3回目
ラウルはただ、悲鳴を上げていた。
半ば狂った頭でわかるのは、ただ、痛みだけ。
幾多の炎が、自分をじりじりと焙る。
空気が熱を帯び、喉を焼く。
咳こむたびに、喉の奥が痛い。血が、にじむ。
全身が、痛い。
拷問の傷が、間断なく、全身をさいなむ。
どうして。
どうして。
誰か、誰か、誰か。
誰かを、求めていた。
救いを求めていた。
誰に求めるのか。
繰り返し、繰り返し、ただ、誰かを求め続ける。
誰か。
助けて。
誰か。
痛い。
苦しい。
熱い。
誰か―――――――
群集の興奮か、それとも炎が呼んだのか、空が、曇る。風が、吹く。
ひときわ強い風に煽られ、大きな炎が、ラウルの目の前に、立ち現われた。
金の炎は、ラウルを飲み込もうと、鎌首をもたげる。
その金の炎が、ラウルの半ば狂った記憶を刺激した。
「ああああああ……………」
言葉を奪われた喉が、大きな悲鳴をほとばしらせた。
言葉にならない声が、ひとつの名前を、縋りつくように、呼ばわった。
群集には悲鳴としか聞こえない声を、誰が、名前とわかるというのだろう。
ごぽり――と、厭な音がかすかにして、ラウルの喉から、赤黒い血が吹き出す。
もうあと少しで、足を焙る炎が、ラウルをじかに飲み込むだろう。
群集の熱狂はすさまじく、さながら、魔女のサバトの態だった。
風が強くなる。
空が、黒々と塗りつぶされようとしていた。
ごろごろと、遠雷すらもが耳に届きはじめたが、誰一人、気にかけるものはいなかった。
「あああああ……………」
巨大な炎が、薪を崩して吹き上がった。
炎がラウルを飲み込むその刹那、金の矢が天空から下された。
耳を聾する雷鳴とともに、教会の塔が、金の矢に突き崩された。
塔にあった鋼の巨大な鐘が、聾がわしい音をたてて、転がり落ちる。
悲鳴を上げ顔を背けた群衆は、やがて、頬に大粒の雨を感じて、目を開けた。
そうして、見たのだ。
降り出す雨が分厚い帳と化す前に、長い黒髪を束ねた白い顔の男が、燃え盛る炎をものともせず、火刑の杭に近づいてゆくのを。
禍々しい炎が、まるで恥らう乙女のように、男に道を開けるのを。
ラウル―――――
切ないまでのささやきを、その場にいるものは皆、耳にした。
そうして。
いったい誰が、君にこんなひどいことを。
その痛切なまでの苦痛の奥底に、加害者に対する滴らんばかりの憎悪を感じ、後ずさろうとして、誰一人かなわないことを知った。その場から逃れることができないことを知り、蒼白になりもがくものの、指一本、動かすことはできなかった。
痛いほどの雨に打たれながら、ラウルはもっと苦しかったのですよ―――と、不思議と穏やかにすら聞こえる声に、背中を震わせた。
突然、雨が、やんだ。
たぎる憎悪をまなざしにたたえて、男が、振り向いた。瞬間、彼らは、自分たちを縛めているものから解放されたのを、感じていた。
誰もが濡れねずみであるというのに、男と、腕に抱かれた少年だけが、髪の毛ひと房、濡れてはいない。
その不思議に打たれるより先に、
「悪魔めっ」
叫んだのは、司教だった。
ぬかるみに尻を落としながらも、胸の金のクルスを掲げる。
司教の声に叱咤されたのか、這いずるように、修道騎士たちが、立ち上がる。
聞こえはじめた聖句に、
「くっ………」
喉の奥で抑えたような声。
効ありと、聖句を唱える声が、よりいっそう大きくなった。
しかし、やがて、それは、ほとばしるような笑い声に、掻き消された。
ひときわ大きな雷鳴が鳴り響く。
一瞬後に、重々しい錬鉄の扉が、引き開けられた。
まろぶようにして室内に走りこみ、あわてて威厳を正す。
「どうぞこれをお使いください」
差し出された布で全身を拭いながら、司教は室内を見渡した。
高い天井から釣り下がるのは、鏡板つきの反射式照明である。数十はあるだろう蝋燭が、鏡とクリスタルに反射してオレンジの炎を揺らめかせている。それでも薄暗い室内には、どこかの異国から持ち込んだのか、異教徒的な趣向のシルクの段通が壁一面を覆いつくし、左右対称に作られている二本の階段へと向かうものの目を楽しませていた。そうして階段を上りきった二階の正面壁には、等身大の肖像画がかけられ、額縁の中から城館の主らしい人物が、階下を見下ろしている。
