メモ・リアル
数学の授業中は雨が降る。
雨といっても、ここは屋内だから水滴の雨ではない。紙の雨だ。ノートの端をちぎって丸めただけの、不細工な紙屑の雨。
黒板の前に立つ教師が背中を向けて二等辺三角形の合同条件を唱えている間、ひゅんひゅんと教室の端から端へ紙屑が飛び交う。その中には読む相手が定まっていないものや、内容が一文字や二文字のものまである。
しかし、それでもこの雨は面白い。
なぜならこれは、足元に飛んできた紙屑を拾う時の高揚感と、机の下で広げる時の期待感を楽しむ遊びだからだ。本気で内容を書いている奴なんてまずいない。
この遊びにはルールがあって、自分が書いた紙には必ず自分の名前を書かなければならない。別に、誰かが決めたわけではない。でも、そっちの方が面白い。だからみんなそうするのだ。
この日一回目の雨、私の机の周辺は豪雨だった。この教室の天気は気まぐれだ。たぶん、世界中の天気予報士の誰だってそれを当てることはできないだろう。
私は教師の動きを警戒しつつ、足元の紙屑を適当に拾って、丸まって飛んで来たそれらを開いて見た。
『あー腹へった。芳川』『今日西田さんめっちゃ可愛い。住吉』『暇だ。宮内』『何かいい暇つぶしない?八瀬』『次体育だっけ?沼井』『だるー。江本』『あ。伊勢野』『数学わかんねー。立石』『腹痛い。誰かタスケテ。曽根』。
まあ、いつもこんな感じ。開いてみれば大したことは書かれていなくて、遊びの趣旨を分かっていても、少しだけ期待を裏切られた気分にさせられる。
それにしても住吉、思い切ったこと書くなあ。でも、これを西田さん本人の方向に投げないあたりがチキンの住吉らしい。こんなことを書く勇気があるなら、さっさと告白して玉砕すればいいのに。私は西田さんの想い人を知っている。悲しい事実だが、それが住吉でないことも。
さて。次の降雨に向けて、私も準備をしなくては。
私は直角三角形やら二等辺三角形やらが書かれているノートの端をちぎり、そこにシャープペンを走らせた。内容は適当だ。本当に何でもいい。この紙を開いた時に、そいつがちょっとがっかりするような、そんなどうでもいい一言。
『今日の部活、筋トレがありませんように。三崎』。
まあこんなとこだろう。
書き終えたら紙片を丸めて準備完了。後は壇上に立つ教師が後ろを向いた時にこれを投げるだけだ。
――はい、向いた。
教師の持つ白いチョークが黒板を走り始めるのを横目に、私はサッと斜め後方に振り向き、それと同時に紙屑を空中に放り投げた。
よし。あの軌道なら誰かの足元まで飛んでいくだろう。
ついでに自分の足元に落ちてきた紙屑を適当に拾って、私は涼しい顔を装いつつ元の姿勢に戻った。
『死ね』。
開いた紙屑を目にしてから、私はしばらくの間動けなかった。
私は、この紙屑が私に向けて飛ばされたものなのかを考えようとしたが、やめた。
そしてその代わりに、この紙が私以外の誰にも見つからないようにするために、それをそっとポケットにしまった。
私は紙面に書かれたたった二つの文字に心を奪われていた。そこには私が今までに触れたことのない感情があった。
それをじっくり眺めていたい。誰にも邪魔されない静かな場所で。
私はノートの端をちぎり、そこにシャーペンを走らせた。
『はやくお家に帰りた〜い。三崎』。