第8話 - アルス・ノーヴァのピアニスト 【Ⅳ】
拍手と熱気が冷めやらぬ中、ステージの幕が降ろされた。
厚い布地に遮られ、けれども拍手の音は、未だ耳に響いてくる。
高揚と、静穏。
久し振りに感じた気がするそれは、けれど、これまでに味わったどの感覚にも代えがたい。
そんな不思議な余韻に浸っていると、リーゼ様とローザ様に前後から抱き付かれた。
「アコ、本当に、本当に素晴らしい演奏だったわ!」
「先生、すてきです!」
わたしはジークさんから手を放して、興奮している様子のおふたりの頭や背を、よしよしと撫でる。
「おふたりが頑張ってくれたからこそ、わたしはいつも通りの演奏が出来たんです。おふたりのお陰ですよ」
きっとわたし以上に緊張していただろうに。
短期間にも関わらず練習に練習を重ねて、見事に完奏してみせたのだ。おふたり共、本当に素晴らしかったと思う。
……それにしても、こげな美人王女様達にサンドされるなんて、なんて贅沢な状況であろうか。
前からはリーゼ様。思い切りハグされているので、柔らかい髪がわたしの頬を撫で、何とも良い香りがふわりと漂う。しかも細っこいくせに柔らかい。
後ろからはローザ様。両手でわたしの腰に巻き付き、脇から見上げるようにして顔を覗かせているその表情の、何と輝かしいことか。子供特有のぷにっとした柔らかさも感動もの。
そうか、これが役得というやつか!
「リーゼロッテ様、ロザーリエ様、アコさん。本当にお疲れ様でした」
わたしが内心でおふたりの感触を堪能していると、落ち着いてきた頃合いを見計らって、ジークさんが声を掛けてきた。
ピアノの周囲に何かを置いて回っていたエリアスさんも、こちらへと近付いてくる。
多分、結界の仕掛けか何かなのだろう。今日のアレは許し難いけれど、ありがたいことだ。
「お疲れのところ申し訳ありませんが……皆様にはこれから会場へ出て、晩餐会へ参加して頂かなければなりません」
続けて申し訳なさそうにそう言うジークさん。
王女様方が心得たかのように頷いたので、わたしはおふたりの背を軽く押して応援しつつ、一歩後ろへ下がった。
すると、不思議そうに首を傾げる女王様方とジークさんの視線が、わたしへと集中する。
「勿論、アコさんも」
………何ですって!!?
ジークさんの言葉に、わたしはめがねが割れるほどの勢いで驚いた。
そんなもん初耳ですが!
びっくりし過ぎていい感じの高揚感が吹っ飛んだわ!
こ、こ、こ、こげな高貴な方々の晩餐会に参加しろだなんて……! マナーも何も判ったもんじゃありませんが……!?
演奏は成功したようだし、ワタクシはもう退場でもよろしいんじゃなかろうかね!!
あわあわと、目と表情とジェスチャーで必死に訴えてみる。
けれども、返ってきたのは申し訳なさそうな苦笑だけだった。
どうやら退場不可らしい。
何ということでしょう……
「声を掛けてくる方に、簡単にご挨拶をして頂くだけで構いません。どうか宜しくお願いします」
「ほわっつ!? わ、判りました! 判りましたので頭を上げてください!」
そう言って頭まで下げられたら、流石に断ることなど出来やしなかった。
わたしは慌ててジークさんの顔を上げさせて、参加を了承する。と、ふっと微笑を浮かべられた。
何でしょうかね、その、してやったり的な綺麗な微笑みは。
これはあれか。土下座して強制的にお許し頂くというわたしの攻撃パターン的なものをパクられたのか。
何ということでしょう……
「では、我々と共にいらしてください。アコさんのエスコートは、彼が」
半ば途方に暮れるわたしに、ジークさんが言う。
彼? と、問うまでもなく、その人は舞台袖へと現れた。
白と青の、騎士の正装。薄暗い舞台袖でも光を失わない、緋色の髪。
「女王の説明も終わって落ち着いてきた。そろそろいいだろ」
「判りました」
行事スタイルのシュリは、上げていることの多い前髪も半ば下ろしていて、普段よりもずっと大人びて見える。
セレモニーの時に遠くから見た姿に似ているけれど、髪型も少し違って、間近で見ると尚更格好よろしい。
そんなことを考えながらまじまじと見ていたら視線が合って、シュリは、ジークさんとの会話は止めないまま、ふっとその目許を綻ばせた。
な、何だその微笑ましそうな目線は。
衣装に着られてるのは自分が一番よく判っていますが何か!?
