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アコ様の秘密のメモ帳  作者: エシナ
ACT1 - A pianist's birth unknown episode.
2/26

第1話 - 奥さん、事件です 【後編】

「大変失礼を致しました。ほんとまじごめんなさい。後生ですので川にリリースとかしないでください」

「捨てねぇって。いや……まあ、何だ。俺も悪かった」


 怒りの勢いに任せて初対面のうえにお世話になりまくった異界の住人の上に乗っかった挙句胸倉を掴んで揺さぶり倒して脅迫した後。

 着替えをしたところでようやく正気に戻ったわたしは、冷たい床の上でシュリに土下座をしていた。

 もう少しお世話になりたいのにここで捨てられても困る……なんて思っていたけれど、どうやらその心配はなさそう。

 年齢の件も恐らく何とか信じてくれたようだし、改めて、彼が良い人なんだということを思い知る。「人生の中で一番信じられん出来事だ」って顔に書いてあったけれど。

 ちら、と、少し身体を起こして彼を伺うと、未だ赤い顔を不自然に逸らされた。

 やっぱり、ちょっとやりすぎたか。今後目を合わせてくれなかったらどうしよう。

「ほら、怒ってねぇから、床なんかに座ってんなよ。腹は減ってねえか?」

 シュリに腕を引かれて立ち上がらせられる。間近に立ってみるとよく判るけれど、彼は背が高かった。180cm以上は軽くありそうな……憎い。長身の奴等が憎い。

 と、再び憎悪の蓋が開きそうになっていると、わたしのお腹が「きゅう」と切ない悲鳴を上げた。

 空いている方の手でお腹を押さえる。

 どのくらい気を失っていたかは判らないけれど、バスに乗り込んだのが朝で、寝坊して朝食を食べ損ねていたので、丸一日近く何も食べていない。お腹も空く訳だ。

 微かに目を見開いたシュリが笑いを噛み殺しているのが判る。

 いっそ笑い飛ばしてくれた方が恥ずかしくなくてありがたかったのに……悔しいので下から睨みつけてやった。

「大したもんは無いが、そこ座れ」

 促されるままベッドに腰を降ろすと、シュリが、麻袋の中からパンと干し肉と、紅茶みたいな色の飲み物を出してくれる。白っぽくて柔らかそうなパン。

 彼は自分の分も用意してからさっきまでわたしが座っていた丸い木の椅子に腰掛けると、どうぞ、と出してくれたものを勧めてきた。

「……いただきます」

 何となく習慣で、手を合わせて一礼してからパンを手に取る。

 見た目どおりふわっふわで、一口噛り付くとほんのりとした甘みと共にじわりと口の中へ溶けていった。嗚呼、幸せ。

 噛り付きながら幸せに浸っていると、何故か頭を撫でられる。

「いや、あんまり美味そうに食うもんだから」

 なに、と目で問うと、シュリはそう答えた。だからと言って、頭を撫でる理由にはならないと思う。

「お子様扱い禁止」

「ははっ、よく噛んで食えよ」

 わたしはパンに噛り付きながら思い切り殺気を送ってやったけれど、もう耐性が付いたのか、シュリは笑ってそう言うだけだった。

 ……悔しいけれど、食べものを与えて貰った手前、あまり強気に出られない。




 食事を摂りながら、この国について色々と教えて貰った。

 食事中以外の会話から拾った情報も交えて、まとめてみる。


 国名は“アルス・ノーヴァ”。

 世界五大国のひとつで、世界のおよそ四分の一国土を保有する最大にして最古の国。代々、女性の王族により統治されていて、今代の女王の名はオルガ。

 五大国は和平条約を結んでいて世界は概ね平和が保たれているけれど、各国は国力の一として騎士隊などの兵力を保有している。この国も然りで、シュリはその騎士団に所属しているのだそうだ。

 現在は無理矢理取らされた休暇中で、この小屋へ身を寄せて鍛錬をしていたらしい。休暇なのにひとりで鍛錬をするっていうのもどうなのだろう、と思ったけれど、色々と深い事情があるのかも知れないので突っ込むべきではないだろう。そのお陰で助かったことであるし。

