1 - 小さな波紋
この章は、時々三人称の描写が含まれます。
五大国の中でも屈指の豊かさを誇ると評されるアルス・ノーヴァ王国は、日頃から穏やかな活気で満たされている。
現女王のオルガが即位した頃に再起動に成功した、国土のほぼ全てに対応する感知結界のお陰もあってか、国内での大きな争いごとが無くなって二十余年。
元々が、気候と土地の恩寵で農作物の実りが多く、木材や布を使った工芸品も盛んであった国だ。
作人や職工、商売人などを始めとして人々が集まり、豊かさを押し上げるのに、そう多くの時間は必要無かった。
そんな人々の豊かな暮らしを護るのは、何も感知結界だけでは無い。
国中に駐留する兵士達。その中でも腕利きが集められ王城の敷地内に居住を許された、およそ千人で構成される騎士隊。
騎士隊の中から更に強者の高みに在る十三名で構成された、アルス・ノーヴァ親衛隊。
彼らもまた、和平条約を締結する五大国と協力して諸国へと睨みを利かせることにより、国の護りをより強固なものへと昇華させていた。
中でも親衛隊は特に、武力部隊としてだけではなく、国の象徴としての花形でもある。
ふた月ほど前に開催された“合同演習”の闘技会で親衛隊隊長が優勝したことを受け、更にその人気は高まっていた。
そんなアルス・ノーヴァ国内で……いや、アルス・ノーヴァを含む周辺諸国において、合同演習が開催された頃から徐々に広まりつつある噂がある。
――――音楽家が、復活した。
噂の内容とは、そのようなものだった。
音楽とは、およそ二百五十年前に失われたとされる遺物だ。
その音楽を操る者達が音楽家と呼ばれ、彼らは音楽を使って人心を掌握したとも安らぎを与えたとも言われている。
かつて音楽家達が淘汰された歴史に囚われる者達は、再び混乱と惨劇が引き起こされるのではないかと恐怖し、警戒した。
純粋に音楽家というものに興味を抱いた者達は、日々に話題という彩りを添える存在として、歓迎した。
そして、実際にその復活した音楽家とまみえ、音楽を耳にした者達はこう言うのだ。
あれは、恐れるべきものではない。
多くの者達と共有し、慈しむべきものなのだ、と。
* * *
若干興奮が抑え切れていない鼻息の音を聞きながら、さらりさらりとメモ帳に状況を書き付ける。
左ななめ上から聞こえる鼻息の主は、リーゼ様。言わずと知れたアルス・ノーヴァの第一王女。
右ななめ上から達人の気配を漂わせるのは、メルさん。騎士棟第五宿舎の番人であり、女中時代にわたしがお世話になりまくった大先輩。
リーゼ様の斜め後ろには、いつもの淡々とした様相で佇む専属女中のジネットさん。
そして、リーゼ様とメルさんから両肩にそれぞれの片手を添えられつつ筆を走らせるわたし。
わたし達の目の前には身を隠す為の生垣があり、生垣を挟んだ視線の先には、ターゲットを含む数名の騎士達。
そう、有り体に言えばわたし達は現在、騎士棟のとある場所にて出歯亀行為を働いていた。
事の起こり(……とか言うほど大層なものでも無いけれど)は、体感でおよそ一時間前。
ピアノのレッスンを終えたリーゼ様はこれから少し休憩時間なのだと仰り、そのままわたしの執務室に居座って滾々と現在の萌え事情を語り始めた。
リーゼ様のいう萌え事情なので、勿論、男性同士のあれやこれやである。
わたしはいつものように、気になる部分はメモを取りつつほうほうとそのお話を聞いていた……のだけれど。
語りながら徐々にヒートアップしてきたリーゼ様が、騎士棟に行ってナマ現場見学したい! などと仰り始めたのだ。
