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アコ様の秘密のメモ帳  作者: エシナ
ACT1 - A pianist's birth unknown episode.
16/26

第6話 - 衣装道楽 【前編】

作中に登場する曲は、相変わらず下記アドレス(自サイト)にてMIDIを試聴可能です。

宜しければ、是非に。


http://queen.s18.xrea.com/original/aco/co.html

「ア・コーーーーー!!!!」

「ほわっと!?」


 ずっばーん、と。

 唐突にえらい勢いで開かれた執務室の扉の音に驚いて、びくりと肩が跳ねる。

 執務机から転がり落ちそうになったペンを慌てて救済し、扉の方を見やれば、そこには金髪オッドアイの美少女が立っていた。

 美少女……リーゼ様は、綺麗に結い上げられた髪を少し解れさせ、疲労を隠しもせずにゼェハァと肩で息をしている。まるで全力疾走してきましたとでも言わんばかりに。

 一国の王女様が城内を全力疾走しても良いものなのだろうか。

 そんな走りにくそうなドレスで全力疾走なんて出来るものなのだろうか。

 何事も慣れということなのだろうか。

 色々とツッコミを入れるべきか迷ったけれど、真っ先に気に掛けるべきはそこではなくて。わたしの執務室へと全力疾走してまで訪れた、その理由だろう。

 何せ、基本的に王族が王族の棟以外へ足を運ぶこと自体が少ないのだ。(リーゼ様は殿方観察のために行政棟付近を割とよくうろついているけれど)しかもわたしを名指し。自分に関係ないと考える方が不自然というもの。

 わたしは救済したペンを執務机に置き直してから立ち上がり、息が落ち着いてきたリーゼ様へと歩み寄る。


「リーゼ様、どうしました?」

「どうしました、じゃないわよ! アコ、貴女、音楽家になったんですって!?」


 驚愕の色が滲み出る表情を浮かべたリーゼ様にずいっと詰め寄られ、逆にわたしが驚いた。

 女王様と第二王女様らしき人はそのことを知っているはずなので、リーゼ様も知っているものだと思い込んでいたけれど……意外と伝わっていないものなのか。

 まあ、女王様の前で演奏したのがほんの三日前のことなので、それも仕方が無いのかも知れない。

 はい、と言って、わたしは頷いた。


「一昨日、女中から音楽家へとジョブチェンジすることになりまして。昨日から自分なりに活動してます」

「まあっ……では、騎士棟の観察情報の収集に関しては、今後どうすれば良いのかしら……」


 真っ先に気にするのがそこですか。

 流石です、第一王女様。素敵すぎます。

 それが心配で全力疾走してきた訳なのですねっ!

 思わず心の中でツッコミを入れながらも、その点に関して抜かりは無いのでハードボイルドな笑顔で親指を立てておく。


「ご心配なく。観察の手練メルさんが配置されておりますので」

「まあっ! それなら何の憂慮も要らないわね!」


 そう言って花がほころぶかのような笑顔を浮かべたリーゼ様は、とてもお美しい。本当にもう、心からお美しい。涙が出そうなほどに。



「リーゼ様。人通りのある場所でドレスの裾を持ち上げ全力疾走は、少しばかりはしたないかと思われます。現場を目撃したギュスター様が驚愕のあまりぎっくり腰を引き起こしておりました」


 わたしがひとりたそがれている間に、リーゼ様の後を追ってきたらしいジネットさんが静かに入室してきた。

 ジネットさんはあくまでも淡々と語っているけれど。ぎっくり腰を引き起こすほどの疾走っぷりってどんだけだ……やばいちょっと見たかった。

 ちなみにギュスターさんというのは、司法棟でかなり高い地位に居る人、だった気がする。


「あらっ、ギュスター爺は少しばかり働きすぎのようだから、これで休めるわね」

「そうですね」

「それに、私が急ぐ羽目になったのは貴女が原因なのよ? 急に、アコが音楽家だなんて言うんだもの」

「大変失礼を致しました。ところでリーゼ様、御髪おぐしが乱れております」

「あら、本当?」

「お直し致します」


 老人の腰より主様の御髪の乱れの方が深刻な問題らしいジネットさん。彼女はどこぞから取り出した高級そうな櫛で、さっさとリーゼ様の乱れた髪を修正した。

 ほんの数秒で一切乱れの無い姿を取り戻したリーゼ様は、くるりとわたしの方へ向き直る。


「アコ、もし良かったら、音楽についてわたしに色々と教えてちょうだい!」


 そう言ったリーゼ様の目は、爛々と輝いていた。

 彼女は先ほどまでわたしが向かっていた執務机に歩み寄り、わたしが書いていたものを興味深そうに手に取る。

 わたしが昨日の夕方から書き進めていたのは、拍とリズムについて、音楽記号の名称など、小学校の教科書に載っていそうな基礎的な内容だ。何の知識も無い人にも判るように、と考えるとなかなか難しくて。執務机の上には、まとめようとしている情報が殴り書かれた下書き用の安い紙が、大量に散らばっている。

