第3話 - 大好き。 【前編】
簡単に言葉にすることなど出来ない、絶対的な喪失感。
足りない。
……触れたい。
これまでのわたしの日々を、満たしていたものに。
洗濯用の巨大桶に足を突っ込んだままぼんやりと見上げる空は、本日も晴天。
聞いた話によると、この国……世界には四季というものが無いのだそうだ。
天候の変化はあるけれど、気温に関しては殆ど無いのだとか。
アルス・ノーヴァは一年中秋晴れのような洗濯日和。日本の四季の風情というものもなかなか気に入っていたけれど、現状洗濯物を担当する身としては、喜ばしいことのように思う。
わたしがこの世界へと来てから20日。
1日の時間の流れが一緒なら、1年や1週間の数え方も殆ど一緒らしく、午前中の主な業務である洗濯と宿舎内掃除は週交代。初め洗濯物担当だったわたしは、その後宿舎清掃を担当して、また洗濯物へと戻ってきた。
洗濯物は使用済みの異性の下着なんかも素足で踏み付けなければならないという試練があるけれど、宿舎清掃は宿舎清掃で色々と精神的に厳しいものがある。
特に湯殿掃除。
何が悲しくて異性の抜け落ちた様々な部分の毛を処理せねばならぬのか……騎士に憧れを抱いて来た乙女が辞める原因ナンバーワンは明らかにこれだと、宿舎清掃になった初日にわたしは確信した。
若者の多い第5宿舎とはいえ、共同の湯殿には毎日結構な量が落ちている。
特に同じ色の頭髪がまとまって落ちているのを見ると悲しい気持ちに……と、抜け毛談義はどうでも良く。
あ、と思い立って、わたしは濡れた手をエプロンで拭ってポケットからメモ帳を取り出した。
今朝目にした若き騎士達の、アコ琴線に触れた動向を、忘れないうちに書き留めておかなければならない。
見てすぐに書き込まないなんて、わたしとしたことがぼんやりし過ぎだ。
今朝も、メルさんに大丈夫かと指摘されたばかりだというのに。反省しなくては。
脳裏に焼き付けておいた観察記録を書き終えて、ぺらぺらと残りのページを捲る。
観察記録用のメモ帳の残りのページは、あと10ページ分ほど。こちらの世界へ来てからの唯一の趣味……リーゼ王女様と出会ってからは殆ど任務とはいえ、我ながら随分とまあ良いペースで埋めたものだ。
そろそろ買わなければならないか……けれど、月の数え方もほぼ一緒なこの世界では、お給料の支払いも一緒のようで月1回。月末支給のため、だいたい月の頭頃から仕事を始めたわたしの初お給料日はまだ数日後。
メモ帳のページが無くなるのが先か、お給料が先か。
……考えるまでもない。何か代用でも立てるしか無いか。
顎に手を添えて目を閉じ、うんうんと考え込む。
「何か悩み事かね」
声を掛けられたようなので目を開くと、目の前ににこにこと笑う中年、王国騎士隊総隊長・アルノルトさんの顔があった。
驚いて全力で身を引きそうになるのを何とか堪える。
「悩みがあるのなら私に話してごらん」
にこにこ。
さあ早く! とばかりに期待に満ち溢れた笑みを浮かべているアルノルトさん。
わたしは自分の顔が若干引き攣っているのを感じた。
アルノルトさんは顔を合わせる度に何かとわたしの世話を焼きたがる。
他人様の娘にかまけたくなるほど、実の娘から酷い扱いを受けているのだろうか。若干心配になってしまう。
父親を知らずに育ってきたせいもあって、わたしは一般的に父親というのがどういうものなのか想像出来ないけれど。実の娘と面影を重ねているらしいわたしに対して毎回しつこく同じ台詞を言うくらいなので、娘に頼られるということが嬉しいのかも知れない。
しかし、だ。
いくら何でも騎士の長であるこの人に、貴方の部下達の観察記録と妄想を書き込んでおく用のメモ帳を買ってくださいなんて言える訳が無い。
