第8話 - アルス・ノーヴァのピアニスト 【Ⅲ】
作中に登場する曲は、相変わらず自サイトにてMIDIを展示しております。
興味がありましたら是非、ご視聴ください。
http://queen.s18.xrea.com/original/aco/co.html
「嗚呼っ、それにしても素敵だったわ! 前回この国で開催した時はむさ苦しいおじ様が多かったのだけど、今回は線が細く精悍な方がとても多くて。良いわ、素晴らしいわ! 若い殿方のあのぶつかりあう真剣な眼差しと光る汗、閃光の如き剣戟! こういった催しは参加者の見た目も大いに大切よね! しかもよ。知っているかしら? 準決勝でうちの親衛隊帳と当たったフィデール様は、親衛隊長が隊に上がる前からの因縁の仲らしいのよ! 何でも、フィデール様が一方的に親衛隊長を剣技の好敵手として是認していて、事あるごとに勝負を仕掛けてくるのだとか。これはただならぬ想像を掻き立てられるわ……! それに決勝で当たったクンツ様とも数々の因縁があるらしくて、彼は派手さに欠けるけれども外堀からこうじわじわと追い立ててくるような狡猾な雰囲気を感じさせるのよね! 嗚呼っ……もう、麗しき騎士様達の入り乱れる感情の嵐……何て、何て素敵なの……っ!? でもでも、駄目よ。親衛隊長にはもう心に決めた相手がいるの。その方は城内の行政室から親衛隊長の身を案じ、憂いに満ちた眼差しを……」
鼻息も荒く己の妄想をぶちまけているのは、当然のことながらリーゼ様である。
闘技会の上位試合。
時を同じくして観戦していたリーゼ様も、いたく感銘を受けたらしい。……色んな意味で。
ローザ様やエリアスさんの前では、妄想を爆発させるのを抑えていたようだけれど。他の人の目が無くなったとたん、これですよ。
もう、きらっきらとしたエフェクトが飛びまくっている。
まぶしすぎるぜ……
かくいうわたしも、思わず見入ってしまったのは確かなのだけれど。凄いだけではなくとても綺麗で、リーゼ様がここまで興奮する気持ちも判らないでもない。
そして、リーゼ様の妄想発言の中に色々と気に掛かる事項が含まれていたので、そちらはしっかりとメモを取らせて頂こうと思う。
隊長殿、もってもてだな……!
闘技会を観戦した後、わたし達は、馬車にてお城へと戻ってきた。
帰城後すぐに晩餐会へ参加するための支度へと取り掛かり、現在わたしはリーゼ様の衣装部屋にて、ジネットさんの助手としてリーゼ様の身支度の手伝い中という訳である。
正直言って、スーパー女中のジネットさんにわたしの手伝いなんて必要ないと思うのだけれど。
恐らくもう、リーゼ様は、馬車の中から己の妄想を吐き出したくて吐き出したくて仕方なかったのだろう。
何せ、一度自分の執務室へ戻ろうとしたわたしをとっ捕まえて、衣裳部屋へと引っ張り込みおったのだ。
ローザ様やらエリアスさんやらの前で爆発しない辺り、一応は節度を弁えているということなのだろうか。
ちなみにローザ様は、彼女の衣装部屋にて専属女中さんと一緒に身支度中である。
淡々と主を飾り立てていくジネットさんの指示に従って小道具を持ち、リーゼ様の妄想語りを背景音楽として聞きながら、わたしはちらりと窓の外を見遣った。
もう夕日の灯りが殆ど残っていない、夜色の空。
身支度を終える頃には晩餐会が始まり、そうすればいよいよ、公的な場での演奏披露となる。
