3.人魚のたしなみは、お料理ですの
カチャンと鍵を回してやたらと重い鉄製の玄関ドアを開ける。
もし、中に誰もいなければ……今朝までの事は壮大なる俺の妄想劇だったのだろう。そう考えてもおかしくない程、今現在の俺は超非現実的な状況下にある。
「ただいまー」
一応、声をかけてみる。しかし1kの狭い部屋はシンと静まっていて物音一つ聞こえない。ですのですのといった可愛い声も勿論聞こえない。
履きなれたスニーカーを脱ぎ、6畳部屋に入る。コタツテーブルには昨日のまま置きっぱなしになっていたピンク色の洗面器があって、中には勿論何も入っていない。
今朝食べたはずのカップ麺はなく、ミニキッチンに戻ってみれば分別ゴミのプラ入れに入っていた。きちんとすすがれていて、食べ残しひとつ見当たらない。
「えっと……」
ぽり、と首を掻く。状況を、状況を把握しろ俺。
とりあえず探しようがない程にこの部屋には誰もいない。あの金魚みたいな宙を浮くけったいなイキモノも勿論いない。
と、いうことは。
やっぱり今朝までのアレは、俺の……妄想?
「やべ。俺、何かのビョーキ?夢遊病ってやつ?」
深刻だ。病院レベルだ。どうでもいいけどこの、買ってきたばかりの荷物をどうしよう。
その時、カラコロ……と後ろで不思議な物音がした。ぎょっとして振り向くが、しかし誰もいない。だが、確実にカラコロカラコロと聞こえて、しばらくすると勢いよく水が流れる音がした。
……待て。まさかこの音って。
カチャリとユニットバスのドアが開いた。
「ふぁ~…すっきりですの。って、きゃーっ!光秀様、おかえりなさいですの!やだ、もう。全然気付かなかったですのっ!」
あたふたと慌て出すオトヒメ。その姿は相変わらずの手の平サイズの金魚姿で、やはり宙を浮いている。
「も、もしかして、今まで、と、トイレに行ってたのか?」
自分でも驚くほどかすれた声が出る。何故だ。オトヒメは恥ずかしそうに胸ヒレで顔を隠すと、ぽっと頬を赤く染めた……かのように、ふるふると身を震わせる。
「恥ずかしいですの。殿方には悟られないように行くのが礼儀だと、お母様に教えてもらいましたのに」
うん。存分奥ゆかしいな、サカナビト族。
しかし何というか、その手の平サイズでどうやってトイレットペーパーを使ったのか。あと、その身体では絶対に座ることなどできない便座でどうやって致したのか。色々と謎は尽きないが、しかし考えてみれば本物の金魚は水槽の中で垂れ流しだし、もし、オトヒメが宙を浮かびながらアレをしていたら、俺は素でドン引きしただろう。そういう意味ではトイレを使うオトヒメは非常にらしいというか、そうであってよかったという気持ちがある。……だが。
「はぁ……」
溜息をつき、膝をつく。それは落胆の溜息ではなく、明らかに安堵の溜息だった。……どうしてだ?どうして、俺はこんなに心がほっとしているのだろう。
精神的な病気じゃなかったからか?それとも、オトヒメが去っていなかったからか?
