幕間1 - 呼び寄せられたもの (SIDE:エリアス)
※ エリアス視点のお話です。
魔術師はその昔、数を減らした。
アルス・ノーヴァが建国されるより以前。当時最大の覇権を握っていた恐王メルキオルレが行った大規模な“音楽家狩り”によって、その殆どが謂れも無い刑に処され、または理不尽に虐殺されたからだ。
メルキオルレに仇なすもの達を一掃する為の施策とも、只の狂乱とも言われているが。
どのような理由を掲げようと、狂気の沙汰であったことには違いあるまい。
人間とは概ね、己とは別の性質を持つものを非難し排除したがるものだが、メルキオルレはよりその意志が顕著だったのだろう。
だが、権力者が行う過剰なまでの自己保身に巻き込まれる一般の音楽家や魔術師達の遣る瀬無さは、如何ばかりであったのか。
最も残虐な史実として残る“音楽家狩り”で、音楽家と呼ばれた者達は姿を消し。
音楽に携わる者の多かった魔術師達も、狩りが行われる以前の一割にも満たない数しか生存出来なかったという。
終盤では、音楽とは無縁の魔術師までもが虐殺の対象となったのだ。
狂王の施策は、人々の奥に燻る狂気を呼び覚まし……疎んじていたもの達を排除する絶好の機会を、与えてしまったのだろう。
アルス・ノーヴァの初代女王となったカルラが起ち、メルキオルレが淘汰されるのが僅かでも遅れていたら。
魔術師達も若しくは、絶滅していたのかも知れなかった。
或いは。
魔術師を駆逐する為に犠牲となったのが、音楽家達であったのか。
アルス・ノーヴァ建国から250年ほどが経過した今では、真相を追究することなど困難であり、また、する気も無い。
メルキオルレが討たれる際にカルラに手を貸したとされる稀代の魔術師が居た。
シルヴァーノと呼ばれる彼は、アルス・ノーヴァ建国後もカルラと共に興国に従事し、多大なる功績を残したとされている。
彼の没後に出来上がったのが、現在おれやサリアが就く“王国客員魔術師”という地位だった。
内在する魔力を利用し吉事に結びつく事項を探り、国に対し助言を行う。
王国全土にまで行き渡る巨大な感知結界を張り巡らせ、効力を維持する。
王国の重鎮が外交へと赴く際に同行し、あらゆる危険からその身を守る。
他の国の事情は知ったところではないが、それが、この国の客員魔術師の主な役割だ。
防衛向けの能力の高いおれは城内で護りに就くことが多く、戦闘向けの能力の高いサリアは外交の際の警護に就くことが多い。
今では概ね平安が保たれているとはいえ、数人が寄り使い方を違えれば国をも滅ぼしかねないおれ達のこの力は、国の為に使役するのであれば重宝されているようだった。
「……?」
城の中央に位置する、地下室。
そこで感知結界の礎へと魔力を送り維持する作業に没頭していると、ふいに、一瞬だけ違和感を覚える。
顔を上げ周囲を見渡してみるが、薄暗く窓すらない、相変わらずつまらない石壁の光景が広がっているだけだった。
礎である魔石へと触れて結界の記述式を浮かび上がらせ、その全てを確認もするが……
石壁に囲まれているだけの四角い部屋をぼんやりと白く照らしながら漂う記述式達にも、何の異常も見られない。
内側へと敵意の類を持ち込むようなものがあれば、すぐにおれ自身が感知出来る仕組みになっている結界だが……特に、その類のものは感じなかった。
ただの気のせいか。
最近は結界を維持する以外のことをあまりしていないので、色々と感覚が鈍っているのかも知れない。
おれはもう一度魔石へと触れ、浮かび上がらせていた記述式を仕舞い込んだ。
部屋が再び薄暗さを取り戻し、その中央に希薄な光を湛える魔石が浮いてるだけのものへと戻る。
虚ろに繰り返される日課を終えることにし、地上へと続く階段をゆっくりと上った。
階段を上りきると、ステンドグラス越しに光が差し込む空間の中央、台座の裏へと出る。