緊張がぶり返してくるのを感じながらも、わたしはそれ以上に、嬉しさを感じていた。
王女様達が親しみをもって音楽を迎え入れているのを見て、聞いて、彼女達のように音楽を好きになってくれる人が増えればいいと。受け入れて貰えたことで少しだけ貪欲になった、ささやかな願いを反芻する。
そんなことをぼんやりと考えていたら、リーゼ様の身支度が完了したようだった。
新緑を思わせる上品な造りのドレスに、細やかな刺繍の施されたレースの長手袋。普段結い上げていることの多い髪はハーフアップに纏められ、ドレスに合わせた様々な飾りで彩られている。
普段と変わらないようで、けれども普段より上質なものを纏っているのだと判る、その装い。
腰掛けていた椅子から立ち上がると、さらさらと涼やかな音が聞こえてくるようで……改めて、彼女の美しさと高貴な身分を実感させられた。
「アコ、でもね、私……略奪愛も良いと思うの!」
麗しい唇から紡がれる御言葉が、こんなんでさえ無ければな。
そんな風に思うも、今更なので口には出さない。むしろ、それでこそリーゼ様なのである。
「それはそれでオイシイですな」
わたしはとてもイイ顔でそうとだけ言って、グッと親指を立てておいた。実際それも本音である。
「略奪愛も結構ですが、リーゼ様。ロザーリエ様が既に私室へお見えになっているようですよ」
「まあっ、では、あまりひとりで待たせる訳にもいかないわね。一度部屋へ戻りましょう」
ジネットさんに促されたわたし達は、リーゼ様の衣裳部屋を後にした。
続き部屋になっている寝室を抜け私室へと戻る。
と、窓際近くの卓子へと向かい腰を降ろしていたローザ様が、こちらを見てぱっと表情を輝かせ、椅子から立ち上がって小走りで駆け寄ってきた。
「おねえさま! アコ先生!」
そう言ってわたし達の前で止まったローザ様を彩るのは、薄桃色のドレスである。ふんわりと広がるプリンセスラインが、彼女の愛らしさによく似合う。肩までの金糸の髪は普段通り下ろされているけれど、ドレスとお揃いの色の、大きな花のコサージュが飾られていた。
そんな姿で嬉しそうにこちらを見上げてくるご様子が、もう可愛らしくて仕方が無い。
「ローザ様、お可愛らしいです!」
「そうかしら? ありがとう、アコ先生」
思わずへらっと締まりのない笑顔を浮かべてそう言うと、ローザ様ははにかみながら、両手でドレスの裾をつまんですっと腰を落とす一礼をしてくる。
もうどうしよう。辛抱たまらん。なでなでしたいです……!
そんな衝動を抑えるのに必死になっていると。
ぽん、と、リーゼ様に肩を叩かれた。
「さあ、では、次はアコが準備をしていらっしゃい」
ほわっと?
わたしは思わず首を傾げる。
すると、リーゼ様がわたしから離れるのと入れ替わりで、無表情のジネットさんと、穏やかな笑顔のローザ様の専属女中さんが近付いてきた。
そういえば、以前、ジネットさんが合同演習のドレスがどうのこうのと言っていた気がするけれど……
…………
……ま、まさか、わたしもドレスを着るというのか!?
嫌な予感に行き着いて、わたしはそっとジネットさんへ目配せしてみる。
わたしの視線に気付いた彼女は、滅多にお目に掛かれない素敵な微笑を浮かべた。
それは嫌な予感を肯定ということでよろしいですかな……!?
そんなドレスなんて着なくても、ピアノの先生的な質素な服で良いじゃない! 先生なんだからさ!
