6.俺の世界、おまえの世界
水族館なんて、考えてみれば何年ぶりだろう。小学生の頃に行った遠足以来だろうか。俺の地元は何というかサカナがいるのが当たり前みたいな場所だったので、わざわざ魚を見る為に金を払うという概念が薄かった。しかし改めて水族館に入ってみると意外に面白いもので、ただ魚や海の生き物を展示するだけなのに、あの手この手と意趣を凝らしている。
魚がおよぐトンネルがあったり、天井が水槽になっていて、まるで海の底にいるような気分になったり。
……ふいにその光景は、もしかしたらオトヒメが見ていた世界だったのかな、なんて思ってしまって。
慌てて首を振り、順路に従って歩いていく。
「わっ、すごい人!何だろ……って、5分後にこの水槽でエサやりするそうですよ、見たいです!」
「ペンギンのえさやりか。うん、いいんじゃないか?5分後だし」
「だけどすごい人ですね、私、殆ど見えない……。うーん、とうっ!」
ぴょん、と大内先輩の隣でちっこい子が飛び跳ねる。大内先輩は割と大柄で、多分180は越えていると思うが隣の子は恐らく150台で、身長差がかなり激しい。
先輩はカラカラと笑ってダウンコートのポケットに手を突っ込み、肩を軽くすくめる。
「へぼいジャンプだなー。10センチくらいしか飛んでなくないか?」
「へぼい言わないでください。これが精一杯なのです!うう、背の高い人が憎いです!」
「はっはっは、俺はしっかりくっきりペンギンの姿が見えるぞ。おまえに逐一報告してやるから、楽しみにしていると良い」
「自分で見なきゃ意味がないじゃないですか!見たいー!」
「おっ、桐谷、飼育員がやってきたであります。バケツに魚がたくさんあります。いま放り投げました!ペンギンが群がる!かわいい!桐谷、ペンギンが超可愛いであります!」
「な、なんですかこの拷問のような実況中継……!先輩のいじわる!鬼!アクマ!すりこぎ!」
すりこぎは果たして悪口なのか。へらへらと笑う大内先輩の隣でキーキーと怒り狂っているのが、件の彼女だ。元気一杯で大学の中でも常に走り回っており、もう少し落ち着けとよく周りに言われているが、意外と一人の時は静かな人で、花とか野菜とかを眺めている時は別人かと思うほど穏やかだったりする。
もしかすると、元気一杯な方はそういう人物像を作っているのかな、と思う時もあったりして。なかなかに複雑そうな女の子だが、彼女を見つめる大内先輩は意地悪そうで嫌味ったらしい笑みを浮かべつつも瞳はとんでもなく優しく、なんかこう……好きなんだなーって、見てて判る。
つうか、普通にあの二人、デートだよな。
「えーっと……名取、は、ペンギン見えるか?」
「あはは、私も見えないなぁ。光秀君は?」
「俺は、飼育係がちょろっと。あと、岩の方にいるペンギンなら何とか」
日曜日が原因なのか、お出かけ日和という事も重なって、水族館は人の海でごった返している。割と寒い季節だと思うのに、意外と外出好きが多いのか。
ジンベイザメなどの大きい魚から、目をこらしても見えない小さな魚、イソギンチャクやタツノオトシゴ。ペンギン、ウミガメ。海の生き物と一口に言っても色々いるものだ。
……さすがに人魚はいないけど。オトヒメ達サカナビト族は、ずっと陸の人間から隠れて生きてきたんだろうか。
そういえば、オトヒメは潮に乗って移動する大移動からはぐれたと言っていた。つまり、彼女にもいるんだろう。家族という存在、仲間の存在が。
それなのに俺は、彼女を釣り上げたまま、そのままで。微妙な気持ちを持て余して、彼女を一人ぼっちにして……。
「わぁ、すごーい!」
隣で名取が歓声を上げる。何時の間にか俯いていた俺はその声に顔を上げ、辺りを見渡した。
そこは巨大な水槽。天井が吹き抜けになっていて、一面がガラス張りになっている。幅も広く、まるで海の一面を切り取ったみたいに、そこは海底の世界だった。
幻想的な情景に自然と足が向き、名取と水槽を見つめる。中は奥行きがわからない程に広く、小魚は群れをなして泳ぎ、時々エイが大きな口を見せながら羽のような体を動かし、悠々と泳いでいく。
「すごいね……。どれだけの種類の魚が入っているんだろう」
「うん、圧巻だな。海の中って感じがするけど、本当に海ってこんな風になってるのかな」
水槽の底を見れば白い砂が敷き詰められ、黒い岩には所々にイソギンチャクが波のようにたゆたっている。その近くを小魚が身を隠すように泳いでいて、中型のサメが目の前を横切る。
