第8話 - アルス・ノーヴァのピアニスト 【Ⅰ】
知識提供の為の資料作りや、王女様方へのピアノの指導など。
そんな目まぐるしい日々を過ごす中、あっという間に二ヶ月という時間は過ぎ。その日はやって来た。
地鼠の月、十日。
自分の世界風に言うと、一月十日。
今日は国を挙げての一大イベント、合同演習の初日である。
年中秋晴れのような暖かい気候のアルス・ノーヴァは、天候も崩れることなく、本日も晴天だ。
三日間の日程で行われるこの催しには、世界五大国の騎士達を中心に、様々な国の人々が訪れる。
訪れる理由も、参加の為、見物の為、商売の為と様々だ。
アルス・ノーヴァの城下街や近隣の町村は、ここ数週間で人口密度が急激に上昇している。そのため、各国の重鎮は王城内や管轄施設へと宿泊して頂くにせよ、各国数百人単位でいらっしゃる騎士達の分まで城内や城下へ宿泊施設を確保することは出来ず。周辺に、野営の準備をして滞在して頂く程だった。
今回はアルス・ノーヴァが開催国だけれど、これが参加国となった場合は、立場が逆転するらしい。要するに毎度のことなので、野営の準備も各国の騎士達の手により手早く行われていた。
会場は、王城の敷地と隣接するかのようにして造られた、円形闘技場である。
王城の見張り台から、あの壁何なんだろうなーなんて思いながらいつも眺めていたんだけれど。それが闘技場だと知ったのは、つい数日前のこと。これがまた巨大で、およそ五万人ほどの観衆を収容できるのだそうだ。建物の造りも、うろ覚えだけれどローマのコロセウムによく似ている。
合同演習の為に建てたものなのかと思いきやそうではなく、闘技場に関しては、アルス・ノーヴァ建国前……恐王の時代からの遺物なのだとか。どうりで年季を感じる訳だ。現在ではこうして、祭事の会場として何かと利用しているらしい。
魔術師狩りのついでに音楽家を絶滅させてくれた血気盛んな恐王サマなら、闘技場とか真っ先に建てそうだなぁ、なんてぼんやりと考える。きっと丸腰の奴隷と獣を放って戦わせたりとかしていたに違いない。もの凄く個人勝手なイメージだけれども。
それはさておき。
会場である闘技場へは、城下から臨時で乗り合い馬車が運行している。乗り場も各所に設置してあるらしい。距離的には城下から乗り合い馬車で十分、徒歩で三十分といったところか。そのため、馬車を利用せず徒歩で移動する人も多い。
あと一時間……こちら風に言うと半刻ほどでイベント開始時刻となる円形闘技場内は、人という人がひしめき合っていた。
何せ、四階建ての観衆座席がほぼ満席なうえに、立ち見しようというつわものまで居るのだ。どこから沸いて出たんだ……というほどの人口密度。会場の熱気もむんむんである。
ちなみに観衆座席は外周付近にしか屋根が無いけれど、二階の一角、一般座席と壁で区切られている貴賓席の部分には、屋根があるようだ。貴賓席には各国や自国の重鎮の方々が、ちらほらと集まり始めている。わたしも、見物するなら貴賓席で一緒にどうかとリーゼ様達に誘われていたけれど、堅苦しそうなので丁重にお断りしておいた。
お偉方と何時間も席を同じくするだなんて、きっと庶民体質のわたしには耐えられないに違いない。
ちなみに、王女様おふたりの演奏については認可され、練習も何とか間に合った。
二日目の夜。晩餐会の席にて、リーゼ様とローザ様も、わたしと一緒にピアノの演奏を披露する予定になっている。
おふたりとも……特にローザ様はわたし以上に緊張しているご様子で、何とも微笑ましかった。
晩餐会の会場は、王城内の一階中央にある舞台付きの巨大なホール。一度下見をしてきたけれど、よくある学校の体育館のような造りのその場所は、演奏会におあつらえ向きのようだった。勿論、内装はとても豪華絢爛で、体育館の比ではないんだけれど。何せ床は磨きぬかれたよく判らない艶めく石の素材で、壁や柱にも綺麗な彫刻や金銀の繊細な飾り・模様などが散りばめられ、照明は魔石を使って煌々と輝く巨大なシャンデリア型。天井にも西洋のお城写真などでよく見るような絵画や模様がさり気なく……って、実際王城なんだけれども。
