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4回目





「司教をまだあのままにしておくつもりなんですか」


 ジュールの口調からは、穏やかさは微塵も感じられない。


「不服でしょうね」


「もちろん」


 この、人ならざる者には、自分の胸のうちなどわかっているにちがいない。そうして、ラウルの胸のうちだとて。なのに、なぜ。


 司教に穏やかに接するのに、自分がどれだけの苦痛を味わっているか。時折触れてくる手に、嫌悪と憎悪とが混ざり合って、吐き気がこみあげてくるのをこらえることが、どんなに辛いか。この手で縊り殺してやりたい欲望を抑えるのに、どれだけの自制心を必要としていることか。すべてわかっていながら、どうして、


「なぜ、そんなに平然としているんです」


 デキャンタからワインをゴブレットに注ぎ、手渡す。


 白い手が、優雅にゴブレットを受け取る。


「ラウルを愛しているんでしょう」


 喉が反り、滑らかなカーブを描いた。喉仏がひとつ、ゆっくりと、震えるように上下する。


「なによりも」


 琥珀のまなざしが、かすかに、潤んでいる。


「なら、いったい。なにを考えているんです」


「待っているのですよ」


「なにを」


「司教に対する全ての恨みが揃うのを」


 そのことばに、ジュールが、目を見開いた。


「揃ったときにこそ、君たちの………いいえ。私の念願がかなうときですから」


 単に死なせるだけでは、溜飲は下がらないでしょう?


 歌うように楽しげに告げる城主、ユージーンの言葉に、ジュールは、かすかに青ざめた。







 