結界の礎が置かれている地下室は、アルス・ノーヴァ城内へと設置された聖堂紛いのこの建物からしか立ち入ることの出来ない場所だった。
台座の裏の四角く切り取られた床を一瞥し、再び軽い封印を施す。
四角い穴は姿を消し、代わりに周囲と差異の無いただの床が現れた。
シルヴァーノが造ったとされる結界の魔石。その記述式を解析し操れる者が、おれとサリア以外に、この国内に居るとも思えないが。万一の事態を起こさせないことも、一応は仕事のうちだ。
「職務怠慢ですわ」
面倒さに溜息を吐くと、遠くはない場所から声を掛けられる。
聖堂の入り口付近からこちらをじとりと睨め付けていたのは、ここを職場とするもう一人の魔術師・サリアだった。
飾りの付いた串で長い銀の髪を纏め上げ、普段着ている黒のローブではなくぴったりとした動き易そうな服装の彼女は、ロープで巻いた何かを片手で引き摺りながら、建物内へと入ってくる。
台座の前へと進み出たおれの前に、サリアはそれを放り出した。
気を失っているらしいそれは、間者か、それとも賊の類か。どちらにせよ、それを調べるのは騎士の管轄なので思考はそこで止める。
「小物とはいえ不審者が結界内へ侵入したのですから、きちんと報告したらどうなのです? こんなつまらない輩にわたくしの手を煩わせないでくださいませ」
すぐ傍らの長椅子へと腰を降ろしたサリアは、やれやれ、とでも言いたげに肩を竦めた。
「この程度、放っておいても騎士隊が何とかしただろう。国に実害があるとは思えないな」
「真っ先に気付くべき部署が相応に動いていなかったら問題になりかねないでしょうに。わたくしまで連帯で怠慢だと思われるのは御免ですわ」
ここ最近、おれとサリアは似たような応酬を何度か繰り返している。
全ては、おれが小物と判断した侵入者を報告もせず放置しているのが原因だった。見逃した侵入者は、おれとほぼ同時にそれを感知することの出来るサリアが片付けに行く。
時間と実力を持て余しているサリアに対する、おれなりの配慮のつもりなのだがな。
……無論、自分自身の時間潰しも兼ねている訳だが。
「良い時間潰しになっただろう」
「こんな手応えの無い輩に割くような時間は持ち合わせていませんわ! せめて可愛らしい女の子でしたら、色々とし甲斐があって楽しめそうですのに。今後はそういうの以外はわたくしに回さないでくださいませ」
「流石に侵入者の性別や容姿までは解析できないな」
「解析出来るよう記述式を改造することなど、貴方なら造作も無いでしょうに。本当、そのやる気の無さには呆れますわ」
そう言って彼女が溜息を吐き出したところで、ようやく下っ端の騎士2名が到着した。
慌ただしく近付いてきた騎士達は過剰なほど謝罪や礼を口にし、サリアが捕えた賊を引き取り、去って行く。
客員魔術師は、城内でもそれなりに地位の高い場所に居る。具体的には親衛隊の隊長と同格だ。
下っ端騎士にとっては目上の者に当たる為、余所余所しささえ感じられるその態度も仕方の無い事なのかもしれないが……どうにも、市井に居た頃の周囲の人々の態度を思い出させてくれるので好ましくない。
魔力持ちとして生を受けた瞬間から、おれはあらゆるものから畏れを含む目と隔てがましい態度のみを受け続けてきた。
淘汰されゆくのは弱き者から。
現存する数少ない魔術師達は、かつての惨劇の際に生き残った強い力を持つ者達の子孫ということになる。
魔術師の子が必ず魔力を持つ訳ではなく、魔力は隔世遺伝で顕れ、育てられ、時折枝分かれして数を増やし、ゆったりとした速度で広がっていくものだ。
要するに、おれに内在するこの魔力も、そうして惨劇の時代を経て育てられてきた魔力そのものが、更に力を蓄え現代へと蘇ったものだということ。
畏れの目は、単にその力の強さからなのか。理不尽に奪ったことへの悔恨からか。それとも、過去に力の無い者達から受けたことへの怨恨までをも、受け継いでいるとでも思っているのか。