喧嘩腰でその視線に応えていると、ジークさんがシュリの視線の先を一瞬だけ目で追って、すぐに戻す。
それから二、三、会場の状況確認の会話を交わしてから、ジークさんはわたしへと向き直った。
「こちらへ。付いて来てください」
ジークさんの先導に従って、わたし、リーゼ様とローザ様、エリアスさん、シュリの六名は一度通路へと出る。
長くはない距離を歩くと、控室のような部屋へと通された。
大きくて豪華な両開きの扉があって、扉の先がざわついているのが判る。
文官さんが両側に控えているその扉を開ければそこは会場、ということなのだろう。
何だか変に緊張してきたよ……!
「会場内ではシュリから離れないよう、お願いします。では、参りましょう」
ジークさんは容赦なくそう言うと、ローザ様に手を差し出した。ローザ様は彼の手の上に、そっと小さな手を乗せる。
どうやらリーゼ様はエリアスさんが、ローザ様はジークさんがエスコート役ということらしい。
わたしのエスコート役のシュリは、というと、微笑を浮かべつつこちらへ腕を差し出してきた。
本当に隊長殿などにエスコートして貰ってしまって良いのだろうか……などと思いつつ、わたしは控えめにその腕に手を添える。
お城の晩餐会などという異空間へ臨もうというのだ。エスコートが見知った顔であっただけ心強い、ということにしておいた。
かくして、扉は開かれる。
磨き抜かれた床に、壁や柱には綺麗な彫刻や繊細な装飾。煌々と輝く巨大なシャンデリア。
そんな会場に相応しい人々の声でざわついていたその場所は、けれど、扉が開かれた瞬間に鳴りを潜めた。
ほぼ全員の視線が、こちらへ……とりわけ、わたしへと集中しているのが判る。
わたしは怖気づいて、思わずシュリの腕に添えた手に力を込めた。
シュリはわたしが緊張したことに気付いたのだろう。頭上から苦笑した気配が伝わってくる。
と、僅かに屈んで、わたしにしか聞こえないであろう声量で、彼は言った。
「とりあえず背筋伸ばして、笑っとけよ」
耳元でささやくものだから、伸ばす筈の背筋が僅かに粟立つ。
そんな反応にすら気付いて面白がるかのように笑うので、私はとりあえず、悔し紛れに背筋だけは伸ばしておいた。
発光する魔石で造られたのだという、煌々と輝くシャンデリア型の照明が照らす黄金の空間を歩く。
初めて、意識して見た会場。
さきほど演奏したステージに一番近い場所には、主賓達が座る横長のテーブル。
会場の中央をぶち抜くように敷かれた、この国のカラー、青に銀糸の模様が施された絨毯。
絨毯の両側には来賓達の座る円卓がずらりと並び、会場の一番外側の両側面には、飲み物などが置かれたカウンターが幾つか設置され、給仕の為のスタッフが控えている。
主賓席の正面、中央をぶち抜く絨毯とT字になるように敷かれた同色の絨毯の上を歩きながら、数えきれない視線の中に見知ったものを見つけて、わたしは幾らかの安心感を覚えることが出来た。
給仕スタッフの中にはジネットさんやジェルトルーデさんに、応援に駆り出されたのであろうメルさんやモニカ。
会場警備担当なのであろうグレン青年に、顔見知りな何人かの騎士の姿もある。
円卓の前の方の席にはアルノルトさんも掛けていて、何故か若干締まりのないでれっとした表情でこちらを見ていた。
主賓席前の中央付近まで到達すると、先を歩く王女様方が足を止めたので、わたし達もそれに倣う。
主賓席からは女王様が歩み出てきて、リーゼ様とローザ様の間辺りに立った。
「改めてご紹介させて頂く。先ほど演奏を披露させて頂いた我が娘、リーゼロッテ。それから、ロザーリエ」
主賓に向けて、次に円卓の来賓に向けて、王女様達は紹介された順に実に優雅な礼を取ってみせる。
それを見届けた女王様は、今度はわたしの方へと歩み寄ってきた。
黒いタイトなドレスに身を包んだ女王様は、たいそうお美しい。近付いてくるその迫力に若干気圧されていると、女王様はわたし達の横に立ち微かに微笑んでから、来賓達の方へと向き直った。
「そして、彼女が――我が娘達の師事する音楽家。名は、アコ。見知り置き願いたい」
女王様から紹介に預り、わたしは内心でひどく恐縮しながらも、王女様達に倣って礼を取る。
すると、会場の何処かから小さな拍手の音が零れ、それは会場全体に広がっていった。
若干のどよめきと共に向けられるその音は、歓迎されているのだという意図が伝わってくる。そのことに安心感を覚えると共に、今度は気恥ずかしさがむくむくと成長してくるのを感じた。何とも難儀なものである。
紹介が終わると、わたし達は円卓の前の方の席に着かされ、歓談の時間が始まった。
ある程度の時間が経つと、主賓や来賓への挨拶のために席を立つ人々も現れ始める。
わたし達の席にも様々な人が次々と訪れた。
優雅に応対する皆様を尻目に、わたしはともかく笑顔だけは貼り付けて最低限の会話をするという、簡単なお仕事をこなす。
……むしろそれしか出来ないと言って良い。
人見知りでは無いつもりだけれど、高貴な人々となんて何を話せば良いのやら、さっぱりなのだ。
それに、敵意の類では無いものの色々と情報を探ろうとしてくる人も居るので、下手に口を開いてぼろを出す訳にもいかない。
そんなわたしをフォローしてくれる皆様の、何と頼もしきことか。
特にリーゼ様。とてもお姫様に見える。いや、お姫様なんだけれど、普段のアレでアレな姿からは想像も出来ないような淑女っぷり。はっきり言って詐欺だ。
ローザ様も年齢にそぐわないほどに優雅だし、ジークさんは得意分野そうだけれど所作が輝いているし、エリアスさんなんてちっとも変態に見えないし、シュリも非常に紳士っぽいし。
この人達に任せておけば、わたしは笑ってるだけで万事解決ネ!