ちなみに舞台も、よく知る体育館のそれよりは随分と広いようだった。文化センターなどの大きなホールのものと同じくらいだろうか。五十人編成程度のオーケストラくらいなら余裕で配置出来そうだった。
音楽が失われたのにどうしてそのような舞台があるんだろう、なんて思ったけれど。王族関係者の食事会の際に貴賓席として使われたり、演劇などはあるので時々劇団の公演のためホールの貸し出しを行ったりなど、ぼちぼち利用はされているらしい。
余談ではあるけれど、そうした公演の時に限り、一般人の入城が簡素な手続きで許可されるようになるのだとか。通常は城内勤務の者以外は、入城に許可証が必要だったりなど色々と面倒な手順が必要となる。城内勤務の者が外出をする際も、簡単な申請が必要になってくるのだけれど。
わたしが初めて王城へ入った時は、シュリが同伴していたので特別に通れたということらしい。面倒な手続き云々は、後でジークさんが処理してくれていたのだとか……益々頭が上がらなくなること請け合いなお話である。
ともかく、だ。
ピアノは今日中に、その会場の舞台へと運ばれる手はずになっている。
再びむさい騎士の筋肉に晒されながら運搬されるピアノ……汗の臭いやら何やらが染み込まなければ良いんだけれど。運んで貰う手前、何も言えない。
さてそんな訳で、ピアノの運搬が完了するまでお仕事は全面的にお休みを言い渡されたわたしが、一体何をしているのかと言うと。
「ほとばしる肉汁! 会場の熱気を盛り上げるのに最適だよ! おいしいよ!!」
「あ、アコ先輩ぃ~、もう少し大人しくしていた方が良いんじゃないでしょうかぁ~」
「うっさいわ! 皆の衆が熱気むんむんだと言うのに一人だけ大人しくなどしていられよう筈もなかろうが!」
「でも護衛の方々が困っていらっしゃいますよぅ~」
イベント開始前の闘技場の一角で、お肉の串焼きの売り子をしていた。
おろおろとわたしにまとわり付くモニカを軽くスルーし、おいしいお肉に目を付けてくれたお客様へと串焼きを渡し、代金を受け取る。
お城の女中さんの殆どは各国の騎士達の周辺に配置されていると聞いていたけれど、どうしてそのひとりであるモニカが、一階の控室ではなく最上階のこんな場所に居るのか。彼女の口ぶりから察するに、わたしの護衛担当の騎士から説得してくれとでも頼まれたのかも知れない。
だがそんなもん無駄なあがきだ!
数時間前、わたしは騎士棟の女中の人達や数名の騎士と一緒に、乗り合い馬車で会場へと到着した。
本当はリーゼ様達と一緒に移動だとか、わたし用に馬車を用意してくれるだとか、ジークさんがそんな事を言っていたんだけれど。仰々しいのはご遠慮願いたいし、リーゼ様達と一緒に見物するのを断った手前、他の人達に合わせて一緒に移動できないかとお願いしたのだ。
自覚が足りないだとか何だとか色々と言われたけれど、説得の末、護衛の騎士を同行させることを条件に、女中さん達と一緒に移動させて貰えることになった。
オープニングセレモニーに参加するのは、親衛隊や隊長格を含め、二百名程度の精鋭騎士達。セレモニー担当ではない騎士さんは、王城内・城下・会場などの警備として配置される。普段の外出の際は親衛隊の誰か……主にシュリかグレン青年が担当してくれていたんだけれど、生憎、親衛隊はセレモニーの準備に掛かりきり。本日のわたしの護衛は、会場警備担当の中から選抜して頂いたらしい。
イベント見物するだけで精鋭騎士二名も付けられるとは……大袈裟だ、なんて、もうこれ以上説教を喰らうのも嫌なので口には出せませんがね。
まあそんな経緯で会場へと移動したわたしは、イベント開始時間まで正直言って暇なので、各国の騎士達の控室を担当するという女中さん達のお手伝いをするつもりだったのだ。そのために、久しく袖を通していなかった女中の制服を装備してきた。
だというのに、いざやろうとしたら護衛の人達に止められ……
幾ら理想と現実の違いの洗礼(主に毛など)に耐え抜いた精鋭女中が各所に配置されているとはいえ、絶対に人手があった方が良いに決まっているのに。
そう思って護衛騎士さん達を説得しようと試みていたら、逆にわたしがメルさんに説得されてしまい、渋々行動を会場見学に切り替えることになったのだ。
