5.おでんの味は、後悔の味
さて、目下現在危機的状況にある俺は大学の片隅で一人、頭を抱えていた。
どうしよう。
どうしよう。オトヒメが可愛い。
割と深刻な苦悩である。なんというか、そう。実家で飼ってる猫に性的興奮を覚えてしまった……それ位、ありえない感情を持て余している。
いや、別にオトヒメに対し、性的興奮を覚えているわけではないが。
そうじゃなくて、それは例えばの話で、つまり何が言いたいのかというと――。
「どうしよう、オトヒメが可愛い……」
ブツブツと呟きながら、小さな菜園スペースに水をやる。俺は大学で、家庭菜園サークルというようわからん地味サークルに所属していた。誘ったのは勿論、このサークルに所属している大内先輩。
まぁ作った野菜は持ち帰る事ができるし、自分達が作ったという意識が入るせいか、家庭菜園の野菜はスーパーのものより断然美味しい。だから決して悪いサークルではないのだけど。地味なだけで。
今は冬の季節。畑の一面はどこか寂しげで、秋に皆で種まきしたそら豆や、端のほうにあるホウレン草、大体年中植えられているミズナ、コマツナ。赤などの極彩色が足りないせいで、彩りに欠けるといえば確かに欠ける。
そういえば……つい最近までは、ここで作った野菜を行き着けの居酒屋に持って行き、適当に料理してもらってそれをアテに日本酒を飲んでいた。
だけど最近は全くだ。そう、オトヒメが来てから。
「はぁ……」
水遣りを終えてシャワーノズルのついたホースを片付けつつ、溜息をつく。
いよいよヤバイと思ったのは今朝のことだ。大学最寄の駅について大通りを歩いている途中、ブライダルショップのショーウィンドーに目が向いた。
白く輝くふわふわのウェデイングドレス。それを見て、ふわんと想像してしまったのだ。
可愛らしく着飾った、朱色の金魚の姿を――。
「うおああああ」
思い出して再び凹んでしまい、給水栓の近くで蹲る。
これはいかん。いかんレベルだ。ペットショップで女の子が「この金魚かわいー」と暢気に言っている横で「この金魚マジ可愛い……」って真剣に呟いてる怪しい男レベルだ。
だがしかし弁明させて頂くと、俺はペットショップの水槽でふよふよ泳いでいる金魚には何の感情も覚えない。確かに可愛いなとは思うけどそれは実家の猫レベルで、オトヒメに対するものだけがその感情レベルを軽く飛び越えているのだ。その飛距離およそ10キロメートルくらい。
だけどそれがいかんと感じる。ヤバイと思う。考えちゃいけないと心がブレーキをかける。
俺は、俺はどうしたらいいんだろう。
「光秀君、水やりおわったの?」
唐突に後方から声が聞こえる。蹲ったまま振り返れば、そこには名取がいた。相変わらずの内巻きボブカットに、ファーの襟がついた白いコート。そこからのびる足はアーガイル柄のタイツで、もこもこしたブーツを履いている。
相変わらず可愛い姿だ。
しかし、名取に対する「可愛い」とオトヒメに対する「可愛い」。何かが明確に違う気がするんだけど、どこだろう。
とりあえず蹲ったままというのもどうかと思ったので立ち上がり、給水栓近くに置いていたトートバックを肩にかける。
「今終わったトコだけど」
「そっか。……あのね、光秀君。今度の日曜日、空いてる?」
「……え」
顔を上げ、改めて名取を見た。彼女は白コートのファー部分を指先で弄りながらやや視線をナナメ下に向けており、その表情は若干頬が赤く、伏せられた瞳からどこか照れのようなものを感じる。
ま、まさかこれは、まさかの展開?それとも俺が自意識過剰なだけ?