いやいや駄目でしょう。貴女、親衛隊とか文官の上層部とかから、危ないから騎士棟に近付かないように言われているでしょう。という感じで一応お止めはしたものの、興奮最高潮であったリーゼ様は、聞く耳持たず。
わたしはリーゼ様にずるずると引きずられ、ジネットさんも止めないしまぁ良いかとご案内差し上げた覗きスポットにてメルさんとも合流し、今に至るという訳である。
「リーゼロッテ様、もう少し頭を下げて、興奮を内に抑え込むんです。ターゲットに気付かれてしまいます」
「ええ、ええ……! 判ってはいるのだけど、直接現場を目にすると、なかなかままならないものね……!」
「お気持ちは良く判ります」
興奮のあまり身を乗り出しそうになっているリーゼ様にアドバイスを与えつつも共感を見せるは、この道のプロ・メルさん。
騎士達の監察記録については、いつもはわたしがメルさんから情報を仕入れてリーゼ様にお伝えしているのだけれど。今日初めて直接言葉を交わしたにも関わらず、この二人、既に打ち解けまくっていた。同類ってすげー。
ちなみに現在わたし達の観察対象となっているのは、サイモンとトロイを含む数名の騎士達である。
彼ら二人の動向に関しては、割と初期からわたしも観察対象にさせて頂いていた。その頃はまだ、トロイが時々サイモンに対して熱い眼差しを向けているだけの、淡い関係だったのだが……
何と、ここ最近は、その熱視線にサイモンが気付き始めている節があるというのだ。
直接こうして観察してみると……なるほど。
同僚騎士達と何でもない会話をしている最中も、ついついといった風に向けてしまうトロイの視線にサイモンが気付き、二人の目が合う。戸惑いながらも「どうした?」とサイモンに仕草で問い掛けられ、やがてトロイが恥ずかしげに視線を逸らす……的なことが何度か起こっている。
そしてその度にリーゼ様が手に汗握る大興奮、と。こちらでもそんな構図が出来上がっていた。
わたしの肩に手を置いているものだから、その度に力がこもるので若干痛い。
けれど、そんな事など気にならないくらい、久し振りの直接観察にわたしも筆が進んでいた。
やはり観察と妄想は人生に必要なスパイスである。うん。
「はああぁぁ~~、素敵だわ……やはり、生現場は格別ね!」
わたし達の熱視線には気付くことなく。これから訓練へ向かうのであろう観察対象達が視界の外へと去ってから、リーゼ様がため息を吐き出した。
その頬はうっとりと上気し、潤んだ瞳が未だ彼らの消えた方向を見つめている。
メルさんが、そんな恋する乙女の如き様相のリーゼ様の言葉に共感し、胸の前で手を組んでうんうんと何度も頷いた。
「個人的には、もはや視線の意味を問うのではなく、意味に気付いていて確認をしている段階なのだと思っています」
「まあ、まぁ……! 問われてあのような態度を取ったのでは、答えているようなものじゃない! それとも答えに気付いていて、わざと判らないふりをしているのかしら」
「その可能性もあるでしょうね」
「だとすると、あのサイモンという騎士、相当な手練れね……はっ! それとも、トロイにだけああいった態度を取るということなのかしら。あぁ、想像が掻き立てられるわっ!」
乙女達の会話は留まるところを知らず、わたしの頭上で続いている。
わたしはおふたりの言葉に所々頷きつつメモ帳への記入を終え、胸ポケットへと仕舞い込んだ。
と、メルさんと夢中でお話ししていたリーゼ様の視線が、くるりとわたしへ向けられる。そのきらきらと輝く綺麗な瞳に、わたしは思わずたじろいだ。
「アコ。聞いたところによると、貴女、執筆の腕が良いそうね?」
「ほわっと!!?」
一体どこでそのようなデマを!?