……なぁんて思っていたら、その笑ってるだけの簡単なお仕事に支障が出始めた。
挨拶に来てくださる方々は、わたしの演奏を褒めちぎってくれる方が大多数だ。だけれど、ことわたしの容姿に至っては、こんなに幼いのにだのお幾つでいらっしゃるのかだの小さいだの小さいだのちいさいだの……
徐々に笑顔が引きつってくるのも、致し方ないと言えるだろう。
まずい、発動する。けど発動したらだめだ。
この人達は国賓。高貴な方々。襟首ひっ掴んで揺さぶっちゃだめ。小さい小さい連呼されても我慢がまん……
……我慢、そろそろしなくても良いんじゃないかね?
などという不穏な空気を、若干何名かが察知したのだろう。
グレン青年が近付いてきてシュリに何事かを耳打ちし、シュリがあたかも急用が出来たかのように応対していた方々へ断りを入れ、私の背を押して、一緒にその場を離れるよう促した。
笑顔を崩さないよう必死なわたしが連れてこられたのは、会場から少し離れた場所にある一室。
適度な広さにソファやテーブルなどが設置されているこの部屋は、来賓の方々の休憩用にと、似たようなものが幾つか用意されているらしい。
「……ひとまず切り抜けましたね」
「あぁ、よく気付いたな。助かった」
「まぁ……嫌でも察知すると言うか何というか……」
そんなグレン青年とシュリの会話を尻目に、わたしはソファへもたれ掛かってぐったりしていた。
笑顔を貼り付けておくのがこんなに大変だとは思わなかったぜ……
「おーい、アコ。大丈夫か?」
「だめ。グレンが八つ当たりさせてくれたら回復するかもしれないけど」
「やめてください」
ちらりと恨みがましそうな視線を向けると、グレン青年に即答で拒否される。
ひどい。わたしが立ち直れなくても良いというのか。
こうなったらパシリ券を消費してでも……と、そこまで考えたところで、部屋の出入り口扉からノックの音が聞こえてきた。
シュリが目配せしてグレン青年が扉へと向かう。私はソファに腰を降ろしたまま、念のため姿勢を正してみた。
「派手な色の頭の奴が入っていくのが見えたんだが。シュリが居るのか?」
「クンツ様……!」
来訪者の声が聞こえた途端、シュリが少し顔を顰める。何だろう、ちょっと珍しい表情だ。
不思議に思っていると、シュリが「入ってもらえ」とグレン青年に伝え、グレン青年は扉を大きく開いて来訪者に入室を促した。
それにしてもクンツ様って、つい最近どこかで聞いたような?