碧く、白い。俺達の世界とは違う世界。
オトヒメのいた、世界。
……こんなこと、できるわけがないけれど。もし、この水槽にオトヒメを入れてやれば、彼女は喜ぶだろうか。海みたいですの!とか言って楽しく泳ぐだろうか。
「いや、違う。こんなの、嘘だ」
「光秀君……?」
隣にいた名取が俺の呟きに顔を上げる。だけど、俺は水槽の壁に手をつき、ぐっと拳を握った。
「これは、嘘の海なんだ。そんな所で喜ぶわけがない。だって、この水槽には」
――オトヒメの、家族はいない。
それに、この水槽はいつか果てのある海。鳥カゴも同然の、捕らわれた世界。
そんな所で彼女が喜ぶだと?何を考えてるんだ、俺は。オトヒメが本当に喜ぶのは。彼女が本来いるべき世界は。
自由に、どこまでも自由に泳ぐ事ができる。あの、青い……海。
「かえしてやらなきゃ……」
「オーイ、そろそろ次に行くぞー…って、どした?」
「大内先輩、あの、何だか光秀君の様子が……」
「かえしてやらなきゃ!オトヒメを、ちゃんと海に返さないと、俺……っ!ごめん、みんな!」
唖然とした表情をする大内先輩や、戸惑う名取、キョトンとしている桐谷に頭を下げ、きびすを返して小走りで去る。人の波を縫うようにして水族館を後にすると、駅まで走った。
はっはっと息が切れれば白い吐息が口から零れて、コートの襟口を手で抑えながら歩を進める。
水族館は、海が近い。駅までの道のりは国道に沿っていて、歩道の先には海が見える。冬ならではの灰色な海は水族館の中にあった水槽とは比べ物にならないくらい、広くて果てがない。
……それが、彼女のいた場所なんだ。
あんな1kのオンボロアパートに閉じ込めていいヤツじゃなかったんだ。なのに、俺は。
急く気持ちで電車に乗り込み、転がるようにアパートにつく。
乱暴にガチャガチャと鍵を回して玄関ドアを開ければ、オトヒメがいつものようにミニキッチンで、鍋に味噌を溶いていた。
「あら、おかえりなさいですの、光秀様!思ったよりお早いお帰りですの!ごめんなさい、ごはん、まだですの」
俺が買ったエプロンを身に着けてふよふよと飛んでくるオトヒメ。俺はそんな彼女をわしっと掴み、そのままリビングに走ると塩水を張った洗面器に彼女を入れ、それを小型のクーラーボックスに詰めて肩にかけた。狭いクローゼットの中からメットと鍵を取り出し、アパートを出ると駐輪場に置いている中古バイクのエンジンをかける。
閑静な住宅地に低く響く排気音。シートに跨り、黒のメットを被る。前のめりになるような体勢でハンドルを握ると、アクセルを踏んで走った。
オトヒメは、何も言わない。いや、クーラーボックスに入れているから何かを話していても聞こえない。だけど、それでよかったと思った。
彼女が何かを口にしたら決意が揺らぎそうな気がして、怖かった。
そうだ。俺は、ずっと……ずっと、オトヒメを手放したくなかったんだ。
返したくなかった。本来生きるべき世界、海の世界に戻したくなかった。
全て、全て、俺のエゴからなるもの。自分勝手な想い。俺は、一度として彼女に意思を問わなかった。
否、聞けなかった。「帰りたい」と言われたくなかった。だから、聞かなかった。
彼女が何を考えていたとしても、俺の傍にいて欲しかったから。あの時間を幸せだと思うようになっていたから。
得てしまった幸せを、自らの手で失うのは身を切るように痛い。
だけど彼女は人間じゃないから、人魚だから……。きっと、俺と一緒になる事はできないから。
だから、気付かないようにしていたんだ。自分の本当の気持ち。気付いてしまったら、手放さないといけなくなるから。
一歩を踏み出す事をためらい、ぬるま湯のような幸せに浸かってた。
呆れる程、格好悪い。
一際大きな排気音を立て、波止場近くの駐輪場でエンジンを止める。
メットをバイクに取り付け、クーラーボックスを肩にかけたまま走った。そこは、俺がオトヒメを釣り上げた時みたいに日がすっかりと暮れていて、だけどまだ夕方の時間なのか、ちらほらと歩いている人を見かける。
そんな人達とすれ違いながら波止場のへりを小走りで移動し、やがて人気がなくなった辺りで足を止め、膝をついた。
寒さのせいなのか、それとも別れが嫌なのか、震える手でクーラーボックスを開ける。
中には、ピンク色の洗面器の真ん中で、俺を見上げるオトヒメがいた。