「と、特にありませんので大丈夫です」
若干引き攣り気味の笑顔を貼り付けて答えれば、アルノルトさんはさも悲しげにしゅんと落ち込んだ。
「本当に無いのかね?」
「ありません」
「……本当に?」
「無いです」
「……ほ」
「しつこいです」
「……な、何かあったらちゃんと言うのだぞ」
更に落ち込んで去っていくアルノルトさん。あまりの落ち込みように、叱られた犬のように垂れる耳と尻尾の幻覚が見えるほど。……中年の厳ついおっさんにそんなものが付いていても、可愛くもなんともないけれど。
最近はこのくらい言わないと引き下がってくれないので、多少厳しい口調になるのも仕方が無いと言える。
わたしは小さく息を吐いて、洗濯物を片付けてしまうために足を動かし始めた。
幾つか重ねた洗濯物用のカゴを抱えて、少しだけ回り道をしながら宿舎への帰路に着く。
洗濯場からでも時折微かに聞こえてくる怒号や掛け声に導かれるようにして、いつだったか辿り着いたこの場所。
日中、市中や城内の勤務当番でない騎士達が訓練をするための演習場だ。
この時間帯は2人1組になっての打ち合い訓練をしていることが多くて、今日も然りの様子。
細かい指導は各小隊長なんかが中心になって行っているようだけれど、全体の監督は、隊長格や親衛隊の人間が担当する。
ゆっくりと訓練中の騎士達の間を歩きながら大声で指南をしているのは、見慣れた緋色の髪の主だった。
シュリが大声で騎士達に指示や指摘を飛ばすと、騎士達はそれを真摯に受け入れて訓練に熱を込める。
指導を受けた騎士達の表情を観察していると、シュリの慕われ具合が判るというものだ。
少し気になったので第5宿舎の騎士達に聞き込み調査をしたところ、彼らは親衛隊の面々に分け隔てなく敬意を抱いているけれど、中でも過去最年少で親衛隊長へと抜擢されたシュリには特に心酔しているらしい。
剣技の実力だけで言うなら、騎士隊総隊長であるアルノルトさんをも上回るとすら一部では囁かれているそうだ。
確かに。拾って貰った日の翌朝、ひとり訓練していたシュリの姿を思い出す。
あの時の、現実離れした鋭くも綺麗な銀の閃き。全てを射抜く、凄艶な眼差し。
忘れようと思っても、忘れられるものではない。
わたしは改めて、指導を行うシュリの姿を見た。
訓練中はターバンで顔に掛かる前髪を上げていることが多い彼は、真剣な表情も相乗効果を発揮して……正直言って、相当格好良い。
異性だけでなく、嫌味なく同性をも惹き付ける魅力。
勿論それは、彼の外見や剣の実力だけが原因ではないだろうけれど。
と、わたしは別にシュリを見物しに来た訳ではないのだ。
お昼の準備に入る前。洗濯が終わった後に、少し遠回りをしてでもこの場所を通って宿舎へと戻ることが日課になっている、その理由。
堪能する為に目を閉じようとして……横から頭を軽く小突かれて阻止された。
「何すんのよ」
「お前こそ何してんだよ」
見上げれば、不機嫌そうに目を眇めたシュリの顔がある。
訓練中なのにわざわざこんな演習場の端っこまで来てどつくとは。親衛隊長は幼女趣味だという噂が流れたことについて、未だに根に持っているとでも言うのだろうか。
「訓練中は演習場の端っこでも剣とか人とかが飛んでくることもあって危ねぇから、あんまり近寄るなって言っただろ」
噂の件では無かったことにほっとしながら記憶を探ると、以前シュリとこの場所で鉢合わせた時に、そんな事を言われたような記憶が微かにあった。
……けれど。
「仕方ないじゃない、好きなんだもの」
ぽつりと言い返せば、シュリは何度か目を瞬いてから神妙な表情を作る。
「あの中に好きな奴でもいるってのか?」
「そういう色っぽい話じゃないわよ」