どうして。
「光秀様、どうなさったんですの?」
「……いや、その」
何て言えばいいんだろう。自分の気持ちがよく判らない俺には、何かを答えることができない。しかし何かを言わなければ。そう。何故ほっとしたのか。――そうだ。
「い、ろ、いろ、色々、買ってきたからさ。疲れて」
カサリと手元でビニール袋が音を立てる。そうだ。俺はきっと、この買い物が無駄じゃなくてよかったって安堵したんだ。結構沢山買ったから。こんなの、俺一人じゃどうしようもできないから。
そう、きっとそうだ。実際困るし。
「まぁ!光秀様、お鍋にフライパン、どちらも買ってくださったんですの?嬉しいですの!」
「何がいいのかさっぱりわからなくて、とりあえず安物だけど。一応包丁はミニキッチンにあったと思う。それから野菜も……なんか、適当に買ってきた。あと、これ」
「……?何ですの?」
がさがさと大きな袋を取り出す。それは、北海道物産展で買ってきた昆布だった。しかしオトヒメは不思議そうに昆布を眺めている。
もしかして、干した昆布を見たことがないのか。
「昆布だよ。これは干したもので、水で戻せばオトヒメも食べられると思う」
「昆布!?これが昆布ですの!」
「うん。それから、他にも。えっとこれが生ワカメで、これが生ヒジキ。何食うかわからないから、海藻サラダも買ってみた」
「まぁ!これはわかりますの。でも、若布にしては……この白いツブツブは何ですの?」
「それは塩だよ。生ワカメっていうと塩蔵ワカメしかなかったんだ。だけどこれも洗えば食べられると思う」
そうなんですの~と目を丸くするオトヒメの目はきらきらと輝いていて、海藻に対する並々ならぬ期待感を感じた。彼女の口に合えばいいのだが。結構高かったし、高級昆布。
俺が水で昆布を浸したりボウルで塩蔵ワカメを洗っている間、早速オトヒメは料理を始めた。あの手の平サイズの金魚モドキがフライパン片手に菜ばし持って何かを炒める姿はとてもシュールだったが、いい加減その手の突っ込みはしないでおこうと、視線をそらした。
ちなみに、夕飯は白菜と豚肉のはさみ蒸しとアサリの味噌汁、ご飯だった。アジは結局オトヒメの前で食べる気がしなかったので、行きつけの居酒屋に持って行って、調理だけお願いした。明日の朝に取りに行けば、きっとアジフライになって戻ってくるだろう。
そして件の昆布だが、やはり高級昆布がよかったのかオトヒメのウケはよかった。中でも日高昆布のウケは相当だった。利尻も美味しかったようだが、柔らかさと味のまろやかさで日高の勝ちだと言う。確かに、店員にも日高昆布は昆布巻きなどの昆布料理に向いているとお薦めされたので、その辺りがきっとオトヒメの口に合ったのだろう。
宙を浮く不思議な自称人魚、オトヒメ。彼女はどうやら、寝る時だけは塩水の中が良いらしい。彼女好みの塩分濃度にした洗面器の中でゆったりとくつろぐように泳ぐオトヒメはやっぱり金魚みたいで、だけど金魚には覚えない不思議な可愛らしさを感じた。
何だろう、この感情。今まで感じたことのない気持ちを持て余す。
朝の匂いが昆布だしのいい匂いに変わった。つやのあるご飯。上品な甘さのある出汁巻き卵。
あのヘボさ満載の1口コンロでよく作れるなと思う程、オトヒメは料理がうまい。彼女曰く「たしなみですの」だそうだが、基本単純性能の俺はその嗜みが有難いと思う程、ごはんが美味しい。
数日もすれば、今日はどんなメシ作ってるのかな、と考えたりして。買い物は俺がするから、自分の食べたい食材を安く買ってみたりして。
オトヒメの料理は純和風だ。そういえば洋風の料理は一つも見ていない。大体がいわゆる和食と、日本の家庭料理。俺もまぁ、どちらかと言うと和食派なので不満はないけど、それもたしなみの一つなのだろうか?
