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アコ様の秘密のメモ帳  作者: エシナ
ACT1 - A pianist's birth unknown episode.
18/26

第7話 - おしえて! アコ先生 【前編】

 合同演習とは。

 約二ヶ月後に行われる、年一回の、大規模なイベントのことを指す。

 世界五大国を中心として、各国の重鎮や騎士の精鋭達が一所に集まり、騎士達は日頃の鍛錬の成果を見せ付ける演舞を行い、その他、各国の特色を全面に押し出した様々な催しが開催されるのだそうだ。

 一日目には、騎士の演舞を含む各国の催し。

 二日目には、各国の騎士の精鋭で行われる闘技会と、盛大なる晩餐会。

 三日目には、騎士達を称える厳かな式典。

 かつては各国の武力格差を測り、公とするために行われていたらしいけれど。現在では、親睦の意味を含むお祭り的な意味合いが強いらしい。

 会場は五大国が持ち回りで提供し、今年はアルス・ノーヴァが担当になるため、これから準備やら何やらに追われることになるのだそうだ。


 わたしが演奏を行うよう言われたのは、二日目の晩餐会の場で、である。

 武官だけではなく文官のトップや各国の王族も集まる席だとのことで、安請け合いをしてしまったことを軽く後悔するくらいには責任重大であることを、今更ながら痛感した。

 持ち時間はおよそ30分。

 ……晩餐会の30分って結構長くないか。

 そう思うと、嫌な汗が背中を流れていくのを感じざるを得ない。




 まあ、請け負ってしまったからには、やるしかないのだろう。

 そうは思いながらもついつい溜め息を零すと、隣を歩く人物に、くしゃりと頭を撫でられた。


「まあ、お前なら大丈夫だって。そう今から緊張すんなよ」

「そうは言ってもね、わたしの心臓は意外と繊細な造りなのだよ、隊長殿」

「そうか? 女王の前でもあれだけ出来たんだ。似たようなモンだろ」

「規模が違うでしょう、規模が」


 あくまで前向きな発言を続けるシュリに、わたしは身振り付きでびしりとツッコミを入れる。

 それから、彼に撫で回された所為で少し乱れた髪を、せっせと手で直した。


 現在わたしは、シュリの護衛付きで城下へと出ている。

 日用品の買い足しが必要になったのと、リーゼ様達の教材を作るのに良い素材が無いか、見たかったのだ。

 王女姉妹のピアノ教室が始まって、1週間ほど。

 初歩的な内容が記されたバイエルさんの教則本的なものは準備したのだけれど、彼女達の飲み込み・上達速度は、驚くほど速い。

 もう次の段階を見越して準備を進めていかないと、間に合わなくなるだろう、と。

 そう考えてのことだ。


 髪を乱れさせた犯人を、わたしは斜め下から軽く睨み付ける。

 彼は特に悪びれた様子もなく、いつものように笑っていた。口角を持ち上げる、少年のような笑顔。


 ……そんな顔をされたら、文句も引っ込んでしまう。


 心の中でぼやきながら、わたしは、ぶっきらぼうに視線を前に戻した。


 本当は、密着セクハラ事件以来、未だふたりになるのは落ち着かない。

 なので、グレン青年辺りに護衛をお願いしたかったんだけれど……

 昨日、ジークさんと一緒に、親衛隊員の執務室へと護衛依頼をしに行ったとき。グレン青年へとちらりと視線を送ってみたところ、絶対にお断りですとでも言わんばかりの心底嫌そうな表情が返ってきたのだ。

 まあ、グレン青年が3回死にかけた日のシュリの不機嫌っぷりからして、無理やりグレン青年を指名する訳にもいかず。

 こうして、素直にシュリに同行して貰っている訳だ。

 幸いなことに、今日は先日のように大荷物がある訳でもなく、シュリが居て困る要素も無い。

 ただ、やっぱり。落ち着かないこと以上に、こんなことに時間を割いて貰うのが申し訳ないと。そう思ってしまう庶民体質は、仕方の無いことだと思う。

 同行が決定したときに、本当に大丈夫かとしつこく聞きまくったらデコピンが飛んできたので、もう聞きはしないけれど。

 筋肉質の放つデコピンは、痛かった。本気で痛かった。本人は至って軽く指を弾いたつもりでも、特に鍛えてもいないわたしにとっては必殺の一撃だった。あれ一発で一体どれだけ脳細胞が死滅したことか……