心の中でそんな抵抗の言葉を並べつつ逃げ腰になっていると、ジネットさんとローザ様の女中さんに挟まれ、がっちりと両腕を取られる。
「ジネット。ジェルトルーデ。宜しく頼むわよ」
「はい」
「承知致しました」
「あっ、アコ先生! 頑張ってください!」
「……! ……!?」
急に降って湧いた気がする話に動揺するわたしを差し置いて、事は勝手に運んでいく。
かくしてわたしは、ドナドナよろしく市場……もといリーゼ様の衣裳部屋へ、女中おふたりの手によって強制連行された。
「…………えー……」
姿見用の大きな鏡の前に立って、わたしは呻いた。
鏡に映ったわたしの背後には、相変わらず穏やかな笑顔のローザ様付き女中……ジェルトルーデさんと、やり遂げたオーラを放つジネットさんが映り込んでいる。
リーゼ様の衣裳部屋へと連行されたわたしは、抵抗する隙など与えて貰えないまま、王族付き女中ふたりの見事な手腕で街娘の服をひん剥かれて磨かれて飾り立てられた。
これまでの人生の中でも五指には入る恐怖体験であった……(第一位がサリアさんの応接室へ連れ込まれた事件であるのは、言うまでもなかろう)
そして。そうして出来上がった姿を見て、わたしは何と申し上げたら良いか判らずに顔を引きつらせているところ、という訳である。
普段はまごうことなきスッピンで過ごしている顔には化粧が施され、器用に編み込まれアップにされた髪も相まって、はっきり言って「誰?」という状況。
メガネというトレードマークが無ければ恐らくわたしだと判らないレベルだ。
化粧自体は全く濃くは無くて、むしろ流石はプロのお仕事と賛辞を送りたい出来栄えだけれど、普段しない人間にとっては違和感抜群である。
まあ、髪に使用されているカチューシャ型の髪飾りは、とても可愛い。うん。
そして衣裳はというと、恐らくジネットさんがこの日の為に誂えたのであろうドレスへと着替えさせられた。
綺麗で柔らかいフリルが何層にも重ねられた薄紫色のドレスは、前面は膝上丈のショート、背面は床すれすれのロング。ハイウエストのベアショルダータイプで、足長効果は期待出来そうだけれど、胸が強調されている気がする。
ちなみにウエストに巻かれている帯の色は桃色で、金色の留め具には細やかな装飾が施されていた。
足は繊細な模様が編まれた白の網タイツ、靴はアンクルストラップタイプのハイヒールで、光沢のあるベージュとでも言うのだろうか。ヒール高がそこそこあるにも関わらず、歩きにくくないというのは幸いだけれど。けれど……
……何と言うか、衣装に着られている感が満載なのは気のせいだろうか。
ジネットさんはいつの間に覚えたのかとてもイイ顔でグッと親指を立て、ジェルトルーデさんも「とても良くお似合いですよ」と言ってくれるけれど。着られている本人としては居たたまれないというか、心許ないというか。
「えっと、ジネットさ」
「駄目ですよ。私を殺す気ですか?」
「!? ま、まだ何も言ってな」
「お気に召さないと言うのでしたら、サリアがデザインしたものを着ていただくことになりますが」
「はっはっはっいやいやそんなばかな。相変わらずジネットさんは良い仕事をしますね! 凄く気に入っちゃったな! はっはー!」
一応は抵抗を試みるも、いつの間にか無表情に戻ったジネットさんに恐ろしい脅しを掛けられたので、お着替えは諦めざるを得なかった。
わたしはがっくりと肩を落とし、うな垂れる。
この姿で人前に出るのは非常に気が進まないのだけれど……
女中おふたりにリーゼ様の私室へと戻るよう促されたので、わたしは渋々と足を進めた。
先を歩くジェルトルーデさんが私室へと続く扉をノックすると、入室を促すリーゼ様の声が聞こえてくる。
背後からびしばしと感じるジネットさんの圧力により入室を余儀なくされたわたしは、卓子を囲んでティータイム中だった王女姉妹と……銀色のティーポットを持ち、傍らでおふたりへの給仕中だったらしいエリアスさんの前に、姿を晒した。
三人の視線が、一斉にこちらへと向けられる。
姉妹おふたりが軽く目を瞠ったままわたしを凝視し、ぱちぱちと全く同じタイミングで瞬きをした。
思わず身構えると、次の瞬間には、リーゼ様が満面の笑みを浮かべて椅子から立ち上がり、こちらへと足早に歩み寄ってくる。ローザ様もすぐその後へと続いた。
「まぁ、まあ! アコ、素敵だわ! 流石はジネットの見立てね!」
「アコ先生、とっても綺麗です! ふだんからお召しになればよいのに!」
「あはは……ど、どうもありがとうございます……」
普段着にとかちょっと勘弁してください。
おふたりに間近で手を取られて賞賛され、どう反応したら良いものか判らずに、曖昧な笑いを浮かべながらそんなことを考える。
取り囲まれて外見を褒められるとか人生初なので、どうにも居たたまれない……!
