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アコ様の秘密のメモ帳  作者: エシナ
ACT1 - A pianist's birth unknown episode.
15/26

第5話 - 伝説の初任給 【後編】

 ジークさん、メルさん、と、特に問題の無い(前者はひと波乱あったけれど)相手へと贈り物を渡し終えて。

 騎士棟を中心とした女中の方々にも、ささやかな感謝の気持ちを配り終えて。

 残るは、大物ふたりだけとなった。


 片方は、謎の機嫌の悪さゆえに。

 もう片方は、接触することによって己の身に降りかかる確率が非常に高い、セクハラという名の精神攻撃への恐怖ゆえに。

 緊張感が高まっていくのを、ひしひしと感じる。




 主にこの時のための護衛として同行してもらったグレンを引き連れて、わたしは、二度目の来訪となる建物を緊張の面持ちで見上げた。

 各所にステンドグラスがあしらわれた、白い綺麗な建物。

 わたしにとってこの場所は、変態の巣窟である。


「客員魔術師様ですか?」

「うむ。激しい戦いとなることが予想されるので、心して護衛任務に取り掛かるように」

「は、はぁ」


 恐らく、聖堂の中にはエリアスさんが居るだろう。

 普段は城内を歩いているとその辺から湧いて出てくるので、自ら会いに来るのはこれが初めてだ。

 微かな軋み音を上げて開く扉に、更に高まってゆく緊張感。複雑な感情を抱え、わたしは、聖堂内部へと足を踏み入れ慎重に進んでいく。

 内部は相変わらず幻想的で、美しい。

 けれども、床に描かれた複雑で美しい模様も。ゆるやかにたゆたいながらカテドラルを照らす色とりどりの光でさえ、今のわたしの心情を和らげるには至らなかった。

 グレンはこの場所へ足を踏み入れるのが初めてのようで、周辺を見渡しながら素直に感動している。

 奥へと進み、正面から見て台座の右側の壁に位置する木製扉の前に立つ。

 以前サリアさんに教えてもらったここは、エリアスさんの私室へと繋がっているはずだ。

 ノックをするために手を上げて、けれども踏ん切りがつかなくて、わたしはそのまま静止してしまう。


 シュリやジークさんと一緒に奔走してくれたエリアスさんにも、ここ最近お世話になりまくっているのは明白だった。

 聞いたところによると、わたしの執務室へ危険防止のための感知結界を施し、ピアノに掛けられているらしい魔術の解析も進めてくれているのだとか。そういった面で、今後もお世話になることになるのだろう。

 なのでわたしは、彼にもお礼の品を準備していた。

 変態なので何を好むのかよく判らなかったけれど、一生懸命考えて選んだ。

 それにはちゃんと感謝の気持ちが込められていて、言葉と共に渡して然るべきだろう。

 けれどもセクハラは勘弁してもらいたい。

 ……いや、一昨日は僅かな時間とはいえふたりで居ても何もされなかったし、今日は護衛も居るし。幸いなことにサリアさんはまだ出張中ということなので変態に挟まれるという最悪の事態は避けられるし、いざとなったらグレンを生贄にして逃げることもできる。