疑問の答えは、悩むまでもなく来訪者を見た瞬間に解消された。闘技会の決勝戦でシュリと当たった人だ。
リーゼ様の妄想発言の中にも登場してわたしの琴線にも触れていたので、秘密の方のメモ帳にもその名前が記載されている。“【クンツ様】狡猾にじわじわとシュリを攻めている”という具合に。
よくよく近くで見ると、リーゼ様の妄想眼鏡に適うだけあって、派手さは無いが整った外見をしていた。
短いオリーブ色の髪に、つり目気味な左側の目許には泣きぼくろ。シュリと並んでも見劣りしない細マッチョ体型であることが、服の上からでも判る。年齢も、多分シュリと同じくらいだろうか。
「クンツ、お前……会場で王の護衛だったんじゃないのか? こんな所でふらついてて良いのかよ」
「俺以外にも優秀な騎士は付いているし、会場にはお前のところの化物魔術師どもが張り付いているだろう。何も起こりようが無いさ」
「……まぁ、それもそうか」
「少し遊んで貰ってきたんだが、相変わらず恐ろしいな。あの女にだけは勝てる気がしない」
「何やってんだよ、お前は」
呆れ顔のシュリとクンツ様の仲よろしげな会話を聞いていると、ふと、クンツ様の視線がわたしへと向けられた。
油断してぼへらとしていた表情を、わたしは慌てて引き締める。
「これは……アコ様。さきほどは素晴らしい催しでした。音楽というものが、かくも心に響くものだとは存じ上げず。得難き感動をありがとうございます」
「はっ! いえ、こちらこそ、足をお運びいただきありがとうございました。未だ精進中の身の上ではありますが、そのように評して頂けたこと、幸いに思います」
「申し遅れましたが、私、グラッセン王国第三騎士隊副長、クンツと申します。以後、お見知り置きを」
ソファから立ち上がり何とか定型の挨拶を述べるわたしに、クンツ様は跪いて自己紹介をしてくれた。
それから流れるような所作でわたしの手を取り、指先にキスを落としてくる。
わたしは思わず一歩後退して肩をそびやかした。
こういうのって、わたしみたいな小市民じゃなくてもっと高貴な方々へするもんじゃないのか!
「やめろこの野郎」
「いてっ」
壁際まで逃走したい衝動に駆られていると、シュリがクンツ様の頭頂部へ手刀を喰らわせた。彼の力が緩んだ隙に手を引っこ抜き、三歩ほど後退して避難しておく。
あぁびっくりした……それにしても凄い音がしたけれど。頭蓋骨とか割れてないでしょうね。
「シュリ、お前な……挨拶だろう、挨拶」
「うるせぇな。お前の場合は信用ならん。おいアコ、こいつには不用意に近付くなよ」
「えぇっ? そげな危険人物なのか」
「酷いな。言い掛かりだよ」
クンツ様は、よほど痛かったのか頭頂部をさすりながら立ち上がり、苦笑を零した。
かと思えば、すぐに人の悪そうな微笑に表情が切り替わり、シュリの耳元へと顔を近付ける。クンツ様がぼそりと何かを耳打ちすると、シュリがまた微かに顔を顰めた。二人はそのまま小声で二・三言葉を交わす。
クンツ様がシュリから離れる頃には、シュリの表情が更に険しくなっていた。
「では、アコ様。ご休憩中のところ失礼致しました。またいずれお会い出来れば光栄です」
「い、いえ……大したお構いも出来ず」
「じゃあ、またな、シュリ」
「……ああ」
クンツさんは後ろ手に手を振りながら、グレン青年が開けた出入り口から出て行ってしまう。
グレン青年が扉を閉めてクンツさんの姿が見えなくなっても、シュリは彼の立ち去った方向を睨むように見据えていた。
どうやらシュリに用事があったようなのに、大した会話もせずに行ってしまったけれど……って、さっきの内緒話が用件だったのだろうか。内容は、聞き取れなかったのだけれど。
「シュリ、大丈夫?」
「あぁ、悪いな。何でもないから気にすんな」
「そう? なら良いけど……」
どうやら仲は良さそうだったのに、何か気に障ることでも言われたのだろうか。
……はっ! もしや、狡猾でじわじわとした言葉攻めに!? 体勢も何やら怪しげだったし!