局部的に、元の世界の友人達から胸についての賛辞を寄せられたことならあるけれど。あの時も何人かに囲まれて、ちっちゃい癖にでっかいとか言われて揉まれたり頭を撫でられたりして、大変な目に遭った。
あぁ、よくよく考えたらあれは賛辞とかでは無いな。
禁じられた単語を連発しおって。きっと、喧嘩を売られていたに違いない。
と、わたしが過去へと怒りを馳せている間に賞賛の内容がドレスの生地やら細工の造りやらにまで発展していたリーゼ様が、ふとある一点に視線を移した。
そこはわたしの胸……ではなく、どうやら首元のようである。
「あら……ねぇ、ジネット。首元にも何か飾りがあった方が素敵じゃないかしら?」
そういえば、と。リーゼ様に指摘されて、わたしも初めて気付く。
首から肩にかけてむき出しの肌は、何も飾られずにそのままの状態になっているのだ。
個人的には無くても構わない気がするけれど、言われてみれば、確かにネックレスなり何かあった方が良いのかも知れない。
「ああ、それでしたら」
心配無用とばかりにジネットさんがそう言って、ジェルトルーデさんも意味あり気な笑みを浮かべた。
女中おふたりが視線を向ける先は、王女様方の背後。
そこに立つのは、相変わらず牧師風の黒い衣を纏い、天上人の如き神々しい笑みを湛えた、エリアスさんだ。
王女様方が首を傾げながらも道を開けると、わたしは、ジネットさんに背中を押されて彼の前へと進まされる。
いつもと同じのような、どことなく違うような。
そんな視線に緊張を高めていると、すうっと。彼は、こちらへと片手を伸ばしてきた。
「うん、よく似合っているよ」
言葉と共に、エリアスさんはふわりと微笑む。あまりの神々しさに、思わず居たたまれなさを忘れて凝視してしまうほどだった。
その隙を突くかのように、彼の綺麗な手が、わたしの首元へと伸びてくる。
思いのほかひやりと冷たい感触に、わたしは正気を取り戻して首をすくめた。
「ひゃっ!?」
「少し後ろを向いて。悪いことにはならないから」
手は首に軽く触れただけで、それ以上動こうとはしない。
それでもこの人には色々な前科がある訳で……
熟考のうえ警戒心むき出しで見上げると、早くするよう笑顔で圧力を掛けられた。
わたしは渋々回れ右をする。
そうすることで視界に入ったお姫様や女中様方もにこやかな表情であるし、多分大丈夫……なんて考えていたら、しゃらりと澄んだ音が聞こえ、今度は彼の手ではない何かが首元に触れた。
視線を下げると、先ほどまでは何も無かった首元が、銀色に輝くもので彩られている。これは……
背後で微かに聞こえていた衣擦れの音が止むと、ジネットさんが銀盆程度の大きさの鏡をどこかから取り出して、わたしの前へと進み出た。
鏡は、確認したかった自分の首元を、ちょうど良い具合に映してくれる。
細い鎖に、花を模った幾つかの飾り。
花の部分に使われているのは、宝石だろうか。ミルクに薄桃色を溶かしたかのような色は、今身に着けているドレスにもよく合っている。
派手では無い装飾で、可愛くて、わたし好みな……
ともかく、何かが足りない気がしていたわたしの首元には、綺麗なネックレスが飾られていた。
最後の仕上げ的な部分を、わざわざエリアスさんが担当してくれたということだろうか。女中の姉さん達が最後まで仕上げてくれても良かっただろうに……
なんて、混乱する頭でとりとめの無いことを考えていると、鏡を下げたジネットさんが元の位置まで身を引いた。
ついでに言うと、さきほどまで目を輝かせてわたしの首元を見ていたローザ様の目が、背後に立つジェルトルーデさんの手により覆われている。
なぜ、と怪訝に思った瞬間、耳元に熱を感じた。