変な勘違いをされても困るので、わたしはきっぱりと言い返した。
そうしてから、シュリを隔てて後ろにある演習場の風景を見る。
「音」
「……音?」
「そう。音が、好きなの」
目を閉じれば、演習場が奏でる音だけに集中することができた。
怒号や掛け声はさておき。
地を蹴る靴音。刃を潰した練習用の剣達が触激した時の高い、低い金属音。剣閃が空気を切り裂く音。
音、音、音。
音楽というには程遠い。耳触りが良いとも言い難い。けれど、生きた、躍動する音達の共演を一身に感じられる。
わたしにとって演習場とは、そういう場所。
この世界へと来る前、わたしの生活の中には、当たり前のように音楽が満ちていた。
おばあちゃんがピアニストだったので物心つく前からその音を聞いていたし、大学へ入ってからはより顕著に音楽漬けだったと言える。
自分でもそれを望んでいたし、自分の将来もその中にあると信じていた。
それなのに。
この世界へ来た途端、それらがぱったりと失われたのだ。
誇張でも何でもなく。本当に、失われたに等しい状態。
優雅な城内は、様々な芸術に溢れている。けれど、その中に音楽は無かった。
兵隊といえば楽隊というイメージがあるけれど、この世界の騎士隊にはそういう類のものは無く。王族という身分のリーゼ様も、音楽をたしなまない。
調理スタッフのおばちゃんが調理中に鼻歌を交えることも無ければ、城内で楽器というものを見掛けることすら無い。
城下を歩くことがあっても、それは同じで。
世界が違うのだから、わたしの中の常識が通用しないことくらいは判るつもりだけれど。
はっきり言って、わたしのここ最近の心此処にあらず状態はそれが原因だった。
来たばかりの頃は混乱していたし、城へ導いて貰ってからは仕事を覚えて生活に慣れることに精一杯で、そこまで気を回す余裕なんて無かったけれど。慣れてしまえば、喪失感を自覚するまでにそう時間は必要無かった。
だから、ほんの僅かな間だけ音の洪水の中に身を置くというささやかなこの行為くらいは、見逃して欲しい。
目を開いて懇願するようにシュリを見上げれば、彼は不思議そうに首を傾げてわたしを見下ろしていた。
視線が合った途端、不自然に目を逸らされたけれど。
お世話になりまくった彼の手を、これ以上わたしのことで煩わせたくは無い。
わたしは軽く首を振って、シュリから視線を外した。
「ま、ちょっと通りすがるだけだからさ。見逃してよ」
そっと、気付かれないように溜息を吐いて、わたしは第5宿舎への帰路を辿る。
シュリの視線を背中に感じたけれど、振り返りはしなかった。
-*-*-*-*-*-*-
「いーい眺め」
巨大なアルス・ノーヴァ王城の一角。屋上に備え付けられた、見張り台のようなこの場所。
ここからは、アルス・ノーヴァ城下の広い広い街並が一眸できる。
騎士棟にこの場所へと続く階段があることに気付いたのはごく最近で、それ以降、休憩時間になると足を運ぶようになった。
穴場なのか、円形に塀に囲まれている以外に何も無いこの場所には、わたしの他に人の姿は無い。
等間隔に凹凸になっている厚い塀のへこんでいる部分にだらりとうつ伏せに身を預け、わたしは溜息を吐いた。
いけない。
最近は、気付くとこうして溜息が出ている。
割と表情や態度に出易いこの自分の性質が憎い。優しい周囲の人々に気を遣わせないように、気を付けなければならないというのに。
溜息なんかを吐いているより、城下の素晴らしい眺めに感動している方がよっぽど有意義だ。
そう思って雑貨屋さんはどこかな、なんて探し始めた頃、背後から誰かの足音が聞こえてきた。
穴場じゃなかったのかなんて思っているうちに、やけに慌てた雰囲気でこちらへと駆け寄ってくる足音。直後、誰かに腰を抱えられてぐいっと引かれる。