 本当にファンタジーな世界なのだな、と思って魔法なんてものは無いのかどうか尋ねてみると、やはりあるとのこと。

 けれど、魔法の力を持つ者はとても希少で国内にも数名しかいないそうだ。


 明日は起きてすぐ城へ向け出発。

 色々と手続きをして、その後配属先の先輩に付いて仕事をすることになるだろうから、手続きするところまでは一緒に居てやれる。

 シュリがそんなことを話すのを聞きながら、わたしはいつの間にか意識を手放していた。

 助けて貰って、お腹もいっぱいになって、安心したせいだろう。

 子供扱い禁止とか言っておいて子供っぽいな、と、我ながら思った。


 眠りの淵で、何かの夢を見る。

 おばあちゃんが出てくる幸せな夢だった気がするけれど、起きた後、その内容をはっきりと思い出すことは出来なかった。




-*-*-*-*-*-*-




 ゆっくりと、瞼を持ち上げる。

 まず視界に入ったのは、あまり柔らかいとは言い難い布地……枕。

 身体を起こして周囲に視線を巡らせるけれど、ぼやけ過ぎていてよく見えなかった。適当に枕付近を手で探ってみると、無事にめがねを発見。

 めがねを掛けた視界に映ったのは、見慣れた寂しげな自分の部屋、では無かった。

 木製の狭い小屋。壁の各所に吊るされた、見慣れない生活用品類。そういえば別の世界っぽいところへ来てしまったのだということを、嫌でも思い出す。

 それにしても。

 ベッドの淵に座ったまま眠ってしまったのに、きちんと横になっていて、めがねも外され畳まれていた。

 薄いブランケットまで掛けられて……シュリが面倒を見てくれたのか。彼が眠る予定のベッドだっただろうに、申し訳ないうえに図々しいことをしてしまったと反省する。

 彼は、室内には居なかった。

 わたしはベッドから降りて、昨晩干しておいた自分の服が乾いていることを確認し、手早く着替えてしまう。

 それから、微かな風きり音が気になって、小屋の外へ出てみることにした。


 何となく、伺うようにゆっくりと扉を開ける。

 視界に入ったのは、銀色の閃きだった。

(うわ……)

 あまりの勢いに驚いて一瞬だけ肩をすくめ、それから、見入る。

 風を切るのは銀の剣。剣を従えるのは、鮮やかな緋色の主。

 何かの型なのだろうか、演舞のように剣を操るその動きは何処か現実離れしていて、凛然としていて。男の人に対して綺麗だなんて思ったのは、初めてだ。

 やがて、剣を正面に向けて真っすぐに突きつけたところで、ぴたりとシュリの動きが止まる。

 ゆらり。

 標的を射るかのように鋭く細められた、凄艶せいえんなオレンジの瞳を向けられて、鳥肌が立った。

 けれど、それはほんの一瞬。彼は口角を持ち上げて笑い、表情と体勢を崩す。

 昨日も見た人好きのする笑みに、どことなく安心感を覚えた。

「よ、起きたか」

「おはよう。ベッド取っちゃってごめんなさい」

「疲れてたんだろ、気にすんな。それより、もう良い時間だ。起きたんなら早速出発するぞ」

 腰に佩いた鞘に刀身の長い剣を納めながら、シュリが近付いてくる。

 どのくらいの間鍛錬をしていたのかは判らないけれど、彼は、息も上がっていなければ汗のひとつも掻いていなかった。


 そこで待ってろ、と言われて小屋の出入り口付近で待てば、シュリは小屋の中へ入り、さほど大きくもない麻袋をひとつだけ持ってすぐに出てくる。わたしは当然ながら準備するものなんて何も無い。簡単な旅支度だ。

 小屋は広い河道の端、河川敷の堤防のような形の、ゆるやかな丘になっている部分の手前にある。

 丘を登りきると、視界に城下町らしき風景が広がっていた。

「ふおお」

 思わず感嘆の声が漏れる。

 白と青の、西洋の古城写真とかにありそうな巨大なお城。その周囲に密集して、遠ざかるにつれて徐々にまばらになっていく色とりどりの建物たち。

「おっ前、感動するんならもっと可愛げのある声出せよ」

「放っておいて頂きたい。ね、あのお城に行くの?」

「ああ」

 シュリにとっては当然ながら見慣れた風景なのだろう。城へ行くのが楽しみになってきてそわそわしているわたしに、少し呆れている。

 そうして彼は歩き出したので、わたしはその後にくっついて行った。




-*-*-*-*-*-*-




 およそ2時間くらいは歩いただろうか。

 足が疲労を訴え始めた頃に、白と青の王城へと、わたし達は辿り着いた。

 疲労も忘れて、口を開けて巨大なそれを見上げる。遠くから見ても綺麗で凄そうだなと思ってはいたけれど、近くで見ると、それは正に圧巻だった。巨大すぎて、見上げ続けたら首が痛くなりそう。

