光秀、家にかえる 5
時は昭和時代に遡る。
俺のじーさまは大正時代にこの海と魚しかない島に移り住んだわけだが、それから時は流れ、昭和の初期から中期にかけて世界が荒れた。勿論その荒波は平和だったこの島にも及び、とうとう島からも出征者がぽつぽつと現れた。お国に呼ばれてお国の為に剣を取らなければならない時代がやってきたのだ。
そんな折、俺のじーさまは島を出て行くある男から、一つのハコを受け取った。
それが、玉手箱らしい。
曰く、先祖が江戸時代末期にとある漁師から譲り受けたのだとか。だがその漁師はまた別の人から貰ったなどと、出処は闇より濃い謎に包まれていて本物かどうかもすごく怪しい。正直俺のじーさまは信じてなかったけど形見代わりに貰ったのだと言う。……そう。じーさまは判っていたのだ。もうその男がこの島に帰ってこないことを。
結局じーさまも出征はしたが生還した。だが、やはりその男は帰ってこなかった。
だからじーさまは男の言葉を守り、玉手箱を保管した。その箱は口伝と共に俺の父親に渡り、今もこうして後生大事に眉唾モノの箱を守っている。
「本当に玉手箱なのかよ。どう見てもこれ、ただの漆箱だろ。弁当箱か何かじゃねえの?」
「俺も筆箱だと思っていたんだがな。何となく口伝もあった事から箱を開けるのは躊躇っていたのよ。何せ曰くつきだからなぁ」
昼食にしては大量のご馳走がテーブルに並ぶ中、俺とオトヒメ、カツオとタイ、そして父に母に姉さん義兄さん。つまり家にいる人間全てが座敷の上で一つの箱を凝視している。それは、親父が納屋の奥から持ってきたいかにも古そうな黒い箱だった。
刻印もなければ飾りも無い。漆独特のつやつやした手触りが気持ち良いだけの黒い箱。
テーブルに鯖寿司の大皿を置いた母が首を傾げた。
「そんなのをお義父さんが持ってたなんてねえ。それにしてもどうして突然思い出したように取ってきたの?」
「フッ……そりゃあお前、考えてもみろよ。玉手箱といやあ有名な昔話だろ?そこにでてきたお姫サンはなんてえ名前だったかね?」
「乙姫。……あ、オトヒメ……。なぁんだ、それで思い出したわけ?」
「そういう事だ。なあに、おもしれえエベントだろ?オトヒメってえ名前に玉手箱。これ程おあつらえ向きの状況もあるめえ」
段々と父の口調がべらんめえになってきて言動がおかしい事になっているが、いつもの事なので母は全く気にしない。俺も母くらいの心の強さが必要なんだろう。俺は、どうにもつっこまずにいられないのだ。
しかし納得した表情をする母を他所に父が俺に向かってこっそりとウィンクをしてくる。それは超気持ちが悪かったけど、何となく父の思考が読めた。
――オトヒメの正体は俺たちだけの秘密だぜ、と。つまりはそれが言いたいのだろう。俺は一つ頷き、玉手箱に視線を戻す。
「で、口伝って何なんだよ。昼飯もまだなんだから早く言えよな」
「まぁ焦るなって。親父からの口伝はこうだ。海の姫と陸の男が心に絆を結んだ時、この箱を開けよ。ただしそれ以外では決して開けてはならぬ、と」
「なんだそれ。微妙に昔話とは違う気がするなぁ」
「怪しいわねぇ。確か昔話では、絶対に開けちゃいけないって言われるのよね。でも漁師の男は開けちゃって、もくもく白い煙が出て、おじいさんになっちゃうんでしょ?」
少しノッてきたのか、料理の配膳を終えた姉が俺の隣で畳に座り、玉手箱を覗き込む。確かに、昔話は姉の言う通りだ。だけど、タイ義母が口にしたあの話を思い出すなら、それは微妙に違う。
