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アコ様の秘密のメモ帳  作者: エシナ
ACT1 - A pianist's birth unknown episode.
19/26

第7話 - おしえて! アコ先生 【後編】

 午後になり、リーゼ様への講義が始まる。

 彼女はローザ様よりも更に進みが速く、既に両手の違う動きをクリアして簡単な練習曲へと進んでいた。

 講義の後に少しだけ自主練習をして、同胞の会話を繰り広げてから、リーゼ様は退室する。

 ……彼女は今日も全開だった。


 ジークさんが休憩がてら様子を見にきてくれたのは、その後のことだ。





「王女様達も、合同演習の晩餐会で演奏を?」


 わたしの提案内容を問い返してきたジークさんに、頷くことで肯定する。

 音楽を広め、受け入れる意志を示す、と。

 ジークさんがそう言っていたのを思い出して、それなら王女様達が演奏をすることが、主張になるのではないかと思ったのだ。

 合同演習とやらまではまだ二ヶ月弱もあるのだから、このペースで上達していけば、きっと、簡単な曲くらいなら何とかなるだろうとわたしは踏んでいる。

 ジークさんは顎に手を添えて少しだけ考える仕草をした後に、首を縦に振ってくれた。


「良い案だと思います。私から意見提出をしてみましょう」

「あ、ありがとうございます!」


 そうと決まれば……いや、まだ決まった訳ではないのだけれど、そのための曲選びもしておかなければ。

 昨日までとは打って変わり、その日が楽しみで仕方なくなってくる。

 そんな心境が顔に出ていたのか。わたしを見て、ジークさんが穏やかに微笑んだ。


「王女様達への講義は、楽しいですか?」

「はい!」


 問われて、わたしは即答する。


「だって、おふたりとも凄く上達が速くて、一生懸命で。音楽好きな人が増えることが、楽しくない筈がないですよ!」


 わたしはお茶のカップを片手に、もう片方の手で拳を作って力説した。

 本当にお好きなのですね、と彼が言うので、わたしは目いっぱい笑って頷く。と、穏やかな微笑みを濃くしたジークさんが、言った。


「私でも、出来るでしょうか?」


 思わず目を瞬いて彼を見る。出来る、というのは、ピアノのことを言っているのだろうか。

 休憩時間を利用しないとわたしの様子を見に来ることが難しいほどに、忙しい身なのに。とは思いつつ、興味を持ってくれるのは非常に嬉しい。

 ジークさんは頭も良いので、教えれば教えただけすぐに吸収してくれそうだ。

 それに、涼しげな美貌を持つ彼がピアノなんて弾いていたら……ちょ、ちょっとやばくないか? 似合う。絶対に似合う。

 仕事中は厳しい雰囲気を纏っているものの女性ファンも多い彼のことだ。そうなれば、恐らくはファンも急増することだろう。そうして嫉妬に駆られた部下達(男)や親衛隊長やらとのめくるめくドラマが……

 ……おっと。先程までリーゼ様と一緒に居た所為か、脳内妄想の方向性が彼女寄りになっていたようだ。いけないいけない。

 まあ、そげな思考は置いておくとして、だ。


「そうですね、まずは音楽の専門用語など基本的なことを覚えるところからですね。王女様方が進行しているものを、見てみますか?」

「ええ、是非」


 にんまりと笑って言ったわたしの言葉に、ジークさんは頷く。

 わたしはお茶の入ったカップとソーサーを卓子の上へ置いて、ピアノの傍らへと置いてあったお手製教本の原本に手を伸ばした。

 ジークさんも手にしていたお茶を卓子へ置いて立ち上がり、近付いてくる。わたしはピアノ用の椅子へと腰を降ろしたままで、ぺらりと教本を開いた。

 閉じられた鍵盤の蓋の上で開かれた教本を、ジークさんはわたしの後ろに立って覗き込んでくる。

 椅子を勧めたけれどもこのままで良いと断られたので、わたしは教本に記されたものを指差しながら説明を始めた。


「これは、音符と言います。書き方によって音の長さが違い、書かれる位置によって音程も違うのです」

「音符、ひとつを取っても様々な種類があるのですね。この、線の左側の記号は?」

「これはト音記号とヘ音記号です。ピアノの場合、この五線譜……五本の線を用いて表現される、楽曲の譜面のことですね。この五線二段がセットで扱われていて、基本的にはト音記号が右手で弾く高い音の領域を、ヘ音記号が左手の低い領域を指しています」