わたしは衝撃を受けてのけぞる。
衝撃のあまり危うく眼鏡が割れるところだった。
「だって、貴女の帳面の内容は判り易くまとめてあるし、時々書き添えてある想像の文章も素敵だわ。それに、日記などもしたためているそうじゃない?」
日記のことをバラしたのは誰だーー!!
あれは、こちらの世界に来てからの記録としてこそこそ書いているものであって、人に見せたことなど勿論無い。けれど、書いていることを知っている人が居るとすれば……
メルさんへ、ジネットさんへ、視線を送る。二人とも目を逸らしやがった。
犯人は君達か!?
あれだな! 漏洩ルート的にはメルさん→ジネットさん→リーゼ様だなこの野郎!
いや、大したことは書かれていないのだけど……けど、なんか恥ずかしいじゃないか!!
それに、不穏なフラグが立った気がする! ひしひしと!!
「そんなアコの腕を見込んで……ひとつ、私の為に、物語を執筆してみる気は無いかしら?」
ほらきたーー!!
ついにきたよ!!
いやね、印刷器具を開発したのがサリアさんで、開発依頼をしたのがリーゼ様だと小耳に挟んだ時点で予感はあったのですよ。
この人達がわたしの世界で言う“うすい本”的なものを作成しているんじゃないかというね!
作成済なのか未遂なのかはまだ判らないけれど、この期待に満ちた綺麗な瞳を見れば、とりあえず書かせる気満々なのはよく判る。
……正直に暴露すると。
確かにわたしは、元の世界でもうすい本用の文章を執筆したことがあった。
その手の活動をしている友人に頼まれて、一度だけ。
けれどもあれは何だかよく判らないテンションだったうえに、頼んできたのが友人だったから出来たことだ。
王女様の依頼でそげなものを書いたら、何だか取り返しのつかないことになりそうな予感が……いや、確信がある。
「いやー……流石に執筆は無理かなぁ」
「そんな事言わないで! 物語は私が考えるから! 個人で楽しむ用にするだけだからっ!」
「いやいやいや。リーゼ様のご期待に応えられるほどの文章力は無いので」
「そこを何とか! ちょっとだけ!」
がっちりと手を取られつつ迫られ、わたしは必死で視線を逸らしながらのけぞった。
リーゼ様が原作とか、絶対にえげつない感じの内容になるに決まっておる! それを表現出来るほどの文才は持ち合わせていない!
そっ、そんな綺麗な瞳で見たって頷かないからなああぁぁ!!
「……ったく、こんな所で何をやっているんですか」
どうやってこの状況を乗り越えたものかと。真剣に悩んでいたところ、わたしは何者かに首根っこを掴まれてひょいっと持ち上げられた。
聞き覚えのある声のようだけれど……と、斜め上を見上げてみれば、予想通りグレン青年である。
「って、何て格好をしてるんですか」
わたしを猫のように持ち上げたまま、グレン青年は呆れを隠しもしない表情で、続けてそう言った。
恐らく、ハンカチをほっかむりのようにして被っているのを見て言ったのだろう。
「いやいや、標準装備でしょこれ」
「何の為の装備なんですか……相変わらず意味不明なことを」
だって覗き行為を働くのだから、正体を隠す為には必要でしょう。
なんて、口に出しては言わない。
ちなみにわたしだけじゃなく、リーゼ様もちゃんと高級そうなハンカチを被っていらっしゃる。まぁ、リーゼ様は顎の下で結んでいて、わたしは鼻の下で結んでいるというちょっとした違いはあるけれど。
「それより、今日は来客があるのを忘れたんですか?」
「はっ! もうそんな時間?」
「はい。もうそろそろ来る頃だと思いますよ」
「リーゼロッテ様も。次の講義の時間が迫っていますよ。そろそろお戻りに……と言いますか、騎士棟にはなるべく近付かないよう、あれほど申し上げたではありませんか」
「私は深い事情があってこの場に居たのです。まぁ……ちょうど用事も済みましたし。講義に遅れる訳にも参りませんので、戻ります」