知ったことではないが、血の繋がる筈の者達からも向けられる差異の無い態度は、当然ながら不快なものでしか無かった。
女王に指名され客員魔術師として城へ上がってからは随分とましになったが、それでも、大概の者から感じる一線を引く態度は変わらない。
……今となっては、普段は歯牙にも掛けることのない、些細なことだ。
下っ端騎士達を見送ってから、サリアが再び口を開く。
「先ほどの違和感については、原因が判ったのですか?」
どうやら勘違いではなかったらしいことに少し驚きながら、おれは微かに首を横に振った。
「侵入者の類では無さそうですものね……何か悪い前兆でなければ良いのですが」
「……そうだな」
一応は本心から、おれは応える。
抑揚の無い日々に飽いているとはいえ、有事があればそれはそれで面倒だろう。
彼女に出会ったのは、その翌日のことだ。
城内の蔵書室へと向かう途中、何やら壁に貼り付くようにして通路の向こう側を伺っている怪しげなサリアを発見したので、恍惚とした表情の彼女の視線の先を、追う。
彼女の視線は、若き親衛隊長でもなく、その半歩斜め後ろを歩く騎士棟の女中でもなく……親衛隊長が脇に抱えているものに注がれているようだった。
――少女?
「ま、まさしくわたくしの理想の乙女ですわ……!!」
半ば興奮した様子で、サリアは言う。
特定の年代の少女に対して様々な欲求が湧き興奮を覚えるという理解し難い性癖を持つサリア。彼女に見初められるとは……どこの誰かは知らないが、難儀なことだ。
親衛隊長に抱えられ、何があったのかうな垂れて何事かをぶつぶつと呟いている少女を観察する。
変わった服装、顔に掛けられた変わった装飾。
あどけなさのある、小さく、可愛らしい顔の造形。細く小柄な肢体。
肩ほどまでの黒髪が高い位置でふたつに結われ、親衛隊長が歩く度にふわふわと揺れていた。
少し変わった風体のその少女は、確かにサリアが時折夢を見るようにして語る理想の乙女像に近いものがある。
……いや。
胴を抱えるようにして少女を運ぶ親衛隊長の腕に触れる、存在感のある双丘。
艶やかな女性らしい線を描く、うな垂れることで露になった細い首筋。
見た目よりは成熟した女性なのかも知れないと思った。
その、証拠とでも言うのか。
歩くことで揺れる双丘が腕へと触れる度、親衛隊長の背筋に微かな緊張が走っている。
隠そうとしているようだが、判る者には判るものだ。
「騎士棟の女中として配属されるそうですのっ。これからあの愛らしい御姿を視姦し放題……はっ、こうしちゃいられませんわっ!」
不穏な言葉だけを残し、いつになく真剣な表情を作ったサリアは、王族の棟の方向へと光速で走り去っていく。
城内には彼女の好むらしい外貌の少女が居なかった所為か、普段のどこか退屈そうな様子とはうって変わり、水を得た魚のようだと思った。
……第二王女を「まだ少しばかり幼いのですが」などと言いながら熱視線で見ていたようだったが、王族に手を出す前に標的が見付かったようで何よりだ。
しかし、サリアがあそこまで傾倒するのも俄かには信じ難い。
確認する意味も込めて、だいぶ遠ざかってしまった少女へと視線を戻した。
そうして、ふいに感じる違和感。
昨日、四角い部屋の中で感じたものとよく似ている。
敵意の類ではない、けれども妙に気に掛かる、容易に言葉で表すことの出来ない不思議な感覚だ。
遠ざかって行く小さな姿から、目が離せなくなる。
特に……力なく投げ出されるようにして揺られる、彼女の腕。その細くしなやかな指先から。
何故だか、魔力めいた魅力を感じた。
時折、毛色が違くとも魔力を有する人間も居るのでその類なのか。しかしながら、彼女自身が魔力を有しているような気配は感じられない。
これまでに邂逅したことのない、不思議な存在。
強い興味が湧いた。
昨日の違和感との関連性も含め、詳しく調べてみるのも悪くない。