「おい、アコ。お前、今、碌でもないこと考えてねぇか?」
「ソンナコトナイデスヨー」
「目ぇ逸らしてんじゃねえよ。こっち見てもう一度心を込めて言ってみろ」
「ソンナコトナイデスヨー」
嫌だわぁそんな、部下(グレン青年)に見守られる中言葉攻めに遭い、恥ずかしいのにそれを表情に出さないよう必死で耐える上司の図だなんて。そんな妄想これっぽっちもしていませんから。
とはいえ、きちんとシュリの方を見て弁明したのにお気に召さなかったようなので、そそくさとテラスの方へ逃走しておく。
外へ出ると、少し肌寒い空気が肩を撫でた。
長時間ならば辛そうだけれど、少しの間なら心地良い。そんな外気。
晩餐会会場の音が遠くに聞こえる。怒りに我を忘れそうになっていたので会場から休憩室までの正確な距離は判らないけれど、この部屋は会場からそう遠くは無く、そして中庭のひとつに面している場所のようだった。
中庭に設置された噴水と水路、綺麗に整えられた薔薇の生垣が視界に入る。
わたしは振り返り、すぐ後ろまで近付いてきていたシュリを見上げた。
「ねえ、シュリ。花流しって、まだやってるかな?」
「あぁ、この時間なら多分まだやってるだろうな」
「わたし、あれやりたい」
「城下に出たときにやらなかったのか?」
「うん。王女様達も一緒だったしね。これから城下には行けないかな」
「それは難しいな。だが……」
コンコンコン、と。シュリが言いかけたところで、出入り口扉の方から再びノックの音が聞こえてくる。
扉近くに立っていたグレン青年が来訪者を確認し、今度はシュリに目配せすることなく、来訪者の入室を促した。
入ってきたのはジークさん。わたし達が振り返ると、「失礼します」と言いながらこちらへ近付いてくる。
「ジークさん、途中で抜けてしまってごめんなさい。会場の方は良いんですか?」
「退場の件はお気になさらず。私は、ロザーリエ様の退場のお時間になりましたので、お部屋へお送りするために少しだけ抜けてきたんです。すぐに戻らなければなりません」
「そうですか……大変そうですね」
「お気遣いありがとうございます。それより、こちらで何を?」
「あぁ、えっと……」
首を傾げるジークさんを前に、わたしは言葉を詰まらせた。
城下に行きたい相談をしていたなんて言ったら絶対に大目玉だろうし……助けを求めるため、わたしはちらりとシュリに視線を送る。
「ジーク。アコが、花流しをやりたいんだと。城内の水路で、俺が付いてりゃ問題ないだろ?」
「あぁ、そういうことでしたら。問題ありませんよ」
花を流す場所は、城下じゃなくても良いのか。
ひとまずジークさんから許可を貰えてほっと一息。
「中庭に出るのでしたら、丁度良かった。アコさん、これを」
そう言って近付いてきたジークさんは、正面に立ち、ふわりとわたしの肩に何かを掛けた。
外気が遮られ、温かい。これは……ストール?
淡い藤色に、銀糸で繊細な刺繍が施された、綺麗なストール。むき出しの肩に触れるその肌触りの良さに感動しているうちに、ジークさんがブローチで前を留めてくれる。
ブローチも、紫色の石で花を模った、綺麗なものだった。大小様々な石の花、それから細かな宝石などが、円形の銀の台座の中に閉じ込められている。
「これを、渡すために来ました。アコさん、誕生日おめでとうございます」
ブローチに見とれていたわたしは、驚いて弾かれるように顔を上げた。
「えぇっ!? そんな、こんなに高価そうなもの……」
「以前いただいたもののお礼も兼ねていますから。受け取って頂けますね?」
「うっ……」
有無を言わせぬ笑顔に、わたしは頷くしか術が無い。
それに……エリアスさんといい、ジークさんといい、高価そうなものをチョイスし過ぎな気はするけれど。
嬉しいものは、嬉しいのだ。
「はい……ありがとうございます……!」
エリアスさんの顔を見てお礼を述べれば、彼も嬉しそうに微笑んでくれた。
うっ……! 眩くて目を逸らしたくなる、あの笑顔だわ……! けど、ここは目を逸らしてはいけない場面。耐えるのよ亜子!
と、背中に冷や汗を感じつつも頑張って耐えていると、ジークさんの手がわたしへと伸ばされる。
「それから、言い遅れてしまいましたが……ドレス姿も、とてもよく似合っていますよ」
「そっ、それはどうもありがとうございます……!?」
ジークさんの右手はそっとわたしの髪を撫でて、耳元を掠めて頬に触れた。
あー、もう駄目だー
笑顔の甘さと神々しさが増して、今のわたしの耐久力ではとても耐えられそうにない。このままでは浄化されてしまう。わたし、頑張ったよね。もうそろそろ逃げ出しても良いよね……
「……会場、戻らなくても良いのか?」
「……戻りますよ。仕方がありません」
現実逃避しかけていると、わたしの背後から低めの声が掛かり、ジークさんはわたしから手を離した。
そうだ、シュリがいたのだ。助かった……!
「では、失礼します。アコさん、会場へは戻らなくても大丈夫ですから、冷えないうちに部屋へお戻りくださいね」
「はい。ジークさん、本当にありがとうございます」
もう一度お礼を言うと、ジークさんは再び微笑んでくれた。それから出入り口へと向かい、グレン青年が開けた扉から退室していく。
思わず、肺から息を吐きだすと、ななめ後ろ辺りに立っていたシュリが隣に来た。
シュリは扉の方へと半眼を向けていたけれど、わたしの視線に気付くと、今度はじろりとわたしを見る。
なっ、なぜに不機嫌……!?
思わず慄くと、彼は小さなため息と共に、纏っていた不穏な空気を消し去った。
「行くか、花流し」
「う、うん?」
よく判らないけれど、助かった……のかな?
