2.俺はお前を人魚と認めない
シュンシュン、シュンシュン。
――唐突に、蒸気機関車の走る音が聞こえる。
シュー、ゴポポポ……。
一体何の音なのか。俺の部屋で蒸気機関車が走るわけがない。ミニSLがあるわけでもなし。それにこの音、すごく馴染みがある気が。
「あっ!間違えたですの。かやくは先に入れるんですの!今入れても大丈夫……ですの?」
ぴりぴり、ぱらぱら。
えーっと……考えろ俺。火薬ってなんだ。かやく?それから、何か聞き覚えのあるですのですのという声。
しばらくむにゃむにゃと布団の中で考えて、ようやく思考に光が差す。
ハッとしてがばりと布団から跳ね起きた。
「おい人魚、なにしてる……って、おまえ本当になにしてるの!?」
「きゃーっ!?お、おはようございますですの!何って……お湯をわかしていたんですの」
目の前にいたのは、俺が昨日海で釣り上げたばかりの人魚。しかし、その人魚はあろうことか宙を浮いていた。ふよふよと、まるで空中が海であるかのように浮かんだまま、フリルみたいな尾ひれがふわふわしている。
――ちょっとまて、ニンギョってそんな芸当までできるのか。否、できるわけないだろ。俺は絶対お前の存在を人魚だと認めない!
「おまえ一体なんなんだよ!なんで宙に浮いて、しかも湯入りのケトルが持てるんだよ!どうやったら持てるのか俺に一から十まで懇切丁寧に教えてくれ!」
「そ、そんなこと言われましても。こうやって、よいしょって持ちましたですの。コンロのツマミがちょっと硬かったですの」
「ああ……うん、そのツマミ硬いよな。俺もそう思う……じゃなくて!そのちっせー金魚みたいな身体でケトルっ…!ああもう、もう、いい。考えるの、しんどい……」
どさりと布団の上にあぐらを組んで、頭を抱える。俺はなんつうものを釣り上げてしまったんだ。自分を人魚とのたまうよくわからんサカナモドキは赤い金魚みたいな形をしていて、大きさ的には俺の手の平サイズ。それが、自分の身体の5倍以上はあるケトルに水を入れて湯沸かしているんだぞ?どうすりゃいいのこの状況!
「って、え、湯沸かす……?おい、人魚モドキ。なんで湯なんか沸かしてるんだよ」
「それは、えっと……。あ、時間ですの。できましたですのっ!」
ぱんぱかぱーんと人魚の後ろでくす球が開いたような歓声を上げ、人魚が小指の先サイズのちっこい胸ヒレをちこちこ動かしてコタツテーブルの上に置かれたインスタントラーメンの蓋をぴりぴりと開ける。そしてタレの袋を開けるとそれを入れ、箸を持ってくるくると軽くかき混ぜた。
……あれは、俺の主食。カップ麺?なんでそんなものを。もしかして、食うのか?
「ごはんですのっ!」
「ああ、まぁ、ごはんに違いはないかもしれないけど」
「貴方さまのごはんを作りましたですのっ!」
「それ、俺用だったの。なんだってそんな事したんだよ」
ほかほかと湯気を立てるラーメンは俺のお気に入り。背脂入りとんこつ豚ラーメン。1.5倍のやつだ。
人魚は布巾で胸ヒレを拭うと、えっへんとえばるように俺の目の前に移動してくる。
「わたし、昨晩考えましたですの。貴方さまに食べられないようにするにはどうしたらよいのか」
「だから冗談だって言ってるのに。頼まれても食べねえよ」
「万が一という事がございますの!だからわたし、貴方さまがお腹をすかせる前にごはんをつくろうと思いましたの。ですけど、この家には非常食と魚、アサリしかなかったですの……。わたし、魚は苦手で」
そういえば、昨日アジとアサリを市場で購入したな。冷蔵庫に入れっぱなしになっていた。今夜あたり、居酒屋のおっさんに焼いてもらおう。アサリは砂抜きだけしておいて、味噌汁を作って頂きたい。
「ええと、魚が苦手って、つまり捌いたり食べたりが苦手って事なのか」
「はい。私達サカナビトと魚は生物学上違う生き物なのだと判ってはいるのですが、どうしても……お父様を思い起こしてしまうんですの」
マテ。おまえの父親はまんま魚なのか?そりゃ、魚捌くのに抵抗があって当たり前だ。食べるのも難しいだろう。頭が判っていても口がついていかない。生理的にきっと受け付けないのだ。
「……。事情は判った。作ってもらったなら、まぁ、食うけど」
「良かったですの!お茶も淹れますの!冷蔵庫で見つけましたの!」
俺がのそのそとコタツに移動すると、人魚が嬉しそうにふよふよと宙を跳び、冷蔵庫の扉を開けて500mlペットボトルを取ってくる。
