7.俺が釣り上げた人魚姫は
そういえば、結局のところオトヒメは『人魚』の姿になれるのだろうか。
波止場で思いを通じ合わせた後、アパートに帰って共にオトヒメの作った夕飯を食べつつ、ふとした疑問に首を傾げる。今日は豚肉の野菜巻きと根野菜を使った温サラダ。わかめの味噌汁。
れんこんのほっくりした歯ごたえにオトヒメ手作りのごまドレッシングが香ばしくて、うんうんと舌鼓を打ちながら食べつつ、彼女に疑問を投げてみる。
「オトヒメってさ、人魚って言うけど、人魚姿にはなれるのか?あの、下半身が魚で上が人間ってやつ」
コタツテーブルの上ではむはむと日高昆布を食べていたオトヒメが俺の質問に顔を上げ、黒い瞳をぱちくりとさせた。
「なれますの。見たいですの?」
「んー…、うん。まぁ。……気にはなるかな。だって俺、人魚なんて見たことねえし」
喋る金魚も初めて見たけど。やっぱりこの目で本物の『人魚』を見てみたいという好奇心はある。まぁ、あくまで好奇心であり、それ以外の意味はないのだが。
オトヒメは口に入れた昆布をもぐもぐと食べ終え、こくりと飲み込んでからニッコリと笑った。
「では、お食事を終えたら人魚になりますの。少し恥ずかしいですけれど……光秀様が望まれるのでしたら、オトヒメは何でも致しますの」
「う、うん。た、楽しみだな」
ぽりぽりと頬を掻き、照れの残った顔でぱくぱくと豚肉の野菜巻きを口にする。うむ、甘辛に仕上げた照り焼きが絶妙に美味しい。
しかし、望むのなら何でも致す、とか男に言ってはいけないと思う。いや!オトヒメ相手に何かするってわけじゃないが。だ、だって金魚だし。見た目100%金魚だし。さすがに金魚を目の前にアレコレしたいと思うほど変態じゃないし、俺。
でも、人魚姿、か。少なくとも上半身は人間、なんだよな……。
何だか想像すると、妙にドキドキして頭が茹ってしまいそうになる。慌ててごはんをかきこみ、脳内に広がるあれこれといったけしからん気持ちを振り払った。
食事の後、俺がミニキッチンで食器を片付けていると、リビングの方で何やらオトヒメが布団から毛布を引っ張り出し、モゾモゾとしている。
……一言言ってくれれば俺がやるのに。オトヒメは何でも自分でやろうとするんだよな。
ちゃっちゃっと水気を切って、シャツの裾で手をぬぐいながらリビングに足を入れる。
「こら、重いものは俺が持つって言ってるだろ。毛布につぶされたらどうするんだ、おまえ」
「ごめんなさいですの。あの、身を包むものを探していたんですの。人魚型になると上半身がその、あの、裸になるので、光秀様にお見せするのは恥ずかしいといいますか、ですの!」
「……その金魚みたいな姿は裸じゃないのか?」
「うっ!?それは、これはこれ、それはそれ、ですの!」
成程。金魚姿の時は裸という概念がないが、人魚姿になるとその辺りの羞恥心が顔を出すんだろう。……だが、ひょっとしてオトヒメは今まで、人魚姿の時は上半身裸のまま、海の中を悠々と泳いでいたのだろうか。
――。それは。
「光秀様、突然前かがみに蹲って、どうしたんですの?」
「な、なんでもない。えっと、毛布だとおまえ、埋もれるだろ。身を隠すならこれにしろ」
海の中で上半身裸の女が開放感いっぱいに泳ぐ姿なんかをつい想像してしまい、色々と大変なことになってしまった思考を脳内のすみに追いやりながらリビングの端に置きっぱなしになっていたパーカーを手で手繰り寄せ、それを渡す。