わたしは予想外の早さでいつも通りに戻ったシュリの後に続いて、中庭へと足を踏み入れた。
懐から小さな刃物を取り出したシュリは、噴水近くの薔薇の生垣から一輪の薔薇を切り取り、わたしへと手渡してくれる。薄暗闇でもよく判る、真っ白な、綺麗な薔薇。
わたしは噴水から伸びる浅い水路の前に立つと、その白い薔薇を胸元で握りしめ、そっと目を閉じた。
おばあちゃんが亡くなってから、慌ただしかったことと喪失感に苛まれていたこともあって、きちんとさようならを言えていなかった気がする。
こんなに遠い世界から、わたしの声が届くかは判らないけれど。
おばあちゃん、わたしは、遠い世界でも何だかんだで充実した日々を過ごしています。
初めの頃は混乱や不安しか無くて、それから何と音楽の無いという世界で、ピアノが触れないことに相当なストレスを感じていました。けれども今では、国仕えの音楽家などという大層な地位をいただき、毎日が音楽漬けで幸せです。
今日は、大勢の国賓達の前でピアノの演奏をしました。
わたしの教え子である王女様達も含め、演奏は大成功だったと思います。
おばあちゃんに比べれば、わたしなんてまだまだ未熟ではあるけれど。おばあちゃんが教えてくれた演奏で皆さんが喜んでくれたことは、わたしにとって、この上なく幸せなことです。
国の音楽家だなんてあまりにも大層な地位なので、逆にプレッシャーを感じることも多くありますが……
支えてくれる人や、応援してくれる人がたくさん居ます。その人達のためにも、もうしばらくは、この世界で音楽家として頑張っていこうと思っています。
ですから、遠い空から、そっと見守ってくれていたら嬉しいです。
……さようなら、おばあちゃん。
ゆっくりと、目を開いて。
わたしは、水路へと薔薇を投げ入れる。
微かな水音を立てて投げ入れられた白い薔薇は、緩やかな速度で水路の先へと流されていった。
この水路の水は城下へと流れ、大きな川に合流し、川はいずれ海へと繋がるのだという。
今日という日に流された沢山の願いや祈りと共に、この薔薇は、一体どこまで辿り着けるだろうか。
そんな感傷的な気分で薔薇を見送っていると、そっと伸ばされた大きな手が、わたしの前髪に触れた。
いや……触れただけじゃない。何かを付けられた?
「悪ぃな。祈りの邪魔したか?」
「ううん、もう済んだから大丈夫。それより、これは?」
ぺたぺたとその部分を触ってみながら、わたしはシュリに尋ねる。
左側面の前髪に付けられた硬質のもの。ここは、普段であればヘアピンが挿してある場所……もしかして、髪留め……?
「お前、いつもそこんとこピンで留めてるだろ? だから、それなら普段から使えるんじゃないかってな」
「……もしかして、誕生日プレゼント?」
「あぁ。ジークみたいに立派なやつじゃなくて悪ぃけどな」
まさか、シュリにまでプレゼントを貰えるとは。
嬉しくない筈も無く、わたしはシュリに笑みを向ける。
「そんなことない。ありがとう……!」
素直に礼を述べると、シュリは、ほんの数瞬だけ硬直した後にわたしから視線を逸らした。
横顔を見上げてみれば、ほんの僅か、頬に朱が差している。……照れているのか?
