光秀、家にかえる 1
ざざーんと波止場に波打つ海岸は、俺がいつも釣りをしているあの白い漁港に似ていたが、違う。
ここは俺の故郷だ。日本の本州よりフェリーに乗って20分。主な産業は漁業……というか、サカナくらいしかこの島には際立った特徴が無い。そう、俺のふるさとはとある離島だった。
この離島に用があるのは大概がこの島の関係者、家族、運送屋くらいなものだが、時々釣り好きのオッサンやニッチな観光好きが海産物目当てにやってきたりもする。
トン、とフェリーから波止場に降りて辺りを見渡してみれば、みゃあみゃあと鳴くウミドリに、のんびり日向ぼっこを楽しむ野良猫たち。そう、この離島はやたらと猫が多いのだ。多分、エサに事欠かないからだろう。今日も朝からクズ魚をたらふく食べた猫たちはふくふくまんまるに肥え、ふああと暢気にあくびをする。
「オトヒメ、手」
「はいですの……、あっ」
後ろに続いたオトヒメの手を掴むと、船で揺られた感覚がまだ続いているのか陸地に足をのせた途端、ふらりとよろける。慌てて彼女の体を支えると、何とか足のバランスを取ったオトヒメが「ありがとうですの」と微笑んだ。
オトヒメは今、いつもの金魚姿ではない。足のある人間の姿をしていた。腰のあたりまであるまっすぐな金髪はまるで金糸のように美しく、ほっそりした身体に整った相貌。どこから見ても彼女は美少女で、そして……『人間』だった。
あのよくわからん『成人の儀』を終えた後、ためしに変身させてみたら本当にオトヒメは人の足を手に入れていたのだ。
だが、あくまでまがい物である足には重大な注意点があり、海水が少しでも足にかかると途端に人魚姿になってしまうので、そこだけは厳重に気をつけなければならない。なのに、どうして俺の故郷は周りが海にかこまれた離島なのか、そして、どうしてそんな故郷にオトヒメを連れてきているのか。……いや、連れて来ているのはオトヒメだけではない。
「いや、なかなかに穏やかな漁村だな。ふむ、海からいい潮の匂いがする。都会とやらよりずっと良いな。あそこはざわざわと騒がしく、鉄くさいのがどうにも気になるのだ」
「そうですね、あなた。光秀様のお人柄はきっとここで培われたのでしょう。のどかで素敵な所ですわ。きっと魚料理などがとても美味しいのでしょうね」
フェリーの降り口からすっげー渋くてカッコイイバリトンボイスと鈴のようなころころとした声が聞こえてくる。
そう……。俺が故郷に来るはめになったのは、全てこのオトヒメの両親が原因なのだ。
ちなみに二人とも勿論カツオとタイの姿ではなく、人間の姿をしていた。これがまたえげつないほどの美形で、しかもオトヒメも美少女なものだから目立つわ目立つ。フェリーの乗り場とかそこに行くまでの道のりとか、滅茶苦茶注目されていた。当たり前といえば当たり前の話だが、俺だって道端でこの3人組を見れば二度見する。どっかの芸能人かなって絶対思う。
カツオ……お義父さんはオトヒメの金髪よりも若干色が抑え目のナチュラルブロンド。若干茶色が混じった色だが、壮年らしい皺のある相貌にとても似合っている。目の色はオトヒメと同じ黒色で、背が俺より高い。俺、173だから……多分180はある。そんな義父カツオは汚れも皺も一つとしてないパリッとしたスーツを着ていて、ネクタイを締めている。そしてタイの見た目をしていたお義母さんはオトヒメと同じ髪色で、ふわふわとウェーブがかかった髪をしており、それをゆるく後ろで纏めている。控えめに施した化粧は上品で、青いワンピースを身につけていた。首元と耳に飾るのは真珠のネックレスとイヤリング。背丈は俺と同じくらいで若干凹む。
二人ともすでに人化の秘術とやらが使えるのだが、人間の姿になるのは随分と久しぶりらしい。
さて、なぜゆえこの二人とオトヒメを連れて実家に帰る羽目になったかというと。
このオトヒメの両親は俺が思うよりもずっと気が早かったのだ。何せ彼らは『成人の儀』を終えた後、即結婚だ結婚式だと騒ぎ始めた。なので俺は何度も何度も「俺は現在しがない学生にすぎなくて資金もなければ己の食い扶持すら稼いでいない。はっきり言えば親の脛かじってる身分なんだ。だから結婚はまだできない」と説明したのだが、あのカツオとタイは結婚できないイコール、オトヒメと結婚する気がないのかと飛躍した思考に飛んで行ってしまい、色々と大騒ぎした。だから、ともう一度俺は自分自身の立場というものを説明して、結婚する気はあるけどせめて大学卒業して仕事見つけるまでは待ってくれ、と頼み込んだ。
世の中には学生結婚というものもあるそうだが、そんなのうちの親は絶対認めないだろうし俺もしたくない。やっぱりそういうのは社会人になってからというのが世間の一般的な順番だと思うのだ。
俺の懇切丁寧な説明によってようやくカツオとタイは納得した。だが、彼らは「せめて婿殿のご両親とご挨拶がしたい」と言いだしたのだ。
