幕間2 - 掲げた剣の行方 (SIDE:シュリ)
※ シュリ視点のお話です。
荘厳でかつ高雅な白の城郭を誇る、世界最大にして最古の王国アルス・ノーヴァ。
250年ほど前に、アルス・ノーヴァ初代女王となった辺境の権力者カルラが起ち率いた軍勢が、当時独裁を敷き恐王と呼ばれた唯一の王を討つことにより興国となった国だ。
それ以降幾つもの国が分立し混乱期も訪れたが、現在では、アルス・ノーヴァを含む五大国が和平条約を結び他の小国を牽制することにより、概ねの平和が保たれている。
とは言え、唯一の王が没してからの浅い歴史しか持たない諸国が平定を迎えるまでには幾度もの紛糾があり、それゆえ、各国は相応の武力を保持していた。
アルス・ノーヴァの武力の要は、およそ千人で構成される騎士隊である。
無論、騎士隊の他にも城下を始め各地にに幾つもの武力部隊の屯所があるが、彼らは騎士ではなく兵士と呼ばれ、王城の敷地内に居住を許される騎士として召し抱えられることは、剣を持つ者達の憧れでもあった。
騎士隊は幾つかの部隊に分けられ、現在それらを統括するのはかつて王国の双剣とまで謳われた男、総隊長サー・アルノルト。
アルノルトのおっさんがが任命されたのは約8年前で、それまでは、もうひとりの双剣・スヴェンが……俺の祖父が、その任を務めていた。
祖父が総隊長を務めていた頃は小国との小競り合いなんかも少なからずあって、隊も忙しく駆り出されていたのだという。
だが、20年前に起きた抗争を最後に、以降この国が主要となる争いは起きていなかった。
その頃に、王国の地下へと安置されていた魔術を使った感知結界の再起動に成功し、不穏の芽の発覚を迅速に行えるようになったのが、大きな要因なのだろう。
俺はその20年前の抗争で、両親を亡くした。
己が前線に立ったというのに家族を守れなかったことへの後悔からか。息子である父に剣を取らせることの無かった祖父は、傍から見れば過酷とも取れるほどに、俺には物心ついた頃から全てを賭してその技を享受した。
俺は厳しい祖父の指導が嫌いではなく、子供ながらに全てを吸収する覚悟でそれに臨む。
その甲斐あってか、10を少し過ぎた頃には、一般の騎士の中に俺に勝てる者は居なくなっていた。
いずれ俺がじいさんを守ってやるよ、と。
その頃から、それが俺の口癖になる。
両親も含め近しい者は既に亡く、どうせ守るものも祖父くらいしか居ない。
だが、俺の言葉を複雑な顔して聞いていた祖父は……8年前に、条約協定国の友軍として参加した抗争で、あっさりと死にやがった。
その頃には既に、王国騎士隊の中で俺が勝てない者などアルノルトのおっさんか親衛隊の奴らくらいしかなく、もう少しで祖父を守るともっと胸を張って言い切れるところまで、登りつめることが出来たというのに。
一体何のために、俺は強くなろうとしていたのか。
これまで培ってきたもの。これから培うはずだったもの。
全てを失くした気がして、俺は愕然とした。
未成年で身寄りも無かった俺は、祖父の友人であったジークベルトの両親に引き取られる。
それ以前にも祖父に連れられてジークに会う機会はしばしばあったが、気軽に話せる同世代の友人として関係を築いていったのはこの頃からだ。
ジークは剣に興味が無く、また、俺も学問に興味が無く。
よく衝突したのを覚えている。
ジークはからかい易くぼんやりしているところがあるが、あれで結構な曲者だ。
兎も角、俺は失くしたものを紛らわすかのように剣技の向上に打ち込みながら、少年期をそこで過ごした。
15の時。
未成年ではあったが、俺は王国の騎士隊員として召し抱えられることになる。
実力を見込まれたのと、早期に何かと経験させておきたいというアルノルトのおっさんの計らいだった。
特にするべきことも行く場所も無かった俺は、望まれるまま入隊する。
その頃から俺の剣技の練習相手はおっさんや親衛隊の奴らになり、成人してすぐ親衛隊へと抜擢され、一年後には親衛隊長としての地位を得た。
親衛隊というのは実力主義の面々の集まりだが、騎士隊の次期総隊長候補を育成するための抜擢という意味合いも含むため、行政方面に携わることも多くなる。
俺は失くした部分に埋めるものも見付けられないまま、文官として城へ上がったジークとも関わりながら、おっさんの下で忙しく日々を過ごした。
そうして、ある日唐突に。
かの総隊長サー・アルノルトから二週間もの休暇を申し渡されたのだ。