 音符について。音楽記号について。

 ぺらぺらとページを捲りながら、基本的なことについて説明していく。

 予想通りというかジークさんは流石で、ぐいぐいと情報を吸収してくれている様子だった。

 彼が色々と興味を持って細かく質問してくれるので、わたしは調子に乗って解説を続けていた……のだけれど。

 つっ、と、彼が教本の上の音楽記号を指差したことで、気付いてしまう。

 ピアノに向かって座るわたしの後ろから、同じ教本を覗き込んでいるジークさん。教本を指差すために伸ばされた腕はわたしの肩付近を掠めていて、前かがみになっているので、わたしの後頭部に彼の胸元が。


 ……ちっ、近くないですか……!?


 ジークさんに背後から殆ど覆い被さられているかのような状況に、今更ながら動揺する。

 ここのところは様子を見にきてくれても卓子を挟んで会話をしていただけだったので、油断していた。


「この点のような記号は?」

「こっ、これは、スタッカートと言って、この記号の付いている音を歯切れよく弾むように、ですね……!」

「アコさん? どうかしましたか?」

「……! いえっ、何でもありませんよ!?」


 唐突に訪れた動揺が言葉にまで影響を与えてしまったことを訝しがってか、彼は不思議そうに訊ねてくる。

 くっ……そんな何か問題でも? みたいな聞き方をされたら、動揺しているわたしが馬鹿みたいではないか……!

 落ち着け、落ち着くのよ亜子。

 ジークさんはあくまで知的探究心から行動を起こしているだけ。このシチュエーションは偶発的なものであって、何の意図も無いのよ。こんなことで説明を途切れさせてしまったら、彼のその探究心の邪魔をしてしまうじゃないの。

 教本を指差す右手だけじゃなくて左手も鍵盤の蓋の上に添えられて、腕の間に閉じ込められてしまったけれど、きっと前かがみの姿勢で不安定な身体のバランスを取るためなのよ。

 身体もどんどん密着してきて、声と共に吐き出される吐息が耳元に掛かっている気がするけれど、それも気のせいに違いない。

 だから彼の邪魔をしないように、何でもない顔をして説明を続けなきゃ駄目よ。

 左手が徐々に近付いてきて、教本の端に添えられていたわたしの左手の指をそっと絡め取ってきたけれど、これも特に意図は無い筈。

 気にしたら駄目、気にしたら駄目、気にしたら駄目。


 って、必死に言い聞かせてはみるものの、これで平静を装うのとかちょっとわたしには無理がある。

 だ、誰かタスケテ……!!





「……何してんだ……?」


 わたしの心の叫びが通じたのか。

 動揺のしすぎで若干涙が滲み始めた目を声のした方向……執務室の入り口へと向けると、半眼でこちらを()めつけるシュリが立っていた。

 何故か不機嫌さが漂っているけれど、この状況を打開してくれるのならありがたい。

 ジークさんは微かに息を吐いて、ゆっくりと身体を起こす。

 な、何だろう、今の溜め息は。

 けど、た、助かった……


「アコさんに、音楽について少し教わっていました」

「へぇ?」

「なかなか興味深いですよ。楽器を弾く方に関しては、習得の為の時間を取れないので難しそうですが……知識だけでも、得る価値は充分にあります」

「お前は本当に学問的な分野が好きだな」

「今お聞きした限りでは、学問、という分野ともまた違う気はしますが、そうですね。好き、ですよ」


 淡々と語るジークさんと、僅かに目を眇めるシュリ。

 卓子を挟んで対峙するふたりの間には、何故だろう、若干険悪な空気が漂っている気がする。

 な、なんだ……夫婦喧嘩中か何かか……

 と、いけないいけない。こんな時にまでリーゼ菌が脳内に……


「と、ところで、シュリは何かあったの?」


 何となく居心地の悪い雰囲気を打開するため、わたしは弱々しい一石を投じてみた。

 シュリはジークさんからわたしへと視線を移して、視線から険悪な雰囲気を消し去る。それからもう一度だけ、ちらりとジークさんを窺って。何かを払拭するかのように微かに首を振ってから、口を開いた。