一応は王国一と言われる魔術師としての探究心から来る興味だろうと。そんな風に自己完結して、おれは名も知らぬ小さな彼女から視線を外してその場を去った。
蔵書室から目当ての本を探し出し聖堂へと戻ると、色とりどりの光の下、サリアと見覚えのある女中が紙やら布やらを広げて何事かを熱心に話し合っていた。
第一王女の専属女中……確か、名をジネットと言ったか。
淡々と表情に抑揚なく仕事をこなす彼女にしては珍しく、どこか楽しげな様子さえ感じられる。
近付いてみると、衣服を造る為の構想を練っているようだった。
「そう、胴囲はもう少し細く。折れそうなくらい細いのに、とてもしなやかで柔らかそうでしたわ。腰のラインは、もっとこう……」
「こうですか。そうしたら、丈はもっと短くして思い切って生足を強調してみたら如何でしょう」
「艶やかな腰のラインから続く輝かしい生足を強調することで、その奥にある見えそうで見えない部分をちらちらと彷彿させる作戦ですのね! 素敵ですわっ! 鼻血やら何やらが湧き出してきそうですわっ!」
「構いませんが、生地だけは汚さないようにして頂けますか」
会話から分析するに、先程逢ったばかりの少女の為のものらしい。
あんな一瞬の邂逅で、よくもまあそこまで執心出来るものだ。
「胸囲はもっと大きめに作らないと、合わないと思うよ。それよりも二周りほど増やした方が良い」
覗いてみて気になった部分に口を出しておく。
どうせならきちんと合うものを造った方が良いだろう。
「まあ! 下半身にばかり目が行って見落としていましたわ。流石、エリアスの観察眼ですわ!」
「この体型なのにそれほど豊満な胸とは……随分とイケナイ少女のようですね」
好き勝手に感想を述べ制作活動を続ける彼女達を背に、おれは聖堂内にある自室へと向かった。
……サリアのことを言えない程度には、おれも大概だな。
そんなことを、他人事のように考えながら。
次に会ったのは、翌々日。
日課である感知結界の維持作業を終えて聖堂へと戻ると、サリアの自室の方が騒がしいことに気付いた。
来客の予定などあったのか……それにしては、悲鳴めいた声まで聞こえる気がするが。
遠慮よりも興味が勝ち、おれはサリアの自室前の応接室の扉を開けていた。
直後、正面から何か柔らかいものに衝突される。
思わず肩を支えて見下ろせば、先日の名も知らぬ少女だった。
彼女は振り返り、上目遣いの目に涙を浮かべておれを見上げてくる。
サリアとジネットの手により作り出された服を纏っているようだった。完成したのでおびき出したというところか。
胸も腰周りも寸法はぴたりと合っているようだ。しなやかな身体のラインを強調するかのような、サリアの纏うものと似て非なるローブ。随分と短い丈から伸びる白い脚が、顔の造形とは雰囲気の違った魅力を引き出しているように思う。
ふたりは良い仕事をしてくれたらしい。
サリアには邪魔だと非難されたが、そんなことより、折角目の前に差し出された興味の対象が気になった。
彼女達が繰り広げる応酬を聞きながら、おれは彼女を分析しようと試みる。
肩に触れた手で体内の魔力構成を探ってみるが、やはり魔力を有している訳ではないようだった。
触れた部分から温かな体温のみを感じながら、彼女達の会話の中から“アコ”というその名だけを拾う。
「あ、あの、危ないところを助けて頂き、ありがとうございました」
何故か礼を述べられた。
サリアに襲われかけていたのを中断させた故なのだろうが、結果としてそうなってしまっただけで、特にそのつもりは無いのだが。
「……ん?」
可愛らしい上目遣いの彼女に、曖昧な笑みだけを返しておく。
アコという名らしい彼女が、微かに狼狽したのが判った。
続く会話の中から、自分の置かれている状況を悟ったか。聡いのは良いことだ。
そう、ここには、あらゆる意味で彼女に目を付ける者しか存在しない。
縋るような視線を向けられ、ふいに、悪戯心が湧いてきた。