おっさんは騎士隊の中で唯一俺の上司と呼べる存在なので、命令だとまで言われれば逆らうことも出来やしない。
「お前は強い。恐らく私よりもな。だが、守るべきものを履き違えれば、その剣は呆気なく折れることになるだろう」
別に休暇が必要なほど疲れてやしないんだと。
一応は拒否してみれば、そんな言葉を返された。
「……国を守ってるだろ?」
訳の判らない言い分に腹が立ったので、そう言い捨ててからおっさんの執務室を後にする。
大きめの音を立てて閉じられたその扉の奥から、溜息が聞こえた気がした。
時間があると、つい余計なことばかり考える。
休暇を申し渡されてから既に13日目。
特にすることも無かった俺は、幼少の頃に祖父と共に使っていた、王国城下の外れにある小屋へと身を寄せていた。
気が向けば城下をふらつき、残りの殆どはこの小屋の前の川原で剣技の反復を行い、あとはぼんやりする。
本当に、することが無さすぎて自分でも笑えてきた。
おっさんは、俺に色々と考える為の時間を与えたかったんだろう。
そんな事は判っている。
……おっさんが伝えたかったことも、本当は判っている。
俺は、剣技では実質国内一へと上り詰めた。
だがそれは目的があってのことではなく……ただ強くなるためだけに、強くなったに過ぎない。
目的なく振るわれる刃は、ただの凶刃でしか無いのだ。
それに、俺がもはや国にも親衛隊長という地位にも何の執着も持っていないことを、おっさんは気付いている。
ただ時間を埋めるために、それらを利用しているだけだということにも。
良くない傾向だと自分でも思うが、どうしようも無いことだってあるだろ。
溜息を吐いて地面から身体を起こし、後頭部を掻く。
気晴らしに鍛錬を再開しようとして剣を構え……視界の端の空が歪んだのは、そんな時だった。
思わず身構え、俺は不自然に一部分だけ歪んだ空を見る。
「なん、だ……?」
魔術を使った強襲の類かとも思ったが、特に敵意は感じられない。
歪みはすぐに収まり、代わりとばかりに唐突に現れた何かが、広い川へと落下した。
それは人の形をしていたように見える。
死人じゃなければ目の前で溺死されても敵わないので、俺はそれが落下した辺りへと駆け寄った。
ゆったりとした流れに押しやられて、川へ飛び込むまでもなく、それは川端へと近付いてくる。
引っ張り上げてみると、それは人間の少女のようだった。
小さな顔に耳を近付け、呼吸を確認する。
落ちてすぐ引き上げたお陰で殆ど水も飲んでおらず、呼吸も正常なようだ。
それにしても、何とも変わった服装で……この顔の飾りは一体何だ?
斜めになって顔にくっついていた硝子のような飾りを外し、思わず観察する。硝子越しに周囲を見てみるが、歪みすぎて何が何なのか判らない。
と、こんなことをしている場合ではなく。謎が多いが、兎も角無事なようで良かった。
川原へと寝かせた少女の頬を控え目に叩いてやると、ゆっくりと、少女が目を開く。
髪の色と同じ、この辺りではあまり見掛けない漆黒の瞳だった。
「……めがね」
意識を取り戻すなり、少女はそう言う。
異国語か? 何のことだか判らないが、目元に触れているのでさっきの飾りのことだろうか。
蔓のようになっている部分を耳に引っ掛けるようにして、少女にその飾りを返してやる。
少女はしばらくぼんやりと俺の顔を見つめていたが、やがて唐突に覚醒してがばりと起き上がった。
「うおっ」
顎に当たりそうになった少女の頭を、ぎりぎりで避ける。
少女は挙動不審にきょろきょろと周囲を見渡し、くるくると表情を変え、何事かを考え込んでから俺へと向き直った。
……何というか、見てて飽きない奴だな。
「取り乱して申し訳ありませんでした。助けていただいて、ありがとうございます」
「おう、気にすんな。俺はたまたま通り掛かっただけだ。運が良かったんだな」
「あの、それで……重ね重ねお手数をお掛けして申し訳ないのですが。ここは一体何処でしょうか」
「アルス・ノーヴァ城下の外れの川原だな」
異国語らしきものを口走っていたので心配したが、言葉は通じるらしい。見た目の割には丁寧でしっかりした口調に感心しながら、俺は答えてやった。
少女はぴたりと動きを止め、また何事かを考え込む。
「それって何処の国でしょうかね」
「アルス・ノーヴァが国名だろ? 知らないのか? お前こそ何処から来たんだよ」
「日本です」
「は?」