「誕生日、なんだろう? これは、おれから。ね」
「ほわっつ!? へっ……!?」
耳へ直接吹き込むかのように言うものだから、その感覚に翻弄されて、エリアスさんの言葉を瞬時に理解出来なかったのだけれど。
追いついてきた思考で答えを弾き出せば、要するに。
「エリアスさんが、わたしに……?」
「そう。おめでとう、アコ」
誕生日プレゼント。
そう理解した瞬間、わたしは思わず目を剥いて振り返った。
見上げれば、とても穏やかに微笑むエリアスさんの顔がそこにある。
「これっ、高かったんじゃ!?」
「こういうのは気持ちだから。気にしなくて良いよ」
「でも! お世話になりっぱなしなのに、こんなものまで頂いてしまっては……!」
「アコ。嬉しくなかった?」
「そんなばかな! 嬉しいですけど、でも……」
こんなに可愛いものを貰って、嬉しくない筈も無い。
けれど、小市民としては、どうしても申し訳なさの方が勝ってしまうとでも言うか。ともかく複雑な心境なのだ。
そんな思考が表情に出てしまっていたのか、エリアスさんが苦笑を浮かべ……直後、にっこりと殊更神々しい微笑みを浮かべた。先ほどまでの微笑みとは、明らかに違う類のものである。
嫌な予感が全身を駆け抜けたので、わたしは女子の皆様がいる方へ逃げようとしたのだけれど。いつの間にやらエリアスさんに両肩を手で掴まれていて、逃げることが出来なかった。
「過払いだと思うのなら、アコが心苦しく思わないためにも、過払い分は返して貰おうかな」
「い、意味が判りかねますが……!?」
振り返った状態のまま抗議するも、エリアスさんの右手が頭頂部へと伸びてきて、わたしはくるりと前を向かされる。
女子の皆様に助けを求めたかったけれど、誰も目を合わせてはくれなかった。
この薄情者共め! と、心の中で叫んだ次の瞬間。
ちりり、と。
左の首筋に、熱と微かな痛みが奔った。
「っ!!」
わたしは身体を捩ってその熱から逃れようとするけれど、頭頂部にあった筈のエリアスさんの右手がいつの間にか背後からわたしの顎を掴んでいて、逃げることが出来ない。
まっ、ま、ま、まさかとは思うけど、これってもしや……!?
混乱しているうちに痛みが止まり、かと思えば、首筋を滑りながら熱だけが移動する。移動した熱は先ほどの場所から少しだけ左側で止まり、ぬるりとしたもので撫ぜられたかと思うと、再び先ほどと同じ熱と痛みがその場所に奔った。
抵抗出来るほどの力が入らなくなってしまい、わたしはかたく目を閉じて声を噛み殺しながら、感覚が去るのを待つ。
やがて微かな痛みが治まり、熱源は、わたしの首筋を辿りながら耳元へと戻ってきた。
「……どう? まだ心苦しい?」
全身に震えが走る。
これは、あれだ。
……怒りという名の震えだ。
「……っ、こっ、心苦しい訳あるかあああぁぁ! この変態がああああああぁぁぁぁ!!」
-*-*-*-*-*-*-
これから本番だというのにこげなモン付けおって、どうしてくれるというのか!!
と、わたしはエリアスさんの胸倉を掴み上げて(言うまでもなく身長差のせいで上がらないけどな!)ガタガタと揺すり、全力で抗議した。
というのに返ってきたのは飄々とした笑みと、別にゲストからは見えないだろうし気にすんな的な適当な返しのみ。
確かにピアノに座ればゲストの方々からは見えない左側だけれど、そんな問題ではない。
まさかがっつり肩むき出しの衣裳なのに、きっ、き、キスマークを付けてきやがるとは……!
しかもかなりくっきりとしたやつを! 2ヵ所も!!
鏡で確認して、顔から火の玉出るかと思ったわ!!
助けてくれなかった責任として、ジネットさんに化粧道具を駆使して何とか隠しては貰ったけれど。だがしかし!
