
泣いたって意味が無い事ぐらい中学に入る頃には学習した。疲れるだけだ。そんな事するくらいだったら、たっぷり寝て、走った方がいい。
それでもその夜俺はマウスピースみたいにタオルをがっちり噛んで声を殺していた。お守りみたいに手に持っていた兄貴の名刺が涙でよれよれになってしまっている事に気づいてもそれは止められなかった。
Left Alone つづく