……こんな時なのに、やっぱり可愛い。そのつぶらで黒い瞳、フリルのような尾ひれ。意外と力持ちで器用な、胸ヒレ。
急速に失いたくないという気持ちが喉までせりあがる。それを、ぐっと奥歯でかみ殺して洗面器を持ち上げた。
「オトヒメ」
名を口にするだけで涙がこぼれそうなほど切なくなる。
「海に、帰るんだ。きっと……家族や仲間が、心配してる」
「光秀様……」
「おまえは、海で自由に泳いでる姿が正しいんだ。俺んちみたいな狭いアパートで、外に出る自由もないなんて……そんな窮屈な生活は、もう、させたくない」
あのアパートで、オトヒメが俺のためにごはんをつくってくれる。帰りを待っててくれる。それだけで、俺は幸せになった。嬉しくなった。だけど、オトヒメは俺がいない間ずっと一人で、あの狭いアパートに閉じ込められていた。
本当は海に戻りたかっただろうに。俺が釣り上げてしまったから、俺が、オトヒメを――。
好きに、なってしまったから。
だけど、オトヒメは海に住む者だ。海にいてこそ、彼女は彼女らしくなれる。それなのに俺は、オトヒメの当たり前の自由を奪い、自らのエゴの為に捕らえていた。
まるで、気に入った小鳥を鳥篭に入れてしまう子供のよう。小鳥は外へ出たいのに、可愛いから、気に入ったからという理由だけで小鳥の自由を奪う残酷な子供と思考は同じだ。
自分の為に、他者の尊厳を踏みにじり、ないがしろにしていた。オトヒメ自身の幸せを、俺は考えなかった。
波止場の冷たいコンクリートに膝をつき、項垂れるように洗面器を両手に持つ。オトヒメは暫くくるくるとピンク色の洗面器の中を回ると、ふいに泳ぐのをやめて、俺を再び見上げてきた。
「……光秀様」
「……ん」
「光秀様は、やはり、人魚の私よりも……人間の女性のほうが良いんですの?」
「――は?」
思ってもみない質問に、間の抜けた声が上がる。少し涙ぐんでいたのか、やや鼻声だった。
オトヒメはそんな俺を黒くつぶらな瞳でジッと見つめている。
「今日、光秀様はお友達と遊びに行きましたですの。その時、やっぱり人間の女性の方がいいと思われたんですの?」
「え、いや、何を言ってるんだ。俺は」
「私がいらなくなったから、海に捨ててしまうおつもりですの?」
「捨てるなんて!違う、俺はただ、オトヒメは海に戻る方がいいんじゃないかって――」
本当は手放したくないんだ。だけどオトヒメの幸せを願うならそうするべきだって、俺なりに導き出した答えなのに。……どうしてそんな、悲しい瞳で見つめてくるんだろう。
「わたし、海に戻りたいなんて一言も言ってないですの。それよりも、光秀様はやっぱり、人魚がお傍にいるなんて、お嫌になってしまわれたんですの?」
「そんな事言ってないっつってんだろ!俺は……っだって、おまえが、好きだから……!好きになってしまったから!だから……手放したくなかったんだ。海に帰って欲しくなかったんだ!でも、自由を奪ったり、あれこれと行動に制限をつけたり、そんなのは……俺のエゴだと思って」
好きだからそばにいてほしい。
好きだから自由で幸せに生きてほしい。
まるで相反するような矛盾を孕む気持ちは一つの感情から生まれるもので、俺はその両方の感情を持て余していた。
どっちも叶えたくて、だけど両立できない気持ち。
だから一つを選ぼうとした。俺のエゴを蹴って、オトヒメの幸せを願おうとした。
なのに、オトヒメは少し目を丸くすると、胸ヒレで口元を覆う。
「光秀様……。私も、私も光秀様をお慕いしてますの。大好きですの」
「……へ?」
再び間の抜けた声が出る。オトヒメは洗面器の中から必死に胸ヒレをぱたぱた動かし、俺に訴え続けた。
「最初にお会いした時からお慕い申し上げておりましたですの。だから、光秀様に好きになってもらおうと、一生懸命考えましたですの」
「え、だっておまえ、最初会った時、怖がってただろ。ビクビク怯えて、最後には丸くなって、俺に全く喋ってくれなくなったじゃないか」
「怖がってないですの。あれは、どきどきしていたんですの。胸が苦しくて、動悸を抑えるので精一杯だったんですの。だって、光秀様のイジワルそうな笑顔がとても素敵で、なのに瞳がすごく優しくて、ツンって私の尾ひれを触ってきたりして、そんなの……どきどきしないほうがおかしいですの!」
「……え、ええー……?」
全く意識してなかった。絶対怖がらせてしまったんだって思ってた。なのに、オトヒメは……ただ、ドキドキして恥ずかしかったから、丸くなっていたのか?