……うん。色々、深く考えるのはやめよう。ものすげえつっこみたいけど、ひとつひとつ丁寧につっこんでいたら俺が心労で倒れてしまう。
今日は大学もあるのだ。外せない講義もあるし、ごはんを食べたらさっさとシャワーして大学に行きたい。
ぱし、と箸を片手に手を合わせ、ずるずると食べ始めた。
「おいしいですの?」
「うん、うまい」
「お茶ですの!」
「うん、ありがとう……。あのさ」
ずる、と麺をすすってからチラリと金魚みたいな人魚を見る。なんですの?と言わんばかりに人魚が首…というか、身体ごとナナメに傾いた。
「おまえ、名前なんていうの」
そうなのだ。頭がまだ働いていなかったのか、今の今までこの人魚の名を聞いていなかった。……とは言うものの、人魚……サカナビト族に果たして名前の文化があるのか。
しかし人魚は暫くポケッと呆けたように俺を眺めて、ようやく「きゃーっ」と慌てて声を上げた。
「そういえば名乗るのを忘れていたですのっ!わたし、オトヒメと申しますのっ」
「オトヒメ……。なんか、しっくり来るようなしないような、何とも言い難い名前だな。俺は光秀だよ」
「みつひで、光秀様!」
俺の周りをクルクル回るオトヒメ。そんな彼女をよそに、ずるずるとラーメンをすする。……そういえば。コイツは何を食うのだろうか。
「それでさオトヒメ。おまえ、何食べるの?腹減ってるんだろ?そもそも空腹が原因で俺のルアーにひっかかったんだし」
「あうっ……。そうですの。実は、かなりおなかがすいてるんですの……」
元気よく回っていたものが一変し、しょぼしょぼとうなだれるオトヒメ。全てのヒレが下を向き、背骨がぐんにょりと曲がっている。
昨日、オトヒメは海藻がどうたらと言っていたな。あと、イソギンチャクとか。
「海藻って、ワカメとかコンブくらいしかスーパーにないけど、イソギンチャクはねえし。とりあえずさ、これ、食うか?食べられるのか?」
試しに、とラーメンの麺を一本箸でつまんでみる。するとオトヒメはつまんだ麺の端にパクッと食いつき、ちゅるちゅると器用にすすった。そしてモグモグと口吻を動かし、ぱかっと目を見開く。
「おいしいですのー!!」
「そ、そうか。よかったな。雑食なんだな、おまえ」
良かった。海藻オンリーだったら困る所だった。俺は一度ミニキッチンに立つと何ヶ月単位で使っていない茶碗を取り、軽くタオルで拭いてからラーメンを少し分けてやる。
俺が自分の分を食べている間、オトヒメも一心不乱にラーメンをすすっていた。
「らーめんという食べ物はとても美味しかったです。ご馳走になりました、光秀様」
「こっちこそ、作ってくれてご馳走様。でもオトヒメ、やっぱり海藻のほうが好きなんじゃないか?」
食事を終え、ペットボトルのお茶を二人…いや、一人と一匹で分ける。俺が直接ペットボトルに口をつけて飲んでいると、紙コップに顔をつっこみ、お茶をこくこく飲んでいたオトヒメがツイ、と顔を上げた。
「それは確かに、海藻のほうが美味しいですの。貝やイカ、タコさんも美味しいですの」
「ああ成程。海の幸自体は食べられるんだな。魚が生理的にダメなだけで」
「そうですの。でも、海辺の海藻はおいしくなかったですの。何だかどろくさくて、硬いばかりで味わいがなかったですの」
「ふぅん。まぁ、波止場近くの海藻は確かに、美味しくなさそうな感じがするな。でも、ちゃんとした業者が作ってるワカメやコンブなら美味しいんじゃないか?実際、俺が美味しいと感じてるんだから」
「……そうですの?」
「わかんねえけど。とりあえずスーパーで買ってみる。他に食べたいものはあるか?」
聞けば、オトヒメは身体を傾けて「うーん…」と悩み出す。やがて何かを思いついたのか、ふよふよと俺の目の前にきて、ビシッと胸ヒレをつきつけてきた。
「お台所を拝見いたしましたけど、光秀様は食生活が乱れている気がいたしますの。お野菜もありませんし、調理器具もヤカンしかなかったですの。だからせめてお鍋かフライパンと、お野菜を買ってきてほしいですの」
「おまえは俺のオカンか。それにそれ、オトヒメの食べたいものじゃないだろ」
「わたしはその……あの、いいんですの。み、光秀様は海藻を買ってきてくださると仰いますし、なにより、わたしは料理をして光秀様に差し上げなければ、いつわたしが食材として扱われるか、わかったものではありませんの!」
「だから食わねーって言ってるだろーが信じろ!とにかく、わかった。まぁ、てきとーに買ってくるから。家の中は好きにつかっていいよ。俺、大学行くわ……」