 あまりじろじろと見られると、それなりに恥ずかしいんだけれど……本当に殴り書きだし。

 リーゼ様はそんな心中などお構い無しに、目に留まった内容についてわたしを質問攻めにしてきた。

 それは単なる知識欲から来る行動なのか。何にせよ、これまで遠ざかっていた得体の知れないものを積極的に受け入れようとするその姿勢には、素直に好感が持てる。

 そうしてひととおり満足したリーゼ様は、今度は傍らに置いてあった大き目の帳面を手に取った。

 布製の立派な外装のそれは、基礎知識のまとめと同時進行で、気分転換にとピアノ曲の楽譜を書き起こしていたものだ。


「これは何の暗号かしら?」


 爛々と輝いたままのリーゼ様がそんなことを口走るので、わたしは思わず噴き出してしまう。

 確かに。音符や音楽記号が、五線譜の上に一見雑然と散らばっているそれは、何の予備知識も無い人からすれば暗号のように見えるのかも知れなかった。


「それは“曲”です」

「キョク?」

「はい。音楽の、ひとつの作品とでも言いますか。そこに書かれている通りに音を出していくんです」

「まあ……これは、どんな“キョク”なのかしら」


 そう言われて、口で説明するよりも実際に聴いてもらったほうが早いだろうと思い立つ。

 わたしはダークグリーンの布を被ったままのピアノに近付いて、するりとその布を取り去った。目の前に、黒塗りの艶やかな胴体が現れる。

 上蓋を開いて固定し、鍵盤の蓋も開くと、爛々とした輝きを更に増したリーゼ様が近付いてきた。彼女は開放されたケースの中身をまじまじと覗き込む。


「これは机では無かったのね。不思議な形で、何に使うのかしらと思っていたけど」

「私はてっきり、何かをモチーフにしたオブジェかと」


 ジネットさんまで真面目な顔でそんなことを言うので、わたしは声を上げて笑ってしまった。

 それから、これはピアノという“楽器”だということを説明する。

 本当に、見たことすら無いんだなぁ……と。変に感心してしまった。

 触ってみても良いか、というので、鍵盤を押してみるよう勧める。

 ポーン、と。

 リーゼ様の白魚のような指で鍵盤が控え目に押されると、連動するハンマーが持ち上がって弦を叩く。響いたのは、澄んだ印象を与える音だった。

 昨日も響きを確認がてら少し弾いてみたけれど。相変わらず良い音を出してくれる。

 そっと指を離したリーゼ様は、胸の前で手を組んで感動を露にした。


「これはひとつひとつ違う音が出るのね。アコ、私、早くその“キョク”を聞いてみたいわ!」

「では僭越ながら」


 リーゼ様とジネットさんに2人掛けの卓子の椅子を勧めてから、わたしは仰々しく一礼をしてみせる。

 ピアノ用の椅子に座り、足はペダル、両手は鍵盤に添えて。わたしは、ゆっくりと指を滑らせた。




 ドビュッシー、ベルガマスク組曲第3曲、月の光。


 出だしは、精妙にして美しい響き。

 闇夜に降りそそぐ月の光。その雰囲気を見事に描き出したこの曲は、ドビュッシーの曲の中でも一般的に広く親しまれている。

 聴き心地の良い、空想的で甘美な曲調がその理由だろう。

 流れるかのような輝かしい音たちは、違和感を与えることの無い豊かな仕上がりだった。


 さきほどリーゼ様が手に取った布製外装の帳面には、この曲が記されている。

 何故この曲から書こうと思ったかというと、単に、昨晩の月が綺麗だったから。それだけだ。




 帳面にはまだ途中までしか書き起こしていないけれど、演奏は最後まで行う。

 ゆっくりと鍵盤から指を離して、最後まで静かに聴いてくれたふたりにお礼を述べようと視線を向けて。


「!!!!??」


 あまりの恐怖と驚愕に、重力という縛りなど無視して椅子から数十センチほど飛び上がった。


 きらきらと室内でも輝く長い銀糸の髪。

 深い、深い、赤の瞳。

 質素な黒のローブに包まれた、けれども隠しきれない、女性を強調する体のライン。

 胸の前で祈るように組まれた綺麗な形の手。

 女性の理想形とも言える、それらのひとつひとつのパーツを決して崩すことの無い、上品で美しい顔立ち。

 そこには恍惚とした表情が浮かべられ、両の瞳は潤んで艶かしさを漂わせ……両の鼻の穴からは、瞳よりも濃く赤い血液がぼたぼたと溢れ出している。

 要するに、まごうことなきサリアさんがそこにいた。


 い つ の 間 に 帰 っ て き や が っ た …… ! !