 シュリが小さく吹き出したのが判った。おのぼりさんで悪かったわね。

 慌てて口を閉じて彼を睨み付け、城門へと歩を進めるその後ろへと付いていく。

 跳ね橋の先にある城門前には、騎士らしき門番が2人、両端に立っていた。

 槍のような武器を持っていて、何となく、わたしはシュリの服の端を掴む。

 よっ、とシュリが軽く手を挙げて門番に声を掛けると、門番は呆然としているかのような驚いたかのような微妙な表情を浮かべ……はっとして佇まいを正して、シュリに向かって頭を下げた。


 そのまま真っすぐに進んで、城の中へと入る。

 城内も白と青を基調に彩られていて、2時間前から感動しっ放しだというのに、わたしの脳は未だ感動し足りないらしかった。

 けれど、それより何よりも。

 城内で遭遇する人という人がシュリに向かって一礼していることに、わたしは驚いていた。

 騎士らしき若者、メイドさんらしき女性、書類を片手に忙しく奔走する中年まで。

 当のシュリは、門番にしたように軽く手を挙げるだけ。

「……シュリって偉いの?」

「んーまあ、そこそこな」

 訝しげに下から問うと、彼はにぃっと笑って見下ろしてくる。と、腰に剣を穿いた、どことなくシュリと似たような服装の男が、小走りで近寄ってきた。

「隊長、お帰りなさい」

「おう、変わりないか?」

 ……幻聴じゃなければ、隊長って聞こえた気がするけれど。

 恐らく騎士であろうその男性は、城内や騎士隊の状況などについてを、シュリに対して報告する。男性の方が絶対に年上に見えるのに、シュリに対して敬語だ。

 やがて報告が終わったのか話が途切れ、男性は、困惑した表情でわたしに視線を向けてきた。

 わたしは慌てて頭を下げる。

「あの……そちらは?」

「ああ、川で拾った」

「拾っ……」

 シュリの端的かつ短い答えに、男性は言葉を詰まらせた。

 まあ、間違ってはいないけれど。いくら何でも説明を端折り過ぎではなかろうか。

「行くとこ無いらしいんだ。騎士棟の女中募集してただろ、そこに入れようと思う。悪いがお前、ジークに話通しといてくれるか」

「は……はっ、了解しました」

 シュリの指示に対してそう言って一礼すると、騎士らしき男性はどこかへ行ってしまった。

 思わず、去って行く騎士とシュリを見比べる。

「手続きの前に帰城報告しに行くから、ちょっと付き合えよ。俺より偉い奴に会えるぞ」

「俺よりって、そもそもシュリがどの辺の位置なのかがさっぱりなのですが」

「そこそこだ、そこそこ」

「そこそこってどこよ!」

 適当に返すシュリに思わず突っ込みを入れながら、更に城内を奥へと、わたし達は進んでいった。




 奥へと進むにつれ、廊下の人通りは少なくなってくる。

 シュリが足を止めたのは、重厚感の漂う両開きの扉の前だった。

 2回、彼がノックをすると、中から入室を許可する短い声が聞こえてくる。声を確認してから、シュリは扉を押し開いて入室した。

 少しだけ、シュリが押さえている所為で半端に開いた扉の前で待つ。

 室内から2、3会話する声が聞こえ、ややあって、こちらへ顔を覗かせたシュリに入室を促されたので、やや緊張しながら足を踏み入れた。

 幾つかの書棚と机だけが置かれた、高級感は漂うものの質素な部屋。執務室、という雰囲気。勝手なイメージからそう思っただけだけれど、どうやら当たっていそうな気配がする。