「うわっ」
わたしは、わたしを引っ張った犯人と一緒に後ろへと倒れ込んだ。
犯人を下敷きにしてしまったので痛くは無かったけれど、一体何事なのか。
上半身を起こして立ち上がろうとしたら、背後から腰へと回された腕にしっかりと捕えられていて無理であることに気付いた。そのため、上半身だけ起こしたまま振り返る。
倒れた時に床にぶつけたのか。後頭部を擦りながらわたしに下敷きにされていたのは、ジークベルトさんだった。
しかし、なにゆえ。
「アコさん、何があったのかは判りかねますが、人生を早まるのはいかがなものかと」
わたしの視線に気付いた彼は、じっと下から視線を合わせて、真剣にそう言ってくる。
わたしは思わず吹き出した。
笑いを堪え肩を揺らすわたしを訝しがりながら、ジークベルトさんはゆっくりと上半身を起こす。
「ご、ごめんなさ……でも、身投げなんてしませんよ。城下を眺めてただけです」
言うと、彼は一瞬固まった。
そうしてすぐに、自分の早とちりと気付いて羞恥に頬を染め、後頭部を擦りながら短く息を吐く。
「そ、そうですか。しかし、勘違いで良かった」
やけに近くから声が聞こえたので驚いて見ると、すぐ目の前にジークベルトさんの顔があった。
上半身を起こした彼の膝の上に座っている状態なのだから、近くて当たり前か。腕の拘束がもう無いことを確認して、わたしは彼の上から降りて立ち上がる。
「紛らわしくて済みませんでした」
「いえ、こちらこそ、驚かせて申し訳ありません」
彼もわたしに続いて立ち上がると、ばつが悪そうに笑った。
ジークベルトさんは、偶然わたしに助けを求められたあの日以来、顔を合わせる度に何かとわたしの話を聞いてくれている。
その度に変態魔術師達の変態行為について嘆いていたのが悪かったのか。
静かに聞いてくれるのでつい話してしまうけれど、まさか身投げしそうに見られるとは思わなかった。
反省しつつ、塀に寄って城下の風景へと視線を戻す。
「ジークベルトさんは、よくここに来るんですか?」
「いえ、アコさんが上っていくのが見えたので」
わたしに何か用事でもあったのだろうか。
首を傾げて隣まで来たジークベルトさんを見ると、彼は胸元から小さな紙袋を取り出した。
薄くて何の飾りも無いそれを渡されたので、受け取って開いてみる。
中に入っていたのは、愛用しているポケットサイズのメモ帳と同じものが、新品で2冊。
わたしが今最も欲しいもののひとつだ。
「貴女が仕事に使っている帳面が無くなりそうだったでしょう。シュリからの支給品だと聞いたので、給金前で購入資金も無いだろうと思いまして。支給いたします」
確かに、仕事のメモ用も無くなりそうなのは事実。
けれど、メモ帳を彼の前で取り出したのは、2日前に宿舎の備品購入申請について教えて貰った時のたった1回だけだ。そんな数秒でそこまで見ていたというのか。
観察眼の鋭さに驚くと共に……素直に嬉しい。
「ほ、本当に貰って良いんですか?」
「ええ」
「ありがとうございます……!!」
わたしはメモ帳を胸に抱え、彼に向けて深々と頭を下げた。
うち1冊は確実に趣味用になるけれど、その辺は黙っておこう。
趣味用のメモ帳には専ら王女があやしいと口にするジークベルトさんとシュリのツーショット時の動向についても記録してあって、メルさんにも報告したうえに盛り上がり済だという事実も黙っておこう。
それは置いておくとして、彼は本当に良い人だ。
この20日間で、わたしの中のジークベルトさんの評価は上がりっぱなしである。
「アコ」
上機嫌で顔を上げると、横から声を掛けられた。
穴場な筈なのに、今日は来訪者が多い。
いつの間にか静かに佇んでいたのは、第一王女リーゼ様の専属女中であるジネットさんだった。