 彼女が出張中なことにより、ここのところ平和な日々を送れていたというのに。油断しているところに突如現れたことによる精神的ダメージは大きい。

 そもそもいつ部屋へ入ってきたのか。演奏に集中していたとはいえ、気配すら感じなかった。

 それにリーゼ様もジネットさんも、致死量と思われる大量の鼻血については華麗にスルーしていらっしゃるが、大丈夫なのだろうか。

 変態って死なないの?

 日常茶飯事なの?

 わたしがおかしいの?


「あぁん、アコ様っ、素敵ですわっ!!」


 サリアさんは恍惚とした表情と鼻血はそのままに、回避不可能な速度でわたしへと迫ってきた。

 鉄の臭いがぷんぷんしやがる。

 そんなことを考えたのも一瞬。彼女はわたしの顔をぐわしっと両手で掴み、ぐりぐりと頬を擦り付けてきた。

 それはもうぐりぐりと。ぐりぐりと。

 息遣いも荒い。ハァハァいってる。


「小さくてお可愛らしくていやらしいばかりか、このような心を鷲掴みにする特技までお持ちだなんてっ! わたくし、今すぐに色々と行動に移したいほどに感動いたしましたわっ!!」

「本当……音楽って、キョクって凄いのね。こんな気持ち、初めてよ」

「私も、感動しました」


 いやいやいや。

 リーゼ様もジネットさんも、何を普通に会話に参加していらっしゃるのか。

 王国唯一の音楽家が変態の餌食になってるんですけど。今にも事切れそうなんですけど。

 ……そうだ草になろう。

 わたしは雑草。何度踏み付けられても挫けない、名も無き草。彼らの強靭な生命力を以ってすれば、きっと変態も乗り越えられる。


「サリア。絨毯に血が染み付いています。いい加減に鼻血を止めてください」

「あら、失礼致しましたわ。まぁ……アコ様の可愛らしい頬にも血飛沫が。責任を取って、わたくしがいやらしく舐め取って差し上げましょう」

「いえ。お気遣いなく。洗顔してきますのでやめてください」

「あぁん、遠慮などなさらなくても結構ですのにっ」

「遠慮じゃなくて拒否です。拒絶です。いい加減理解しやがってください」


 ジネットさんのお陰で鼻血は止まったけれど、サリアさんは相変わらず絶好調のようだ。

 未だ擦り付こうとするサリアさんを両手で遠ざけるように引き離して、わたしは全力で目を合わせないよう尽力する。

 名残惜しそうに、けれどもようやく離れてくれたサリアさんは、ジネットさんが颯爽と絨毯の染み抜きをするのを手伝い始めた。



 その様子を疲れ果てた精神で眺めていると、再び興味深げにピアノへと近寄ってきたリーゼ様が、ぽつりと言葉を漏らす。


「ねぇ、アコ。私でも、さっきのようなキョクが出来るようになるかしら」


 わたしは数度、目を瞬かせてリーゼ様を見た。

 彼女は、純粋に楽しそうな。期待に溢れた表情を浮かべている。


「勿論。練習すれば、きっと弾けるようになります」


 そう返すと、リーゼ様があまりにも嬉しそうに笑うので、わたしもつられるようにして笑みが零れた。

 受け入れるばかりか、自分も紡ぐ側になりたいと。

 純粋な気持ちでそう言って貰えることは、わたしのピアノが大好きな気持ちが伝わったような気がして、単純に……嬉しい。


「では、私、アコからピアノを教えて貰う時間を作って貰えるよう、お母様に頼んでみるわ!」


 そうしたら、アコは私の先生ね、と。

 リーゼ様はそう言って再び笑う。

 もはや染みというレベルでは無い血痕を染み抜きすることを諦めたジネットさんも、顔の血を拭って本来の穏やかな美貌を取り戻したサリアさんも、それは良い考えだと賛同してくれる。