 そんなに自分を抑えるのがつらいのなら、司教の世話はほかのものにまかせましょうか。


 ユージーンのことばに首を横に振ったのは、ジュール自身だった。それでも、足どりが重くなるのは仕方がない。


 相手は、何よりも憎んでやまない相手なのだ。


 いっそ、ユージーンに甘えればよかったのかもしれない。


 手が震える。


 全身が震えてならない。


 それらを抑えて、へらりとした笑いを顔に貼り付けるのは、結構、きつい。


 けれど、あまりにも憎すぎて、誰かに任せることも、できないのだ。


 エメラルドの中に閉じ込められたような一角獣をみやる。タピスリーの中で、色とりどりの花々と黄色い蕊が、真っ白い伝説の獣を彩っている。


 ゆらゆらとかすかに揺れるタピスリーから、愛しいひとたちの悲鳴が怨嗟の啜り泣きが、聞こえてくる。


 憎い。


 辛い。


 痛い。


 寒い。


 熱い。


 苦しい。


 助けて。


 助けて。


 助けて。


「もうすぐだから………」


 もうすぐ、その苦しみから、解放してもらえるから。


 何十年もかかって、それでも少しも癒えることがない無限の苦痛は、まさに地獄以外のなにものでもない。


 母に姉、それに、幼い妹。それに、仲間の流浪の民たち。


 血の繋がってはいない、それでも、かけがえのない、家族と仲間。


 彼女たちを救うことができるなら、なにをしても、なにをされても、かまわない。


 だから、自分は、悪魔に魂を売り渡した。


 あんなにも、厭いつづけた、あの存在に。


 悪魔は、昨夜もジュールの元を訪れたのだ。




 ジュールの脳裏に、あの、黒々とした眸が過ぎって消えた。




 司祭が罠にかかったあの夜。


 司祭も眠り、城が静まり返る。


 ジュールは、自分の部屋のベッドの中で、眠れずにいた。


 やっと、復讐できるのだ。


 あの首を絞めてやりたい。


 ナイフで切り刻んでやりたい。


 しかし。ユージーンは、そんな即物的な復讐をもくろんではいないのだろう。


 秀麗な白い顔が闇の中に浮かび上がる。


 いったいなにを考えているんだ――――――と、独り後ちた時だった。


 蝋燭の明りがいっせいに灯った。


 オレンジ色の光が、室内を照らし出す。


 そこに、闇を従えたものを見出して、ジュールは、飛び起きた。


 心臓が、驚きに、激しく喚きたてていた。


『復讐を遂げるまでは自由にしてもかまわない。確かにそうは言った』


 闇よりも暗い眸が、覗きこんできた。


 穏やかな口調とは裏腹に、内に火を宿す石炭のような暗い眸に、全身が強張りつく。


『ジュール』


 硬質な声音に名を呼ばれて、慄く。


『このからだを、誰にも触れさせるな』


 切って捨てるような口調に、全身に火が散る。そんな錯覚があった。


 見ていたのか。


 司祭に媚びて見せたのを。


『おまえの純潔は、私のものだろう』


『っ!』


 強張りついた全身を抱きしめられ、耳元でささやかれた。


『純潔だけではない。存在の全て、魂の一片まで、私のものだろう』


 ベッドに押し倒されるのではないかというその不安に、男の胸元に手を突っ張った。


 首を激しく左右に振る。


『今はっ、まだっ、オレの望みは叶ってないっ』


 望みを叶えてくれるなら、おまえのものになってやる――――と、あの時、死に瀕していたあのときに、自分は心の中で叫んだ。


『だから、まだだ』


 必死で睨みつけた。


 と、


『いいだろう』


 思いも寄らない穏やかな笑みに、ジュールの目が、見開かれる。


『だが、これくらいは、かまわないだろう』


 呆然としていたジュールのくちびるに、男のくちびるが、触れてきた。


 優しいといっていいほどの、やわらかなタッチに、ジュールはただ、その場で動けずにいた。


『おまえが私のものだということだけは、肝に銘じておけ』


 打って変わった硬質な声音が、耳を打った。


 我に返って見返せば、いつもの厳しい顔が、見下ろしている。


 ―――――他人に、触れさせるな。


 それさえ守れるなら、私は、黙って、成り行きを見守っているだけにしよう。


 そう言うと、悪魔は、今度はジュールのくちびるを堪能するかのように深いくちづけを落として、去っていったのだ。




 思い出す。




 悪魔と最初に出会ったのは、いつだったろう。


 ラウルが、ユージーンと出会ったのよりも、あとのことだ。


 そう。


 ジュールは、ラウルがユージーンと出会ったときのことを、知っている。


 羨ましいと、思ったものだ。


 穏やかそうな優しそうな、美しい男が、ただ、ラウルひとりを欲しいと思っている。そう感じることが出来た、あの、ふたりの出会いのシーンをジュールは、ぽつんと離れたところから見ていたのだ。