深く、深い微笑みを彼女へと向ける。
嫌なものを見た、という感情が露骨に表れている表情で顔を逸らされたので、するりと背後から抱き込み、白い太股を撫で上げてやった。
想像以上に柔らかく、抱え心地も悪くない。
「良く似合っているよ……アコ」
耳に唇を触れさせながら囁けば、次瞬には、熱源は全力でおれの腕の中から逃走していた。
「一方的に言葉攻めされながら堕ちて行くアコ様だなんて萌えますわああぁ」
身悶えながら、サリアが叫ぶ。
逃げてくれなかったら本当にそうしていたかも知れないと、朧気に思った。
「彼女、あれで成人しているそうですわよ。いやらしいことし放題ですわっ!」
興奮覚めやらぬらしいサリアが、冷めた茶に口を付けながら言う。
「……へぇ」
益々興味が湧いてくるのを感じた。
同時に、サリアの興味の基準が年齢ではなくあくまで外見だということにも気付いたが、まあそれはどうでも良い。
自然、彼女が逃走していった方向を見据えていた表情に、笑みが浮かぶ。
そうしてから室内へと視線を戻し、ふと、部屋の隅にきちんと畳まれて置かれた女中の制服に気付いた。
歩み寄り拾い上げる。
「あまりに慌てていて、忘れて行ってしまいましたのね。お可愛らしいですわっ」
「おれが届けてこよう」
何故かするりと、おれはそう口にしていた。
サリアに奇異の目を向けられる。
「先程の悪戯にも少しばかり驚きましたけど。エリアスが単一のものに対してそこまで興味を示すなんて、珍妙な光景ですわね。この国に雪でも降るんじゃありません?」
「存在が珍妙なサリアに言われたくは無いが……まあ、確かに、これまでになく興味はある」
「まあ。同僚としては温かく見守りたいところですけど、アコ様の奥の奥まで興味津々なのはわたくしも一緒。言っておきますけど、下半身はわたくしのものですからね」
真剣な表情で、サリアはびしりと告げた。
それはつまり、上半身は譲ってくれるということか。彼女にしては随分な譲歩のように思える。
生返事だけを返して、おれは女中の制服を片手にアコの後を追った。
魔術師にとって、遭遇したことのある特定の人物の気配を辿ることなど造作も無い。
体力が低く足も遅いらしい彼女には、易々と追い付くことが出来た。
「あんまり全力で逃げられると、追い掛けたくなってしまうな」
息が上がっているアコに、気配を潜めて背後からそっと近寄り、再び耳に言葉を吹き込んでやる。
振り返りもせずに全力で逃走した彼女は、通りすがりの文官を盾にしながらこちらを変態呼ばわりしてきた。
彼女にとっては初対面であろうおれを、あの程度の戯弄で迷い無く変態と断定とは。
随分と潔いことだ。
サリアにどのような目に遭わされたのかは知らないが、類似品だとでも思われているのか。だとしたら僅かばかり否定の余地くらいは持たせて欲しいところだが。
アコの制服をおれが持っていることに対し狼狽えている通りすがりの文官は、見たことがあると思えば、第一行政室の室長だった。助言をする際に何かと話す機会の多い人物でもある。
全く、間の悪い。
残念だが、邪魔も入ったことなので素直に忘れ物を返すことにした。
短い逃走劇もそれなりに楽しめたことであるし、彼女は城内に居るのだからまた機会もあるだろう。
目を合わせようとはしないものの、自ら変態呼ばわりした人物にのこのこと近付く彼女。
可愛らしいことだが……前方はきちんと確認しないと危険だというのに。
おれは悪戯心を掻き立てられ、制服を返しがてら、するりと絡め取った彼女の細い指先に口付けを落としてやった。
彼女の中で、最も興味を惹かれる部分。
いずれこの興味の正体を付きとめてやると、静かなる宣言も込める。
それからというもの、顔を合わせる度にアコをからかうのが恒例となった。
毎回過剰なまでに示される彼女の反応を楽しみながら、少しずつ情報を引き出し、違和感との関連性を探っていく。
彼女は謎が多かった。