 わたしとしても、弾き手がひとりでも増えてくれることは嬉しいので、零れてくる笑顔はそのままに、頷いた。


 リーゼ様が、今弾いた曲への感想と今後の熱意をせつせつと語り始める。その隙にと、ジネットさんとサリアさんは、替えの絨毯を取りに執務室を出て行った。

 保管場所は近くにあったらしく、彼女達はすぐに戻ってくる。

 その頃には興奮気味だったリーゼ様もだいぶ落ち着いてきていて、わたしはそんなリーゼ様の様子に再び笑みを浮かべながら、殺人現場のようになっている部分の絨毯の取り替え作業を手伝った。

 このふさふさ絨毯、部屋一面分が一枚じゃなくて、一定の大きさのものが敷き詰められているタイプで本当に良かったと思う。そうでなければ、替えるだけでも一大事だ。




「そういえば、アコ。音楽家になったというのに、衣装は女中のままなの?」


 リーゼ様が素朴な疑問を口にしたのは、取り替え作業が終わって一息ついた、そんな時のこと。

 確かに、昨日の買い物では他のものを選ぶことに夢中で私服を買い損ねたわたしは、未だにジネットさんとリボン違いの女中の制服のままだった。

 もはや癖で、この制服に着替えてしまうのだけれど……やっぱり、ジョブチェンジしてまでメイド服はおかしいだろうか。

 ふむ、と、自分の服を摘みながら見下ろすと、ジネットさんがゆらりと動いた。

 その目には得体の知れない輝きが宿っている。

 何だろう。動き自体はそう大したものではないのだけれど。普段が徹底的に無表情なぶん、その奇妙な反応の示し方に恐ろしさすら感じてしまう。


「衣装、ですか」


 声だけは普段どおり淡々と、ジネットさんは呟いた。

 どうやら彼女が反応を示しているのは、衣装という単語らしい。


「ええ、だって、もう女中ではないのだから、相応しい衣装を身に着けるべきじゃないかしら?」

「まあ、それは素敵な考えですわ。でしたら、是非、わたくしがお贈りしたローブを普段着に」

「絶対に嫌です。まあでも普段着については思うところもあるので、次の買い物の時にでも……」

「アコ」


 適当に選んでみます、と続けようとしたわたしの言葉は、ジネットさんによって遮られた。

 彼女の表情は変わらない。けれども目に宿る強い輝きは保たれたままだ。


「買いにいくまでもありません。衣装のことなら私めにお任せを」


 そこはかとなく胸を張って、ジネットさんは淡々と告げる。

 リーゼ様は賛同するかのように頷き、サリアさんは感嘆の声を上げ表情を輝かせた。


「ジネットは縫製や服飾のデザインが得意なのよ、アコ。衣装が無いのなら、ジネットに任せるのは確かにお奨めだわ」

「ジネット、わたくしも協力致しますわ!」

「いやあの」

「そうと決まれば善は急げです。早速作業に取り掛かりますので、私はこれにて失礼致します。リーゼ様も、次の講義の時間が迫っておりますよ」

「あら本当。残念だけど、もう行かなくちゃ!」


 わたしの言葉など聞いちゃいねぇ3人は、慌ただしく立ち去っていく。


「あっ、アコ! 音楽家になっても、同胞活動のことは忘れちゃだめよ!」


 最後にひょっこりと扉の奥から顔だけを出したリーゼ様がそう告げて、執務室の扉はぱたんと閉じられた。

 衣類を用意して貰えるのは、気が引けるとはいえ幸運なことだとは思うけれど……サリアさんが関わっている時点で、嫌な予感しかしない。

 どうしたものか。

 そう思いつつも、静かに火が点いたらしいジネットさんその他諸々を止める術を、わたしは知らない。

 わたしは宛もなく扉の方へ伸ばした腕はそのままに、がっくりと肩を落として、床へと向けて溜息を吐いた。






 昼食の席にジネットさんが現れることは無く。

 わたしは不安を抱えたまま、ピアノへと向かい合う。

 午後からも少し、まとめるべき基本情報の捻出を行ったけれども、どうにも集中できなくて早々と放り投げたのだ。

 もやもやした気分を払拭するには、指を動かすに限る。

 わたしはとにかく素早い指の運びや技巧が必要とされる曲を選んで無心で弾きまくった。

 すると、ちょうど曲の節目の辺りで、室内に扉をノックする音が割り込んでくる。

 入室を促すと、見慣れた人物が静かに扉を開いて入ってきた。


「失礼します」


 そう言って穏やかに微笑むのは、ジークさんだ。

 わたしは椅子から立ち上がり彼を迎え入れる。


「どうしましたか?」

「休憩がてらアコさんの様子を見にきただけです。何か不便はありませんか?」