なんと豪勢な。
片側の階段下の暖炉には炎が燃え、司教は、その前にある椅子を勧められた。
「温かなスープでもお持ちいたしましょう」
恭しく頭を下げて、まだ歳若い青年が、階段脇の扉の奥へと消えていった。
「うまい。いったいなにを使っているのですかな」
ほどなくして供されたスープを味わいながら、からだがぬくもるのを、司教は感じていた。
「それは、料理人の秘密ですよ」
にこやかに笑う青年に、司教の悪い虫がぞろりと腹の奥でうごめく。
青年の手首を握りしめる。
「ダメですよ」
まんざらでもない反応に、司教がくちびるを舌で湿した。
腰を抱き寄せようと伸ばした手が、
「彼が雨宿りの客人ですか」
朗々と響く美声に、空で強張る。
あわてて立ち上がり、
「新たな教区へと向かう途中雨にやられまして。一夜の宿を供していただき、感謝いたします。神のみ恵みがあなたの上にありますように」
十字架を切る手が、途中で止まった。
揺らぐ灯火に照らし出された城主は、黒地に金糸のふんだんにあしらわれた衣服をまとい、まるで、王者然とした雰囲気で、階段の半ばに立っていた。
白皙の面には、紅を指したかと思えるほどに赤いくちびると、珍しい琥珀色の眸。それらを際立たせる、黒い髪。
どこぞの王族かもしれん。
これは、印象を悪くしては、ことだぞ。
司教が内心で一人語散る。
「丁寧な挨拶。ありがたく受け取っておきましょう。ジュール。寝室を準備してください」
「はい。ご主人さま」
優雅に腰を折った青年が、今度は階段を上がってゆく。
青年の耳に、城主の赤いくちびるが寄せられ、なにごとかをささやいた。
通された部屋は、予想にたがわず豪奢なものだった。
炎の燃え盛る暖かい部屋の壁といわず床といわず、段通が張り巡らされ、天蓋つきの寝台の四隅には、帳が束ねられている。
やわらかなクッションが、彫刻の施されている長いすの上にいくつも据えられ、客が腰を下ろすのを待っていた。
司教は、その上に音を立てて腰を下ろすと、サイドの飾り棚から切子のデキャンタとグラスを取り上げ、なみなみと注いだ。
煽るように喉の奥に流し込む。瞬時にして全身をアルコールの熱が焙った。
疲れと酔いとに誘われるようにして、司教は僧服を脱ぐと、寝台にもぐりこんだ。
後は、司教の寝息と、暖炉に炎が踊る音だけが、静かな室内に響いていた。
白と金、それにやわらかな色調で飾られた室内に、城主はいた。
広々とした寝台に、ひとりの人物が眠っている。
「……………」
力なく寝具の上に投げ出されている手を握り、自分の額に当てる。
「もうじきだ」
寝苦しい夢に魘され、司教は目覚めた。
厭な余韻だけを残して、夢は、砕け去っている。
「寝た気がせん」
ベッドの上に起き上がり、額を押さえる。
体内時計は、今が明けがただと告げているというのに、部屋は、まだ、闇に閉ざされている。
悪夢の名残を振り払いながら、ベッドから降りる。
窓の帳を開け払い、窓の外に広がる景色に、息を呑んだ。
吹き荒れる嵐は一夜を過ぎても、まだ、続いている。
「ご主人様から、嵐がやむまでご滞在を――と、言付かってまいりました」
不意にかけられた言葉に背後を見ると、昨夜の青年が佇んでいた。
「お礼を申し上げたいのだが、城主殿は」
「ご主人様は、午後になるまで、部屋をお出になられません」
どうぞ、司教さまにはごゆるりとなさってくださいとのことです。
青年が、テーブルの上に香ばしいにおいを立てる焼き立てのパンとスープ、それに、ワインを並べ、椅子を引く。
司教が椅子につくのを見て、ジュールが、給仕についた。
静かに佇みながら、ジュールが褐色の眸で、司教を見る。眸にたたえられた色を、司教が見ることはない。もし見ていたなら、暢気に、舌鼓を打ってなどいられなかっただろう。それほどの、憎悪の色が、彼の眸には、潜められていたのである。
嵐は、やむ気配すら見せない。
時折金の雷光が、黒々とした空を引き裂いては消える。
神の怒り――――
ふと過ぎることばに、司教は、首を振る。
神に仕える身が、いかさま。と。
胸にぶら下がるクルスを、手遊ぶ。