「ああ、昨日の話で思い出したことがあってな。アコ、お前、もしかして合同演習の日、誕生日か?」


 どうしてそれを。

 わたしは思わず目を見開いてから、ぱちぱちと瞬く。

 ジークさんも僅かに驚いたようで、振り返って首を傾けた。


「あれ、わたし、シュリにそれ言ったっけ?」

「いや。会った日に、あと三ヶ月で誕生日とか何とか言ってただろ? それで、丁度合同演習の日程と重なるんじゃないかってな」

「アコさん、そうなのですか?」


 相変わらず驚きで目を瞬きながら、わたしはこくりと首を縦に振る。

 あんな胸倉を掴んで脅迫しながら言った台詞と、昨日の微かな態度だけで、その事実に行き着くとは……流石は親衛隊長。なかなか鋭い。

 感心していると、ジークさんは片手を腰に当てて首を捻った。


「……彼女が来た初日に貴方に書いて貰った書類には、別の日程が記されていたと思いますが」

「あぁ、悪ぃ。そん時は知らなかったからな。適当に俺のじいさんの誕生日で埋めておいた」


 あっけらかんと言って笑うシュリに向けて、ジークさんは盛大な溜め息を吐き出した。

 おいおい、信用を盾にそんな適当なことしてて良いのか、親衛隊長よ。ジークさんが呆れるのも頷ける。まぁ、お陰様で当時のわたしは女中として雇い入れて貰えた訳なのだけど。


「……書類については私の方で訂正しておきましょう。アコさん、正確な日程を教えて頂けますか」

「あ、はい。一月……地鼠の月の、十一日です」

「了解しました。では、私は休憩時間も終わりなので、そろそろ失礼しますね。お茶、ごちそうさまでした」

「いえいえ。夕方の業務も倒れない程度に、頑張ってくださいね」

「はい。宜しければ、また音楽について教えてください」

「もちろんですとも!」


 退室しようとするジークさんへ向けて、わたしはハードボイルドな笑顔で親指を立てて応える。

 ジークさんは柔らかく微笑んでから、静かに業務へと戻っていった。




 ジークさんの姿が見えなくなってから、わたしはピアノ用の椅子から立ち上がる。

 卓子の上を見れば、少しだけ残っていたお茶はすっかり冷めてしまっていた。ジークさんの方のカップには、中身は殆ど残っていない。


「シュリ、時間あるの? お茶くらい飲んでいく?」

「ああ、じゃあ一杯だけ貰うか」


 わたしはこくりと頷いて、卓子の傍らに置いてあった銀盆にふたつのカップを載せ、簡易給湯室へと向かう。まあ、少し仕切ってある程度なので、室というほど大袈裟なものでは無いけれど。

 ポットに水を足して、魔石コンロのスイッチを入れて。その間にと、使用済の二対のカップとソーサーを簡単に洗ってしまった。

 背後では、シュリが卓子に腰を降ろした気配がする。

 執務室の隅であるこの位置からでも充分に声は届くので、洗った茶器の水分を清潔な布巾で拭いながら、わたしは背中を向けたままでシュリへと話し掛けた。


「それにしても、あんな少ないヒントでよく気付いたね」

「ああ、まあな」


 素直に感心したことを述べると、シュリからは短い返答だけが返ってくる。

 改めて思うに、あんな脅迫するかのような状況で吐き捨てた言葉なんて、忘れられていてもおかしくないのだ。

 それだけ良く人を見ているのだと考えると、こそばゆくもあり嬉しくもある。

 そういう些細なことを当然のようにこなしてしまえるのが、彼の美点のひとつなんだろうなぁと。しみじみと思いながら、水分を拭い終えた茶器を並べた。

 そうこうしているうちに湯が沸いたので、カップとティーポットに少しお湯を入れ、温める。

 適当な時間を置いて一旦ティーポットの中のお湯を捨ててから、茶葉を投入。魔石コンロのスイッチを切り、ぐらぐらと沸騰するポットのお湯をティーポットへと勢い良く注いで、蓋を閉じた。