彼女はサカナを捌けないので、作る料理は魚以外の海鮮類と肉料理、野菜料理に分けられる。いか大根とたこの唐揚げが今の所俺的ランキング1位2位だ。
自然と、オトヒメのことを考える事が増えていく。
「割烹着か……。でも、アイツはエプロンのほうが似合いそうだよなぁ……」
「光秀。食堂のおばちゃんをガン見して何をブツブツ言ってるんだ」
今日も今日とて大学の昼休み。親子丼をぱくつきながら食堂の調理場であくせくと働くおばちゃんを見て、何となく想像する。
割烹着のオトヒメはどう見ても胸ヒレが袖からでてこないだろう。だけど、エプロンならこう、身体にかけるような感じで飾れば可愛くなる気がする。
「ピンクがいいな。……フリルつきのかわいいエプロン。リボンなんかついてて……うん、似合う似合う」
「エプロン?おい光秀。何の話だ。やっぱりお前、彼女できたのか?」
俺が一人で昼食を食べていると何故かよく隣にやってくる大内先輩が、チャーハンをかぱかぱ食べつつ聞いて来る。
「彼女じゃないですよ」
「え。じゃあまさかお前、自分が着」
「着ませんそんな趣味ありません。もう先輩、人の独り言に茶々入れないでくださいよ」
ぷいっと顔をそむけてぱくぱくと親子丼を食べてしまう。番茶を飲んで、ほわりと彼女を思い浮かべた。
ピンク色のエプロンを纏って、どうやって持ってるのかさっぱりわからないけど、おたまとかしゃもじとか小さい胸ヒレで持ちながら「ごはんできましたですのっ!」とくるくる回ってるオトヒメ。
やばい、可愛い。やっぱり可愛い。着せたい。
「でもオトヒメくらいの小ささだと、エプロン着させるったって、どうやれば……」
「オトヒメ?もしかしてソレ、前に話してたペットのサカナか?」
性懲りもなくしつこく先輩が話しかけてくるが、気にしない。それよりもだ。俺はオトヒメにエプロンを着せてみたい。だけど、あの手の平サイズに丁度あうエプロンなんか……。
「ああっそうだ!あれがあるじゃないか!」
ガタンと立ち上がると、大内先輩がびっくりしたように俺を見上げてくる。しかし俺はそれどころじゃなかった。そうだ。俺には姉がいる。その姉が幼年期、遊んでいたじゃないか。
「人形用ですよ先輩!」
「え、人形用?何の話?」
「人形用のエプロンを買ってくれば、オトヒメにもエプロンをつけることができます!」
「お……おう。……エプロン?」
俺はよく姉に強制連行され、人形遊びにつきあっていた。役柄はいつもボーイフレンドのタケル君だった。タケル君は姉の演じる二人の金髪人形に言い寄られ、三角関係になり、昼ドラも真っ青なドロ沼関係に陥って常に最後には「どっちを選ぶの!?」と鬼の形相で姉が迫り、半泣きになりながらも己で答えを出して、どちらかを選んでいた。勿論、選ばれなかった方の女(の人形を演じる姉)はさめざめと泣きはじめ、超被害者妄想丸出しの恨みつらみをずっと呟いていた。
あの時よく、姉は女の人形にエプロンを着けさせ、タケル君になにやらご飯をつくっていたのだ。
あれだ。あれを買おう。
「ふたりともまだご飯たべてるの?午後の講義始まっちゃうよ……って、光秀君、どうしたの?」
立ち上がってぐっと拳を握り締めていると、同じ食堂にいたのか俺達を見つけて食堂に入ってきたのか、俺と同じ2年で同じサークルに入っている名取がやってきた。
内巻きのボブカットに白のタートルネック。少し幼顔といった容姿を持つ名取は割と可愛く、同じ学科の中でも人気がある。
「なんか、ペットのサカナに人形用のエプロンをつけるんだとさ」
「え……?なんですか、それ。意味がわからないですよ、先輩」
「俺もサッパリわからん。数日前からなんかオカシイんだよな、光秀のヤツ」
ぽりぽりと頭を掻く先輩に、不審な目で俺を見てくる名取。誤解を解きたいのはヤマヤマだったが、オトヒメの事を説明するわけにもいかず、ただ黙り込む。大体、人の独り言に聞き耳立てる方が悪いんだ。
とりあえず色々聞かれるのも面倒なので、逃げるようにカラになった丼を戻し午後の講義に向かう。
頭の中では、バイト帰りにオモチャ屋に寄ろうとそればかりを考えていた。