最近は、時々ではあれど飄々とセクハラを繰り出してくる感じだったというのに、何だかちょっと可愛い。にんまりしながら水路へ視線を戻すと、薔薇は、既に視界の外まで流されてしまっていた。
少しの名残惜しさを覚えつつ、水路のせせらぎと微かな晩餐会会場の音を聞きながら、わたしは水の流れをただ見送る。
「……何を願ったんだ?」
静かな空気の中に、ぽつりと、シュリの言葉が落とされた。
水路から視線は外さないままで、わたしは答える。
「お願い、というより……弔いかな」
答えに返される言葉は無かったけれど、わたしは話を続けた。
「以前、言ったよね。わたしのたった一人の肉親はおばあちゃんだって。けどね、おばあちゃん……少し前に、亡くなってるんだ」
斜め後ろに立つシュリが、僅かに動いた気配。わたしはまだ話を続ける。
「リーゼ様達とかね、血の繋がりの絆を見てると、やっぱり時々羨ましくなるよ。けど、わたしはピアノを手に入れて、両腕がある限り、おばあちゃんから貰った宝物にいつでも会える。この世界に来るまでは、何だか気持ちの整理が付けられなかったから……いい加減、ちゃんと弔わなきゃ心配かけてしまうと思ってね」
ふわりと、夜の外気が遮られる。
気が付けば、真後ろに移動したシュリに、背後から緩く抱きしめられていた。
右腕はわたしを包み込むようにして左肩へと回され、左手はあやすように頭部へ添えられる。
何だか子ども扱いだなと思いつつ、穏やかに頭を撫でる感触が、今はじんわりと嬉しい。
「寂しかったな」
「何それ、わたしの台詞のパクリ?」
「パクってねぇよ。そもそも権利主張するほど大層なセリフかよ」
言葉と共に、頭頂部にため息を感じた。恐らく呆れ顔を浮かべているのであろうことが明確に想像できて、ささやかな笑いが零れる。
と、わたしを包む右腕に、微かな力が込められた。
「お前が、寂しいと思うなら……俺が、家族になってやろうか?」
静かに呟かれた言葉を、わたしはゆっくりと咀嚼する。
家族。
そうだな、もしシュリが家族だったら……結構、楽しいんじゃないだろうか。
兄貴肌だし、強いし、格好良いし、何だかんだ優しいし。こんな……お兄さんが居たら、絶対に周囲に自慢出来ること請け合いだろう。少しばかりスキンシップが激しいのが玉に瑕だけれど。
「シュリがお兄さんかぁ」
想像して少し楽しくなりつつそう言うと、頭頂部に、さきほどよりもでっかいため息が落ちてきた。
何だ何だ。自分で言っておいて呆れるとは何事か。
文句を付けてやろうと思ったら、シュリの右手が顎へと伸びてきて、首が直角になるのではという勢いで上向かされた。
今絶対に首がぐきって言った!
手の指の関節以外は柔らかくないのだから、取扱いには注意して貰わねば困る! むち打ちとかになったらどうしてくれるのか!
「ふおおぉ何をいた、す……?」
わたしは抵抗しようとして、思わず静止する。
視界いっぱいに、逆さまに映ったシュリの表情が。更に遠い場所で輝く星よりも綺麗なオレンジ色の瞳が、真剣そのものだったのだ。
少しだけ不機嫌そうに眇められたその目は、視線を逸らすことを許してくれそうにない。
「そういう意味で言ったんじゃねぇよ」
じゃあどういう意味で。
問うよりも早く、シュリの顔が降りてきた。
ただでさえ近かった距離が詰められ、視界の端に辛うじて映っていた夜空すら、彼に塗りつぶされる。
鋭く輝く眼光。うっすらと開かれたシュリの唇。零れた吐息が鼻先を掠め、更に下へと移動して……
……あれ、もしかしてこれ、食べられる……?
危機感を抱いたその瞬間。
空気を切り裂く音と共に、接触寸前だったシュリの顔が、がばりと素早く上へ離れた。
それとほぼ同時に聞こえてくる、カッ、という何か硬質のものが衝突する音。
あだだだ、シュリが上へ離れた時に若干肩を下に押されたので、腰にダメージが……! 首の角度も固定されたままでちょっと辛いんですけど!
とは思いつつ、そんなことを訴えている場合でもなさそうなので、衝突音の聞こえた左側へ視線を送る。水路を挟んで向かいにある木に刺さっているのは、小さなナイフだった。
危ない。誰がこんなものを……と、今度は、さきほどからシュリがじろりと見据えている右側へと視線を送る。
そこには、地を這うような低い姿勢で異様な気配を漂わせている何かが居た。
ナイフを投げたのであろう手をこちらへ向けて伸ばしたまま、その何かは俯かせていた顔をゆらりと上げる。
その瞬間、真紅の眼光がぎらりとこちらを射抜き、異様な気配が攻撃性を伴って叩き付けられてきた。
攻撃性はどうやらシュリへと向けられているが、隣に居るわたしまで背筋が粟立つ。
これは、あれだ。いわゆる……殺気……!?
「ふ、ふ、ふ。不審者はっけーん、ですわぁ」
黒くタイトな服に身を包み、長い銀の髪を纏め上げてはいるものの。怨霊の如き低ぅい声でそうのたまったのは、紛うことなきサリアさんだった。
……サリアさんだと……!!?
どこから湧いて出やがった……!!