 茶を蒸らしている間に、お茶請けが何かあったかと棚を探る。先日メルさんとモニカがおすそ分けしてくれた焼き菓子が、まだ残っているのを発見した。ジークさんにも出せば良かったなぁなんて考えながら、小皿に並べる。

 余談だけれど。焼き菓子を貰った当日に、偶然見掛けたグレン青年にもおすそ分けをしたら、彼はえらく喜んでいた。メルさんの手作りだと思い込んで、感動したのだろう。実際は、メルさんと第五宿舎の食堂のおばちゃん監修のもと、モニカが手作りしたものなんだけれど。色々と面白いので、その辺は黙っておこうと思う。

 さて、思い出して笑いを零している間に、お茶の蒸らし時間が過ぎた。

 カップのお湯を捨てて軽く水分を拭ってから、ティーポットの蓋を開け、スプーンで中身をひとまぜする。

 そうしてティーストレーナーごしにふたりぶんのカップへお茶を回し入れ、最後の一滴まで注ぎきれば、美味しいお茶の完成だ。

 この淹れ方はジネットさんに指導して貰ったものだけれど、向こうの世界の紅茶の淹れ方とそう変わらない。

 ともかく、満足のいくお茶を淹れることが出来たわたしは、お茶とお茶請けを銀盆に載せ、シュリの待つ卓子の方へと運んだ。


「冷めないうちにどうぞ」

「ああ。ありがとうな」


 お茶とお茶請けを卓子の上に並べて、空いている方の椅子へと腰を下ろす。

 一口、口に含むと、味も満足のいく出来だ。料理は可も無く不可も無く、なんて言われてきたわたしだけれど、お茶に関してはその限りでは無いようで嬉しくなる。ジネットさんのご指導の賜物か。

 思わずほえっと頬を緩ませると、親衛隊長殿は可笑しそうに喉の奥で笑った。

 わたしはむっとして、正面から彼を睨み付けてやる。


「なによ」

「……いや、悪ぃ。幸せそうな顔してるなと思って、な」

「笑わなくても良いじゃない。美味しいものを口にして顔がにやけるのを咎められる謂れは無い!」

「だから、悪かったって。お前が幸せそうなのは良いことだ」

「! ……ど、どういたしまして」


 急に、昨日のような穏やかな声色に変わったので、わたしは緊張してシュリから視線を逸らした。

 途端に、クックッと再び喉の奥で笑う声が聞こえてくる。

 くそぅ、からかわれているのか……こっちは昨日のたこやき事件を思い出して居たたまれなくなっているというのに。

 何だか悔しいけれど、気にしたら負けよ、亜子。平常心、平常心。



「お前の世界では、誕生日はどうやって祝うんだ?」


 己に色々と言い聞かせていると、シュリがそんな質問を投げ掛けてきた。

 ということは。


「こっちでも、誕生日は祝うものなんだね」

「ああ。王族だと近隣の国の重鎮を招くこともあるし、一般市民だと何かを贈ったり、身内や友人で祝ったり。大体盛大に祝うのは成人するまでくらいだが。人それぞれってところだな」

「ほほう」


 質問に対して質問で返してしまったというのに、シュリは気に留める風もなく答えてくれる。

 どうやらこちらの世界でも、祝い方はそう変わらないらしい。


「じゃあ、大体一緒だね。わたしの世界でも一般的には、家族とか友人とか恋人とか、親しい人達でパーティーをしたり、プレゼントしたり」

「へぇ。お前もそうだったのか?」

「わたしは、親しい友人とプレゼントを贈り合ったりしてたなぁ。で、夜は少しだけ豪華な食事とケーキを用意して食べるの。おばあちゃんと、ふたりで」



 そう言って少しだけ、元の世界へと思いを馳せる。

 友人の誕生日の時は、ちゃんとプレゼントを用意しているにも関わらず、無礼講じゃーとか言ってよく胸を揉まれていたっけ。ワンカップ分はその所為ででかくなったに違いない……ああ、勿論女の子の友人デスヨ。