 室内の一番奥に設置された机の上には書類が積み上げられていて、座っていた男性がペンをホルダーに戻してからこちらを見た。

 机と書類の室内には調和しない、厳つい雰囲気の中年男性。

 けれども随分と柔和なまなざしと笑顔を、わたしへと向けている。

「お前が女を連れ込んだと噂になっているから、どんな女性かと思えば。随分と可愛らしいお嬢さんだ」

「噂って……早過ぎだろ。どんだけ暇なんだここの奴等は」

 呆れ顔でシュリが言えば、中年男性は軽く笑いだけを返した。

 偉い人、とシュリが言っていたし、ひとまず挨拶だけはきちんとしなければならないだろう。

「この度は、危ないところをシュリに助けていただきました。亜己と申します」

 そう言って、わたしは深く腰を折って頭を下げた。ふむ、と、感心したかのような声が上がる。

「礼節を心得ているようで、素晴らしいな。私はアルノルト。この国の騎士隊の総隊長を務めている」

 くすんだ銀色の目を細めて、中年男性は言った。

 総隊長って……総隊長ですか。

 思わず口が開きそうになるのを、必死で堪える。

「身寄りも当てもないってんで、俺が後見で、騎士棟の女中に入れようと思う。いいだろ?」

 恐らくは直の上司であろう総隊長に向かって、シュリは随分と軽い口を利いた。そこそこってどこら辺よ、本当。

「ふむ、騎士棟は常に人材不足だ、お前の推挙ならば問題あるまい。家事は得意かね?」

「はい、一通りは」

「結構、結構」

 よどみなく答えたわたしに、総隊長はうんうんと満足気に頷いた。

 記憶にある当初からおばあちゃんとふたり暮らしだったわたしは、家事については常に手伝いながらの生活をしている。ここ1年半は一人暮らしをしていたし、それなりに出来るのは本当だ。……料理だけは、あんまり上達しなかったけれど。友人に言わせると、可も無く不可も無くなのだそうだ。

 まあ、それは兎も角として。

「じゃあ、さっさと手続き済ましちまおう。行くぞ」

 あまり会話という会話をしていないような気がするけれど、挨拶はもう済んだのか。シュリが言葉通りさっさと退室しようとする。わたしは少し慌てて、もう一度総隊長に向けて頭を下げた。

「あの、ありがとうございます。お世話になります」

 そう言って退室するわたしに、総隊長は柔和な笑顔のまま、手を振り続けてくれる。

 総隊長も良い人そうなので、わたしは少し安心した。


 部屋を出るとシュリは来た通路を戻っていくので、わたしもそれに付いていく。

 少し戻ったところにある通路を、今度は左に折れて。……それにしても、こうも広いと。

「これ、わたし……ひとりで放り出されたら迷子になりそう」

「ま、慣れだな。不安なら捕まっててもいいぞ?」

「う、うむ。ありがとう」

 にぃっと悪戯っぽく笑って言ったシュリの服を、遠慮なく掴む。彼は冗談で言ったんだろうけれど、見失ってひとりになったりでもすれば、わたしにとっては死活問題だ。

 意外だったのか、数度、目を瞬かせたシュリは、軽く後頭部を掻きながら視線を正面に戻した。

「総隊長さん、良い人っぽいね」

「……ああ、まぁな」

「その微妙な間が気になるんですが。えっと、今度こそ手続き?」

「だな。さっきのトコは騎士棟の一部。これから行くのは行政棟だ」

「職業ごとに区分されているのね」

「ああ、大まかには4つか。騎士棟、行政棟、司法棟、王族の棟。あと、特殊な区画も幾つかあるが」

 ……特殊なのが少し気になる。

「とりあえず騎士棟について早めに把握することだな。騎士棟と、多分行政棟以外は、滅多なことでも無い限りは行かねぇだろうから」

「ふむ、メモメモ……って、メモ帳も無かった」

 何かと気に掛かることを書き留めておく癖のあるわたしは、常にペンとメモ帳を携帯していた。けれど、残念ながら愛用のメモ帳はバックの中。バスからは身体ひとつで放り出されたので今頃は一緒に居た友人の手にでも渡っているか。

 どちらにせよ川に落ちているから、普段通り身につけていたとしても使いものにならなくなっていただろうけれど。


 そう言えば。向こうでは、わたしの扱いはどうなっているのだろうか。

 行方不明、ということになるのか、やっぱり。

 今頃捜索されているかも知れない、なんて考えると、何だか申し訳ない気持ちになってくる。

 それより。

 友人に見られるくらいなら兎も角、行方不明者の遺留品だか何だかで、メモ帳の中身を開示されたりなんてしていないでしょうね……いやいや、流石にそれは無いだろう。あったら困る。帰れなくなる。