「日本。ニッポン。ジャパーン! サムライ、ニンジャ、クノイチ!! マニアックそうな顔してるし知ってますよね!?」
「おっ前、初対面の相手に大概失礼だな……知らねぇよ」
不安げに表情を歪ませた少女は、いよいよ俺の襟首を掴み上げて訳の判らない単語を並べ立てた。
マニアックって何だ。
意味が判らないが、褒め言葉ではない予感だけはひしひしとする。
それから一拍置いて……泣きそうな表情を作り、少女は俯いてしまった。
本当に謎が多い奴だな。
そんな風に思うが、放ってもおけない。
俺は落ち着かせるために少女の頭を撫でてやり、兎に角話を聞こうと、少女を小屋へと促した。
曰く、少女はバス? とかいう乗り物に乗っていて事故に遭遇し。
運悪く崖の下に落ちて、次に目が覚めたら見知らぬ場所で、見知らぬ俺に覗き込まれていた、と。
高い位置から浅い沢に向け落ちたので、本来であればこのように無傷で居られる訳も無かったのだという。
アルス・ノーヴァという国名も、彼女の記憶する世界地図には記されていないのだそうだ。
世界一の国土を有するこの大国の名を知らないなど、幾ら小国でもほぼ有り得ないと思って良い。
素直に鵜呑みに出来るような内容では無く、まるで別の世界にでも来てしまったかのようだという印象を、俺は受けていた。
そんな話は前例が無い。
だが、更に話を聞いていったところ、口から飛び出してくる聞いたことも無いような単語、知識の数々。
受けた印象が現実味を帯びる。
また、再び泣きそうになって顔を覆ってしまった少女が、嘘を言っているようにも思えなかった。
決定的なのは……あの、明らかに異常な現れ方。
魔術的な何かが関係しているのであれば、機を見てエリアスに相談を持ち掛ければ何か判るかも知れない。
少女の言い分に関しては半信半疑ではあるが、下手に放置して国に何か害あっても困る。手元に置いて監視するのが無難か。
一応、少女自身の意志を確認する。
「お前、どうしたい?」
本心を探るため、少女の顔を間近から覗き込みながら問い掛けた。
少女は一瞬驚き、気恥ずかしげに涙を拭って、じっくりと考え込む。
「とりあえず、自活できるようになりたいです」
やがて口を開いた少女が酷く真剣な顔でそんなことを言ったので、俺は面食らって支えていた手から顔がずり落ちた。
いやいや、俺も充分訳が判らない状況だが、更に訳の判らない状況の当事者のくせに頭の切り替え早すぎだろ。
思わず感心してしまう。
だが、働き口であれば、ジークが騎士棟の女中希望者が居ないとかぼやいていたので紹介してやれそうだった。
手続き関係でどうするか考えていると、少女が俺に向かって深々と頭を下げる。
本当にしっかりしていて礼儀正しい子供だ。
アコという名らしいその少女に、俺は色々と指示や説明をしながら荷物を片付ける。どうせ明日で休暇も終わりなので、早めに帰城して手続き関係を済ませてしまおう。
片付けとは言っても持ち込んだものなど殆ど無いので、すぐに終わってしまったが。
と、まじまじと俺が渡した着替え用のシャツを見ていたアコが、着替えるので後ろを向いて欲しいなどと所望する。
そうか、幾ら子供でも女なら気にするよな。
明らかに気遣いが無さ過ぎたことに反省する。
が、何故か殺気を漲らせたアコに、水分を吸ったタオルを顔面に投げ付けられた。割と痛い。次いで頭を鷲掴みにされる。何だこの異様な迫力は……
「後見人でお願いします」
「あ?」
「後見人でお願いしますっつってんのよ!! 秋月亜己! 年は19! ヨロシクネ!!」
「じゅうく……はぁ!?」
いやいやいやいや。流石に嘘だろ。
思わず頓狂な声が出た。絶対11か12かそこらだと思っていたというかそうとしか思えない。
しかもあと三ヶ月で20……まさか俺とタメだとは思わなかった。まあ、俺はあと四ヶ月ほどで21になるので正確にはひとつ上になるんだろうが……と、そんなことはどうでも良い。とにかく信じられん。
その心情を読み取ったのか何なのか。
アコは俺の膝の上に乗って、あろうことか服を脱ぎ捨てた。
中にも薄い服は着ていたが、露になる微かに濡れた白い肌。艶やかに浮いた鎖骨。そして存在感のあるふたつの立派な膨らみ。
それらを見せ付けられれば、確かに12そこそこでは持ち得ないものなので信じる気になった、が。
本人は至って俺に年齢を信じさせたいだけのようだが、信じたとしたら尚更、体勢とか状況とか色々まずいだろ!