つうか、俺の一体どこに惚れる要素が。イジワルそうな笑顔って何だ。大内先輩が桐谷に向けるような笑みを浮かべていたのか、俺は。
「私、一生懸命考えましたの。光秀様が人魚である私を好きになってくださるにはどうしたら良いのか。それで思いついたのが――お母様の教えだったんですの」
「お母様の、教え?それって何だ?」
するとオトヒメは胸ヒレをばっと広げ、満面の笑みを浮かべてドヤッと言ってくる。
「殿方の心を掴むには、衣住食を掴め、ですのっ!」
「……は?衣住食?」
「はいですの!きちんと洗濯された服、清潔なお部屋、そして美味しいごはん!その三つさえ抑えることができれば、大概の男は落ちるとお母様は仰ったんですの!」
「そ、それは……その、人に、よると、思うけど」
世の中にはまるでオカンのように世話をされるのが好きな男と、嫌いな男がいると思う。俺は、まぁ……オトヒメなら、世話されるのも悪くないかなって思うけど。だが、やっぱりというか、オトヒメの母親は古風な人なのかもしれない。そしてどことなく、肉食的なものを感じるのは気のせいか。
しかしオトヒメは俺の言葉に、しゅんとしてどことなく自信がなさそうな雰囲気で見上げてきた。
「み、光秀様は……お嫌でしたの?わたし、お世話を焼きすぎましたですの?お洗濯を怒られた時も思いましたの。私、余計な事をしているのかもしれないって。だけど、私……お世話を焼く事しか、できなかったんですの。だって、人魚……だから」
「オトヒメ……」
「本当は、人間の女の子みたいに沢山着飾って、魅力的に見せたかったですの!悩殺したかったですの!」
「い、いや、悩殺はしなくていいけど。てか、悩殺されたくないし」
というか、悩殺が可能なら悩殺するつもりだったのか?オトヒメ。やっぱりどこか肉食的な印象を覚えるのだが。オトヒメは俺が思うよりもずっと積極的で、自分の恋を懸命に頑張っていたのかもしれない。
でも、そうしたら俺達って……結局。
「あの、オトヒメ、あのさ。もしかして、俺達……両思い、なのかな」
「え……?」
「だ、だって、俺、おまえが好きで……おまえは、俺のことが好きなんだろ?だから、両思い」
「……あ、そういえば……。そう、ですの?」
実感がないようにキョトンと体を傾けるオトヒメ。だけど、俺はじわじわと心の中が暖かくなるのを感じていた。
手放さなくていいのか。俺の内に閉じ込めていいのか。オトヒメは、自ら望んで、俺の傍にいてくれるのか。
「光秀様……」
「オトヒメ。いいのか?俺のアパート、すっげー狭くてさ、安普請で、しかも俺、まだ学生だから贅沢なこともさせてやれなくて、だけど、それでも」
「いいですの。私、光秀様のお傍にいられるのでしたら、どんな所でも平気ですの!お父様とお母様も、きっと判ってくださいますの!」
「そうか?なら……、喜んでもいいんだよな、ここって」
おずおずと聞いてみる。すると、オトヒメはしばらく俺の顔を見つめて、やがて嬉しそうににっこりと笑い、くるりと一回転して胸ヒレを大きく広げた。
「勿論ですの!」
「あ、はは。はははっ…!よ、良かった。良かった……!俺、ずっと悩んで、でも良かった。オトヒメ!」
「光秀様……!私も嬉しいですの!これからもずっと一緒にいたいですの!」
「俺もだ、オトヒメ。……お前に出会えて、良かったよ」
つぶらな瞳、手の平サイズの金魚みたいな姿をしたオトヒメ。もし、彼女が人魚姿になったとしても、それがどんな姿だったとしても、俺はこの気持ちが薄れる事はないだろう。
コイツがどんなにキテレツで奇妙な存在でも。オトヒメの可愛さ、俺がオトヒメを好きになった要素は何一つ変わらないのだから。
日が落ちた波止場で一人、洗面器を両手にかかえて歓喜する俺。
後ろを、犬の散歩で歩いていたおっさんが不審そうに眺めて行った。