 うん、大丈夫。大丈夫。


 ごくりと息を飲み込んで決意を固め、わたしは扉をノック――――



「自分から来るなんて珍しいね、アコ」


「!?」

「ひあー!!?」



 ――――しようとしたところで背後から突然声を掛けられ、心臓が飛び出るかと思うほど驚いた。


 ばっと振り向くと、幻想的なこの場所に相応しい微笑みを湛えたエリアスさんが、グレンを挟んですぐ近くに立っている。

 いつの間に現れたのか、足音も、気配すらも無かった。

 グレンもそのことに驚いたようで、激しく動揺している。

 ……国のトップ騎士のひとりである親衛隊員に気配すら悟らせないエリアスさんって、一体。

 じわじわと得体の知れない恐怖心が広がっていくのを感じながら、わたしはグレンにそっと近付いて、紙袋からひとつの包みを取り出した。

 エリアスさんは微笑みを湛えたまま、僅かに首を傾げる。


「初任給を貰ったんです」

「うん?」

「なので、個人的に、今日はお世話になった人にお礼をする日なんです」

「おれにも?」

「はい。ささやかですが、受け取ってください」


 こうなったら勢いでちゃっちゃと乗り切るしかあるまい、と。

 わたしはグレンの半歩ななめ後ろに立ち、口早に説明しながらエリアスさん用の包みを差し出した。

 彼は少しだけ目を見開いて驚きを露にし、わたしが差し出した包みを受け取る。

 それを確認してから、わたしはジークさんやメルさんにした時のように、深く深く腰を折って頭を下げた。

 幾ら恐怖心が滲もうとも、相手がセクハラ前科者であろうとも。感謝の言葉だけは、疎かにしてはいけないと思うから。


「ピアノの件も、執務室の結界の件も。ありがとうございました」


 言ってから頭を上げると、エリアスさんは、驚きの色がが浮かんでいた表情を穏やかに緩めた。そうして、わたしから受け取った手のひら大の小さな包みを、愛しそうに撫でる。

 彼の美しさも相まって漂ってくるのは、もはや神々しさ。

 そうしていると、本当に。

 慈愛と祝福に満ちた、聖職者様のようだった。


「開けても?」

「は、はい」


 うっかり見とれてしまっていたわたしは、エリアスさんの問い掛けで我に返る。

 それにしても、メルさんの時もそうだったけれど……目の前で贈り物の包みを開けられるというのは、何とも緊張するものだ。

 エリアスさんが丁寧に開けた包みから出てきたのは、両側にフックの付いた30センチくらいの細いチェーンに、補強を兼ねた飾りの布が巻かれたもの。

 選んでいるとき、グレンには何に使うものなのかと聞かれたけれど。エリアスさんなら、何の意図を以って選んだものなのか、判ってもらえるだろう。

 彼は片手を自分の腰に回して、牧師風の黒い上着の上から何かを撫でた。チャリ、と、微かな音を立てるその場所。魔術師である彼は、そこに、色々と独特の秘密道具を所持している。

 それは本であったり、お札であったり、小さな刃物であったり……ともかく、それらをベルトに取り付けたチェーンやらホルダーやらに収めているようなのだけれど、いつだったか、チェーンが壊れてばらばらと秘密道具が散らばるのを目撃してしまったのだ。

 もう新調してしまった可能性も考えたけれど、それはそれで、いずれ使ってもらえれば良い。

 意図を汲んでくれたらしいエリアスさんは、にっこりと神々しい微笑を濃くした。


「よく見ているね、アコ。ありがとう」


 いえいえ、と、わたしは言葉を返そうとする。

 けれど、静かに距離を詰めてくるエリアスさんによって嫌な予感に支配されてしまい、声にすることは出来なかった。

 呆然と突っ立っているグレンの横を素通りして迫り来るエリアスさん。後退するもじりじりと追い詰められたわたしは、扉へと突いたエリアスさんの両腕の内側へと閉じ込められてしまう。


「けど、どうせなら別のものが欲しいな」

「さ、左様でございますか。では用件も済んだのでわたしはこれにて失敬をですね」

「アコ。この奥、おれの私室なんだけど」

「そのようでございますね……?」

「寄って行くよね?」

「いえいえそんな滅相も無い。後もつかえていることですし、遠慮させていただきたく」

「時間が無いんならこの場で手早く済ませても」

「ちょっと護衛! この時のための護衛ーー!! 早く! 出動!!」


 ゆるりゆるりと顔が迫ってくることに耐え切れず、わたしは思わず叫んだ。

 セクハラ族は所詮セクハラ族だということですね!

 前回大丈夫だったからって油断していたわたしが馬鹿でしたよ畜生!

