光秀、家にかえる 3
母と姉との怒涛の邂逅を果たし、結局俺が予定していた10発殴られは大きく予想を外れ、割と本格的にフルボッコされた俺はぐったりと畳部屋のかたすみで倒れていた。
「光秀様、大丈夫ですの?まだ痛みますの?この赤いところ、冷やせばいいんですの?」
おろおろとオトヒメが俺のそばで立ったり座ったりを繰り返している。姉と母は台所で、オトヒメの両親は母の勧めで島を一望しに散歩にでかけた。そしてオトヒメは困り果てながらも一度台所まで言って手伝いを申し出たそうだが、まだお客様なんだからのんびりしていていいわよと断られたらしい。
「光秀様……ごめんなさいですの。私も何か言わなきゃって思ったんですけど、言葉がでなくて。きっと、まだご挨拶には早かったですの。もっと光秀様の事情も考慮しなければならなかったのに、私、全く考えが至らなかったですの……」
しょんぼりと俯くオトヒメ。まだ体中が痛むものの、腕をぐっと使い、ゆっくりと起き上がる。ようやくと胡坐を組んで座った俺は、彼女の白に近い柔らかなブロンドを撫でた。
「大丈夫。うちの家族はいつもあんなだからさ。今日は激しくなるのも覚悟してたし。それに、いつかはオトヒメを紹介しなくちゃいけなかったんだ。時期が思っていたよりも早かっただけだよ」
「……でも」
「あれでも母さんと姉ちゃん、加減してるつもりだから。いつもならプロレス技も2、3発かけられてるからな。なんつうか、肉体言語系なんだようちの家族。父さんもそうだしな」
うちの家族は義兄以外が何というかコミュニケーションを格闘で済ます所がある。俺は慣れきってるから問題ないけど、初めて目にするオトヒメにはやや衝撃的だったかもしれない。だから安心させようと彼女のすべらかな髪をなでていると、ふいに障子が開く音がした。
「愛情と心配の裏返しみたいなものなんですよ、オトヒメさん」
義兄が静かに畳部屋に入ってくる。冷たい水で絞ったタオルを俺に渡し、縁側まで持ってきていたのか、長方形の大きな座卓を両手にてきぱきとセッティングし始めた。
冷えたタオルで殴られた頬などを当てると気持ちいい。そんな俺と配膳の用意を整える義兄を交互に眺めるオトヒメに、義兄さんがくすりと笑う。
「光秀君が可愛くて仕方が無いんです。だけど、二人とも光秀君と上手にコミュニケーションが取れないんですよ。照れが入ったり、逆に嫌われないかと怖がったり。だからつい、手を出してしまうんです。それが一番判りやすくて、勢いで流しやすい方法ですからね」
「叩いたり、蹴ったりするのがコミュニケーション、ですの?」
「ええ。義母さんも渚さんも、ついついあれこれと世話焼くような事を言ったり、過干渉をしてしまいそうになるんです。でもそれをしたら光秀君に嫌がられてしまうでしょう?だから、心配する気持ちをごまかしているんです」
「な、なるほど……ですの」
わかったようなわからないような、微妙な表情で頷くオトヒメ。俺は彼女の頭をぽんぽんと軽く叩き「そういう事だ」と笑う。
「俺、姉ちゃんとも年が離れてるし、母さんにとっても俺って意外な授かり物だったらしくてさ。色々と持て余してた時期もあったんだよ。中学の時とか、俺反抗期で……結構ヒドかったから」
ぽりぽりと頬を掻き、何となく過去を思い出す。
俺が一番家族に反抗していたのは中学の頃だ。周りは海と魚しかない鄙びた島が嫌いで、遊び場一つない田舎が嫌いで、魚取って生計を立てるこの家が格好悪いと思っていた。ダサいと感じて、そんな所に生まれた俺が大嫌いで、周りにどうしようもないことを当り散らしてた時期があった。
成長の過程として必要な時期だったのかもしれないが、あの頃はむしろ俺のほうが母や姉に辛く当たり、色々と苦しめていたのだと思う。そんな俺が変わるきっかけをくれたのは、目の前にいる義兄さんの存在だった。