 顧みて、自分の孤独を、痛いくらいに感じた。


 行く先々で、ジュールがどんなに好きになっても、最後の最後、彼女たちは、去っていった。


 流れ者の生活は自分には無理だから―――――と、彼女たちは、首を横に振る。


 くちづけだけを残して、彼女たちは去ってゆくのだ。


『どうして』


 細い手首を握り締めて、掻き口説いた。


 ジュールよりも二つ三つ年上の彼女は、口許に優しいばかりの笑みをたたえて、


『あなたは、好き。けれど、祭が終われば婚約者と結婚するのよ』


 どこか遠くを見る青い眸が、ただの遊びだったのだと、残酷に告げた。


 するりと抜け出す白い手に、追いすがる心は、すでに灰のようだった。


 祭の喧騒は遠く、気づかずに背を向けて、ジュールは、町外れの川岸にぽつりと腰を下ろした。


『あ~あ』


 腕で涙を拭い去る。


 悔しかった。


 寂しかった。


 今だけは誰とも顔を合わせたくはなかった。


 だから、帽子を目深に下ろした。


 草の上に、背中から寝転がる。


 五月の夕風が、ほんの少し冷たさを増していた。


 魚が、水面を跳ねる。


 小鳥が歌い、虫たちの羽音が忙しない。


 どれくらいの時間が過ぎたのだろう。


『不実な女に振られたくらいで、屍になってもいいとでも思っているのか』


 酔狂なことだ。


 低い声だった。


 耳に残る低い声が、底に嘲笑をにじませて、耳に届く。


『ほっといてく……れ……………』


 帽子をずらせて、片目で声の主をねめつけようとして、ジュールは、大きく震えた。


 暗い緑のローブをまとった男がひとり、ジュールを見下ろしていたのだ。


 そのまなざしの強さに、ジュールの全身に鳥肌が立つ。


 男がそこにいるだけで、闇が、深さを増したような気がした。


 人間じゃない――と、そう思ったものの、逃げようという気には不思議とならなかった。




 少女の背中が去ってゆく。


 伸ばした手が、虚しく、空を掻いた。


 低い笑い声が、響いた。


 耳に届くその声に、ジュールの背中に、粟が立つ。


 冷や汗が、滴り落ちる。


 震えが、止まらない。


 見るまでもない。


 闇をまとったような、いや、違う。闇を従えたような男がひとり、背後に佇んでいるのだ。


『振られたな――――』


 面白そうに嘯きながらも、その目は、決して笑ってはいないだろう。


『いいかげん、私を受け入れればどうだ』


 言われて、ジュールは首を振る。かたくなに背中を向けたままで。


『誰がっ』


 顔も見ずに、吐き捨てた。


 背中で、全身で、ひしひしと感じる男の存在が、ひときわ強くなる。


 押されるように一歩踏み出そうとしたその時、ジュールの肩を男が掴んだ。


 白い、力仕事とは無縁だろう手を、ジュールは振り払うことすら出来ず、男と対峙させられていた。


『私の我慢にも、限界がある』


 顔をあお向けられて、目を覗き込まれた。


 黒曜石よりも黒い瞳のその奥に、赤い熾き火が見えるような気がした。


『このくちびるを、私以外のものに、触れさせたのか』


 親指の腹でなぞられて、背中に震えが走る。


『イヤダ――』


『オレは、あんたのものじゃないっ!』


 叫んで、突き放す。


『いいや』


 いっそ穏やかに笑んで、男は、


『お前は、私のものだよ。私を魅せた刹那に、そう決まった』


 ジュールを絶望へと突き落とす。


 背中を這う男の手の感触が、ジュールを、慄かせる。


『違うっ!』


 どんなに首を振っても、拒否をしても、男には通じない。


『だいたい、オレが、いつ、あんたを魅せたっていうんだっ』


 少女たちに見せるようなやわらかな笑みのひとつも、男にみせたことはない。


 いつだって睨み付けるか、逸らせるか。もしくは、今のように、叫ぶばかりだ。


 全身で、拒絶している。


 なのに、この男は、いつの間にか、自分の近くに現われて、すべての抵抗を楽しむみたいに自分をからかっては、去ってゆくのだ。


『…………お前の存在そのものが、私を、魅せる』


 そう言うなり顔が近づいてきた。


 苦虫を噛んだような憮然とした表情が、思いもかけない甘さを帯びて、すぐ目の前に迫る。


『いやだっ』


 思わず目を奪われかけて、我に返った。


 ただでさえこの執着である。キスなどしようものなら、どうなるか。


 一度でも許してしまえば取り返しのつかないことになってしまいそうで、ジュールの背筋に怖気が生じた。


 押しのけるようにして男の腕の中から抜け出した。


 乱れた前髪をかきあげて、男の黒い瞳が、ジュールを見据えた。


『いいだろう………好きにするがいい。だが―――――――』


 ぞっとするほどの冷たさと同時に焼きつくそうとするかのような灼熱を男の眸に感じて、ジュールは、動くことすら出来なかった。


『おまえが、このくちびるで私を呼んだ時、そのときこそ、おまえのすべては私のものになると肝に銘じておけ』


 ―――おまえが私を魅せたのがえにしなら、私のものとなるのはおまえの宿命なのだと、覚えておくがいい。


 そう言って、男は、目の前から消えたのだ。


『呼ぶものか………』


 そう。


 ジュールは、そう思っていた。


 男があのときすでに未来を見越していただなどと、どうして、考えることが出来ただろう。

 

 それに思い至ったのは、残酷な拷問の果てに、こときれようとしていた、まさにそのときだった。


 苦痛と憎しみ、それに、死にゆくことの恐怖。


 自分たちの味わった苦痛など知らぬ顔をして、これから先も生きてゆくのだろう、神の僕を名乗る男たち。彼らに対する、どうしようもない憎悪が、恨みが、静謐であるべきはずの末期を、乱す。


 乱し続ける。


 妹が、母が、姉が、仲間が、ここにはいないラウルまでが、すべて、無残な骸となって、転がっている。その無残な光景は、刳り貫かれた目ではなく、頭の中に浮かび上がる。目で見るよりもなおのこと生々しい血の赤黒さや、死人の青白い肌を、見せつけるのだ。


 それでも、堪えるつもりだった。


 打ち捨てられた床の上、息を確かめるために爪先で蹴り上げられる。自分自身の呻き声よりも大きく家族の呻き声が耳を打ったと同時に、拷問吏たちの禍々しいまでの笑い声が、ジュールの最後の堰を、切った。


 目の前へと下ろされていた天への階を、ジュールは、自ら、拒んだのだ。


 神などいない。


 神など、いらない。


 恨みを晴らしてくれるなら、オレのすべてなんか、あんたにくれてやる。




 ――――――――――っ!