 ちなみに、内心では一方的に落ち着かないでいたわたしの心境を他所に、シュリの態度は至って平常運転だった。

 なので、気にするのが馬鹿馬鹿しくなってきて、わたしもすぐに平常運転に戻り。

 今は、先日詳しく聞きそびれた合同演習とやらについて、色々と説明して貰っていた。

 要約するに、騎士のオリンピックのようなものだとわたしは解釈している。

 アルス・ノーヴァというこの国が一番大きな国家だと聞いてはいるけれど、肩を並べる大国や多数の小国が一挙に集まるというのだから、さぞ盛大な催しになるんだろう。

 そんな盛大な催しの、晩餐会という貴重な席での演奏……

 …………

 ……あぁ、駄目だ。

 考える度に幾らでも後悔できる。もう考えないようにしようそうしよう……

 後悔なんぞより、曲目でも考えていた方が建設的だ。

 30分もあるのだから、何か組曲にしても良いかも知れない。

 あ、ちょっと楽しくなってきた。


「二ヶ月って、長いようで短い準備期間ね。えっと……地鼠ちその月の……何日だっけ?」

「10日からだな」

「今日が赤狼せきろうの月の14日だから、二ヶ月切ってるのかぁ。きっと、あっという間に当日だよね。わたしの演奏は、11日の夜?」

「だな」

「……11日?」


 ふと、あることに気付いたわたしは、この世界へ来た日のことを思い出す。

 忘れもしないバス事故の日。シュリに拾われた日。

 あの日の日付は、10月8日。

 こちらの日付では、花鳥はなどりの月の、偶然にも8日だった。

 そこから地鼠の月……元の世界風に言うと1月までは、ひと月あたりの日数のバランスは一緒だから……


 1月11日。

 ……わたしの誕生日だ。


「どうした? 何かあるのか?」

「ううん、何でもないや」


 考え込むわたしの顔を、シュリが不思議そうに覗き込むので、わたしは慌てて首を横に振る。

 国を挙げての一大イベントと、庶民若干1名の誕生日の日程が重なっていることに気付きました、だなんて。そのような些細なことで、煩わせたくも無いし。

 特に進んで口に出すべきことではないだろう。

 そんな風に思うので、黙っておく。

 シュリは少しだけ怪訝そうに片眉を潜めたけれど、特にそれ以上深く追求してはこなかった。






 日用雑貨を少しと、王女姉妹用の教本に使う帳面、自分の執務用のインクなど。

 目的のものを買い揃え終える頃には、真上だったお日様も随分と傾いてきていた。

 もう少しすれば、空が茜色に染まり始めるだろう。

 今日は午後からの外出だったのでそれも仕方が無い、と、そんなことを考えながら。

 少ないとはいえ両手を使う程度の荷物を持ったシュリを引き連れ、わたしは、とある屋台の前に立っていた。


「おっちゃん! たこ焼き一丁!!」

「おう、威勢がいいなお嬢ちゃん! だがタコヤキじゃなくてクラーク・ベイクだぜ!」

「名詞とかどうでもよろしい! おいしいから!」

「そうかい、ありがとよ!」


 屋台の前で仁王立ちになり、びしりと立てた人差し指を突き出しながら注文する。

 これが、屋台でたこ焼きを買うときの常識だと思う。

 わたしの斜め後ろでシュリが何か言いたそうな顔をしているけれど、気にしたら負けだ。

 ややあって、「へい、お待ち!」という威勢の良い掛け声と共に、笹船型の紙箱に入れられた屋台フードが差し出される。

 受け取り際に何枚かの硬貨を屋台のおっちゃんに手渡して、わたしは湯気立つそれを見下ろしながら、思わず表情を綻ばせた。


「うへへへ……これぞ外出の醍醐味よね」

「買い食いがメインかよ」

「いやいや、そんなばかな。メインイベントはあくまでも王女様達のための買い物であってですね」

「そんな嬉しそうな顔してたら説得力ねぇよ」

「うっ……」


 指摘されて、わたしは言葉に詰まる。

 たこ焼きを前にしたわたしの表情が、いつになくきらきらと輝いていたのだろう。自覚もある。けれど、たこ焼きが相手では仕方が無い。わたしは負けを認めざるを得なかった。

 苦笑しながら溜め息をひとつ吐き出して、シュリはつかつかと歩き出す。

 これまでわたしに先を歩かせていたので、どこへ向かうのかと焦って後を追い掛けると……彼が足を止めたのは、屋台から少しだけ離れた場所にあるベンチの前だった。