義兄さんもこの島の出身で、姉とは幼馴染だった。俺にとっては幼少時から兄みたいな存在で、色々……そう、色々、話を聞いてもらってた。義兄にもやりたい事があって、いつかこの島を出る事を夢みていたけれど、結局彼は俺の義理の兄になることを選んだ。というか、俺の姉を選んだ。この島に留まることを選んだのだ。だけど、時々……イフの選択を考えてしまうらしい。
もし、あの時自分が島を出ていたら、というイフの世界。
今を後悔はしていない。だけどつい、ふとした時に考えてしまって……その度に自分を殴りたくなるらしい。
穏和な義兄がそんな風に思うほどやりたかったこと、そして諦めた道はなんだったのか、それは俺にはわからないけれど。
この島とこの家には僕達がいるから光秀は自由なんだよという言葉に俺は救われ、長かったような短かったような反抗期は霧のように消えていった。
姉と交わした約束は、それから2年後の春だ。大学進路に悩む俺と姉で約束した。それで俺の道は決まった。外で勉強して、いつかこの島に帰るんだって。
……その時はもちろん、オトヒメを連れて。
「まぁ、うまく言えないけど、これが俺達家族の形なんだよ。心配してくれてありがとうな、オトヒメ」
ようやく痛みの引いてきた顔でにっこりと笑えば、オトヒメは少し困ったような顔をしながらも「わかりましたですの」と微笑む。そんな俺達を見ていたのか義兄さんがくすりと笑った。
「仲睦まじいねえ。しかしそれにしても光秀、すごく可愛い子を見つけてきたんだね。僕、最初にオトヒメさん見た時びっくりしたよ。そういえば外人さんなの?不思議とそんな感じはしないけど」
「あっ……あーその、オトヒメは外人みたいな見た目だけど、生まれは日本でさ。だから中身は殆ど俺達と変わらないんだ。むしろ、時代錯誤なくらい古めかしい考えも持ってて、古き良い日本人みたいな感じなんだよ」
「そうなんだ。いや、僕も渚ちゃんも、英語喋らなきゃいけないのかなって裏で慌ててたからね。それなら安心だ。いっそ本当に外国人さんで、これを機会に外国語を習うっていうのも面白そうだけどね」
ニコニコと話す義兄さんにようやく心が許せてきたのか、オトヒメがはにかんだ笑みを見せる。
何とかどもらずにすんでよかった。オトヒメの生まれに関しては事前に口裏を合わせてある。さすがにサカナビト族という人魚なんですと言うわけにはいかない。彼らの存在は秘められるべきものなのだ。
オトヒメの親のさらに前の代から日本に移り住んでいる元外国人という『設定』。勿論今は日本の国籍をもっており、オトヒメもちゃんと住民票などの身分を証明する書類は一通り揃えてある。全てはカツオやタイの同志である謎の弁護士が用意したのだが……もちろん怪しさ大爆発である。だが、こればかりは俺一人の力ではどうすることもできないので、あえて目をつむっておく。犯罪の匂いが微かにするけれど、厳重に蓋をする。
しばらく義兄と最近の事とかを話していると、ぱたぱたと縁側を歩く音が聞こえてきた。あの足音は恐らく姉だろう。
案の定、からりと障子が開くとそこには姉がいた。
「光秀、お父さん呼んできてよ。お昼もうできるから」
「ああそういえば父さんいねえけど、どこにいるの?」
すでにさっきの剣幕など無かったかのような通常運転の姉に、普通に返す俺。それはいつもの日常ゆえの応対なのだが、オトヒメだけは少し驚いたように俺と姉を見比べている。切り替えの早さにびっくりしているのだろう。
「波止場のどこかにいると思うけど。うちの船の近くじゃない?」
「あー、網の点検でもしてるのかな。じゃあ見てくる。オトヒメもおいで」
「は、はいですの」
あの階段をまた下りるのも大変だと思ったが、かといってこの家に置き去りにするわけにもいかない。オトヒメを呼ぶと彼女はおとなしくついてきて、姉に一つ頭を下げると共に古びた実家を後にした。