グレン青年と一緒にわたし達を探しにきたのであろう人物に、リーゼ様が若干猫を被り直した口調で答えた。
彼はグレン青年同様、アルス・ノーヴァ親衛隊に所属しているお方である。確か次席で、デリクさんという名前だ。最近はこうしてリーゼ様に仕えることが多く、よく顔を合わせている。
二十代半ばくらいの、少々目付きは鋭いがなかなか格好良い男性だ。……目付きの割には、何だか苦労人っぽい雰囲気を漂わせているのだけれど。
最近その雰囲気が濃厚な気がするのは、恐らくリーゼ様に振り回され気味だからなのであろう。
時々“王女様を何とかしてくれ”的な視線をわたしに送ってくるのが、苦労している良い証拠だ。
まぁ、わたしに彼女の性癖を何とかすることは出来ないので、強く生きて欲しいと思う。
「じゃあ、リーゼ様、メルさん、ジネットさん。申し訳ないですが戻りますね」
「ご歓談中のところ、水を差してしまって済みません」
「気にしないで。私ももう休憩時間が終わるから、仕事に戻るわ」
「では、わたくしも行くわね」
リーゼ様は優雅に、ジネットさんも洗練された一礼をして、デリクさんを伴い去っていった。
わたしも手を振って見送ってくれるメルさんに手を振り返しながら、グレン青年に持ち運ばれる形で場を後にする。
グレン青年のわたしの持ち運びも、もはや手慣れたものだ。
合同演習の晩餐会にて、公の場でのピアノ演奏を行ってから、およそふた月。
概ね良好に音楽を受け入れて貰えたわたしの許には、詳しく話を聞かせて欲しいという人や、演奏を聞かせて欲しいという人など、面会の依頼がちょくちょく入るようになっていた。
そういった依頼はまず窓口であるジークさんに回され、彼が可とした人とだけ、会うようになっている。
面会の依頼が多いのと、友好的な思惑で会いたいという人ばかりでは無いので、全員に対応する訳にはいかないのだそうだ。
仕事を増やして申し訳ないと思う反面、この世界の事情を詳しく知らないわたしでは、そうした選別が出来ないのでありがたくもある。
ちなみにこれまでにお会いした方達は、そういう人を選んでくれているのだろうけれど、友好的に音楽を受け入れてくれた人ばかりだった。
晩餐会に参加していた人や、その親族の人……つまりは五大国を中心とした、高貴な身分の方が多い。
そうした強い影響力を持つ方々に味方になって貰いながら、徐々に音楽と音楽家の存在を広めていこうと。そういう方針のようだ。
まぁそんな訳で、情報提供と王女様達のピアノレッスン以外にもやる事が増えたわたしは、なかなか忙しい日々を過ごしている。
……あの日に受けたセクハラ行為やら何やらを心の片隅に追いやっておくには、ちょうど良い感じであった。
* * *
「どうでしょう。何とかなりそうな感じですか?」
「……そうじゃな……ひとまずこの楽器の形状だけなら、お造り出来そうですが……音を鳴らす仕組みや金属製の部材については、他の職人とも話し合ってみないと、何とも言えませんなぁ」
ふむ、と素敵なお髭を撫でながら、白髪のおじいさんがわたしの問いに答える。
わたし達が見守る中、おじいさんとそのお弟子さんは、真剣な表情でピアノの中身を覗き込んでいた。
グレン青年に捕獲されて戻ってきた執務室。
今日の来客は、やんごとなき身分のお方ではなく、城下に住む職人さんである。
王女様達もピアノを嗜むにあたり、ピアノを複製できないかという話題は少し前から上がっていたのだけれど。今日は、城で以前から懇意にしている職人さんをお呼びして、そのご相談という訳だ。
ちなみに楽器の職人さんが居る訳も無いので、彼らは木材を使った家具の職人さんである。
王族用の調度品類を中心にお任せしている信頼出来る方で、時期がくるまでは、今回のことを不用意に口外しないよう約束して貰っているのだそうだ。
職人のおじいさんは、ピアノから視線を上げて、わたしの後ろに待機していたジークさんに視線を向ける。