――本当は恋仲を引き裂かれた男が陸で絶望し、老人のような見た目になるまでに衰弱してしまうんだ。
けれどそれなら、どうして当時のサカナビトは男に玉手箱を渡したのだろう?何の意味があって。本当は中に、何が入っていたんだ。
「海の姫と陸の男……フム、面白い口伝ですね。運命を感じてしまう」
「ええ。何だか浪漫を感じてしまいますわ。オトヒメがオトヒメの名を持ったのは、やはり偶然ではなかったのかしら」
俺の向かいで興味深そうに玉手箱を眺めるオトヒメの両親。ちなみに父が過去に人魚を助けた事などはこっそりと説明済みだ。
「陸の男はともかく海の姫をオトヒメって名前だけで決め付けるのは強引な気もするけど、とりあえず開けてみる?……でも、まさか煙がでてきて皆年を取ったりしないわよね」
「ん、渚ちゃんひょっとして怖いの?」
「こっ、怖くないわよ!呪いだなんてばかばかしい。ほら、昼食も揃ったんだからとっとと開けるわよ!光秀開けなさい!」
「俺かよ」
げんなりと玉手箱に両手を添える。今日開けてみようと言いだしたのは父さんだが、本人も自分で開ける気は無いらしい。どいつもこいつもと思いながら蓋を開けようとすると、俺の両手にオトヒメが手を添えてきた。どこか神妙な顔をしていて、俺も彼女に頷く。
……そうだな。これが本当に玉手箱で、俺とオトヒメが恋人になった時こそ開けていいものなら、この箱は俺とオトヒメで開けるべきだ。
ゆっくりと艶のある漆箱の蓋を開けて行く。皆がごくりと固唾を飲んで見守る中で完全に蓋が開き、中身が明らかになった。
ちなみに煙が吹き出したりはしない。もちろん、皆が老人になることもない。
「何、これ?」
間の抜けた母の声。そう、中に入っていたのは本当に何これだった。
――木片、だろうか。
こげ茶色の木片。大きさ的には15センチの定規サイズだろうか。取り上げてみると手になじむ大きさで、触り心地はつるつるとしている。
「なんだろ、これ。……ん、いい匂いがするな」
くんくんと鼻を寄せてみる。不思議と心が落ち着く匂いだ。そして、非常に嗅ぎ慣れたものだと感じた。
何だっけ、何だっけ。上品で柔らかくて、心地よい香り。
「あっ、これ……オトヒメと同じ匂いがする」
「え?」
「ほら、オトヒメからいつもいい匂いがするだろ。それと同じ匂いだ。白檀みたいな」
「そ、そうなんですの?自分ではわからないですの」
慌てたように自分の腕を嗅ぎ始めるが、やはりよくわからないのか首を傾げるオトヒメ。俺は彼女の肩を寄せて軽く匂いを嗅いでからもう一度木片の匂いを確かめる。
「うん、同じだ。オトヒメと同じ匂い。どういう事だろう……」
「光秀様、わたくしにも見せてくださいますか?」
向かいに座っていたタイ義母が両手を出してくる。素直に渡すを彼女はそれを鼻先に持ってきて軽く嗅ぎ、納得したように頷いた。
「これは香木ですわ。伽羅の姫小松という香木。わたくしがオトヒメに持たせたものと同じものです。たしなみとして姫小松を衣服や髪に触れさせておくようにと言い含めておりましたので、オトヒメからも同じ香りがしたのでしょう」
「ふぅん?伽羅って、確かすごく高級な香木でしたよね。へぇ……でもなんでそんなものが玉手箱に入っていたのかしら」