「不便などありませんとも! あ、良かったらこちらへどうぞ」


 休憩だというので、わたしは2人掛けの卓子の椅子を勧めてジークさんに座って貰った。

 それから、自分用にと沸かしていたお湯の様子を見に行く。

 向かったのは、清掃用具のついでにとジネットさんが手配して取り付けてくれた、執務室の隅にある簡易給湯室のような場所だ。

 そこには卓上IHクッキングヒーターに似た台がひとつ設置され、隣の小さな戸棚の中に、茶葉や茶器が置かれている。

 台の上に置かれたポットは、カタカタと微かな音を立てていた。ちょうど沸騰したところのようだったので、わたしは台の正面側で明滅する赤い光に触れて、熱を止める。

 形が卓上IHクッキングヒーターに似ているこの台は、魔石で熱を発生させる構造以外は用途も一緒の簡易コンロのようなものだ。城内各所の調理場には、動力構造は一緒の大きな魔石コンロと、火をくべて使用する炉の両方が設置されている。この執務室に置かれているものは、残念ながら調理場の大きなコンロのように熱さの強弱調整は出来ないけれど。休憩時間にお湯を沸かす程度なので特に問題は無く、使い勝手も良かった。

 わたしがお茶を淹れようとしていることに気付いたジークさんは遠慮してくるけれど、折角の休憩時間なのだから、ゆっくりと休んでもらわねばなるまい。

 ……まぁ、わたしの執務室で茶をしばくことが休憩になるかどうかは置いておくとして。

 普段お世話になっている分、このくらいはして然るべきだと思う。

 ふたり分のお茶を淹れ終えると、わたしはそれを銀盆に載せて卓子まで運んだ。

 ジークさんの前に湯気立つカップを置くと、彼はふわりと表情を綻ばせる。

 その目許を見て、わたしは口許を緩ませた。


「隈、薄くなっているみたいですね」

「はい。アコさんに頂いたアイピローのお陰ですね。昨晩はそれを乗せて眠りましたので」


 彼はさらりと嬉しいことを言ってくれる。

 折角の美貌に隈を作っているジークさんを心配したわたしは、昨日の贈り物に、血行促進に効果があるという魔石が使われたアイピローを選んでいたのだ。

 効果が出ているというのなら、贈った甲斐もあったというもの。


「ありがとうございます」


 そう言って、ジークさんは例の攻撃力の高い笑みを浮かべる。

 わたしはそれに対して辛うじて微笑み返し、自分用のカップとソーサーを持って、ピアノ用の椅子へと横向きに腰掛けた。

 あの甘やかな笑顔を浮かべるジークさんと同じ卓へ座る勇気は、わたしには無い。

 この位置ならばある程度の距離が保てるので、落ち着くのだ。


「そういえば。上の者から、第一王女がアコさんからピアノを教わることを希望しているという話を聞きました」

「おっ、もうそちらまで話が行きましたか」

「はい。私としては良い案だと思いますが、どう思われますか?」

「わたしも、弾き手が増えることは嬉しいんです。本人に意欲もあるようですし、可能であれば教えて差し上げたいです」


 そうですか、と、ジークさんは穏やかな表情を浮かべる。

 リーゼ様の話題を皮切りに。お茶を飲みながら、わたし達は今後の執務に関することやとりとめの無いことなど、色々な話をした。

 そうしてカップの中身が無くなる頃、ジークさんは休憩時間が終わるとのことで、席を立つ。

 カップを片付けようとする彼からやんわりとそれを取り上げて、わたしは執務室から立ち去る彼を見送った。

 お茶一杯分だなんて随分と短い休憩時間だけれど、体力は持つのだろうか。

 そんな心配をしながら銀盆に空になった二対のティーカップを載せ、わたしは片付けを始めた。



 それにしても。

 今日はセクハラ紛いの接触が無かったので助かった、と。心底そう思い、わたしはカップを洗いながら安堵の息を吐く。

 エリアスさん辺りは変態なので規格外としても。ここ最近は、ジークさんもシュリも……個人的セクハラ認定行為が目立ってきていて、正直、困っている。

 わたしの心臓は、そっち方面に対してはさほど強靭に出来ていないのだ。

 昨日の出来事を思い出し、ざわりと背筋が騒ぐ。


 この世界の人々は、スキンシップ過多なのかも知れない。

 サリアさんもあんなだしな……


 過剰接触の謎に対し、そんな風に思考を締めくくる。

 後片付けを終えたわたしは、色々なもやもやを払拭するため、再びピアノへと向かい合った。

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