ひとつ、見掛けたことの無い変わった飾りを顔に付けている。
めがねという名称らしく、視力の補正をしているのでこれが無いと周囲も未来も見えないと言っていた。試しに奪い取ってみるのも面白いかも知れないと思う。
ひとつ、意味の判らない、馴染みの無い単語や言い回しを使用する。
主な例として、セクハラだと散々訴えられた。意味を尋ねると、受ける側の意志を無視して行われる性的いやがらせのことだと必死で説明してくれるが、あまり可愛い反応を示されると期待に応えたくなってしまう。
ひとつ、謎の帳面に何事かを細かく書き付けている。
仕事に関する事項を書き込んでいるらしいが、明らかに仕事用ではないものも所持していた。調べようとしたところ第一王女に意味深に阻止されたので、深入りはしなかったが。
ひとつ、出身地やこれまでの経歴の全てが謎である。
関連する何を質問しても、曖昧な答えしか返ってこなかった。
試しに後見人である親衛隊長の縁者関係を洗ってみるが、彼にも最早縁者は無く、近しい者とは考えにくい。髪や瞳の色も王国内部に見られるものでは無いので、国内の人間とも思えなかった。
本当に、突発的な事故に巻き込まれただけなのか……だが、記憶も過去も曖昧な人間が、これほどまでにしっかりと日々業務に打ち込めるものだろうか。
親衛隊長がアコを拾った日と違和感を覚えた日が一致しているため、関連性の深さへの疑念が増していく。
……数々の謎の多くは、思いの他早く解消する機会を得ることが出来た。
聖堂へ戻りがてら、逃走したアコの足跡を辿る。
少しずつ引き出してきた情報や態度から推察するに、記憶に障害は無いというのに意図的に隠そうとしていることは明らかなのだが。
逃がさないつもりで少し強めに瞳の奥を覗き込んでやったのに、あっさりと逃げられてしまった。
おれのような高い魔力を有する者が意志を持ってその象徴たる紅い目に力を込めれば、その意志は対象者へと影響を及ぼす。
特に、直接目から意志を叩き込んでやると効果が高い筈なのだが……彼女は、稀に見る魔力耐性の強い体質の持ち主なのかも知れない。
そんなことを考えながら、行政棟へと差し掛かった時だった。
違和感を覚えて足を止める。
これまでのような、ともすれば気のせいとして片付けてしまえるような規模のものではない。明らかなる、異常。
自然、厳しい表情を作り、おれは足早にその場所へと向かった。
普段は封印の魔力により人々の意識から外され、行政棟の一角にあるにも関わらず一部の上層以外は存在すら知らぬ場所。
かつての惨劇の時代の遺物が保管された、誰もその中を見たことの無い場所。
シルヴァーノが施したとされるその封印を管理し維持する役目を負うおれですら、遺物がどのような姿をしたものであるのかすら判らない。
ただ、失ってはならないものだと。
弾き手を失った“楽器”と呼ばれる遺物は、確かに音楽家と呼ばれるもの達が存在していた証なのだと。
情報として、それだけは伝えられていた。
程なく、別の世界にでも通じていそうな、そこだけ雰囲気の違う通路の前へと辿り着く。
やはり封印は破られ、地下へと続くその場所は、常人の意識にも留まるようその姿を晒していた。
元々人通りの多くない通路に隣接している為、未だ誰も通り掛かった様子も無いのが幸いか。
そうして。
……何故。通路の奥から感じられるのが、ここ十数日の間追い続けたアコの気配なのか。
国に対する敵意も、魔力も。
彼女には、無い筈だった。
視線を細めて青白い魔力の照明に照らされた通路の奥を見据え、おれは階段を降りる為、足に力を込める。
と、音が聞こえてきた。
ゆっくりと、ひとつひとつを確かめるかのように聞こえてくる、音。
楽器という遺物は、幾つもの音を折り重ね演奏をすることにより、多くの感動を人々に与えたのだという。尤も、その為の技術も知識も、今となっては失われてしまった訳だが。
この音を、彼女が?