オトヒメは素直に受け取ると身を隠すようにもぞもぞとパーカーの中に入り込み、やがて「いきますの!」と声を上げた。
「おう、いいぞ」
「はい。あの、変な姿でも、笑わないでくださいですの。えいっ!ですの」
変身は、えいっと掛け声をするものなのか。あと、やっぱり「ですの」はつけるのか。そんな事を考えていると、ぺたんとカーペットに広がっていたパーカーがむくむくと起き上がり、唐突にびろん、と大きな尾ひれが現れた。
「えっ」
それは、まるで水族館で見たイルカ。思っていたよりも尾は大きくて、しかし色は金魚の時のような朱色をしており、イルカにはないウロコが見えた。そして尾の先はフリルのようにふわふわとした、金魚姿の尾ひれみたいなものがついている。
俺が朱色の尾ひれを凝視しているうちにどんどんと彼女は人魚姿になって行き――。やがて、俺の視界にサラリと金色の簾が入ってきた。
……否、それは髪。
眩しいほどに輝くそれは、金色のまっすぐな長い髪だった。朱色の尾ひれから段々と視線が上にあがると、丁度へその辺りから色が肌色に変わり、なめらかな人間の肌へと変化していく。
そして……。
「こちらが人魚型ですの。光秀様」
金魚の姿と同じ、黒くてつぶらな瞳。だけど長い睫が形よく縁取られていて、やや垂れ目な所がとても可愛いらしい。
恥ずかしがっているのか、柔らかそうな頬はほんのりばら色で、唇は紅を引いていないはずなのに少し艶めいた珊瑚色。彼女が首をかしげると、サラサラした金の髪が華奢そうな肩をすべりおちていく。
上半身は俺のパーカーでしっかりと隠されているものの、ぎゅっと握り締めた手は繊細に細く、爪の形はまるで精緻な人形のように美しく整えられている。
どこから見ても、きっと誰が見たとしても、オトヒメの人魚姿は目を見張る金髪美少女だった。
それが、俺の着慣れたパーカーを羽織っていて、その下は――裸。
「やべえ」
口を押さえる。これはやばい。想像外だ。こんなにも可愛い顔をしているとは思わなかった。ぱっちりしたつぶらな瞳がまっすぐに俺を捉えていて、オトヒメの体には大きい俺のパーカーはだぼっとしており、それが余計に彼女の華奢さを強調している。
どきどき、どきどき。
急激な動悸が身を襲い、顔が赤くなって頭がぐらぐらする。
なんて、何て単純性能をしているんだ、俺は。オトヒメの人魚姿がすごく可愛くてそんなオトヒメが俺の事を好きだという事実がとんでもなく嬉しくて、幸せで、堪らなくなる。
だけど、だめだ。直視できない。俺、どんだけ初心なの?自分で凹むレベルだ。大学二年で日本酒好きで周りにおっさんだおっさんだ言われてるようなヤツなのに、コト異性に関すると、こんなにもわたわたしてキョドキョドしてしまうなんて。
だ、だって、慣れてないし。そう、俺は、釣りが趣味で割と非リア充で女の子とキャッキャウフフしたことがない、つきあった事もない恋愛初心者なんだよ!だからそんな「どうしたんですの?」みたいな目で見ないでくれオトヒメ。すげえ凹むから。
そういえば俺、オトヒメが好きなのは自覚したけど……。両思いになったら、具体的に何すればいいんだろう。ヤバイ、何も考えてなかった!ただ両思いになった、オトヒメが傍にいてくれるって、それだけで舞い上がってた。でも、人間同士の恋愛なら両思いになった後に色々様々なステップを踏むよな?