目を合わせつつ少し考える素振りを見せてから、ジークさんはこくりと頷いた。
「良いでしょう。貴方が信頼する職人の方にでしたら、このことを話して頂いて構いません」
「感謝致しますじゃ。それでしたら、何とかやってみましょう。おい、計測は正確に。スケッチも念入りに取っておくのじゃぞ!」
「はい!」
ジークさんに許可を得ると、職人のおじいさんがお弟子さんに指示を出す。
二十代くらいに見える若いお弟子さんは、時々わたしに声を掛けて許可を取りつつ、ピアノに触ったり下に潜り込んでみたりしながら、スケッチブックのようなものに色々と書き込んでいった。
おじいさんの方は、ジークさんと製造期間や予算などについて、話し合いをしている。
現在わたしの執務室内には、ジークさんと職人さん達の他に、エリアスさんとグレン青年も同席していた。
グレン青年はわたしの護衛のために。
エリアスさんは護衛も兼ねて、このピアノに掛かっているらしき、わたしの知らない魔術的な仕様を説明するために。
ジークさんは、わたしが誰かと面会する際には必ず同席するようになっている。もはやわたしの担当というかマネージャーというか……そんなポジションですらあった。
いや、国の内政を一手に担う第一行政室の室長を捕まえて、マネージャー扱いってどうなのと思わないでも無いのだけれど。ついついそう表現してしまうくらい、最近はよく顔を合わせるというか何というか。
「済みません、アコ様。素材などについて色々と伺っても宜しいでしょうか?」
「あ、ハイ。どうぞどうぞ」
思考が「九割くらいの確率でジークさん忙しすぎて最近寝れてないんじゃね?」というところまで辿り着いた頃、職人のお弟子さんがわたしに声を掛けてくる。
わたしはピアノの淵から中を覗き込みながら、興味深げに色々質問してくるお弟子さんに素材の説明をしていった。
外側から見ただけでは判らないであろう鍵盤のアクションについても、彼のスケッチブックに下手くそなわたしの絵を描き添えながら説明していく。
「この、フレームの下の板は?」
「これは響板と言って、音色を左右する大切な部材です。軽くて軟らかい……多分家具とかにも使われてるうおぉっ!?」
わたしは説明中にも関わらず、思わず奇声を上げた。
だって何かが腰を撫でた! しかもちょっといやらしく!
驚いた様子のお弟子さんが居るのとは反対側、斜め上をキッと睨めば、そこには飄々と微笑みを浮かべるエリアスさんの顔がある。腰に添えられた手の犯人は、明らかにこいつだ!
「……何かご用でしょうか」
「興味深い説明をしているから、おれも聞きたいと思ってね。どうぞ、続けて?」
腰の手をぺちぺちと叩きながら努めて低ぅい声で訊ねれば、超笑顔でそんな答えが返ってくる。
本当に説明を聞きたいだけか? ならこの腰の手は何だ!
もうすっかり痕は消えたものの、エリアスさんには首にき、きっ……噛み付かれた経験があるため、警戒してしまうことを禁じ得ない。
あの後うっかりシュリとかジークさんとかに痕を見られて、ご機嫌が悪くなって大変だったんだからな!
心の中で恨み言を呟きつつ手を攻撃してみるものの、どうやら退かす気は無いご様子。
お弟子さんも説明を待っていることだし、仕方が無いのでそのまま説明を続けることにした。
手を動かしたら引っこ抜く! という意志を込めてひと睨みしてから、わたしはお弟子さんに向き直る。
クスクスと微かに笑う気配がして苛っとしたけれど、少しした頃にジークさんが来てエリアスさんの手をべりっと引っぺがし、職人のおじいさんも交えての説明になっていったので、それ以上の被害は受けずに済んだ。
職人さん達への説明を終えて、城内の途中まで彼らをお見送りした後。
わたしは執務室へと戻りながら、にやにやと緩む頬を諌められずにいた。
だって、まだどうなるか判らないものの、ピアノの複製に成功したら……二台のピアノでの合奏が出来るではないか!