……あの無責任変態魔術師め……もう絶対に謝意なぞ感じてやるものか。
過払い分を返すどころか、超過して返戻しすぎだ。
思いがけないプレゼントに感動していた気持ちが帳消しである。
そもそも普段からしてセクハラを受けているのだから、気にすることも無かった。何だか悔しい。
常日頃から変態だ変態だと思っていたけれど、まさかここまで変態だったとは。奴の本領を見誤っていたぜ……
「あ、アコ先生……」
歯ぎしりをしながらぶり返す怒りと羞恥心に呑み込まれかけていたわたしだけれど、ドレスの裾を引っ張られる感触と可愛らしいお声によって、正気を取り戻した。
声のした方を見下ろせば、胸元に両手を添えたローザ様が、不安げな表情で上目使いにこちらを見ている。
何てお可愛らしいのでしょうか……!
「アコ先生、どうしましょう。わたし、きんちょうしてきてしまったわ」
「だ、だ、大丈夫よ、ローザ。あんなに練習したのだもの」
そんな事を言いつつ、ローザ様を励まそうとその背を撫でるリーゼ様も、柄にもなく随分と緊張しているご様子だった。
考えてみれば、緊張するのも当然か。
何せ、建国以前に失われた筈の技術を、様々な国の重鎮の前で披露するのだから。
わたしは、ちらりとステージを見遣る。
そこではピアノを背にした女王様が、ステージの前に居られるのであろう各国の重鎮達へ向けて、これから行われることへの説明をしてくださっていた。
準備を終えたわたし達は、現在は晩餐会の会場……ピアノが設置されているステージの、舞台袖で待機している。
光を浴びるステージを挟んで反対側の舞台袖にはエリアスさんが待機し、スピーチを行う女王様の傍らには、ジークさんが控えていた。親衛隊の方々も、広い会場の何処かには居るのだろう。
女王様のスピーチが終われば、ついに、演奏が始まる。
わたしは緊張するローザ様の手を取って、胸を張ってみせた。
「では、ローザ様。アコ先生が、緊張がほぐれるおまじないを教えて差し上げましょう」
「まあっ、おまじない、ですか?」
「はい。まず、左の手のひらを上にします」
「こうかしら?」
「はい。そうしたら、右手の指先で、左の手のひらに好きなものを3回書いてください」
本当は“人”という字を書くのだけれど。
わたしがおばあちゃんから教わったのは、好きなものを3回書いて飲み込む、というものだった。実際わたしもこの方法で色々と乗り越えてきたので、王女様達にも、わたしの信じる方法を教える。
ローザ様は、きゅっと眉根を寄せて悩んだ末に“ケーキ”と書いていた。本当にお可愛らしいことこの上ないな!
一方リーゼ様は……“文官×騎士”とか書いているような気がするけれど、きっと気のせいであろう。
それはそれとして、ようやく受け攻めの好みがわたしと共通に……っと、いけないわアコ。今はそんなことをしみじみと考えている場合じゃないでしょうに。
「書きましたね? そうしたら、書いた文字を飲み込みます」
おまじないを完成させるため、わたしは自分の左手を口許へと運んで、手のひらの上の空気を飲み込む仕草をした。
王女様おふたりも、わたしを真似て左手の上のものを飲み込む。
そうして胸元に手を添えて、ふたり同時に不思議そうに首を傾げた。
わたしはクスリと笑い、そっとふたりの手を取る。
「おふたりとも、ピアノは好きですか?」
「はいっ!」
「ええ。美しくて、楽しくて……とても好きだわ」
即答してくれたことに嬉しくなって、わたしは目いっぱい微笑んだ。
「そのお気持ちがあれば、大丈夫です。楽しんできましょう!」
そうして、スピーチを終えたのであろう女王様が立つその場所へと、ローザ様を送り出す。
可愛らしく気合を入れたローザ様は、女王様の隣まで堂々たる足取りで歩み寄ると、観衆へ向けて一礼した。