「そうか、お前、その変な服以外何も持って無ぇんだな」

 うんうんと唸りながら考え込んでいると、シュリの声が降ってきた。

「あっちでは一般的な女子の服なの。でもそうだね、最低限の生活用品くらいは早めに欲しいな。お給料いつ出るんだろう……」

「働く前から気が早ぇな。まあ、その辺は考えといてやるさ」

 そう言ったところで、シュリは足を止める。目的地へと着いたのだろう。

 先程の総隊長の部屋とは色の違う、一回り大きな扉がそこにはあった。両開きなところと重厚感はさして変わらない。

 シュリはノックをすると、返答を待たずに扉を開いた。


「お待ちしていました」

 入室するなり、落ち着いた声が掛けられる。

 室内は思っていたよりも広く、天井も高かった。出入り口側以外の壁は書類や本がぎっしり詰め込まれた棚で埋まっていて、幾つかの机がコの字型に並べられている。

 事務室、という単語を連想させる空間。

 人の姿も複数あって、皆が皆、静かながらも忙しそうにしていたけれど、声を掛けてきたのは一番奥の中央の机に着いていた青年だった。

 半端に伸びた青い髪を後ろで一つに括った、シュリと同じか少し年上くらいに見える青年。

 シュリとはまた正反対の、静かな魅力がある。要するに、2人とも外見が良い。

 青年の前まで進み出ると、シュリは無言で差し出された2枚の書類とペンを受け取って、青年の机で何かを記入し始めた。

「業務内容は主に騎士棟の雑用です。詳しくはもうすぐ来る貴女の担当上司となる女中に説明を受けてください。部屋もその方と同室になります。何か質問は」

 手元の書類に視線を走らせたまま、こちらをちらりと見もせずに、青年は言う。

 必要最低限、という感じだ。既に上司の手配まで済んでいるという仕事の早さには感服したけれど、正直、説明が少なすぎて何を質問すればいいのかすら判らない。

「おい、ジーク」

 困惑していると、書類を記入し終えたらしいシュリが手の甲で青年の頭を軽く叩いた。

 軽く、とは言えそれなりに痛そうな音がして、青年は低く呻いて叩かれた場所を押さえる。

「説明くらい目ぇ見てしろっての」

 擦りながら溜息を吐き出した青年は、ようやく視線を上げた。

 長い前髪の隙間から覗く端整な瞳は、深い藤色。彼は半眼で青年を見下ろすシュリとわたしを見て微かに訝しげな表情を作り、すぐに表情を戻して書類を受け取った。

「室長のジークベルトです。ここにサインを」

「あ、亜己です。どうぞ宜しく」

 彼が書類の片方をわたし向けに差し出し、右下の空欄を指す。雇用契約書みたいなもののようなので、素直に名前を記入した。


 ……あれ、何でわたしは恐らく日本語ではない筈の書類を読めたのか。

 ペンと書類をジークベルトさんに渡してから気付く。

 言葉といい文字といい……もう良いか。追求するのやめよう……通じなければ通じないで困るし。


 心の中で葛藤していると、控え目なノックの音がして誰かが入室してきた。

 クラシックメイドのような格好をした女性。恐らく、わたしの上司を担当してくれる人だろう。

「メリクールさん、貴女の部下です。業務の説明や指導など、宜しくお願いします」

 シュリに言われた所為か、ジークベルトさんは入室してきた女性を見ながらそう言って、すぐにわたしから受け取った書類へと視線を落とした。

 メリクールさんと呼ばれた女性はこちらを見て優しげな笑顔を浮かべ、ぺこりと一礼する。わたしも同じように一礼を返した。

「さて、手続きの面で俺が面倒見てやれるのはここまでだ。メル、後は宜しく頼むな」

「はい」

 同じ棟の人間だろうし、知り合いなのか。シュリに愛称を呼ばれたメリクールさんは、短い返事で了承を伝える。

「シュリ」

 退室しようとするシュリを、わたしは呼び止めた。

 佇まいを正して、真っすぐに彼を見る。

「何から何までお世話になって、本当にありがとう」

 わたしは心からの感謝を込めて、腰を折って深く頭を下げた。

 彼が拾ってくれなければ、わたしは今頃どうしていただろう。途方に暮れていたか、彷徨っていたか、そのまま川を流れていたか。兎に角、ろくな状況にならなかったであろうことは明白だ。

 数秒、姿勢を維持してから身体を起こすと、ぽんぽん、と頭を撫でられる。

「同じ騎士棟に居るから、何か困ったら頼れよ」

 視線を上げると、初めて見る柔らかい表情をこちらへ向けているシュリの顔があった。

 これ以上お世話になってしまったら、本当に頭が上がらなくなるというのに。嬉しさと一緒に、申し訳なさが心の中へと広がっていく。応えようとして返したわたしの表情は、ちゃんと笑顔に見えていただろうか。