「これを見てもまだわたしが12歳だと申すのか! 実物よ! パットなんて入っちゃいないわよ! 触ってみなさいよこん畜生!!」
「わっ、わ、判った! 信じる! 信じるから服を着ろおおおおぉぉ~~~!!」
正気を失っている様子のアコに詰め寄られ、俺は情けない叫びを上げていた。
当然だが、女に胸倉を掴まれて脅されしかもその脅しに屈服することなど、初めての経験である。
しばらくして、着替えてからようやく正気を取り戻したらしいアコは、床に這いつくばって俺に謝罪してきた。
身を引きそうになるほどの謝りっぷりに、何でも許さなければならないような気にさえなる。
元々怒ってなどいないし放り投げたりもしないが。
俺の様子を伺おうとしたのか、アコは少しだけ顔を上げて上目遣いで俺を見た。這いつくばっているので、大きく開いた襟元から胸が際どいところまで見えている。
俺は思わず目を逸らした。謝りたいのか煽りたいのかどっちなんだ。
ひとまず床から立たせて、空腹らしいアコに食事を取らせる。
そうしながらこの世界について、明日について、色々と話していたら、アコはいつの間にか眠ってしまった。
カクン、カクンと座ったまま舟を漕いでいるので、起こさないようそっと抱き上げて、ベッドに横たえてやる。
顔の飾りは寝返りを打ったら危険そうなので、外しておいた。
傍らに腰掛けてアコを見下ろし、俺は小さく溜息を吐く。
腹が膨れて眠っちまうとか、子供かよ。子供扱いするなとか言ってたくせにな。
まあ、色々あったんだろうから、きっと疲れていたんだろう。
まだ少し腫れている目元にそっと触れると、微かに熱が残っているような気がした。
……しかし、これで成人しているとか未だに信じられん。
眠っているアコを観察してみる。
あどけない、安心しきった寝顔。
美人というかどちらかと言えば可愛い部類だが、それなりに整っている顔の造形。目元に翳りを与える密度の高い睫毛。
誘うようにうっすらと開かれた柔らかそうな唇。
ほつれて首筋に掛かる、艶やかな黒髪。
全体的に細く、だが女性らしい丸みを帯びた身体。
際どい位置まで上がったシャツの裾から伸びる、白い脚。
特に綺麗だと思ったのは、手だ。
静かに上下する存在感のある胸の上に添えられた、小さな手。
小さいとは言え、身体の割には大きく感じるその手の細い指はしなやかで、長く……
待て待て、落ち着け、俺。
思わず目元以外の部分に触れようとしていた手を慌てて引っ込める。
こいつが成人した女性だということは充分に理解した。
ベッドの端に寄っていたブランケットを引き寄せて、目に悪すぎるその身体を覆い隠す。
……ったく、無防備にも程がある。
俺ももう寝てしまおう。そう思い、ランタンの灯を落としてもう一枚のブランケットを壁際に敷いて腰を降ろし、壁に背を預けた。が……
規則的に繰り返される小さな寝息。
アコが寝返りを打つ度に聞こえる衣擦れの音。
時折漏れる、微かな喘ぎのような寝言。
目を閉じればそれらが誇張されるかのように聞こえてきて、眠れやしなかった。
――何の嫌がらせだよ。
この小屋が、狭いのが悪い。
俺は立ち上がると、左手で後頭部を掻きながら小屋の外へ出た。
ここまで居たたまれない気持ちにさせられたのは、こいつが初めてである。
周囲にはすっかり闇が落ちていたが、空に散る光のお陰で、照明が無くとも周囲の様子が判る程度には明るかった。
川原に立ち、静かに目を閉じて……想像する。
身体が記憶したその動きを、思い出す。
静かに剣を抜き構えて、俺は何も無い己の正面へと視線を据えた。
こういう時の俺の剣技の練習相手は、亡き祖父の幻影だ。
腰を低くしたオクスの構えを取った祖父が、地面が抉れるほどに蹴り込んで正面から突進してくる。
的確に身体の中心を捉えてくる剣先。ぎりぎりまで引き寄せてから刀身の鍔に近い部分で受けた凶刃をいなし、そのまま刀身を滑らせて斜め上から切り込む。