会場から、拍手が起こる。舞台袖から会場は殆ど見えないのだけれど、その音の多さから、かなりの人数がいらっしゃっていることだけは判った。
女王様が手ずから椅子を引き、ローザ様を座らせる。
穏やかな表情でローザ様へ微笑みかけ、こちらを一瞥してから、女王様はステージ脇の階段を使って会場へと降りていった。
低頭して女王様を見送っていたジークさんが頭を上げ、ローザ様の左側へ付く。暗譜と言うにはまだ不安の残るローザ様とリーゼ様の、楽譜を捲る役を買って出てくれたのだ。
ジークさんが譜面台に楽譜を設置して準備が整うと、ゆっくりと、ローザ様は鍵盤に手を添える。
娘が初めて発表会に臨む母親の気持ちで見守っていると、静まり返った会場に、可愛らしい旋律が響き始めた。
懐かしくて、思わず歌詞を口ずさんでしまいたくなるフレーズ。
ローザ様が奏でるのは『きらきら星変奏曲』である。
以前、指慣らしにとモーツァルトのきらきら星変奏曲を弾いている時に、ローザ様がそれを聞いていたく気に入ってくださっていたゆえの選曲だ。
勿論、ローザ様はまだモーツァルトのものを弾くことは出来ないので、僭越ながらわたしが短く簡単に編曲したものである。
少したどたどしさが残るながらも、ローザ様は、代わる代わる登場する変奏をよく弾きこなしていた。
わたしも、リーゼ様も、思わず笑みが綻ぶ。
2分ほどの演奏が終わり、ジークさんに手伝われ椅子から降りたローザ様が一礼すると……会場からは、再び拍手が起こった。
少し躊躇いがちなものが含まれるながらも、拒絶の雰囲気は伝わってこない。
その証が、ジークさんにエスコートされてこちらへ戻ってくる、ローザ様の満面の笑顔だった。
「アコ先生っ!」
会場から見えなくなる位置まで来たローザ様が、ジークさんの手を放して走り寄ってくる。
わたし目掛けて飛び込んできたローザ様を、わたしは笑顔で受け止めた。
「わたし、上手に出来ていたかしら!」
「ええ、勿論! こんなに上達が早い生徒を持てて、わたしも鼻が高いですよ」
「本当。私も負けていられないわね」
わたしに抱きつきながらリーゼ様に頭を撫でられ、ローザ様は誇らしげに笑う。
そうしてから、彼女は頭を撫でる姉を見上げた。
「お姉さまも、がんばってくださいね!」
リーゼ様は笑顔で応え、そろそろステージへと促すジークさんの手を取る。
途中、彼女は立ち止まって振り返り、こちらへ向けてぐっと親指を立てた。
わたしはそれに同じジェスチャーで応えて、笑顔で彼女を送り出す。
ローザ様の時と同じように一礼し、拍手が収まってから、リーゼ様は鍵盤に触れた。
“お前ほどに愛しく、愛らしく、そして優しい。こんな木陰は、今までになかった”
そんな風に和訳される歌詞の曲題は、『オンブラ・マイ・フ』。
ヘンデルのオペラ『セルセ』第1幕に登場するアリアだ。
オペラ自体は今日ではあまり上演されることは無くなってしまっていたけれど、この曲だけは、独立した小品として愛奏される。
木陰への愛を歌った、伸びやかで明るい旋律。
リーゼ様が奏でるのはピアノ用に編曲されたものだけれど、彼女は、この曲の美しさをよく表現していた。
美しいソプラノの歌声が、脳裏に響いてくるよう。
短期間での目覚ましい上達ぶりは、彼女が音楽を愛してくれている証拠で。
そのことが、何よりも嬉しい。
演奏は3分ほど。
一礼し、ローザ様の時よりも迷いの無くなった拍手達を送られたリーゼ様が、舞台袖へと戻ってくる。
半ば放心したかのような表情を浮かべる彼女は、戻るなり、きつくわたしを抱きしめた。
「アコ。私……何だか嬉しいわ。不覚にも、涙が出そうなの」
「それはこちらの台詞です」
ローザ様をも巻き込んで、僅かに声が震えるリーゼ様を、わたしは抱きしめ返す。
そうして会場に再び静けさが戻る頃……ジークさんが、わたしへ向けて手を差し出してきた。