オトヒメの物言いから薄々そうだろうなと思ってはいたけれど、サカナビト族というイキモノは相当時代錯誤な思考を持っているらしく、子同士が結婚を決めれば即親同士も挨拶をしなければならないという考えを持っていて、そこだけは俺が何を言っても頑として譲らなかった。
――てなわけで。俺としてはとっても気が乗らなかったけど、ここで挨拶を断るとやはりオトヒメを娶るつもりはないのかと話が堂々巡りになってしまいそうだったので、仕方が無く、挨拶をしに故郷に戻る事となったのだ。貴重な冬休みを使って。……まぁ、正月くらいは帰るつもりであったけれど。
はっきり言って気が乗らない。何が乗らないって……。
チラ、と隣を見ると、丁度俺を見ていたのかオトヒメと目があって、はにかむように微笑む彼女。
つい俺も照れくさいながらも微笑み返し、こっそりと溜息を吐く。
ああ、数発殴られるのは覚悟しよう。オカンで1発、姉ちゃんが2発、オヤジが4……5発。よし、10発以内を目標にしよう。
そんな不思議な決意をしながら階段だらけの坂道を登るようにして歩く。腕時計を見れば昼前といった所で、冬でも晴れやかな今日は太陽からの光が暖かく、階段の端で寝そべる猫たちがのんびりつかの間の日向ぼっこを楽しんでいる。
みゃあみゃあと聞こえるのは、ウミドリの鳴き声。ああ――今日という日は平和だ。少なくとも、この瞬間は。
「オトヒメ、足は大丈夫か?疲れていないか?」
「はい、大丈夫ですの。歩く練習はいっぱいしましたから」
隣を歩くオトヒメに声をかけると、少し汗をかいた額をぬぐいながらオトヒメが微笑む。俺でさえ、この延々と続く階段は毎回辟易するのだ。まだ歩き始めて数週間というオトヒメはもっと辛いだろう。
足を手に入れてから、まずやることは歩く練習だった。それはそうだ。今までは尾ひれを動かして移動していたのが、今度は二本足を交互に動かして移動しなければならないのだ。
まずは部屋の中でゆっくり歩く練習をして、少しずつ外に出て慣らしていった。階段の昇降は苦労したが、今ではなんとか様になっている。それでも二十年近く歩いてきた俺と、まだ数週間しか歩いていないオトヒメでは足の疲れに差が出るのは自明の理だろう。
ぐっと心の中で気合を入れ、つないでいたオトヒメの手を外すとカクカクと腕を動かす。ロボットみたいな動きだが、仕方ない。まだ、オトヒメの人間姿に慣れていないのだ。可愛すぎて、直視できる時間が短い。
だけど、と、彼女の背に腕を回して華奢そうな肩を掴む。片腕ひとつで胸の内にとじこめられる程、オトヒメの身体は細くて繊細で、俺なんかの力で掴んだら壊れてしまいそうな程に柔らかいけど、大丈夫大丈夫と自分に言い聞かせて彼女の肩を抱いた。
「俺の腕に体重預けていいから。おぶってもいいけど、俺、もう片手は荷物持ってるし……ごめんな」
「光秀様……」
顔はきっと真っ赤になっている。やっぱりオトヒメの顔が見れなくてそっぽを向きながら呟くと、オトヒメも俯き、小さく「ありがとうございますですの」とぽそぽそお礼を言って来た。
可愛い。どうしよう……。俺は今や死刑5分前といった死刑囚も同然の状況なのに、今という時が嬉しくてたまらない。
「相変わらず初々しいな。つい、悶えてしまいそうになる」
「そうですね。うふふ。可愛い娘夫婦ですね、あなた」
後ろでボソボソ囁きあってるカツオとタイ。今すぐ階段から突き落としたい。
ようやく階段が連なった坂道を登り終えて振り返ると、島の半分近くが見渡せる。
白い波止場に、たくさんの漁業船。古臭そうな家々と、果てのない海。
「まぁ……素敵な景色ですの」
「うん。坂道は面倒でしんどいけどさ、この一景は俺も好きなんだ。ちょっとした展望台みたいだろ」
赤い顔でオトヒメに微笑むと、彼女も顔をばら色に染めてこくりと頷く。うむ、可愛い。
坂を上りきれば家までもうすぐだ。細い石畳を歩くと程なく白木の門構えが見えてくる。うちの家は大正時代のじーさまから代々漁業をやっていて、当然のように家も歴史情緒溢れまくりの屋根瓦な平屋建てだ。
横開きの外門をからからと開け、小さな庭を横切って家の前に立つ。
同じように横開きになっている古めかしい扉をゆっくり開けると……途端、俺の頭に何かが飛んできた。
スコーン、と額にイイ音がしてひっくり返る。光秀様!?とオトヒメがおたついた声を上げ――。
「光秀!アンタ……ッ!大学で何やってたの、この馬鹿弟!」
威勢が良く、高く通る声が聞こえる。そして慌しいばたばたとした足音に「渚ちゃん、落ち着いて」と優しく宥める穏やかな声。
これは……。
「ひ、久しぶり。姉ちゃんに、義兄さん。殴られる覚悟はしてたけど、モノ飛んでくるとは……って、何投げたんだよ!これ」
「かまぼこの板よ」
「痛いわけだ!めっちゃ角当たったからこれ!」
「角当たるように計算して投げたに決まってるでしょ、この親不幸者!」
喧々囂々と始まる姉弟喧嘩。困ったように眺める義兄と、オトヒメ達一家。
俺の一日は今日、とても長くなりそうである……。