どうにも質問の意図が見えなくて返事を言いあぐねていると、俺の沈黙に名取が慌てて両手を振り、顔を上げた。
「違うんだよ。あの、大内先輩がね、チケットをくれたの。水族館でね、四枚あるから一人誘っていいって、それで聞いてみたんだよ」
「あ、ああ……そういう事。大内先輩は誰つれていくの?」
「それは勿論、たまきちゃんだよ」
たまきちゃん。そうだった、思い出した。最近大内先輩は彼女ができたんだった。俺より年下の大学一年生で、底抜けに明るい女の子。彼女を隣に置いていると、存在がやかましい大内先輩がなぜか落ち着いた大人の男に見えるという、恐ろしい対比効果を生む女の子。
だけどそれって、大内先輩からしてみればデートみたいなもので、そこに別の男女ペアが同伴するとなると……。
「あの、そういう事なら名取は女の友達連れて行ったほうがいいじゃないか?俺だと、なんか……具合、悪くない?名取がさ」
「私?どうして私が具合悪いの?」
キョトンと首を傾げる名取。いや、そう言うのって普通女の子のほうが機微に聡くない?だってさ、片方がデートみたいにキャッキャウフフしてるのに、俺が名取と行ったところで、何を楽しめというのだ。
これなんていう生物か知ってる?ちんあなごって言うんだぜ。やだー光秀君セクハラっぽいー!なんて楽しく会話が弾むわけがない。非常に居た堪れない空気を感じながら無言でペンギンやイワシを見て、イルカショーに無言で拍手して、帰り際に土産物屋でオトヒメに何かキーホルダー的なものを買って帰る……そんな情景しか思い浮かばない。それなら、女友達でも誘って行ったほうが、よほど盛り上がるのではないだろうか。
なのに名取は毛糸の手袋を嵌めた手をぎゅっと握り、言いづらそうに口を開く。
「あ、あのね、最近光秀君、様子がおかしいっていうか……何か落ち込んでるみたいじゃない?」
様子がおかしい。うん、確かに最近の俺はオカシイと思う。しかし名取にまで心配される程、ハタから見て酷いのだろうか、俺は。
「それで大内先輩に相談したら、皆で遊びに行こうって話になったの。だから、別に他意はないんだよ。光秀君、おサカナ好きでしょ?私も好きだし……それで、どうかなって思ったの」
成る程、大内先輩が気を揉んでくれたのか。というか、そんなに俺、おかしく見える?……見えるんだろうな。
ここ最近の俺は確かにオトヒメの事ばかり考えていて、一人自己嫌悪に陥ったり落ち込んだり苦悩したりで脳内がえらいことになっている。
でも確かに、これはいい気分転換になるかもしれない。丁度、日曜日はバイトのシフトが入ってなかったし。
だが、ふいにオトヒメの姿が脳内をかすめた。
アイツはいつも元気で、笑顔を絶やさず俺にご飯をつくってくれるけど。
アイツは俺が釣り上げてから、一度も……自由を得ていない。
洗濯干しを注意してから特にそうだ。オトヒメは毎日毎日、あのオンボロアパートの1kで、俺が外出している間は、ずっと、ひとりで。
なのに俺は当たり前のように大学に行ってバイトに行って、そして……遊びに行く。
「……あの、光秀君?どうかな」
気まずそうな名取の声を聞いて、我に返った俺はぶんぶんと首を振る。すると彼女が断られたと思ったのか若干悲しそうな顔をしたので、慌てて違うと手を振った。
「い、行くよ。バイトも休みだし。気使ってくれてありがとうな、名取。大内先輩にも言っとくよ」
「本当?よかった!じゃあ詳細はメールするね」
「うん。ありがとな」
すると名取はニッコリと笑って頷き、手を振って去っていく。俺も手を振り返して、彼女の姿が見えなくなると溜息を一つついた。
胸を突く、針のような罪悪感。だけど、心の中で言い訳をする。
仕方ないだろ。だって外は本当に危ないんだ。彼女はちゃんと守ってあげなきゃ。オトヒメは小さくて、弱くて、あんなのがふよふよその辺に漂っていたら絶対危ない。それに、悪い人間がいるかもしれないし、世間に知られたら大騒ぎになる。
だから仕方が無い。彼女が自由になれないのは理由があるんだ。
それならいっそ――……してしまえばいいのに。
どうしてお前はそれを、しない?