「あぁ、丁度良かった、エリアス。今度の合同演習だが……」
聞こえてくる音に踏み入ることを躊躇していると、横から声を掛けられる。
声の主は緋色の髪。連れ立ってこちらへと歩いてくるのは、対極を思わせる青い髪。親衛隊長と、第一行政室の室長だった。
言葉の内容から、今年の合同演習について彼らが話し合っていたのだと判る。おれに声を掛けたのは、日程について細かい調整をしたかったからなのだろう。もうそんな時期なのだということに気付かせられる。
だが、今はそれどころではなかった。
異常に気付き、ふたりとも厳しい表情を浮かべて薄暗い通路の奥を見る。
「この、音は……」
「何で封印が破られてんだ?」
ふたりともが、この場所の存在とある程度の知識を備える、一部の上層の人間でもあった。
「それを、これから確認しに行くところだ」
音が聞こえる場所へと据えた視線は逸らさぬままに答えると、ふたりは黙っておれの横へと並ぶ。共にこの下へと降りるつもりなのだろう。
ゆっくりと聞こえてくる音に合わせるように、だが極力足音を立てぬよう気配を殺して。おれ達は、封印されていた場所へと降りていった。
封印の為の印が刻まれ固く閉ざされていた筈の青銅色の扉は全開に近いほどに開け放たれ、青白い照明に照らされたその内部を伺うことが出来る。
その場所は予想より広く、中央に置かれているもの以外には何も無い空間だった。
黒く大きな胴体。こちらへと向け開かれた蓋。三脚の黒い脚。
床へと落ちているダークグリーンの布は、その胴体を覆っていたものだろうか。
3人ともが入り口付近で立ち尽くし、初めて目にするそれを……その傍らの椅子へと腰を降ろし、楽器へと向かい合うアコを見つめた。
背筋を伸ばし、顔だけは俯き気味で。
静かに、両手を楽器へと添えて。
こちらには気付かず、緊迫した空気を纏う彼女。
空気を壊してはならないような気がして、誰も、彼女に声を掛けることすら出来ない。
ややあって彼女は動き出し……
同時に、圧倒的なまでの音たちに。空間も、おれ達も、支配された。
力強く始まった演奏は、やがて伺うかのような静かで悲しげなものへと変わり。
だが折り重なる幾つもの音は、先程まで聞こえていたひとつひとつを確かめるようなものとは違い、意味を持ち躍動するかのように、美しい。
呼吸すらも忘れて、全身を使って演奏する彼女に魅入られた。
静かな部分でゆらりと巡らせられる細い首筋は、何ものにも変え難い程に艶やかで。
素早い部分で楽器の上を滑るように移動する指は、普段の彼女からは考えも及ばぬ程に速く、技巧的で、ひとつひとつの音が決して雑にはならず。
力強い部分では、細く小さな彼女の身体の一体何処に、こんなにも圧倒的な音を出す力があるのだろうと思わせられる。
おれが彼女の指に最も惹かれたのはこれが理由なのだと確信した。
やがて、彼女は一筋の涙を零す。
……楽器に出逢えて、嬉しいのか。
楽器とて、さぞ嬉しいだろう。弾き手が居なければ。こんな薄暗い場所に置かれているだけでは、ただの飾りに過ぎないのだから。
過去に世界が奪ったものは、こんなにも尊いものだったのだ。
やがて演奏が終わり、アコはぼんやりと自分の両手を見つめた。