 王城の前に真っすぐに伸びる道をしばらく進んだ場所にある、大きな広場。わたしがたこ焼きを購入した屋台は、その一角にある。

 城下の人々の憩いの場所になっているらしいこの広場は、中央に大きな噴水があり、それを中心に、綺麗な白の石畳が円形に広がっていた。

 たこ焼き以外にも屋台は幾つもあって、ちらほらと何かを購入して休憩を楽しむ人達の姿が見られる。

 そのためベンチも幾つも設置されていて、シュリが顎をしゃくって座るよう促したのも、そのうちのひとつという訳だ。

 食べるなら座って落ち着いて食べろということか。

 結構長いこと歩いて少しだけ疲れていたので、わたしは、素直に従って腰を降ろす。

 シュリはベンチの隅に荷物を置くと、わたしの隣に座ってベンチの背もたれにその背を預けた。


「シュリ、色々練り歩いてごめんね。疲れた?」

「お前ほど疲れてねぇよ。気にすんな」


 背を預けたまま目を閉じてしまったシュリが心配になって声を掛けると、そんな答えが返ってくる。


「うむ、ありがとう」


 わたしはほっとして、手の中のたこ焼きへと向き直った。

 鼻腔をくすぐる、香ばしいソースの香り。

 ひとつ、串で刺して口の中へと放り込む。

 前回はお城へ帰ってから食べたので、ある程度冷めていたのだけれど。今回は正真正銘の出来立てあつあつだ。

 さっくりトロトロのそれを、はふはふと言いながら、わたしは一生懸命に咀嚼そしゃくする。

 自然と顔は上を向いてしまい、視界に飛び込んできたのは、まだ茜色に染まっていない青空だった。

 石畳の白に、空の青。噴水の白と青。お城の外観も白と青。

 わたしの中ではすっかりこの国のイメージカラーになった、2色。

 広場から聞こえてくる、屋台の人々と住民達とのやり取り。噴水の近くで遊ぶ子供達の声。渡り鳥のさえずり。木々の微かなざわめき。

 この穏やかな情景に似合うのはどんな曲かな、なんて考えながら食べ進めていたら、いつの間にか目を開けたシュリが、わたしの顔をじっと見ていることに気が付いた。

 白と青の世界の中では異質にすら見える、緋色の髪。その緋色に少しだけ日の光を混ぜたかのような、オレンジの双眸。

 切れ長なその目は眩しいものを見るかのように細められ、表情も見たこともないほど穏やかで、どことなく甘さが含まれていて……

 何となく、緊張してしまう。


「何、笑ってんだよ」


 どう反応したら良いものかと考えあぐねいていると、シュリが先に口を開いた。

 穏やかな問い掛けに、わたしは首を傾げる。

 わたしは笑っていただろうか?

 意識はしていなかったけれど……綺麗な風景に囲まれて、美味しいたこ焼きを食べて、音楽について考えて……嬉しくて、もしかしたら自然と笑みが零れてしまっていたのかも知れない。

 そう思ったら悪い気はしなくて、わたしは、今度は意識的に笑みを浮かべた。


「幸せに浸っていたのだよ」

「そうか」


 わたしが返答すると、再び穏やかな声で、彼は言う。

 普段の優しさとはまた違った雰囲気に緊張が増していくのを感じて、状況打開のため、わたしは話題転換を試みてみることにした。


「ところでシュリ、本当に要らなかったの? たこ焼き」

「ああ、腹も減ってねぇしな。気にすんなよ」

「折角、おごってあげようと思ったのに」

「お前におごらせられるかよ」

「むー、ケチんぼめ」

「……ケチって言うのか? これ。つーか俺がおごってやるって言ってんのに、言うこときけよ」

「断る!」

「強情な奴だな」


 そう、屋台でたこ焼きを購入する少し前のこと。

 わたし達は、その件でちょっとした言い合いになっていた。

 シュリは要らない、というところまでは良かったのだけれど、わたししか食べないのに彼がおごると言い出し。断ってもなかなか引き下がってくれなかったので、最後は軽く無視して強行突破したのだ。

 たかがたこ焼き代、されどたこ焼き代。

 むしろ最初に色々と買ってもらったりお世話になっている恩があるのだから、わたしの方がお返しして然るべきなのだ。この前の感謝の贈り物程度で事足りるだなんて、思っていない。