石畳の路地を並んで歩き、先ほど上った階段を、ひとつ、ひとつと下りていく。右手に握るのはオトヒメの白く繊細そうな手。
何となく互いに黙っていると、オトヒメがぽつりと言葉を零した。
「光秀様。オトヒメは……もしかすると今、過ちを犯しているのでしょうか」
「……過ち?」
スニーカーを履いた足が止まる。階段の途中で、オトヒメが俺を見上げてきた。その瞳はどこか、不安に濡れている。
「私は光秀様が好きですの。だから一緒にいたくて、光秀様と共にいることを選んだですの。ですけどここに来て判りましたの。私、何も知らないんだって。陸のことも、この日本という国のことも、そして光秀様のことも、何も知らないままここに来て。初めて、光秀様以外の人間様とお会いしてお話して……」
たどたどしく言葉を紡ぐオトヒメ。
俺以外の人間と話をするということは、違う価値観を知るという事だ。オトヒメの世界はずっと海の中で、彼女はそこから俺の世界に飛び込み、初めて『外』を知った。……そこはきっと、オトヒメにとってまさに別世界だったのだろう。
「突然怖くなったですの。うまくできるか、自信がないですの。お話も、行動も、仲良くなるのも全てが難しそうに思えて。海の中じゃ新しい御友達を作るのは全く苦労じゃなかったですのに、どうしてか人間を相手にすると、とても怖くなってしまったですの。だから……過ちだったんじゃないかって、思うんですの」
「オトヒメ……」
初めて足を手に入れ、人間と関わることを決めたオトヒメにとって俺の家族との出会いは一つの試練だったのかもしれない。
俺は殆ど最初からオトヒメに好意を持っていたけど俺の家族にとってオトヒメはそうじゃない。あくまで俺がつれて来た『恋人』で、他人。その壁を感じて戸惑っているのだろう。それは、理解できる。……だけど。
「過ちなんかじゃない」
「光秀様……」
「間違いじゃないよ、オトヒメ。俺達は出会った、そして互いに好きになった。共にいたいって思った。その気持ちはホンモノで……それなら、俺達の行動は何一つ過ちなんかじゃない。怖がる必要はないよ、オトヒメ」
力のないオトヒメの細い手首を掴み、ゆっくりと抱きしめる。……こんな風に胸の内に彼女を包むなんて行為は初めてだ。思っていたよりもずっと華奢な身体に、羽毛みたいな柔らかい質感。彼女の頭頂部に顔を埋めると、白檀のような気品のある匂いが薄く香る。
今更のようにどきどきと胸打つ鼓動。顔が赤くなって、身体ががちがちと固まっていく。だけど、これだけは言わなくちゃと恥ずかしい気持ちに渇を入れ、されるがままのオトヒメに訴える。
「誰かと仲良くなるのは難しい事だ。オトヒメだけが難しいんじゃない。俺も、俺の家族も、皆オトヒメと同じような気持ちを抱えて誰かと関わっている。最初は誰だって怖いよ。俺だって新しい場所で他人と話すのは緊張するし、怖い。……でも、それは間違ってる事じゃない。当たり前の気持ちなんだ」
俺の名をか細く呼び、見上げてくるオトヒメ。その瞳は濡れてはいないが、まだ不安の色に染められている。安心させたくて、優しく優しくと自分に言い聞かせつつ、カクカクした手で背中を撫でた。力加減は間違っていないかすごく心配になる。もしかしたら割と乱暴に背中を擦っているのかもしれない。
「大丈夫だよオトヒメ。焦らなくていい。すぐに仲良くなろうなんて努力はしなくてもいいんだ。おまえは頑張り屋だけど、時間が必要な事もある。人付き合いなんかは特にそうだ。だからすぐに結果を出そうなんて思わなくていい。少しずつ、分かり合えたらいい」
「少しずつ、ですの?」
「ああ。互いに仲良くなりたいって思っていれば、必ずいつかは分かり合えるから。少なくとも俺の家族はそうだから大丈夫。オトヒメ一人が頑張るんじゃない。人付き合いは互いがゆっくり歩み寄っていくものだから、オトヒメも俺と一緒に歩いていけばいい」