「さあ、アコさん」
「……はい」
遂に、とでも言うべきか。
次はわたしの番。
教え子ふたりがこんなにも応えてくれたのに、わたしが頑張らない訳にもいくまい。
わたしはおふたりからそっと離れると、穏やかに微笑むジークさんの手を取った。
ふたりに見送られて、しっかりとした足取りでステージまで歩く。会場ホールを正面に据えて、真っすぐに視線を向ける。
何も設置されていない時よりも広く感じられる会場の、数えきれないほどの視線が一斉に向けられた。中には好奇の目や、訝しむような目も見受けられる。けれど、恐怖心や緊張は殆ど無かった。
王女様達がそうしたように、わたしはジークさんに片手を取られた状態で一礼してみせる。
きっと彼女達のように、優雅な礼が出来ていたことだろう。
拍手を受けながら、わたしはジークさんが引いてくれた椅子へと腰を降ろし……ピアノだけと向かい合った。
「アコさん。あちらで、応援しています」
去り際に、ジークさんが耳打ちしてくる。
わたしは楽譜を必要としないので、彼は王女様達と共に舞台袖で鑑賞してくれることになっているのだ。
すぐさま舞台袖へと引き返していくジークさんに、わたしは、しっかりと鍵盤に指を添えることで応えた。
静まり返る会場内へ響く、グラーヴェの序奏。
3楽章で構成される、ベートーヴェン初期の、ピアノソナタの傑作。
ピアノソナタ第8番『悲愴』
第1楽章は、2つの動機が曲全体に用いられる、力強く荘重なソナタ。
第2楽章は、元の世界ではあまりにも有名な、美しくももの悲しい旋律の小ロンド。
そして第3楽章は、これまでの楽章から主題の引用があり、中間部分には巧みなフーガも挿入される、最終楽章に相応しいロンドソナタ。
標題をあまり自ら付けることの無かったという作曲者が、自らその名で呼ぶことを許した、というエピソードは有名である。
この曲には、作曲者が音楽家としては致命的な難聴を患ったことによる深い悲しみが。それ以上に、個人だけではなく人間全ての、生きることによる悲しみが表現されていて。
だからこそ、決して悲しみだけでは無いのだと。そんな風に、わたしは思わせられるのだ。
この世界の音楽は、理不尽で悲しい出来事により淘汰された。
けれど、音楽は淘汰すべき恐ろしいものなんかでは……ましてや悲しいものなんかでは、決して無いはず。
無理強いをするつもりはない。
けれど、どうか。
美しくて、楽しくて、愛すべきものなんだということに、ひとりでも多く気付いて欲しい。
わたしなりにそんな意図も込めて、最後の1音まで、ピアノと向かい合った。
およそ20分という、わたしに与えられた時間が終わる。
晩餐会という、賑やかな雰囲気を想像させる会場内は、不自然なまでに静まり返っていた。
そんな中でわたしへと近付いてきた靴音は、ジークさんのものだろう。再びわたしをエスコートするために、舞台袖から出てきてくれたのだ。彼に手を取られて、わたしは再び会場の人々と向かい合う。
殆どの者が一様に放心したかのような状態の会場に、上品な、けれども確かな拍手の音が響いた。
会場の前方中央で演奏を聴いてくれていた、女王様だ。
その音で我に返ったかのような会場内は、やがて、まばらな……そして最後には、喝采と言うべき拍手の音に包まれる。
会場内に、厭わしげな表情を向ける者は、誰ひとりとして居ない。
わたしはジークさんに、満面の笑顔を向けた。
彼は少しだけ目を見開いて、同じように笑みを返してくれる。
そうしているうちに舞台袖から出てきたリーゼ様とローザ様と、一列に並んで。にんまりとした顔を見合わせて。わたし達は、3人揃って優雅に一礼した。
ほらね。やっぱり大丈夫だったよ。
きっと多くの人が、音楽を好きになってくれる。
そんな風に、心の中で呟きながら。