首筋を狙う俺の剣閃は空気を裂き、しかし、相手は突進する力と俺が斬り込む力すら利用しながら一度距離を取り、俺の立つ位置と相手の位置は初めとは逆に入れ替わった。
幻影などではない、実際祖父が生きていてこうして手合わせをしていた頃。
俺の実力は今よりも全然低かったが、何かのためにと目的を持って打ち込んでいた俺の精神は、充足感に満たされていたように思う。
今では、祖父の幻影ともこうして渡り合うか、時折勝てるほどにまで俺は実力を付けたが……
迷いを払拭するように俺は首を振り、目の前の相手に集中する。
結局、多少の休憩を挟みながら、俺は朝になってアコが起きてくるまで幻影と戦い続けた。
アコが起きてきてすぐ小屋を発ち、ゆっくりとしたこいつの歩調に合わせて城へと向かう。
体力の低いらしいアコに疲労が見え始めた頃、見慣れた白の城壁に青い旗やつづれ織りで彩られた高潔なるアルス・ノーヴァの王城へと辿り着いた。
城へと近付くにつれて大分疲れている筈のアコの表情が疲労を忘れて行き、初めて見るそれに圧倒されてか、口の開き方が徐々に大きくなっていく。
思わず吹き出すと、下から睨み付けられた。
跳ね橋を渡った先に立つ門番は、騎士隊に所属する見知った顔だ。ふたりの門番は、アコを連れた俺を見るなり訝しむような驚いたような不思議な表情を浮かべる。
その反応からして嫌な予感はしていたが……
帰城するなり、俺が休暇明けに女を連れ込んだなどという不届きな噂が出回った。
犯人は門番の奴らと、入城してすぐの辺りをうろついていた女中辺りだろう。
誤解なうえに噂が出回るの早すぎだろ。そんなに暇なら仕事量増やしてやろうかと真剣に考える。
俺はアルノルトのおっさんに帰城報告とアコの顔見せだけを済ませ、年齢詐称疑惑を掲げるジークに掴みかかろうとするアコを取り押さえながら手続きを終わらせ、何かに打ちひしがれるアコを騎士棟の女中メリクールに任せてから再びおっさんの執務室を訪れた。
「今度は親衛隊長が女を無理矢理私室に連れ込んだという噂になっているようだが?」
「んな訳ねぇだろ」
おっさんはさも面白そうに言うが、俺はおっさんを睨めつけて溜息を吐く。
ひとしきり笑ってから、おっさんは表情を厳格さが滲み出る普段のものへと戻した。
「で? 本当のところ彼女は何者なんだね?」
「……さあな、判らねぇ。判らねぇから連れてきた」
「判らない、とは?」
総隊長の目がすうっと細められる。
目の前に居るかつての双剣の片割れは、この国に仇名す可能性のあるものを、決して見逃したりはしない。俺の見解としては今のところ害のある存在ではないだろうといったところだが、目にした事実だけはありのまま報告する必要があった。元より、そのつもりでこの場所へと戻ってきたのだから。
アコの言った言葉、現れた時の状況などを、俺は総隊長へと報告する。
総隊長は初めにぴくりと片眉を上げただけで、後は特に何の感情もその表情には浮かべずに話を聞いていた。
報告を終えると、ふむ、とだけ唸ってから言う。
「まあ、折角の休暇を満喫してくれたようで良かった。拾ったものに関しては、責任を持って最後まで面倒を見たまえ。私からは以上だ」
「拾ったもんってなぁ……まあ、後見になった以上、面倒は見るが」
それが休暇の満喫にどう繋がっているのかが理解出来ないんだが。
報告を聞く前までの厳格さはどこへやら、おっさんはどこか嬉しげな笑いを浮かべていた。
「得体が知れるまでは注視する必要もあるだろうが、礼儀正しくて良い子ではないか。うちの娘と同じくらいか?」
そんなことを呟きながら、おっさんは手持ちの書類仕事に向き直り始める。
そういえば年齢については報告していなかったことに気付いた。
おっさんの娘といえば13歳だが……まぁ、良いか。ひとりで盛り上がっているおっさんの気分を削ぐのも何だし、今更弁明も面倒だ。