 わたしの誕生日の時は、カルシウム剤だとか肩こりに効く薬だとか眼鏡ケースだとか。身長・胸・めがねに関連する贈り物がやたらと多かった。余計なお世話だと怒り発動しつつ、身長関連のサプリは全部消費してみたけれど。悲しいかな、全く効果が無かったよ……

 そして、おばあちゃんは。

 誕生日の度に、おばあちゃんの思い出の曲を弾いて。それをわたしへ伝授してくれるのだ。

 高名なピアニストであるおばあちゃんがわたしの為だけに弾いてくれることが。思い出と共に教えてくれるその時間が。わたしは何よりも大好きで、嬉しくて、大切だった。

 思い出が詰まっているだけに、指導はいつも以上に厳しかったけれど。習得する度に、おばあちゃんはわたしの頭を撫でてくれる。

 十八の時、もう高校も卒業の良い年だというのに、それでも撫で続けていたっけ。子供の頃は大きく感じていたその手も、その時は随分と小さくなったなって思って……

 ……その四ヶ月後に、静かに息を引き取ったのだ。

 あまりの喪失感に、涙すら出てこなかったことを覚えている。

 失くしたことを実感して初めて泣いたのは、全てが終わって二ヶ月ほどが経ってから。大学の学食でお昼を食べている時に、唐突に涙が零れてきて……自分の意思で止めることが出来なくて、友人達に目一杯慰めて貰った。