コロセウムなんて写真くらいでしか見たことがなくて、実際に似たような……しかも完全な状態を保っている建物の中を歩くなんて、勿論初めてである。なので、しばらくは各所に感動を覚えながら見学することが出来ていたんだけれど。特に芸術的な装飾がある訳でもなく、どちらかというと無骨で簡素な造りが続く建物内をしばらく歩けば、はっきり言って飽きてくる。
そうすると目が行くのは別のところ。
人が入り始め、熱気が気配を見せ始めた会場内。その人々が、ちらほらとその手に屋台フード的な食べ物を所持していることに気が付いてしまった。
会場内全域は、マナーさえ守れば飲食可能となっている。そのため、城下で飲食系の店舗や屋台を経営している人達にとって、こうしたイベント事は書き入れ時らしい。会場内最上階の外周スペースに、縁日の出店の如く、食べ物系の屋台が所狭しと並べられていたのだ。屋台フード好きなわたしにとっては、たまらない光景が目の前にというやつである。
そうして、うきうきと屋台を冷やかしながら買い食いを楽しもうとしていたところ、屋台スペースは取れたものの人手が足りず悪戦苦闘する顔見知りを発見してしまい、手伝いを申し出て……現在に至るという訳だ。
勿論、護衛騎士さん達は止めに入ってきた。
けれど、ことはおいしいお肉を求める人々に淀みなくおいしいお肉を提供できるかどうかの瀬戸際。お肉とお客様の胃袋の一大事なのだ。わたしが売り子を手伝うことで店主はお肉を焼くことに専念できる。需要と供給と食欲と欲求不満(労働的な意味で)が上手く回るのだ。
それに、何も危険なことをする訳でもなし。何ものも、わたしを止めることなど出来はしない。
「まあそんな訳だから、わたしを説得するだけ無駄なのだよモニカ君。そこでおろおろしてるくらいなら、手伝いたまえ」
「あうぅ……」
びしりと芳醇な香りを放つお肉が刺さった串を突きつけてやると、モニカはきょろきょろと護衛とわたしへ何度か視線を巡らせ、やがてがっくりとうな垂れる。どうやら説得を諦めたらしかった。
「お兄さん、若い労働力もういっちょ確保しました!」
「おう、済まんな、アコちゃん! しっかし、お城の女中さんなのに控室に戻らなくて良いのかい」
「抜け出せているということは、大丈夫と同義かと!」
「それなら良いんだけどな。じゃあそっちのお嬢ちゃんはこっちへ来て、後ろの箱を開封して貰えるかい」
「うっう……先輩、どうなっても知りませんからね……!」
モニカは半泣きになりながらも、屋台内でお肉を焼く店主の指示に従って、てきぱきと動き始める。流石は毛の洗礼に耐え抜いた猛者のひとりだ。現実を受け入れるのが早い。
店主のお兄さん……正直、おっさんに入りかけの外見だけれど、お兄さんと呼ぶのが礼儀であろう。ともかくその人は、アルス・ノーヴァの城下街噴水広場でよく屋台を出している人だった。わたしは城下へ出る度に噴水広場で買い食いをしているので、顔見知りという訳である。
お兄さんはわたしのことを、未だにお城の女中さんだと思っているようだ。けれど、特に見解を改めさせる必要性を感じないので、黙っている。音楽の存在は、まだ城下の人々が自然と認識できるほど広まっている訳ではないので、説明するのもなかなか難しいのだ。
それに安全性の面からも、自分から音楽家だと無闇に名乗らないよう、ジークさんやシュリに釘を刺されている。屋台のお兄さんに名乗ったからといって、どうということも無いような気がするけれど。その辺を言い始めるとまたお説教を喰らう羽目になるので、大人しく従うに限るのだ。
この辺りはこれまで培ってきた価値観の違いによるものが大きいので、如何ともし難いのである。
そうして屋台のお手伝いをしながら、屋台に来るお客様がまばらになってきたな、なんて思い始めた頃。
もうすぐ開始時刻になるからここまでで良い、と店主のお兄さんが言うので、わたしとモニカはお手伝いを切り上げて最上階の観客席へと移動した。
と言っても座席は既に埋まってしまっているので、通路にひしめく立ち見客の中に紛れ込む形である。