「シュリ、待ってください」

 今度こそ退室しようとするシュリを、今度はジークベルトさんが呼び止めた。

 ジークベルトさんの視線は、シュリが渡した書類へと落とされている。

「書類に不備があります。訂正をお願いします」

「あぁ? 必要事項は全部埋めてるだろ」

 面倒そうに机の方へと戻るシュリに、ジークベルトさんは至極真面目な表情で、言った。


「アコさんの年齢の記載が間違っています。19歳は有り得ないでしょう」


 わたしとシュリの動きがぴたりと止まる。

 怪訝に思ったらしいジークベルトさんとメリクールさんが首を傾げた。


 シュリにも脳内設定だの何だの散々言われたけれど。

 この野郎、有り得ないとか言いおったか?

 真面目な顔で、有り得ないとか言い切りおったのか……?


 決して許されない。決して。

 ぎち、ぎち。発言者の方へ顔と身体を向け、わたしは全身からゆらゆらと殺気を放出する。

 わたしの静かなる怒りが空間へと満たされていくのを感じ取ったのは、びくりと一瞬だけ肩をそびやかしたシュリのみか。

 そうでしょうとも。経験者である貴方ならば判るでしょう、この怒りの深さが。

 ずんずんとジークベルトさんの机の前へと進み出て、ずいっと顔を近付けて、わたしは間近から殺気を送り込んでやった。

 気圧されたらしいジークベルトさんは目を見開いて冷や汗を流したまま、身を引くことも出来ずに硬直する。

「書類に、不備は、ありません」

「い、いえ……しかし……」

「しかしじゃ無いわよ。記入した通りだから黙って受理しろっつってんのよ。信じられないってんならうおっ」

 胸倉に掴みかかろうとしたところで、何者かに後ろへ身体を掻っ攫われて失敗した。

 背後から片腕でわたしの胴を抱え込み、もう片方の手で今にもジークベルトさんに掴み掛かろうとしていた右腕を掴んでいるのは、シュリだ。

 身長差の所為で抱え込まれると地に足が着かない。悔しい。悔しいいいいいぃぃぃぃ!!

「アコ、落ち着け、こんなトコで発動すんな」

「うるっさいわねこの長身族が! こいつ、わたしが今まで歩んできた人生の長さを全否定しやがったのよ! 有り得ないとか言いやがったのよ!! 許されてはならないのよっ!!?」

「ジーク、そんな訳でその書類には真実しか記されてねぇから。そのまま受理してくれ」

「は……? いや、わ、判りました」

「メル、行くぞ」

「……?? は、はい……?」

 シュリはそのまま回れ右して、さっさと出口へ向かった。後ろに、首を傾げっぱなしのメリクールさんを引き連れて。

 わたしはじたばたと全力で暴れてみるけれど、シュリはびくともしない。

 畜生、馬鹿にしおってからに……!!

「放しなさいよ細マッチョ! あいつ絶対判っちゃいないわよ! こんなところで引き下がれないのよ! ていうか足が着かないのよ!! 揃いも揃ってわたしの人権を侵害すんじゃないわよおおおぉぉぉ!!」

 事務室全体の視線が注がれる中、魂の叫びも虚しく、わたしは易々と部屋の外へと連行されてしまった。

 ぱたん。

 無情にも、事務室の扉はメリクールさんの手によって静かに閉じられる。


 ぶつけどころの無い怒りを抱えたまま、わたしはシュリの腕の中でがっくりと項垂れた。

「うっ、うっ……憎い、お前達が憎い……」

「大丈夫だって、ちゃんと受理されっから」

「そんな事を言ってんじゃないのよ……というか放しなさいよぉ」

「暴れたり逆走したりしないってんなら放してやるけどな」

「保障は出来かねるわ……」

「じゃあ駄目だ」

「ううっ、人さらいー、人でなしー……敵だ、みんな敵だああぁぁ」

「人聞き悪ぃこと言ってんなっての。飴買ってやるから落ち着け」

 シュリは項垂れるわたしを左脇に抱えて運び、右手でよしよしと頭を撫でてくる。

 飴如きでこの心の傷が癒されるものか。癒されるものかああぁぁ。



 この時のわたしは怒りと絶望感に支配されていて、怪しく光る何者かの目線になんて、気付いていなかった。

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