涼しげな美貌と肩まで伸ばされたワイン色の髪が、今日も眩しい。
「ジークベルト様、お話し中申し訳ありません。リーゼロッテ様がアコをお呼びです」
事務的な口調で、ジネットさんはそう告げた。
リーゼ様がわたしを交えて同胞会を開きたい時は、自由に動けないリーゼ様の代わりにいつもジネットさんが迎えに来てくれる。
どうやって把握しているのかは知らないけれど、それはもう正確にその時のわたしの現在地点へと。まさかこんな人気の無い所に居ることまで把握されるとは思っていなかったので、内心かなり驚いているのは内緒だ。
……誰にも行き先告げてきて無いんだけどな。
深く考えるのも恐ろしいのでこの辺で止めておく。
きっとそれがプロのお仕事なのだ、うん。
ちなみにジークベルトさんは、散々サリアさんの愚痴を聞いてくれているため、わたしとリーゼ様が懇意にしていることを知っている。
「ジークベルトさん、ごめんなさい。行かないと」
「ええ、気を付けて」
「はい! 本当にありがとうございます!」
気を付けて、というのはサリアさんに対してという意味なのだろう。
色々な気遣いに感謝して。
もう一度ぺこりと頭を下げてから、わたしはジネットさんと一緒にその場所を後にした。
-*-*-*-*-*-*-
「あぁっ、あんなに近付いて! けれども触れることはないあの距離感がじれったいわっ!」
「こう、対象Aの後ろから誰かがぶつかってきて突然触れる機会が、なんていう原始的かつ突発的どっきりイベントでもあれば、一気に距離が縮まりそうなものですけどねぇ」
「まあ、アコもそう思う? 私もそう思ってこうして毎日見守っているけど、なかなか誰も推し量ってくれないのよね!」
握り拳を作って力説するリーゼ様。
一国の王女が毎日出歯亀かよ、と思ったけれど、わたしも人のことは言えないので口には出さない。
それに、以前、初めてリーゼ様の出歯亀に付き合うことになった時。
あまりのテンションと妄想発言のアツさに“一国の王女がこんなんで大丈夫なのか”という視線を送っていたら、妙に真摯な表情のリーゼ様に「私が駄目でも妹がいるわ」なんて返されたので、もう何も言わないことにしている。
それは兎も角として。
彼女とわたしの視線は、第2行政室のある一点へと注がれていた。
机へと着いて一枚の書類を見ながら何事かを話し合う2人の文官。ひとりは椅子に座っていて、もうひとりはその後ろから片腕を机に突くようにして、かなり接近しつつ上から書類を覗いている。
無論、文官2人の性別は両方男だ。
日常にありふれた何でもない光景ではあるけれど、妄想フィルターを通せば大層なおかずになるらしい。
「今日もこれでブレッド3斤はいけるわっ!」
リーゼ様の決め台詞が発動した。
お米の無いこの世界ではパンが主食。要するに、ごはん3杯はいけるわっ! の意味になる。
と、握り拳はそのままに揚々と仰っていたリーゼ様が、非常に名残惜しそうな表情を作って溜息をこぼした。
「あぁ、まだ見ていたいけど、そろそろ時間だわ。戻らなくては」
曲がりなりにもアルス・ノーヴァの正統なる第一王位継承者である彼女は、教養を高めるために忙しい日々を送っている。
現在はその合間の僅かな休憩時間という訳だ。
そんな貴重な時間をわたしなんかと一緒に過ごして良いのかと思ったこともあるけれど、彼女にとって自分の趣味を理解できる人物に逢えたことがよほど嬉しかったのだろう。
それに、何となく。砕けた口調で話してくれる彼女が、同世代の友人と接しているような気分にさせてくれるので、わたしも嬉しいのだ。
実際は17歳だそうなので、年下なのだけれど。
「では、残念ですが戻りましょうか」