だいぶ時間ぎりぎりに入ったので、その中でも後ろの方についていたんだけれど。(身長差のせいで)あまり見えないなぁ、なんて思いながら伸び上がっていたら、気を使った人達が場所を譲ってくれたので、一番手前の縁へとつくことが出来た。手すりに捕まることが出来るので、立ち見でもそこそこ楽な方だと思う。
ちなみにモニカは隣に居るけれど、ずいずいと移動してきてしまったので、護衛の人とは少し離れてしまった。彼らは筋肉と鎧が邪魔をして、すいすいと人ごみを掻き分けるのには向いていないのだろう。ちらりと背後を見遣れば、観客席の後ろの方で、憔悴したご様子でこちらを見ている。
まあ……一応目の届く範囲に居るので、勘弁してください、うん。
心の中では一応謝罪と反省をしつつ、わたしは意識を闘技場の中央へと向ける。
と、観客席中から熱気と歓声が沸きあがると共に、騎士達の入場が開始された。
貴賓席側を北として、東西、南と三箇所に設置された大きな門が同時に開け放たれ、その全てから、列を成した騎士達が会場中央へ向けて行進する。
隊列は各国五列。隊列先頭には、各国の国旗を肩に背負った騎士が一人ずつ付く。
南の門から入場してきたアルス・ノーヴァの隊列を率いるのは、緋色の髪の騎士。先頭に付くのは基本的に各国一の実力者で、この国は今年はシュリが担当するのだと、アルノルトさんから前もって聞いていた。けれど、聞いていなくても、それがシュリだということはきっとすぐに判っただろう。鮮やかな緋色は、大勢の中にあってもよく目立っていた。
遠目からなので装飾類など細かいところまではよく判らないけれど、白と青の国旗を翻しながら歩くシュリを始め、騎士達は普段のものとは違う正装を纏っている。アルス・ノーヴァの騎士達の正装は、国旗と揃いの色の胸当て鎧だった。中に着ているものも基本的には白で、所々にワンポイントとして青がある感じか。親衛隊と騎士隊とでは少し形が違うようで、護衛の人達が身に付けていた公務用のものともまた、違っていた。
王城内で普段見掛ける騎士達は、基本的には普段着用に支給されているのであろう隊服を各人が思い思いに纏っている。そのため、城勤めで騎士棟勤務経験があっても正装を見るのは初めてで、新鮮だった。
国によって正装の色も形も様々なので、一定の速度で行進し続ける隊列は、目でも楽しむことが出来る。
ちなみに他国のものと比べると、アルス・ノーヴァの正装はだいぶ軽装に思えた。
見れば、目の部分を除いて顔まで隙間なく覆う全身鎧を纏っている国すらある。彼らは暑くないのだろうか。
重厚な金属音を含む彼らの足音はどこまでも規則的に場内へと響いて、やがて一切の足音が止む頃。観衆は、あらん限りの歓声と拍手で、入場を終えた騎士達を讃えた。
鼓膜が裂けそうなほどの大歓声は、けれど、不快では無く。わたしもその中へ、ささやかな拍手の音を混ぜる。
そんな中、整列する千人を軽く超える騎士達の前に、北側に設置された小さめの門の方から、誰かが歩み出てきた。
歓声と拍手もまばらになってゆき、その人が隊列前の中央へと到達する頃には、一切の物音が鳴りを潜める。
我らは剣。
我らは盾。
我らは威信。
貴賓席を見上げてそんな口上を述べ始めたのは、アルノルトさんだった。
何か役割があるので入場する隊列には加わらないと言っていたのだけれど、このことだったのかと納得する。
二階の貴賓席を見れば、女王様を始め各国の重鎮の方々は、立ち上がってその口上を受け止めていた。
これは後から聞いた話になるけれど、広いというのにやけに会場中に声が響くな、なんて思っていたら、マイクとスピーカーのような拡声器が設置されていたらしい。勿論、動力は魔力だ。
ちなみに口上も毎年の決まり文句で、開催国の代表が述べることになっているのだとか。
本当はもっと若い者に役目を譲りたい、なんて言っていたアルノルトさんだけれど、なかなかどうして、口上を述べる姿は様になっていた。
口上を述べ終わり、開催国の主であるオルガ様が騎士達の健闘を讃えると、初日のメインである催しが開始される。