王女様達もめきめきと腕を上げてきているし、楽しい妄想は膨らむばかり。
本当は、他の楽器とかもあれば良いのだけれど。そこまで贅沢は言えないか。
「何だか、楽しそうですね?」
妄想を爆発させていると、隣を歩くジークさんが訊ねてきた。
お忙しいだろうからと一度断ったものの、執務室まで送ってくれると言うので、現在彼はわたしの隣を歩いている。
ちなみにエリアスさんは既に自分の職場へと戻っているけれど、グレン青年は斜め後ろから一緒に付いてきていた。彼は本日のわたしの護衛なので、執務室へわたしを送り届けるのも仕事のうちだ。
「だって、もしピアノが複製できたら、合奏が出来るのですよ! 妄想も膨らむというものです!」
「ガッソウ?」
「はい! こう、複数の楽器を使って、ひとつの曲を作り上げるんです。本当はピアノだけじゃなくて、色々な楽器を使うんですけどね」
「色々な楽器、ですか。そう言えば、お伝えしたことは無かったですが……この国はピアノでしたが、他の五大国を中心とした他国にも、同じように厳重に保管された遺物があるそうですよ」
「……もしかして、それって」
「ええ。確証が無くて申し訳ないですが、ピアノ以外の楽器なのかも知れませんね」
もしそうだとしたら、それって凄く素敵だ! 本当に合奏が出来るではないか!
あぁ、でも、よく判らないけれどピアノの封印はわたしが来たことで解けたらしいし、他国も弾き手が現れなければ解けないのかな?
だとすると、あまり期待するのは良くないかも……いやいや、妄想するだけなら自由だ!
「合奏、もし実現出来たなら、是非聴かせてくださいね」
「はい! それは勿論!」
笑顔全開で答えると、ジークさんは一瞬だけ眩しそうに目を眇め、それからふわりと神々しい微笑みを向けてきた。
最近ではこの笑顔にも、長時間でなければ耐えられるようになってきている。わたしも成長したものだ。
「ジークベルト様!」
時折グレン青年も交えての雑談を交わしながら、執務室の前へと辿り着いた時。
前方から、ジークさんの部下の文官さんが近付いてきた。
どうしました、と言いながら、ジークさんは部下へと近付いていく。
「申し訳ありません。取り急ぎ、ご判断頂きたいアコ様への面会依頼がありまして……アコ様へもお見せしたいものがあったので、第二室長のご判断でこちらへ伺いました」
部下の文官さんは、若干息を切らせている。
走ってくるほど急ぎの案件だったのだろうか。
とりあえず廊下では何なので、わたしは彼らを執務室へと案内した。
わたし達は二人掛け用の小さなテーブルを立ったまま四人で囲み、文官さんがその上に一通の手紙を広げる。
それは、短い面会依頼の手紙だった。
差出人は、合同演習に参加した方々とは関係の無い、一般の人。
手紙には、現在アルス・ノーヴァの城下に滞在しているので、もし音楽家様にお会いして頂けるのなら、滞在している宿へ連絡を寄越して欲しい旨が綴られている。
……そして。
お会い出来たなら是非見て頂きたいものがあるのだと、一枚の簡単なスケッチが添えられていた。
わたしはそのスケッチを慎重に手に取り、じっと見入る。
「……バイオリン?」
思わず呟いた。
いや、大きさが判らないから、まだそうとは限らないのだけれど。
けれどもそのスケッチは、明らかにその形状の……楽器だったのだ。