不思議そうな表情をうかべながらまじまじと姫小松の木片を眺める姉。皆も、どうしてそんなのがよりにもよって『玉手箱』に入っていたのか、疑問に首をかしげている。
しかし俺は……何となく判った気がした。どうして玉手箱に姫小松の香木が入っていたのか、その理由を。
「きっとこれ、餞別のつもりだったんだよ」
「……どういう事ですの?光秀様」
「うん。憶測だけど……乙姫様と離れてさ、寂しさを慰める目的で入れたんだと思う。この香木を焚いて、その間だけは彼女が傍にいるって、心を慰めるために」
愛し合っていたサカナビトの姫と陸の男。だけど二人は仲を引き裂かれてしまった。悲観にくれるであろう男に同情をしたのか、当時のサカナビト族は玉手箱に香木をしのばせ、男に持たせた。おそらく姫が愛用していた伽羅の姫小松を。
陸に戻された男は哀しみに暮れながら玉手箱の中に入っていた伽羅の姫小松で香を焚く。その姿はすでに絶望から無残にやつれていて……。
はたから見れば、玉手箱から立ち昇る煙にまかれ、老人に成り代わってしまったよう。
全ては俺の想像に過ぎないけれど、もしそうだとしたら、あの昔話は心を切るような悲恋の物語だ。
だけど、父さんがじーさまより伝えられた口伝を思い出す。
――海の姫と陸の男が心に絆を結んだ時、この箱を開けよ。あれはどういう意味なのか。どうして、それ以外では開けてはいけなかったのか。
「そうか……」
はっと思いつく、一つの可能性。あの口伝が一体どこから伝えられたのかは判らない。漁師の手を次から次へと渡ってきた眉唾ものの宝箱。もしかしたらそのうちの誰かが面白可笑しく逸話を付け加えただけなのかもしれない。でももし、あの口伝が最初から伝えられたものだったのだとしたら。
「伽羅って確か、金銭的に価値があるんだよな。昔の殿様が集めてたって話もあるくらいだし」
「ええ、香木の中でも最高級のものが伽羅だからね」
合いの手を打つ姉に、俺も頷く。
「口伝の目的以外で開けられたら、これはただの金銭的価値のある香木に成り果ててしまうんだ。だけどこれは、その為に伝えられた香木じゃない。あくまで陸の男が海の姫を思い出す為に使われた、大切な……宝物だから」
だからあんな口伝を残したのではないだろうか。海の姫と陸の男が再び絆を結ぶ時が来たら、自分の意思を汲んで欲しいって。全て「もしかしたら」としか言えないけど、俺にはそうとしか思えなかった。
「父さん、これは、このままにして大切に仕舞っておくべきだと思う。だけどさ、特別な時に少しだけカケラを削って、香を焚いてあげよう。そうしたらきっと、この玉手箱の持ち主は喜ぶと思うんだ」
「ほぉ?そりゃおめえ、どういう了見だい?大体特別な時って、なんだあそりゃ」
「あー特別ってのは、例えば結婚式とか正月とかさ、なんかめでたい日ってことだよ。あとは姉ちゃんが時々本島に義兄さんとデートする時とかもいいんじゃないか?」
「ちょっ!なんでデートのこと知ってるのよ!?」
「母さんが聞いてもいないのにぺらぺら喋ってくるから」
かーあーさーんー!と顔を真っ赤にしてる姉は置いといて。
めでたい時、晴れやかな時、皆が幸せを感じている時にこの香を焚いていけば、そのうち香木はなくなってしまうだろう。
だけどそれでいいんだと俺は思う。
その香りが悲しい思い出が詰まった寂しい香りなら、そんなものをずっと残しておくより、幸せな香りに変えてしまって無くなるほうがいい。
……その方が、救われるだろ?