ごゆっくりとは言われても、手持ち無沙汰でしようがない。
「別段部屋から出るなといわれたわけでもなし」
ひとり語ちて、司教は、椅子から立ち上がった。
「ご城主殿に、礼をな」
ドアを開ける。
壁を覆うタピスリーが、手燭の明かりに、揺らめく。
細かな刺繍が施された一品が廊下の窓に面した壁を覆い、ずらりとつづく。これから自分が赴任する教会にも、これほどのタピスリーがあるだろうか。いや、これほどの手を、今まで見たことなどありはしなかった。
しかし、ふと、気づく。
「昨夜見たときとは、絵柄が違っているような………なにかの物語のようだぞ」
教会の修道士。位の高い僧侶が――――
司教の顔から、血の気が引く。
「まさか」
「いや」
しだいに足早になりながら、タピスリーに織り出された物語を追ってゆく。
約束―――と、聖書に用いられる文字でつづられた単語が目に飛び込んできた。
そう。
約束を破ったのは、僧である自分だ。
汗が、こめかみから頬へと伝う。
再び捕らえられた、少年の、家族。
彼らのその後の運命。
嘘だ。
なにかの、偶然。
首を振りながら、しかし、目を背けたいような、その織物から、視線を外すことはできなかった。
魔女――との、審問。
魔女の家族への、審問。
刻々と続く、むごたらしい拷問。
赤い血の色が、タピスリーを、染め上げていた。
ピタン。
「ひぅっ」
首筋に落ちてきたものに、司教の全身が、震えた。
拭った手を目の前に持ってきて、我とわが目を疑った。
べっとりと手をぬらすものは、紛れもない、血。
「うわっ」
手を振った弾みで、手燭が、床に転がり落ちる。
消えた蝋燭。
しかし。
タスケテ。
タスケテクダサイ。
魔女ナンカジャナイ。
チガウ。
チガウンデス。
子供の、泣き声。
女の、男の、悲鳴。嘆願。呻き。
「うわぁっ」
両手で耳を覆い、壁に背中を擦り付ける。そのままずるずるとしゃがみこみそうになった司教の肩に、ひたりと触れたのは。
「ひぃっ」
小さな、子供の手だった。
振り払う。
肉の重みを思わせる音が、生々しい。
関節が外れ、骨も砕け、腱も断たれたのだろう、肩からだらりと伸びた腕。いや、腕だけではない。小さな子供の全身が、だらりと、伸びて、床の上を、這っている。まるで血まみれの巨大な蛇のようなその姿に、
「う、うわぁっ」
司教は、顔を覆った。
足元になにか冷たいものが触れた。確かめる決意もないまま、司教が震える。それは、ひどくゆっくりと、司教のからだを伝わり上ろうとする。
「ゆ、許してくれっ」
言いのけざま、司教は、それを蹴飛ばし振り払い、走り出す。
泣き叫ぶ幼児を、上下に引き伸ばす拷問具に架けたことを思い出しながら。
熱湯に浸けた、全裸の女。その悲鳴。
舌を抜かれた女の、血の涙。
足を砕く拷問具に架けられた少年の、自分を睨む生意気な目。それが腹立たしいとばかりに刳り貫かせた、二個の眼球。
自分を惑わせた少年の爪を一本一本剥ぎ、指を砕き、腱を断つ。痛覚を責め、自白を誘った。
魔女だと。
半ば狂ったうつろな褐色のまなざし。
ぼんやりと自分を見てすらいないだろう目を覗き込みながらの問いに、ただうなづくその少年は、何も判ってなどいなかっただろう。
それを、十字架に架けた。
群集が投擲する石が、少年の肉を裂き、新たな血を流させた。
ただ苦しげに呻くだけの少年を殺すのに、火を放つことなど、造作もないことだった。
魔女のしるしを持つ少年を殺すのに、躊躇などあろうはずもない。
苦しみを最大限に引き伸ばされ、苦しみもがいて死んでゆく少年を見ることに、ためらいなどありはしない。
魔女に惑わされたことをないことにできるなら、なんだってしただろう。なんだってできるのだ。
魔女が、自分を惑わしたのだ。だから、自分は、少年に手を出す振りをし、そうして、そのたくらみを破ったのだ。だから、これは、正当な報いである。
そういうふうに、修道院の記録には記されるだろう。
魔女のたくらみを打ち破ったものとして、位が一つくらいは上がるかもしれない。上がらなくとも、法王の覚えがめでたくなるかもしれない。
しかし――――
現実は、逆だった。