「本当に異界の者だというのなら、ひとりで心細かろう。それに事実がどうあれ生活用品も何も無いのでは不便であろうから、暇ならば都合して差し上げたまえ」
ひとり。
……そうか、独りか。
今更ながらアコが直面している事実に気付く。
アコがあまりにも切り替えが早く、表情にも態度にも出さないので見落とすところだった。
精神面ではなく、物理的な意味での孤独という共通点に気付いた途端、親近感にも似た想いが滲み出てくるのをぼんやりと自覚する。
「……行ってくるわ」
報告も済んだし、そろそろ業務の説明なんかも落ち着いてる頃合か。
俺は寄り掛かっていた壁から背中を離し、出入り口へと向かう。
おっさんは特に何も言わずに、執務室を出る俺の背を見送った。
良い拾いものをした、と思ってしまうくらい、アコは女中の仕事をよくこなした。
小さい身体でてきぱきと動き、上司であるメルや他の女中ともすぐに打ち解け、彼女達からの評価も高い。
騎士棟へと配属された若い女中は、大概は様々な面での業務内容の厳しさに耐え切れず辞めてしまいがちだが、大量の洗濯物を干し終えやり遂げた表情で額の汗を拭うアコからは、その兆候すら伺えなかった。
それだけ、幼く見える外見よりは沢山の時間を、業務に通じる事柄に費やしてきたのだろう。
訓練へと向かう若い騎士達に時折向ける見守るかのような大人びた表情にも、彼女がそれなりの年数を生きてきたのだということを再確認させられた。
尤も、城下へ出た時に一生懸命に飴を吟味する姿は、子供そのものだったが。
そんなことを考えながら見ていたら、「何見てんのよ暇人」と因縁を付けられた。たまたま通り掛っただけで暇人じゃねぇって、何度言えば判るのか。
他にも、洗いかけのアルノルトのおっさんの下着を顔面に投げられたり、変な噂を流されたり、散々な目にも遭った。
親衛隊の末席である部下が執務室を訪れ「あの……隊長は幼女にしか興奮しないって本当ですか……」なんて神妙な顔で言い出した時には、思わず口に含んでいた茶をそいつに噴き掛け、噂の根源をどうしてやろうか真剣に悩んだ。
沈静化させるのにどれだけ体力が要ったことか。
裏で俺が苦労をしていた(末席の部下にも散々走り回って貰ったが)ことなど歯牙にも掛けないアコは、時折、業務の合間に騎士達の演習場へと姿を見せるようになった。
練習用の刃を潰した剣を使っているとはいえ、組み合った弾みで演習場の端まで飛ぶこともある。
アコみたいなのがそれに当たったら大怪我では済まされないこともあるのだから、演習場に近付くのはそれなりに危険だった。
だが、俺の警告なんて聞きやしない。
……あまり強く言えなかった俺も俺だが。
それは、演習場を見つめるアコの表情が気に掛かったからだ。
空虚さの中に翳りを帯びた喜びが見え隠れする、複雑で酷く大人びた表情。
何かを失った者の、何かを求めるかのようなそれに、ひとりで心細かろうというおっさんの言葉を思い出す。
演習場の中に、アコが元の世界に置いてきてしまった何かがあるとでも言うのだろうか。
それは一体何だというのか。
ジークと仕事の話をしている時ですら、その疑問は脳裏を掠めていた。
拾った手前から来る責任感。
一方的に抱いた幾らかの親近感。
アコを気に掛け、つい構ってしまうのは。見掛ける度に目で追ってしまうのは、それだけが理由だった。
(……その筈だったんだけどな)
静かになったかと思えば眠ってしまったらしい小さな身体を腕の中へと納めながら、俺は溜息を吐く。
傾きかけたアコの頭にはエリアスの手が添えられ、俺の背中へと回された小さな手はジークが絡め取っていた。
コイツらも俺と同類かと思うと、相手の厄介さに更に溜息が出る。
アコの演奏は、素晴らしいものだった。
音に気付いて保管庫へと降りてから10分近く、その中には声を掛けて何をしているのかと問い詰めるだけの時間は充分にあった筈だというのに。