よろりと立ち上がり、スラックスから普段着に着替える。突然俺が服を脱ぎ出したのが原因なのか、オトヒメは悲鳴を上げてユニットバスに逃げて行った。
あれは恥ずかしがっているのか?しかし俺は、金魚モドキに羞恥は覚えない。人間の女の子ならともかく。
ともあれ、俺はさっさと着替えるといつものトートバックを肩にかけ、家を出た。シャワーを浴びるのを忘れていた事に気づいたのは、電車に乗って2駅目を通り過ぎた頃だった。
「はぁ……」
重い溜息が口からこぼれ出る。大学の昼休み。そういえばアイツは昼、何か食べているのだろうか。
「なんだよー?不景気な溜息つきやがって。溜息つくと幸せが逃げちゃうんだぞ?」
「知らないんですか?大内先輩。溜息は腹式呼吸の一つなんですよ。やりすぎはよくありませんが、たまにする程度なら良いリラクゼーション方法の一つなんです」
「また小難しい事言いやがって。このインテリジェンヌ野郎が」
「それはインテリジェンスって言いたいんですか…っいて!」
「だから、いちいち口答えすんなっつうの。相変わらず態度のでけー後輩だな」
ベチッとイイ音を立てて人の額にデコピンする。あちこちがピンピンと跳ね毛になった髪は染めているのか黄色で、耳のフチになぞってズラリと嵌められたピアス。喧嘩が得意そうな大柄の身体に、少しヒトが悪そうなイジワルな笑み。
そう、この先輩こそが俺を釣りの世界に引き込んだ張本人。一見ガラが超悪いけど、話してみれば割と気さくで面倒見が良い。俺が慕っている先輩の一人だ。
「で、どーしたよ。鯖味噌定食がおいしくなかったのか?」
「いえ、鯖味噌定食は美味しいです。そうじゃなくて……」
ぱく、と鯖の味噌煮の切り身を箸でつまみ、口に運ぶ。何だろう。鯖はいつもと変わらず美味しいはずなのに、どこか食べづらい。魚は俺の好物であるはずなのに。
――やっぱり、どこか……アイツを想像してしまうから?
「はぁ……大内先輩、これあげます」
「お前、まじでどうしたよ。鯖味噌定食、一番好きだーってヘビーローテで食ってたのに。まぁくれるなら食べるけど」
「先輩が大食らいの底なし胃袋で助かります。あ、ごはんと漬物だけ返してください。それは食べます」
「ちょっおまえ!俺にシロメシ無しで鯖の味噌煮食えっていうの!?なんつうドエス行為なのそれ!」
「そこに番茶があるじゃないですか」
「番茶片手に鯖の味噌煮!?おまえ、ひどい……。先輩の扱いがなってない……」
しくしくめそめそと番茶をコップに注ぎ、鯖の味噌煮を食べる先輩をよそに、俺は漬物をぽりぽりかじりながらご飯を食べ、アンニュイに溜息をつく。
「はぁ……」
「……ほんと、どうしたんだよ。これで俺、おまえの溜息通算3回聞いてるぞ。溜息のしすぎはよくないんだろ」
「ええ、そうですよね。ところで大内先輩。質の良いコンブやワカメって、どこで買えるんでしょうか」
「はぁ?質の良いコンブかワカメって……海藻?うーん。そういえば、駅前のデパートで北海道物産展やってたぞ。そこならあるんじゃないか?ほら、高級コンブとかあるじゃん」
「ああ、利尻昆布とか日高昆布とかでしたっけ。成程、見に行ってみます」
「おう。でもどうしたんだ?おまえ、料理できないだろ。なんでコンブなんか……ハッ、まさか!とうとうできたのか!軟弱草食陰険光秀を好きだと言ってくれる特異な女が!」
確かに俺は運動が得意ではないし恋愛に積極的というわけでもないし多少イジワル好きという悪癖があるけれど、そこまで先輩に言われる筋合いはないと思う。だけど俺は一応後輩だしお世話にはなってるから口答えはしなかった。
「特異ではありますね。でも、女っていうのは……あれは一応魚類だと思うんですけどね」
「は、……ぎょるい?」
「オトヒメ、利尻か日高か、どっちのコンブが口に合うのかなあ……。ワカメも見てやらなきゃ。イソギンチャクは売ってないだろうけど、他にも海藻売ってるかもしれないし」
「まて、光秀。その……何の話だ?女じゃなくて、魚の話なのか?魚がコンブを食うのか?」
「……まぁ、似たような感じです。魚っぽいけど、魚じゃなくて、でも見た目は魚で……あと、名前はオトヒメっていって、好物が……昆布で」
「光秀、光秀ー!?おい、もどってこい!しっかりしろー!」
がくがくゆさゆさと先輩に肩をゆすられる。だけど俺は、ずっとオトヒメの事を考えていた。