「ええ。アコ、今日もお付き合いありがとう」
「いえいえ、楽しませて頂いてますからっ」
ハードボイルドな表情を作り、びしっと親指を立てる。
いつからだったか、リーゼ様も真似て同じジェスチャーを返してくれるようになった。
美人なので、何をしていても絵になるなぁ、なんて。
そんな彼女を見ながら、思う。
わたしは王族の棟にある私室へとリーゼ様を送ってから、彼女の部屋を後にした。
午後の休憩時間中にこうして彼女の元へと通うことも、彼女に会ってからはほぼ日課となっている。お互いの時間が許す範囲で、なので、毎日ではないけれど。
ちなみに、普段はそこにわたしの天敵であるサリアさんが混ざることが多いけれど、昨日から仕事で遠出しているとのことで、今日は遭遇せずに済んだ。
彼女の視姦に対するスルースキルと耐久力も、だいぶ磨かれてきたと思う。
そうしなければわたしの心は生き残っていけなかった。人とは進化するものなのだ。
まあ、今日は磨いたスキルを発揮せずに済みそう。
「だというのに何でこんな所にいらっしゃるんでしょうかね……」
「サリアも居ないし、アコが寂しい思いしてるかなと思ってね」
げんなりして言うと、くすくすと笑いながら無駄に甘い声で答えが返ってきた。
そんな気遣いなんて必要ない。心の底から。
王族の棟を出た辺りの通路の壁に寄り掛かるようにして立っていたのは、王国客員魔術師にしてわたしの天敵その2であるエリアスさんだ。
この人もただそこに居るだけで絵になる美貌の持ち主だけれど、正直わたしは、サリアさんよりこの人の方が苦手である。
サリアさんは全力で逃げれば追ってこないけれど、この人は面白がって追ってくるのだ。
そのうえ実際身体に触れるセクハラ行為を働いてくれるので性質が悪い。
姿を捉えた瞬間に身構えてしまうのも、致し方ないと言える。
……まあ、幾ら構えてもコンパスと瞬発力の違いの所為で、こうして壁際に追い詰められたりとかしちゃうんですけどね!
「えーと……本日はお日柄も良く……」
「アコが洗濯当番の間は今日みたいな天候が続くよ」
「左様でございますか……」
しっかりと両腕の間に挟まれながらも、極力目だけは合わせないようにして逃げ道を探す。
と、壁に貼り付けていた左手をするりと取られた。
手首から手の平を通って指の付け根へと、エリアスさんの長い指が這うように滑る。そうしてわたしの指へと彼の指を絡めるまでの仕草が、やけに色っぽい。
彼はわたしの手を持ち上げると、まじまじと近くで観察し始めた。
前科があるためキスされるかも知れないと身構えていたわたしは、若干緊張を解く。
「アコは」
「は、はい?」
「何処から来たんだ?」
わたしは思わずびくりと肩をそびやかした。
この世界の人間ではなさそうだという事実は、シュリには伏せるよう言われている。
「ご、ごめんなさい。記憶が曖昧でして……」
ふぅん、と、エリアスさんは短く言っただけでそれ以上の追求はしてこなかった。
納得してくれたのなら指を観察するのを止めていただきたいというかむしろ解放していただきたいのですが。
わたしの手の何が面白いというのだろうか。
身長の割には大きいね、とか、指が結構長いね、とか言われたことはあるけれど、ごく普通の手だ。
「それなら、仕方ないな」
ゆらり、唐突といえば唐突に、エリアスさんの視線がわたしの目を捉える。
わたしは馬鹿か。手を見ているだけのようだと油断していた。
深い深い紅の目。
底知れない光を宿してわたしを見るこの目が、苦手だ。
一度捉えられたら全てを暴かれそうで。逃げられなくなりそうで。
……まあ、逃げますけれどもっ!!
しゅばっと身を屈めて、わたしは脱兎の如くエリアスさんと壁の間から抜け出した。