壊してはいけないと思わせられるほどの神秘性と、身震いを覚えるほどのアコの様相が、決してそれをさせなかったのだ。
アコが元の世界に置いてきてしまったものは。演習場の沢山の音の中に求めていたものはこれなのだと。
ここのところ思い浮かべていた疑問に対する充分な回答。
そして、アコを構うのは責任感や親近感などという理由だけではないのだと。
俺に悟らせるのにも、充分だった。
このまま暗い場所に突っ立っている訳にもいかず、俺達はアコを連れて保管庫を出て、騎士棟へと向かう。
途中で休憩上がりらしきメルを発見したので、呼び止めた。
メルに鍵を開けて貰い、女中の宿舎の部屋へ寝かせてしまおうと考えた為だ。流石に勝手に入るのは憚られていたので、丁度良い。
と、アコを抱えて運ぶ俺の隣を歩いていたジークが足を止めた。
「私は早速、報告書と提案書の作成に取り掛かります」
「では、おれも手伝おう。おれの持つ情報も必要だろう」
「悪ぃな。俺も、こいつ寝かせたらすぐに行く」
「ええ、宜しくお願いします」
俺達も足を止めて、短い会話を交わす。
ジークは行政棟へと足を向け、それに追従しようとしたエリアスだったが……ふと、何かに気付いたかのように振り返ってこちらへと戻ってきた。
エリアスは俺の腕の中にいるアコの白い手を取り、その細い指に口付ける。
唇を離す際に、ふっと挑戦的な視線を向けられた。
威嚇するのを忘れてたってところか、この野郎。
今度こそ去って行くエリアスに、俺は半ば睨むかのような視線を返す。ジークも傍からは判り辛いが、俺と似たような意図を込めた視線をエリアスへと向けていた。
「色々あってな、疲れが出て寝ちまったんだ。落ち着けてやりたいから部屋開けて貰えるか」
「はい、勿論」
俺達の様子を見て呆然としていたメルにどう説明すれば良いものか迷ったので、思い切って素知らぬ顔で話題を変えてみる。
流石は騎士棟の若き有能女中。メルは特に追求もせず表情を業務用笑顔に戻し、女中の宿舎へ向かって歩き出した。
部屋を開けて貰い、アコを彼女用のベッドへと横たえる。
離れてしまった熱に名残惜しさを感じて、俺はベッドの傍らに屈んで泣き腫らしたアコの目許に触れた。
初めて触った時よりも確かな熱を感じる。
それはあの時よりも腫れているからだとか、そんな理由だけではないのだろう。
俺は反対の手に持っていためがねというらしい飾りを枕元へと置いて、そのまま顔を近付け……未だ熱を持つアコの目許に口付けた。
軽く音を立てて唇を離し、目に掛かった髪をそっと梳いてから立ち上がる。
振り向くと、業務用笑顔を貼り付けたままのメルが硬直していた。
そういえば居たのだということに今更気付く。
……まあ、さっきのやり取りも見られているし、今更だろう。
メルならば言い触らしたりなどはしないだろうし、大丈夫だ。多分。
「悪ぃが、休ませてやってくれるか。午後の業務は……」
「大丈夫です、何とかなりますよ」
「そっか、じゃあ任せた」
「はい」
瞬時に元に戻ったメルと短いやり取りを交わし、俺はばつが悪い思いをしながら部屋を立ち去った。
行政棟へと向かいながら考えを巡らせる。
ジークはきっと上手いこと上へと掛け合い、遺物はアコへと開放されることになるだろう。
そうなればアコの演奏は多くの人間の耳に触れ、その存在は音楽家を失ったこの世界にとって、どんどん大きなものになっていく。
あの演奏はそれを確信させる程のものだった。
だが、多くの人間に存在を認識されるということは、俄かに根付く排斥的な視線や感情にも晒される機会が増えるということ。
存在の希少性から、悪意を持つ者に狙われる可能性も否定出来ないのだ。
……そんな奴等から守るのは、俺の役割だな。
心の中でひとりごちると共に、知らず、唇の端が笑みの形を作っていることに気付く。
俺は、失くした部分がアコという存在で埋められていくのを、しっかりと認識していた。