 かすかすとした絶叫が、男の名をつづったのを、その場に居合わせた誰が理解しただろう。




 その時、雷鳴とともに、教会の鐘撞き堂が、崩れ落ちたのだ。








 今日はあの青年とはまだ会っていない。おそらくは、思っているよりも朝早いのだろう。


 嵐のせいで、時間の感覚が、狂っている。


 空腹だった。


 暇でもある。


 沈黙の行で、慣れているとはいえ、やはり、ここが俗世であるという気のゆるみがあった。


 あれがあってから、部屋は変えてもらっていた。


 錯覚とはいえ、あんなことがあった廊下に部屋が面しているというのは、いい気持ちではないからだ。


 司祭は、部屋を出た。


 はたりと波打つタピスリーに全身が震えたが、タピスリーはただ、隙間風に煽られただけなのか、ただ、揺らめくだけだった。


 全ては、自分の、思い込みなのか。


 錯覚なのか。


 顎に手を当てて考える。


 魔女を裁くことに負い目など感じはしなかったが。


 だが。


 ふとそらせた視線の先に、何くれと世話を焼いてくれている青年がいた。


 交差する廊下を、どこかに向かっている。


 自分以外の存在に、司祭の全身が、弛緩した。


「待ってくれ」


 暇なら、相手をしてくれないか。


 なに、話し相手でいいのだ。


 そう言いかけて、司祭は、口を閉じた。


 青年は、自分には気づいていない。


 何処へ行くのだろう。


 興味を引かれて、司祭は、ジュールの後をつけたのだ。

 







 ほとほとと、扉をノックする音に、室内を満たしていた音が止まった。


「どなたですかな」


 しわがれた声が、誰何する。


「オレです。入ってもいいですか」


「どうぞ」

 促されて、ジュールが扉を開けた。


 窓を締め切り、琥珀色の明りだけが灯った室内で、三人の老婆が糸を紡ぎ、糸を染め、布を織っていた。


 カラカラと紡ぎ車がふたたび回りはじめる。


 機織りの軽やかな音。

 軽く、リズミカルな音が、石造りの部屋に、小気味よく響く。


 桶の中で赤く染め上げられた糸が、瞬く間に乾き、紡がれてゆく。


 赤一色のはずの糸が紡がれると、さまざまな色へと変化してゆくのは、まさに、人間業ではない。その不思議な縦糸と横糸とが絡みあって、一枚のタピスリーとなろうとしている。その、本来なら気の遠くなるような作業が、皺深い老婆の手にかかれば、幾倍もの速さで図柄を描き上げてゆく。


 生贄のアンドロメダ姫が、やがてタピスリーとして現われた。


「まだ、終わらないんですか」


 ジュールの問いに、


「もうしばらくじゃよ」


「若い者はせっかちじゃの」


「あとしばらくの辛抱じゃ」


 しわがれた笑い声が、室内に満ちた。


「それ。この桶の染料がすべて使いきれれば、若さまたちの望みはほぼかなったも同然じゃろう」


「あの人間は、ずいぶんと同胞の血を流してきたようじゃからな。ワシらにしても、使い出がありすぎじゃわい」


「ほんにな。騎士でもあるまいに」


「戦でもあるまいに」


「聖職者を名乗って、この血の量とはな」


「この恨みの量とはな」


「この、涙の量とはな」


 けらけらと、楽しげに笑う老婆たちの影が、石積みの壁に妖怪じみた絵を描く。


「あの人間は、まともに地獄にも行けまいて」


「行けんなぁ」


「行けん行けん」


「地獄の鬼どもも、扱いに困ろうて」


「このごろではそんなやからが多すぎるとも聞くがの」


「おお。聞いたわ聞いたわ」


 けらけらけらけら。


 老婆たちは笑いながらも手を休めることがない。


 桶の中の赤い液体が、紡がれゆく長い糸が、絡み合い織られゆく布が、か細い悲鳴を上げ続ける。生贄のアンドロメダ姫が、血の涙を流し、甲高い悲鳴をあげるのを、その場に立ち尽くすジュールは聞いていた。







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