 飴だって何度か買って貰っていて、その分のお返しもまだなのに……

 その点についても言及して、お給料を貰ったのだから使ってもらった分を返させて欲しいとも言ったのだけれど。シュリは、気にすんなの一点張り。


 ……ったく、強情なのはどっちなのよ。


 内心でひとりごち、わたしはシュリから視線を逸らして再びたこ焼きを口の中へと運ぶ。

 すると、幸せな味が口の中いっぱいに広がって、飲み込み終わる頃には怒りも和らいでいた。



「……やっぱり、ひとつだけ貰うか」


 もうひとつ、串に刺して口の中へと放り込もうとしたとき。シュリが一言、そう呟く。

 やっとその気になったかこ奴め、と。

 何だか嬉しくなって、わたしは串に刺さったそれをシュリの目の前に差し出そうとした。

 けれど、その前に。何かが素早く近付いてきて、わたしの視界を遮る。

 目の前にシュリの双眸があることに気付いたのは、一拍置いてからだった。

 彼はわたしの正面から覆いかぶさるようにして顔を寄せ、わたしの口の中へと放り込まれようとしていたたこ焼きを、口に含んでいる。

 わたしは、驚愕したこと以上に危険だと判断し、硬直して動くことが出来なかった。


 要するに、近い。

 具体的には、たこ焼きが間に無かったら、唇が触れてるんじゃないかってほどに。

 不用意に動けば、本当に触れてしまいかねない。


 口元にあったたこ焼きを奪い取ったシュリは、わたしの漆黒の目をじっくりと覗き込んでから、顔を離す。

 近付くときは素早かったというのに、離れる動作はやけにゆっくりだった。


「ん、美味いな」


 元の位置へと戻ったシュリは、たこ焼きを飲み込んでから、何事も無かったかのように感想を述べる。

 いやいや、確かにたこ焼きは美味しいけれど、おかしいから。

 何か色々とおかしいからね?


「隊長、質問です」

「なんだ?」


 たこ焼きを奪われてしまった串を口元へと掲げたままでの質問に、シュリ隊長はいつものように反応してきた。

 わたしは彼の方は見ず、その串をじっと睨み付けたままで続ける。


「この国の人々は、スキンシップ過多がデフォルトなんでしょうか」

「スキンシップ?」

「誰にでもお手軽に、触ったり抱きついたり顔を寄せたり耳を舐めたりするのが一般常識なのかって聞いておるのです」

「一般常識ではないな」

「じゃあなぜセクハラ行為を働きますか」

「今のどこにセクハラ要素があったんだよ」

「なぜ。わざわざ。わたしが食べようとしていたやつを取るの。こっちにもまだ残ってるのに!」

「そっちの方が美味そうに見えたからだな。その程度で怒るなよ」


 しれっとした態度で、隊長殿はそんなことを仰った。何だその屁理屈は。

 それに……言うに事欠いて、その程度、だと?

 シュリにとっては何気ない行為でも、こちとら奥ゆかしき日本生まれのおばあちゃん育ち。過剰なるスキンシップに対する耐性の低さを、舐めてもらっては困る。

 けれど、隊長殿がその程度と仰るのなら、その程度のことなのかも知れないし。

 そうなると、過剰に反応を示す方が馬鹿馬鹿しいのかも知れない訳で……

 ぐるぐると思考を巡らせるうちに硬直が解けてきたわたしは、紙箱に残っているたこ焼きを串で刺して、自分の口へと運ぶ。


「どれ食べても味は変わらないと思う」


 それをよく噛んで飲み込んでから、抗議とも言えないささやかな呟きだけは、吐き出しておいた。




-*-*-*-*-*-*-




 執務室に、ぎこちないながらも丁寧なピアノの音が響く。

 音階にも似た単純な旋律のそれは、幼い、けれども上品に手入れがされた綺麗な手によって奏でられている。

 きゅっ、と小ぶりの苺のような可愛い唇を引き結んで、一生懸命にピアノへと向かうのは、アルス・ノーヴァの第二王女であるロザーリエ様。

 年齢は8歳とのことで、容姿は、リーゼ様をそのまま縮めたかのようにそっくりだった。

 容姿で違うところといえば、リーゼ様は右が蒼で左が碧のオッドアイだけれどロザーリエ……ローザ様は右目が菫色なところと、ゆるく波打つ金色の髪が肩辺りで切り揃えられているところくらい。