身の毛もよだつ悪魔の出現によって、修道院は炎上し、修道騎士は虐殺された。あまつさえ、少年、いや、魔女に石を投げつけたものは、殺された。笑って見物していた群集は、皆、何らかの報いを受け、挙句、あの地は、ひとが住める土地ではなくなったのだ。ひとりふたり、ひとは地を去り、かろうじて生き延びた修道士は、別の修道院に受け入れられた。けれども。自分は、そのために、罰を受けたのだ。位を司祭へと落とされ、一からのやり直し。何十年もかけて、やっと、元の地位に返り咲けたのだ。そうしての、新天地への赴任だったのに。
だというのに、これは、なんだ。
なんだというのだ。
きれいに整えたトンスラを乱しながら、司教は、闇雲に、廊下を走った。
誰も出てこない。
自分の悲鳴と足音だけが、あまた怨嗟の声に混じる。
気が狂いそうだった。
どこでもいい。
この悪夢から逃げ出すことができるなら。
行き止まりにぶつかり、司教は泣き喚きながら、周囲を手探る。手に触れたそれを救いとばかりに、必死に捻り、開いた。開いて走り、またぶつかる。ぶつかったものを開き、そうしてまた。幾度繰り返したのか。ついに司教は息を切らして、その場に、蹲った。
途端―――――――
馥郁とした薔薇のかおりが鼻を満たし、怨嗟の声が、ぴたりと止んだ。
しかし、司教は、それには気づいてはいなかった。
ただ、後ろ手に開いたドアを閉め、その場に蹲っていたのだ。
「ひっ」
肩に触れてくる手を払った。
そのリアルな感触に、数瞬後、我に返る。
目の前に立つのは、やわらかな笑みをたたえた、白い美貌。
「どうなさいました」
丁重なテノールに、
「あ、いや、その……」
着衣の埃を払いながら、立ち上がる。
先までの出来事がまるで夢であったかのようで、足元がぐらついた。
しかし、覚えている。絡みつく怨嗟の声も、這い上がってこようとした、冷たい手も。
ぶるりと全身を震わせ、
「あのタピスリーは、なんですかな」
かすれそうになる声で、なんとか、訊ねた。
「はい?」
かすかに首をかしげ、面白そうに自分を見下ろしてくる琥珀のまなざしに、なにかがじわりと湧き上がる。
「あれですよ。廊下の壁一面にかけられている、あの趣味の悪い」
相手が王族かもしれないことなどこの際、関係なかった。
「趣味の悪いタピスリーですか?」
相変わらず楽しげな声のトーンに、
「あ、んな、宗教裁判のタピスリーなど趣味を疑いますな」
一気に言ってのける。
と、
クスクスと笑い声が、城主の口から零れ落ちた。
「な、なにがおかしいのです」
「い、いえ。あなたがあまりにおかしなことを言うものですから」
言いざま、城主が、ドアを開いた。
司教が止める間もありはしなかった。
しかし、ドアの外にあるのは、壁面を書物で覆われた、書斎だった。
「居間に来るには、この部屋の前にある控えの間を、通り抜けなければならないのですよ。そうして、これが、廊下に直接通じている扉です」
繊細な手が、重いドアをいとも無造作に開け放つ。
そこに広がる光景に、
「そんなばかなっ」
司祭は、うめき声を上げたのだった。
嵐のため締め切られた窓がずらりと並ぶ反対側の壁にかけられているタピスリーの中では、異教徒的な意匠のアラベスクで縁取られたユニコーンやグリフィンなど、明るい色彩で織り出された神話の世界が、蜀台の明かりに揺らめいている。
「私が庇護している職人たちの手によるものです。すばらしい物でしょう。これよりすばらしいものは、あとしばらくの間、現われないといっても過言ではありませんよ」
「こ、これはいったい」
「司教さんはお疲れのようですね。まだ嵐はやむ気配がありません。そうですね、先ほどの部屋で、ワインなどいかがです」
「は、はぁ」
毒気を抜かれた司教が、城主に背中を押されて、きびすを返した。
とたん、ざわりと、タピスリーが波打つ。
血があふれ、糸を引き、ユニコーンやグリフィンが解け崩れてゆく。
それに、
「しーっ」
と、人差し指を立てて、城主が一瞥を投げかけた。
ぴたり。
タピスリーの不穏なざわめきが止まり、解け崩れたはずの幻獣が、元の姿を取りもどす。
それらを確認して、城主は、しずかに扉を閉ざした。