昔々にいたかもしれない陸の男。
俺は勝手におまえの気持ちを預かっておく。そして受け止める。その上で、俺のやり方はこうだと決めた。
もともとしんみりした雰囲気は苦手なのだ。俺は、俺のやり方でおまえを弔う。
決心をした瞳で向かいを見れば、義父と目が合った。彼は俺を見つめ返すと黒い瞳を細ませ、微笑む。隣に座る義母も同じ。
最後に隣のオトヒメを見下ろせば、彼女もまた穏やかに俺を見て、嬉しそうにはにかんだ。
昼飯は、思った通りの魚料理。
一応両親にやんわりと「カツオとタイは出さないでくれ」と頼んでおいたが、どうやら聞き入れてくれたようだ。そもそもタイはともかくカツオは日本海じゃ滅多に捕れない。
漁業を営む俺の実家において魚料理は必須だ。だから様々なる理由で魚が苦手なオトヒメを、どうにか克服させなければならなかった。
俺はオトヒメを連れて行き着けの居酒屋に行き、大将に彼女を紹介しながら魚克服メニューを考えた。
結果、何とか切り身限定で焼き魚や煮魚などは食べられるようになったので、こうして彼女をつれて来たのだ。ちなみに、まだ魚の刺身や御頭つきの料理は食べられない。そこは、俺のアドバイスで何とかカバーする。
オトヒメが魚を苦手とするのはあくまで見た目の為。それはそうだ。俺だって自分の親がどれだけ生態的に違う生き物であろうと見た目がまんまカツオとタイなら絶対抵抗感がある。だけど逆に言えば、それ以外の海鮮類なら問題ないのだ。刺身でも食べられる。
俺のアドバイス通り、オトヒメはイカ刺しやタコ刺し、そして貝料理などを中心に食べていた。だが、それだけでは済まされないのが我が家の母と姉。
「オトヒメちゃん。この鯖寿司美味しいわよ。脂がノリノリで肉厚なんだから!」
「そうそ、この辺りじゃやっぱり鯖よねえ~どうぞどうぞ!」
ほらきた。母姉必殺、ほら食えほれ食え攻撃。ちなみに全く悪気はなく、本当に美味しいから勧めているのである。まぁ、美味いのは認めるけど。
チラ、と少し不安そうに俺を見上げてくるオトヒメ。
対して俺は大きく頷く。あんなに練習して克服しただろ?オトヒメの両親も言っていたじゃないか。魚とサカナビトは違う生き物だって。確かに抵抗の気持ちは判るけど、切り身限定ならおまえはもう大丈夫。いける!
しっかりとオトヒメを見つめれば、彼女も覚悟したようにこくりと頷く。そして震える箸で鯖寿司を一つ取り、目を瞑ってぱくっと食べた。
「どう?おいしいでしょ~?」
「は、はいですの。とっても、おいしいですの!」
少し顔色が悪くなったが、何とか飲み込んで笑みを作るオトヒメ。……何とか、難関は突破できそうだ。
勿論まだまだ課題はある。いつかそのうち本格的に魚は克服しなければならないけど、それも無理して焦らなくていい。
俺達のペースでやっていこう。俺も悩むかもしれないし、オトヒメもまた迷う日が来るかもしれない。だけど、互いが想い合っていればきっと大丈夫。
そう信じたいんだ、俺が。おまえの手を取った俺の選択が間違ってなかったんだって、信じたい。
ビールの入ったグラスを手に取りながら、座卓の下でそっとオトヒメの手を握る。彼女の手は少しぴくんとして、だけどすぐに俺の手を握り返してきた。
しっかりと指を絡ませ握る、つないだ手。自分でしておきながら顔が赤くなって恥ずかしくなってしまうが、それでもこの温もりだけは失いたくない。
俺が見つけた大切な、絆。
「いやあこの寒ブリの刺身、こんなにも美味しい刺身は初めてですよ。脂も乗って、毎日でも通いたくなってしまいますな」
「あらやだうふふ。お父さんお魚褒められたわよ。良かったわね!そうなの。うちの寒ブリは最高級なのよっ!」
「ははは!さすが海を知る男!俺の捕った魚の美味さがわかるとは。お前さんとはいい酒が飲めそうだねえ?ほれ渚!とっておき持ってこーい!」
「とっておきって、もしかしてパック900円の鬼ころしの事言ってるの?別にいいけど」
「ヒラメのお刺身も新鮮で美味しいですわ。光秀君のお父様は本当にお魚を捕るのがお上手で。きっと、毎日がご馳走なのでしょうね」
「レパートリーばかりが増えていきますね。ああ、そのタラの天ぷらも美味しいですよ。妻の魚料理は僕の自慢なんです」
わいわいがやがやと盛り上がる互いの家族達。ちなみにカツオ義父もタイ義母も、ふつーに刺身もりもり食べて御頭のついた小魚の丸揚げとかもバリバリ食べてる。
こいつらの図太さがオトヒメに遺伝しなくて良かったような、何というか。何にしても俺はオトヒメが淑やかで繊細で可愛くて、空気読まない両親みたいな図太さがなくて、心から良かったと思った。