手を繋いだり。キスとか、したり。
「光秀様……?」
声をかけられて、つい俯いていた顔を上げてしまった。すると目の前にいるのは、ぴちぴちと尾を跳ねさせながら両手を床について首をかしげる、くりくりとした黒い瞳を持つオトヒメの人魚姿。
かーっと顔が熱くなって、また下を向く。
だ、誰か、そうだ大内先輩、俺の後頭部を今すぐ釘バッドで殴ってください。強烈に、容赦なく。
「光秀様、やっぱり…人魚の姿は、おかしかったですの?私、まだ人間のような足を作ることができなくて……ごめんなさいですの」
しゅんとした声。はっとして再び顔を上げ、また顔が赤くなるのを感じつつも無我夢中でオトヒメの頭をなでた。くしゃくしゃと。綺麗な金髪が乱れてしまったが、力加減をする余裕がない。
そうだ、オトヒメは、自分が人魚である事をリスクに感じているんだ。確かに俺も人魚相手にこれからどんな風に恋愛すればいいのか、むしろ、どうすればいいのか、さっぱりわからない。
だけどオトヒメが不安がった顔をするなら、俺はしっかりしなければ。守らなければ。そう、俺は決めたんだ。オトヒメを傍に置いて、守ってやるんだって。
……すぐには、慣れないけど。まだ直視は難しいかもしれないけど。
「そんなことない、変じゃない。違うんだ。その、オトヒメがすげー綺麗だから、びっくりして。つい、どうしたらいいか判らなくなってしまったんだ。ごめんな」
「え……?わ、わたし、綺麗ですの?」
「うん。オトヒメみたいに綺麗な子、初めて見たくらいだ」
するとオトヒメは頬を赤くして俯いてしまう。恥らう姿もくらりとする程可愛くて、やっぱり直視できない。こう、薄目で見たりしている。俺……どれだけだよ。そのうち慣れるのかな。美人は3日で飽きるって聞いたことがあるし、大丈夫かな。飽きる気はしないけど。
「そ、それはあの、うれしい、ですの」
「うん。えーっと……あの、オトヒメはさ、その人魚姿だと、宙を飛べないのか?」
「宙を泳ぐことはできないですの。この姿だと重くて、体が持ち上がらないんですの。けれど海中ならとても早く泳ぐことができますの!大移動の時以外はいつもこの姿だったですの」
「あーそういう事……なるほどね。とりあえず、オトヒメの中で宙は浮くものじゃなく泳ぐものなんだな。その姿だとこの陸の上では移動ができないから、ずっと金魚みたいな姿でいたのか」
はい、と頷くオトヒメ。何となく、やっと合点がついた気がした。オトヒメが自分を人魚だと言いつつもずっと金魚姿だった理由。それは……人魚姿だと、何もできないからだ。たしかに人間のような足のない尾ひれはとても重そうで、動くとするなら手を使って這うしかできない。それを不便に思って、オトヒメは小さな金魚姿のままでいたのだろう。
「わかった。俺の為に人魚の姿になってくれてありがとうな。でもそれだと全然動けないだろうから、元に戻っていいぞ」
するとオトヒメはにっこりと嬉しそうに笑い、俺のパーカーを着たまま胸に手を当て、目を閉じる。すると彼女の姿がみるみると小さく、パーカーに埋もれてゆき……ひとつ瞬きをすればいつもの金魚姿に戻っていた。彼女はもぞもぞとパーカーから出てくるとふよふよと宙を飛び、いや、泳ぎ、俺の傍にやってくる。そっと手の平を広げると、オトヒメは素直に乗ってきた。
「今は冬だけどさ、夏になったら海に遊びに行ってもいいな。人気のない所でなら一緒に泳いだりして楽しめそうだし」
「それはとても楽しそうですの!光秀様は泳げるんですの?」
「人並みにはな。といっても、本職のオトヒメよりは下手だと思うけど」
肩をすくめて言うと、オトヒメは胸ヒレをぱたぱたさせて嬉しそうに笑う。
「教えて差し上げますの!泳ぎ方にもコツがありますの。あとあと、海の中をお散歩しましょうですの!」
「いいな、散歩か。俺の場合シュノーケルとゴーグルつけてって形になるけど、それでもいいなら……楽しみだな」
「はいですの!」
元気な返事に俺も笑い返して。
オトヒメとの幸せなこれからに思いを馳せる。
俺の人生初の恋人は、俺が釣り上げた人魚姫。前途が多難なのは百も承知だが、惚れてしまったものは仕方が無い。だけど人と違うであろう幸せを、大事に守っていこうと心に決めた。
手の平を見下ろすと、チョコンと乗った小さなオトヒメ。人魚姿の彼女はまだ綺麗すぎて慣れないけど、俺のオトヒメはとても可愛くて料理上手で洗濯も掃除も得意な頑張り屋だ。
語尾に「ですの」をつけて喋る妙なクセも、つい無茶をしてしまう性格も、手放しに俺を慕ってくれる所も、全て、全てが愛しい。
釣り上げられた人魚姫は、俺が幸せにする。
Fin
閑話休題。
後日、大学に行くと大内先輩に、いくらペットのサカナが可哀想でも、海という自然界に放すのは深刻な環境破壊と生態系を狂わせる原因になりかねないから絶対にしてはいけないとものすごく諭された。
結局海に放してないことを説明すると心の底からホッとした顔をされたが、大内先輩は見た目金髪でピアスじゃらじゃらでどこから見ても不良か軽薄そうなギャル男に見えるのに、変な所で真面目だと思った。
ペットを飼うのは計画的に。
あと、オトヒメはペットではなく恋人だ。言えないけど。
完。