会場を囲むかのように、会場の周囲へと円形に整列し直した騎士達が、各国順に騎士達の輪の中央へと進み出て、集団で型や技などの披露を行うのだ。普段の鍛錬の成果を見て貰うという意味合いがあるらしい。
洗練された動きで騎士達は剣を掲げ、交え、脚は力強く大地を踏み鳴らす。剣戟の音は高く高く、空まで響き渡る。
鋭利ながらも美しいその光景はとても華やかで、演舞にも似ていると。そんなことを思う。
他国ではまだ小さな紛争などが起こるところもあるようだけれど、基本的には平和だというこの世界。少なくともアルス・ノーヴァでは、剣を持つ者がそれを振るうところなど、一般人がなかなか目にする機会のあるものでは無い。観衆達は、固唾を呑んでその現実離れした光景を見守っていた。
時折、うっとりとした溜め息や微かな声が、観衆席のそこここから聞こえてくる。特定の騎士の名前を呟く人もいた。聞こえた中には知らない名前も多かったけれど、知っている名前もちらほらと。その中にはシュリの名前も、勿論ながら含まれている。いわゆる黄色い声援的なものも多数あったことから、今更ながら女性にも随分と人気なんだなぁ、なんて、ぼんやりと考えた。
最後に全ての国が参加しての集団模擬戦闘的なものが行われ、騎士達の催しが一通り終わると、休憩のための時間が挟まれる。
その後は、娯楽要素の強い見世物が行われた。
内容は、曲芸や演劇など。今度の主役は騎士ではなく、芸人や劇団などの人々である。どの団体も、それなりに著名であるらしい。
先ほどまでの騎士達の催しではなかなか緊張感のある空気が漂っていたのだけれど、今度は肩の力を抜いて鑑賞することが出来る。
現在行われているのは、恋愛的要素が織り込まれた活劇。主人公は騎士の設定で、偶然助け出した高貴な身分のお嬢様と恋に落ちてゆくけれど、横槍があったり身分の差に苦しんだりするのだ。
ベタな……いや、判りやすい内容ではあるけれど、女性に人気がありそうだなと思う。
実際、隣で鑑賞するモニカは目をきらっきらさせながら固唾を呑んで見守っている。かくいうわたしも、嫌いでは無かった。
現在時刻はあと半刻ほどで夕方になる、といったところ。
騎士達の催しの頃には満員も満員だった観客達もぼちぼち減り始め、座席もちらほらと空き始めている。
わたしは手すりに身体を預けて、半ば脱力しながら演劇を眺めていた。
演劇の内容は面白い。けれど、効果音だけじゃなくて背景に音楽も織り込んでいったらもっと面白そうなのに、なんて。そんなことを考えてしまう。演劇の前に行われた曲芸にしてもそうだ。わたしの世界にとっては、それが当たり前だったのだから。
そうなるように普及させていくのがわたしのお仕事、か。
目処が立てば、提案していってみたいものだ。わたしひとりの力では、まだまだ遠い。
そういえば、演劇の内容は身分違いの恋がテーマになっているけれど、この世界にも中世なんちゃらのような身分差って存在するのだろうか。
意識したことがあるのは王族だけで、少なくともこの国に関しては、貴族だとかその類の言葉を聞いたことが無い。
今度ジークさんにでも聞いてみようかな。
そんなことを、考えている時だった。
「何してやがるんだ、うちの音楽家サマは」
「ほわっと!?」
唐突に後ろから頭を鷲掴みにされて、わたしは思いっ切り肩をそびやかす。
ぎりぎりと手に力を込められているせいで振り返ることが出来ないけれど、この声は……赤毛の隊長殿に違いない。セレモニー参加やら統括やら何やらで忙しい筈の人が、何故観客席なんぞにいらっしゃるのか……!
そこはかとなく声色に怒気が混じっている気配がするのは、是非、気のせいであって欲しい。
というか割と容赦なく鷲掴まれているので痛い。ちょっと痛いです隊長!
「隊長ともあろうものが乙女の後頭部を鷲掴みにするとは何事かっ!」
「うるせぇな。身に覚えが無いとでも言うのか? あぁ?」
「な、何のことだかさっぱりですな!」
「大人しく見学してろってのに屋台の売り子なんぞしてるわ、護衛の言う事聞かずに振り回すわ、モニカまで巻き込むわ。王族の見物席に放り込まない時点でかなり譲歩してやってるってのに、これで俺の怒りを買わないと思う方がどうかしてるな」
うん、どれもこれも身に覚えのある罪状ですね!