 可愛いなぁ、なんて思いながらその横顔を見ていると、やがて、短い曲が終わる。

 ローザ様は鍵盤からそっと指を離して、わたしの方へおずおずと視線を向けてきた。

 その不安げな上目遣いは、反則的に可愛いと思う。


「うん、上手になりましたね」

「ほんとう? アコ先生!」


 ぱっ、と、ローザ様は一瞬にして向日葵のような笑顔を浮かべた。

 つられてわたしも笑顔になる。


「本当ですよ。そろそろ、右と左を同時に弾く練習に移ってもよさそうです」

「できるかしら……」

「大丈夫ですよ。沢山練習したんですから。落ち着いて、それぞれの指の動きを思い出してみてください」

「はい」


 緊張の面持ちで、ローザ様は再び鍵盤へと両手を添えた。

 両方同じ指運びをする曲はこれまでにもやらせたけれど、簡単な練習曲とはいえ、今は左右で別な動きをするものをやらせている。先ほどまでは、右手のみの練習をさせていたのだ。

 左右別々に動かすことは、習い始めだとなかなか難しいことなのだけれど。わたしは、ローザ様ならば簡単にクリアしてくれるだろうと思っている。

 ほら……

 予想通り。この曲を両手で合わせて弾くのはこれが初めてだというのに、ぎこちないリズムながら、その音はきちんと譜面の音を辿っていた。



 午前に一時間程度、ローザ様。

 午後に一時間程度、リーゼ様。

 それぞれ、週に4回の講義。

 それが、わたしが彼女達の先生となるよう課せられた時間だった。


 今は午前中で、まだ5回目の、ローザ様の講義の時間。

 それなのにここまで上達できているのは、彼女の飲み込みの速さも勿論あるけれど、自由時間の殆どをこの場所での練習に充てているという理由も大きいだろう。

 当然といえば当然のことながら、ピアノはこれ一台しか存在せず。王女様達が練習をする時は、必然的にこの執務室を訪れることになる。

 自主練習をするのはローザ様だけではなくリーゼ様も同様で、そのためこの1週間、わたしはふたりの一生懸命さをずっとその傍で見てきた。

 懸命さもさることながら、姉妹揃って本当に上達が早くて。先生として、嬉しくなってしまう。



 短い曲が終わり、ローザ様は先ほどと同じように、おずおずと傍らのわたしを見上げてきた。

 わたしは微笑んで、彼女の頭をそっと撫でる。

 本当は、王女様に対してこんなことをしてはいけないのかも知れないけれど。精一杯、褒めてあげたい気持ちを表現するには、これが一番だというのがわたしの信条だ。

 ローザ様も嬉しそうに表情を綻ばせたので、良いということにしておこうと思う。


「合わせて弾くのは初めてなのに、上手にできましたね。次はもう少し肩の力を抜いて、リズムに気を付けながら弾いてみましょうか」

「はいっ!」


 コン、コン。

 リーゼ様が可愛らしく返事をするのと、執務室の扉がノックされたのは、ほぼ同時だった。

 入室を促すと、ローザ様付きの女中さんが姿を現す。紅茶色の髪をひっつめにした、中年だけれども綺麗な女中さんだ。


「ロザーリエ様、次のご講義のお時間になりますので、お迎えに上がりました」


 女中さんが告げると、ローザ様はさも残念そうに表情を歪め、肩を落とす。

 幼いといえども王族。小さな彼女の一日の予定は、しっかりと埋まっているのだ。


「アコ先生、明日は先生のじゅぎょうのまえに、少しだけ時間があるの。早めにきて、れんしゅうをしてもよいかしら?」

「勿論です。お待ちしていますね!」


 わたしの服の裾を掴んで尋ねてくるローザ様が、可愛くて仕方が無い。

 思わずまた頭を撫でてしまって、女中さんの前だったことに気付いてはっとしたけれど……ローザ様の女中さんは、静かに微笑んでいた。

 良かった、撫でても大丈夫みたい。


 女中さんに促され、片手で教本を抱えて名残惜しげに手を振りながら去っていくローザ様を、わたしも手を振り返しながら見送る。

 見送りが終わってから、ピアノの蓋を閉めたり布を掛けたりして後片付けを行い、執務机へと着いた。

 そうして、考える。


 これだけ一生懸命取り組んでくれていて、上達も速いのなら……


 うん、もしかしたら良い案かも知れない。

 ジークさんに会ったら提案してみよう、と心に決めて、わたしは執務へと取り掛かった。

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