 あの時も、子供みたいにわんわん泣いたっけ。


 ……もう、そんな大切な時間を過ごすことも、出来なくなってしまったのだなぁ。



「ふたりって、お前、両親は?」


 目を細めて思い出を眺めるわたしをじっと見据えながら、シュリが問い掛けてくる。

 彼にしては控えめなその声で、聞いても良いものかどうか散々悩んだ末に口にしたことが窺えた。

 わたしはそれに、瞳を伏せて首を横に振ることで答える。


「物心付く前にね」

「そうか……悪いこと聞いちまった。でも、俺と一緒なんだな」

「ううん。シュリも?」

「ああ、両親を赤ん坊の頃に亡くして、身内はじいさんひとりだった。そのじいさんも、だいぶ前に死んじまったけどな」


 シュリとの意外な共通点に驚いた。

 しかも、そのおじいさんに剣術を教わって育ったお陰で、今の地位があるのだとか。

 受けた恩恵は違えど、本当に、非常によく似た境遇。

 そんな事は無いだろうと思いながらも、もしかしたら、似たもの同士が引き合わされてシュリの前に落ちたのかも、なんて。

 ぽつり、ぽつりと自分のことについて初めて話してくれる彼の言葉を聞きながら、少しだけ考えてしまう。


「そう……寂しかったね」


 短い話を聞き終えて思わず呟くと、シュリは少しだけ目を瞠って、卓子越しにこちらへと手を伸ばしてきた。

 剣を持つ所為でごつごつした、大きくて男性らしい手が、わたしの頭をぐりぐりと撫でる。

 少し前に思い出に浸っていた所為で、不覚にも、おばあちゃんに撫でられた時の感覚を思い出して涙腺が刺激されてしまった。

 尤も、手の大きさや撫でる強さは、全然違うのだけれど。

 必死で涙腺に決壊不可命令を出しながら、子供扱いするなと抗議してやろうと思い視線を上げて。視界に映り込んだ彼の表情を見て……止めておいた。

 わたしの錯覚かも知れない。

 けれど、何かを堪えるかのような。微かな喜びの中に、沢山の辛さが溢れているかのような。そんな複雑な微笑みに、見えたから。

 その状態に甘んじていると、頭を撫でていたシュリの手が徐々に下りていき、掌が頬へと添えられる。

 壊れ物に触れるかのような優しい手付きで緊張が蘇り、穏やかな色彩を湛えるオレンジの双眸から目を逸らせずにいると、無骨な親指がわたしの目元を拭った。


「泣くなよ?」


 彼はにんまりと笑って、そんなことをのたまう。

 おかしい。目元の筋肉やら何やらが頑張ってくれたお陰で、涙は流れていない筈なんだけれど。また、からかわれているのか。


「泣いてないわよ」


 わたしはむっすりと不機嫌な表情を作り、言い返した。

 そうか、と言って手を離しながら、彼はまた喉の奥で小さく笑う。やっぱり、からかわれていたのか。

 悔しいのでシュリの方へと両手を伸ばし、軽く頬を抓ってやった。


「……あにすんだよ」


 お茶のカップを中途半端に持ち上げたまま、シュリが静かに抗議の声を上げる。わたしはふふんと得意気に鼻を鳴らした。


「わたしにはね、この両腕があるのよ」

「あ?」

「この両腕は、宝物なの。おばあちゃんに教えて貰った、沢山のものが詰まってる。沢山のことを、表現することが出来る」


 あまりにも唐突で、彼にとっては訳の判らない言葉だっただろう。

 けれど、シュリは、頬を抓られた不恰好な顔のまま、静かにわたしの言葉を聞いてくれた。


「この両腕とピアノがあれば、わたしはいつでもおばあちゃんに会うことが出来る。だからわたしは、もうこのことで泣いたりしないのよ」


 にぃっ、と、目一杯笑ってから。

 わたしはシュリの頬から手を離して、ふいっと顔を逸らしてやる。

 シュリはしばらく目を瞬いてから、泣き虫の癖に良く言うよ、なんて呟いて。中途半端に持ち上げていたお茶のカップを、口元まで運んだ。




-*-*-*-*-*-*-




「……帰りたい、なぁ……」


 それは、自分の世界に?

 それとも、暖かい手のあった、あの過去に?


 お茶一杯分の時間だけ付き合ってくれたシュリが執務室を去った後。

 空になったカップも片付けぬままで卓子に突っ伏したわたしは、つい口から零れた呟きの真意を、心の中で追求する。

 感傷的な気分になっているのは、きっと、過去のことを思い出してしまった所為なんだろう。


 自分の世界へ帰ることは、出来るかも知れない。

 過去へは……どう足掻いても、手が届くことは無いだろう。

 帰っても待っているのは、もうわたししか住む者の居なくなってしまった、あの寂しい空間だけだ。

 けれど、先程シュリにも豪語したように、わたしにはこの両腕がある。

 勿論、それだけではない。暖かい友人も、ずっと描いていた夢に向けて努力をする為の舞台も、向こうにはあって。帰る為に奔走するだけの理由は、充分に揃っているのだ。

 それでも。

 帰る方法を探す為の資金と情報が目的でこの場所へ来て。がむしゃらに日々を過ごしているうちに、成り行きに近いとはいえ自分にしか出来ないことで国の上層にまで関わってしまった以上、途中で放り出すことも出来ないだろう。

 失われ遠ざかっていたものを。大好きなものを受け入れて貰えて、嬉しかった。

 だから、この国に対して自分が出来ることには、可能な限り協力したい。

 帰るとしたら、それからになるのだろう。


 ……まあ、その帰る方法について、全くもって進展していないのが現状なんだけれど。


 けれどわたしは、旅に出て探すよりも確実な手掛かりが、近くにあるような気がしているのだ。

 シュリやジークさんから、少しだけ教えて貰った。エリアスさんが解析した結果、どうやらピアノに召喚に関わる魔術が施されていたらしく。きっかけが何なのかは判らないけれど、それが、わたしがこの世界へと導かれた原因なのだろう、と。

 エリアスさんは、その後もちょくちょくこの執務室を訪れては、(セクハラついでに)ピアノに残された魔術について解析を進めてくれている。彼はわたしにとっては変態だが、魔術に関しては世界一とも謳われるほどの権威であるらしい。

 だから、思うのだ。

 わたしを導いたのが魔術なら、帰還させられるのもまた、魔術なのだろう。

 そしてその方法に辿り着ける者が居るのだとすれば、それはエリアスさんなのではなかろうか、と。


 時期を見て、色々と話を聞いてみよう。

 ……ふたりで話すのとか、もの凄く嫌だけれど。出来れば避けて通りたいけれど。


 わたしは静かなる決意を胸に秘め、空になったふたり分のカップを片付けるために立ち上がった。

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