けれど、そんなに怒らなくても良いんじゃなかろうか!
シュリはきっと、もの凄く睨みを利かせてこちらを見下ろしているに違いない。その証拠にびしばしと漂う怒気により背筋には冷や汗が滲んできたし、隣のモニカは青ざめた顔でおろおろしている。
せめて後頭部の手だけでも何とかならないものかと抵抗を試みるも、両手で引き剥がそうとしても、筋肉質なその手はぴくりともしやしなかった。
「申し開きがあるなら言ってみろ」
「だ、だってお肉の危機だったんですもの! わたしが手伝わずして誰がやるというのか! そしてそうする以外にお祭りで騒ぎまくるこの血をどうやって諌めれば良かったというのかっ!」
「反省の色は無し、と。ジークにも報告してやるから、こってりとしぼってもらえ。な?」
「ひいっ!? そ、そ、それだけはご勘弁をっ!!」
「却下だ。とりあえず、強制送還な」
おま、ジークさんの怒りに晒された時の恐怖がどれほどのものか、知らないと申すのか!
身を凍えさせるほどの怒気を静かに叩き込みつつ表情には笑顔を貼り付け、有無を言わせず説教地獄を喰らわせられるという、あの恐怖を……!
ええ、恐ろしい。恐ろしいですとも。恐ろしすぎて聞く姿勢は正座になりますとも。思わず土下座が飛び出しそうにもなりますとも。けれど、絶対に恐怖レベルの怒りが発動した時のジークさんは、土下座しても許してなどくれないであろう。
そうです経験済みですとも! 以前、気晴らしにと久々に女中の仕事のお手伝いをしていて、うっかり手の甲に怪我をした時にその恐怖を味わいましたとも!
わたしは視線でモニカに助けを求めてみるけれど、モニカは顔を青ざめさせたまま、そっと目を逸らしやがった。
この裏切り者め……!
そんなことを考えていると、唐突に、後頭部を鷲掴みにしていた手の力が緩む。
と、次の瞬間、今度は身体が浮き上がる感覚がして、ぐるりと視界が変わった。
咄嗟に何が起こったのか理解できずに、わたしは目を瞬かせる。
目の前に広がるのは、いつもより少しだけ近くにある空。そして、視線を横へと走らせた先には、怒気を含んだシュリの顔。膝の裏と背中には支えられている感覚があって、足には浮遊感。
こ、こ、これはもしかして、通称姫抱っこというやつなのではなかろうか……!?
急激に居たたまれなくなってきて、全身に変な汗が滲んでくる。
あわあわと焦って観客席に視線を向けると、周囲にいる観衆の皆様は、悉くこちらを注視していた。
そ、そりゃそうですよね。騎士の祭典の中心人物たるこの国のトップ騎士が観客席なんぞに現れたら、そりゃあ見ちゃいますよね! まさか先程のやり取りからずっと見られていたんでしょうかねこっ恥ずかしい……!!
そんなわたしの心中など露知らず、シュリは観客席を出口の方へと歩き出してしまう。
その動きに合わせて、観衆達の視線も動く。
せ、折角面白い劇やってるんだから、そっちを見ましょうよ、ね!?
状況に耐え切れずに、わたしは両手で顔を覆って、現状可能な限り身を縮こめた。
「隊長殿。深く反省しました。なのでそろそろ降ろしてください。視線にたえられません……」
「そうか。良い薬になってるんなら何よりだな。これに懲りたら二度とこんな真似はしないようにな」
「うっ……や、約束は出来ない……」
「……あのなぁ」
確かに、護衛の方々にご迷惑をお掛けしたことに関しては反省もしているし、出来る限り気をつけようとも思えるけれど……確約は出来そうにない。
何故ならそこにお祭りがあるから。屋台があるから。
大人しく座って見ていろだなんて、あんまりだ。
顔を覆っているので見えはしないものの、怒気の気配が濃くなっていく視線に耐えながら、そんなことを考える。と、頭上に、隊長殿のでっかい溜め息が落ちてきた。
「……ったく、目が離せない奴だな」
ふわり。
そんな台詞と共に、頭頂部に何かが触れる。
一瞬のことだったので何なのかはよく判らなかったけれど、それは柔らかくて、熱いものだった。
尤も。好奇の視線を遮ることに必死だったわたしは、それが何なのかを追求することなど、一瞬で放棄してしまったのだけれど。