おれ達はしばらく演奏の余韻から抜け出せずに立ち尽くす。
ようやく硬直が解けて一歩を踏み出すと、彼女はその靴音に驚いて立ち上がり、じりじりと後退した。
咎められるとでも思ったのか。
だが、今この場に、彼女を咎めようと思う者など居ないだろう。
ただ……ひとつ、確認しなければならないことだけがあった。
「アコ、もう一度問う。君は、何処から来たんだ?」
本日二度目の問い。一度目ははぐらかされ逃げられたが、今度ばかりはそうはいかない。
何と答えれば良いものか戸惑っている様子のアコの代わりに答えたのは、親衛隊長だった。
「アコはこの世界の人間じゃない。多分な」
通常であれば信じ難い内容だろう。
だがおれは、その後に続く話も含め、するりと受け入れることが出来た。
建国以前、音楽家達が辿った末路について彼女に説明をしながら、自分の中で彼女の存在について整理する。
彼女に出会う前日に感じた違和感。
あれは、彼女がこの世界へと召喚された時のものだったのだ。
この場所の封印がすんなりと解けたのは、この楽器が。彼女をこの世界へと呼び寄せた主だったからに他ならない。
何故そう思うのか?
楽器に残された微かな魔力が報せる。
いつかこの世界が、再び音楽家を受け入れられるようになった時に。焦がれ、待ち侘び続けたこの楽器が、弾き手を心から欲した時に。
楽器を心から愛してくれる存在を呼び寄せる為の魔術が、施されていたのだと。
何故解析できたのか?
それは、おれがこの楽器に魔術を施した者の魔力を受け継ぐ者……シルヴァーノの、子孫だからだ。
己に内在する魔力が、その時の記憶を如実に語っている。
楽器を使えるよう上に掛け合うことを約束すると、彼女は子供のような嗚咽を漏らしてぼろぼろと泣いた。
その小さな身体をしっかりと抱き締めて、零れる涙を全て掬い取ってやりたくなる。
……だが、動き出そうとした瞬間に、先を越された。
アコは文句を言いながらも、歩み寄ってきた親衛隊長にしっかりと縋り付く。
頼られているらしいその様子に、嫉妬と呼べる感情がふつふつと湧いてくるのを感じた。
ああ。
存在の奇抜さや、魔術師としての興味。
そんな降って湧いたような言葉などでは片付けられないほどに、彼女に対する感情は育っていたのか。
心も身体も手に入れたいと、強く願う程に。
「好き! 大好き……!!」
アコがそう言った瞬間、親衛隊長は顔を赤くして一瞬だけ硬直した。
それは楽器と音楽が、という意味でありお前を好きだと言っている訳ではない。
勘違いだけはするなという意味を込めて後ろから殺気を飛ばし、ふたりに近付いて、アコの頭を撫で続けていた親衛隊長の手を払いのける。
代わりに自分の手を添えて撫でてやると、彼にじっとりと険悪な視線を向けられた。
笑顔で応酬していると、いつの間にか涼しい顔をして近付いてきた室長が、親衛隊長の背に回されていたアコの手を掠め取ってしっかりと握る。
……こちらも油断は出来ないらしい。
行き場の無くなった親衛隊長の手は、アコの細い腰へと回された。
まあ、相手が誰であろうと、退く気は起きないが。
おれはその強敵達と共に、アコが泣き疲れて眠ってしまうまで、彼女を慰め続けた。