わたしは思わず飛び上がり、シュリの背後へと光速で避難する。
「サリア、てめ……わざとか」
「当っ然、ですわ! 会場全体の警護がわたくしのお仕事ですから? 不審者を発見したら攻撃を加えることもやむなしです、わっ!」
「うおっ危ねっ! 不審者じゃねえだろ!」
「問答無用ですわ! わたくしのアコ様にべたべたといやらしく触りまくって! それが不審者以外の何者だというのです!」
睨み合いをしていた二人だったけれど、サリアさんが低い姿勢のままシュリへと突撃してきたことにより、開戦の狼煙が上げられた。
両手に短刀を握り、軽業師もかくやという身のこなしで繰り出されるサリアさんの連続攻撃を、シュリは無手でいなしたり避けたりしている。……のだろうけれど、もはや速すぎてわたしの目ではどんな立ち回りなのか追い切れません。
一瞬でシュリの背後へ移動したり、跳躍一発で五メートルくらい距離を取ったかと思えば、木よりも高く飛び上がって優雅に回転しながら連続でナイフを投げてみたり……人間ってあんなに高く跳べるのね……強いとは聞いていたけれど、もはやこれ変態だわ。それを武器も抜かずに避けきっているシュリもシュリだけれど。
と、呆然と二人の戦いを眺めていたわたしに、ゆらりとサリアさんの視線が向けられた。
その眼光にヒいている暇すらなく、シュリという盾を失ったわたしは一瞬で距離を詰められて抱擁される。
「あぁん、アコ様っ! あの不審者に何かされませんでしたかっ!? 貞操はご無事ですかっ?」
「どちらかというと現在進行形で不審者に何かされてます誰かたすけてー……」
がばりと持ち上げる形で抱き込まれたわたしは、鼻息荒いサリアさんにぐりぐりと頬ずりされながらどこか遠くへと視線を投げた。
わたしはこのまま終わるのか……と人生を諦めかけていると、意外にも、サリアさんはすぐにわたしを解放する。
「まあ、貞操がご無事でしたのならひとまず安心ですわ。それよりも、こちらを受け取っていただけますか?」
「えっ?」
「お誕生日おめでとうございます、アコ様」
サリアさんはそう言って、何処からか可愛いリボンの掛けられた長方形の包みを取り出した。
突然のことに驚きつつもわたしはそれを受け取って……一瞬で後悔する。
「今日いつお会いしても良いように、肌身離さず持ち歩いておりましたの。わたくしの人肌のぬくもりがあるうちに、ぜひ試着してみせてくださいませっ!」
興奮気味に身体をくねらせながらそう話すサリアさんから渡されたブツは、下着だった。
いや、百歩譲って普通の下着ならまだ判る。けれどもこれは酷い。レース仕様でスケスケなばかりか、隠れるべきところが隠れない。具体的に言うと胸のところも股のところも中心がぱっくりと割れている。
これを着てわたしにどうしろと言うのか!!
思わず指でつまんで出来る限り身体から離して持つと、後ろから寄ってきたシュリがそのブツを見て思わずといった風に噴いた。
「アコ様、知っていますか? 衣類を贈るのは、着せた後で脱がせたいという欲求があるからだと」
「知らんわ! こげなモン着用した時点で脱いでるようなもんじゃなかですか! 返品!! 断固として返品を申し出る!!」
「あぁん、酷いですわっ! その下着にはわたくしの欲求という欲求がこれでもかと詰め込まれていますのにぃっ」
「余計にいらんわああああぁぁあぁ!!」
「おいアコ、頼むから俺を隠れ蓑にしつつそれを振り回すのをやめてくれ」
「あら嫌ですわ、親衛隊長様ったら。貴方だってそれを着用したアコ様に興味津々でしょうに。でも駄・目。アコ様は……特に下半身はわたくしのものですからね!」
「そのような事実はひとつもないですけどね!!」
「隊長、一体どうし……何ですかこの状況……」
シュリの背後に隠れて受け取ってしまったブツを突き返そうと必死になっていると、休憩室の方からグレン青年が走ってくる。彼はわたし達の状況を見てどん引きしていた。
そりゃ引くでしょうね。サリアさん、興奮のあまり鼻血垂れてるし。
「あー、グレン。何も言わずに全速でアコを部屋まで送ってくれるか。俺が足止めしとくから」
「えぇっ? ……!!? わ、判りました……!」
逃げる算段をしたところでグレン青年にも向けられた殺気に反応して、グレン青年は臨戦態勢を取る。
次の瞬間、グレン青年はわたしを脇に抱えて全力疾走し始め、わたし達の背後では、再び隊長殿と変態の戦いが幕を開けていた。
改めて、彼女はとんでもない変態だという認識を強めつつ、わたしは心の中で隊長殿の無事を祈っておく。
それにしても。
さっき。そういう意味で言ったんじゃねぇよの後。
シュリはわたしに、一体何をしようと……
…………
……
……まさかね。そんなばかな。
「アコさん、ソレで顔を押さえるのは止めたほうがいいと思いますよ……」
辿り着いた思考に、顔にどんどん熱が集中していくのを自覚して。
手にしていた例のブツで思わず顔を隠していたら、グレン青年からツッコミを入れられた。