唇を手で抑え、目を見開く。
心の中に一瞬、この真冬の寒さよりも冷たい、氷のような俺の声が聞こえてきた。
冷静で、沈着で、ぐうの音もでない、正論。
しかし俺は躍起になったように首を振り、トートバッグを握り締めて帰路の途につく。
考えたくない。選びたくない。その選択は絶対に気付きたくない。
家に帰れば彼女が待っている。おたまを持って、俺を明るく出迎えてくれる。
まだ電車にも乗っていないのに、脳が覚えているのか鼻腔の奥で、昆布だしの良い香りがした。
その日の夕飯は冬らしいおでんだった。ほんの少し黄身がとろけた俺好みの固ゆで卵はおいしそうな醤油色をしていて、見ただけでもダシが染みているとわかる大根は、箸でさくりと切ると芯まで出汁の味がついていた。練り物は焼きちくわとがんも。欠かせない餅巾着。どれも俺が好きなタネだが、俺が買い物しているので当たり前といえば当たり前の話。
おでんは一応汁物に該当するのか、味噌汁はなかったけど代わりにご飯がかやくご飯だった。鶏のささみとゴボウ、ニンジン、こんにゃくと具沢山で、これだけでもおかわりができる程、すごく美味しい。
「オトヒメ、大根、すごく美味しい。おまえも食べてみろよ。昆布ばっかりも飽きるだろ?」
「そうですの?わたしは昆布だけでも大満足ですの!でも、光秀様が仰るならお一つ頂くですの」
色々な海藻を試してみたが、オトヒメは断然昆布派だった。それも日高昆布一択だ。ヒジキやワカメ、一応海藻と名のつくものは一通り食べさせたが、中でも日高昆布が感動する程美味しかったらしい。
だから俺と食事を共にする時、大体オトヒメは水で戻した日高昆布を食べていて、いい感じに出汁の出た戻し汁は俺の味噌汁になったり、おでんになったり、色々と再活用されている。……というか、本来昆布は出汁を取る為に使われるのだが。
ミニキッチンから小皿を取ってきて、大根を半分に切ってわけてやる。オトヒメはふよふよと飛んで近づき、はむはむと大根を食べ始めた。
「おいしいですの!お料理の最中はお出汁しか味見してなかったですの。お大根、柔らかくてほっくりですのー!」
「そうだろ?俺もおでんといえばやっぱり大根なんだよな。それにしても、オトヒメは一応雑食なんだから他にも食べたいもの言っていいんだぞ?そうだ、お菓子なんかどうだ?」
「オカシ……。きんつば、とかですの?」
「……。まぁ、きんつばも菓子だけど。妙に渋いよな、おまえの知識って。ケーキとかクッキーとか、他にもあるだろ。何か適当に買って来るから、今度色々食べてみろよ」
はいですの、と大根を食べながら目をきらきらさせて頷くオトヒメ。うむ、可愛い。……可愛い、けど。
俺はコホンと咳払いをして、本来言わなければならない事を口にする。
「それで……さ。あの、明後日なんだけど。日曜日な、俺……ちょっと出かけるから」
「わかりましたですの。いつもの『あるばいと』ですの?」
悪気なく体を傾けるオトヒメの瞳はどこまでもまっすぐで。一つも俺の行動に対し、疑問も不満も感じていない。オトヒメは俺に釣り上げられてから一度もちゃんと外に出ていないのに、彼女は何を考えて今、俺と共にいるのか。
最初は、そう。……俺が冗談交じりに食べられるのか?ってからかって、オトヒメがそれに怯えてしまった。そして次の日、自分が食材にされたくないから、俺が腹をすかせる前にご飯を作るのだと言ってきた。
……もしかして、それはまだ、続いているのか。オトヒメは内心で俺に……怯えているのか。
まさか、ありえない。だけど。
カチャン、と箸を置く。オトヒメが不思議そうに俺を見上げた。
「アルバイトじゃない。遊びに、行くんだ。……その、大学の人と」
「はい、えっと……ご学友様ですの?」
「ご学友って言うほど大層じゃないけど。大学の先輩とその彼女と、俺の同期生……の女の子」
オトヒメが感情の読めないつぶらな瞳でじっと見つめてくる。何となく、居心地が悪くて視線を反らした。どうして、どうして俺はこんなにも罪悪感に苛まれているのか。
本当は、性別なんて言う必要なんてなかった。ただ、大学の知り合いと行くんだって言えば一言で済む話だった。なのに、何故俺は馬鹿正直にメンバーの内容まで口にしているんだろう。
……それは……。隠していた方が、辛いと思った、から?
「そうですの。それじゃあ、楽しんで行ってらっしゃいませですの」
オトヒメの口調は変わらず、穏やかで優しい。
そこに怯えもなければ不満も見えず、逆に言えば一つとして彼女の感情が読めない。
「……うん。土産、買って来るから」
「はい、楽しみにしていますの」
そうして、はくはくと大根を食べ進めるオトヒメ。そんな彼女を目の端に納めながら、俺も醤油タマゴを口に含む。
居心地が悪くて、後味が悪くて。
だけどオトヒメの作った醤油タマゴは、格別に美味しかった。