「……っ」
ひし、と俺のコートを握って胸に顔を埋めてくるオトヒメの頭を撫で、俺も心の中でまた新たに一つの決意をする。
そうだ。オトヒメをこの世界に、陸の世界に連れてきたのはまぎれもない俺自身なのだから。
――俺が守らないといけない。何もかもが初めてのオトヒメに寄り添い、傍にいてやるんだ。それが、俺の義務。人魚姫を選んだ俺が、しなくてはいけない事。
「歩く練習をした時みたいに、ゆっくりやっていこう。怖がらなくていい。俺が、ずっと……傍にいるから」
「み……光秀さまぁ……っ!ありがとうですの。私、頑張るですの。弱気な事言ってごめんなさいですのっ!」
「いいんだ。弱気な事は一杯言えばいい。俺がちゃんと受け止めて、一緒に考えてやるから。オトヒメ……」
「光秀様……」
弱音を吐く時はひとつとして零さなかったのに、今は柔らかな頬にぽろりと一粒の涙が伝っている。僅かに赤くなった鼻が堪らなく可愛いオトヒメ。
愛しいという気持ちが湧き水のように溢れて止まらない。俺が彼女の顔に唇を近づけると、オトヒメはそれを読み取ったのか、震える睫をそっと伏せた。
近づく、――唇。
しかし目の端に倒れ込んで悶えるカツオ(人間姿)を見つけ、俺達は磁石が反発するようにビャッと階段の両側に後ずさった。
「なぁっ!!なにしてんだ、アンタ!」
「お、お父様、何時の間に……っ!?」
両手を組んで目を丸くするオトヒメの肩を寄せてがなる俺に、階段の連なる段に倒れこんで悶えていたカツオがゆっくりと立ち上がる。ちなみに、しつこいようだが顔は芸能人ばりに渋くて格好よくて、声もバリトンボイスが腹が立つほど格好いい。
「ふぅ……妻と散歩をしていたら、娘と義息子が何とも愛らしいやりとりをしているものでね、つい悶えてしまった。人間姿の時は世間体もあるからあまりそちこちで可愛い事をしないで欲しいものだよ」
「じゃあ見るんじゃねえよ!こういうのは見ないフリしてまわれ右するのが大人ってものだろうが!」
「あらあらうふふ、光秀様ったら照れてしまわれて。本当に可愛らしいわ。オトヒメもよかったわね。母はとてもいいものを見る事ができて幸せですよ」
「お母様、そんな所にいらっしゃったんですの……!?」
がさり、がさがさと階段横の草むらから出てくる芸能人ばりの美女。この二人は顔と声の素敵さに対し、行動のギャップがかなり酷い。まぁ、元はカツオとタイなのだから仕方が無いのかもしれないが。
頭についた葉などをぱらぱらと手で払い落としたタイ義母がころころと笑う。
「光秀様が和室にいらっしゃる間に少しお母様やお姉様とお話しましたけれど、二人ともとても光秀様を愛していらっしゃいますのね。暖かく、とてもよい家族なのだと思いました。ふふ、少しだけ愛情表現が過激でしたけど、きっと光秀様と同じで照れ屋さんなのですね」
「あの母と姉の格闘ぶりを見て照れ屋さんなんて可愛い感想を持ってくれたのは貴女と義兄さんくらいですけどね。でも、ありがとうございます」
俺の返事にタイがますますころころと笑う。勝手に笑えとばかりにそっぽを向いて階段を下りようとし、一つ思い出して段上の二人に顔を向けた。
「そういえば、そろそろお昼だそうですよ。俺達も父親呼んできたら戻りますので」
「ああ、婿殿の姉君と昼食の話もしていたんだよ。このあたりでは鯖がよく捕れるそうだね?実に楽しみだ」
では先に行っているよ、と手を上げて階段を上っていくカツオとタイ。
見届けて、ふと……オトヒメを見やると、彼女は俺に肩を抱かれたまま俯いている。
……せっかくいいところだったのに……まさか、今からやり直しという空気でもない。俺は「ハァ」と一つ溜息をつき、オトヒメの手を取って「行こうか」と促す。
オトヒメは少しだけ顔を赤らめ、コクリと頷いた。