 未だ呆然としていたグレンはようやく我に返り、慌ててわたしからエリアスさんを引き離そうと試みる。けれど、わたしを閉じ込めたままのエリアスさんにじろりと視線を向けられ、冷や汗の数を増やして硬直した。

 深い深い紅に、剣呑な光を宿した瞳。

 向けられれば、恐怖心を抱くことを禁じ得ない。


「あぁ、君、護衛だったの。悪いけど終わるまで待っていてくれる? 何なら見ていてくれてもいいけど」

「何のことか判りませんがとりあえずそこの護衛を倒してからにしてください!!」

「ちょっ、アコさん! 俺を殺す気ですか!?」

「彼がその気なら、やるけどね?」

「まっ……無理! 無理ですって!!」

「グレン青年! 君の勇姿をわたしは忘れない!」


 チャリ、と、エリアスさんが秘密道具に手を掛けたことにより微かな音が立つ。

 脱出するなら今しかない!

 わたしはエリアスさんがグレンに気を取られたその一瞬を狙い、しゅばっと身を屈めて彼の拘束から抜け出した。

 そうしてすぐさまグレンの背後へ回り、ぐいっと彼の服の裾を引っ張る。


「逃げるのよ! 早く!」

「はっ……!?」

「命が惜しくないの!?」

「!!」


 わたしの必死の形相に感化されたグレンは、素早く逃げの態勢に入った。

 片腕でわたしを持ち上げて荷物の如く脇に抱え、一目散に出口まで走る。

 流石は親衛隊員。切り替えも逃げ足も速い。

 自力では有り得ないスピードを体感しながら、わたしは、クスクスというエリアスさんの微かな笑い声を聞いたような気がした。




-*-*-*-*-*-*-




「あのですね。エリアス様は、王国どころか世界一とすら言われるほどに、特に防衛の魔術に長けた方なんですよ。俺では幾ら頑張っても剣先すら届きませんからね? 悔しいですが……」

「へ、へぇー」

「この国であの方とまともにやり合えるのなんて、同じ客員魔術師のサリア様か、騎士ではシュリ隊長かアルノルト様くらいのもんです」

「そ、そうなの……」

「そんな人に喧嘩売らせるなんて、何考えてるんですか」

「まあ、無事だったし良かったじゃない!」

「無事なものですか。死ぬかと思いましたよ」

「ご、ごめんよ」

「一日のうちに三回も死ぬ思いをしたのなんて、人生初ですよ」


 あはは、と、乾いた笑いを浮かべながら、わたしはあまり仕入れたくなかった情報を噛み締める。

 何なんだろう。強い人って変態なの? それで世界の均衡でも保ってるの?


 変態の巣窟を何とか抜け出したわたし達は、騎士棟の通路を歩いていた。歩きながら説教気味にエリアスさんの危険性について言い聞かせてくるのは、グレン青年である。

 どうやらそのエリアスさんが追いかけてくる様子はなくて、助かった模様だ。

 ……というか、グレンが語る通りであれば、わたしのことなんてどうとでも出来るだろうに……見逃してくれる辺り、からかわれているのだとしか思えない。

 どこまで本気でやっているのか判らないので、うすら寒さを感じるけれど。



「おや、アコ君にグレン君ではないかね」


 ぶるりと身震いを起こした辺りで、後ろから声を掛けられた。

 聞き覚えのある声に振り返る。そこには、くすんだ灰色髪の厳つい中年男性が、相変わらず柔和な笑みを湛えて立っていた。

 その後ろには、真逆の……朝と同じような不機嫌そうな表情を浮かべた、シュリが控えている。

 背後のシュリの様子には気付いているのかいないのか。

 わたし達がアルノルトさんへと向き直って一礼すると、彼はそれを制すように手を掲げながらこちらへと近付いてきた。


「音楽家としてこの国へ協力してくれることになったそうだね。騎士棟で女中としての姿が見られなくなってしまうのは寂しいが、後のことはモニカ君に任せて頑張ってくれたまえよ」

「は、はいっ!」

「ところでアコ君。どうやら先程から何か配って歩いているようだね?」

「えっ? あ、はい」


 騎士棟の女中さんにでも聞いたのか。

 近付いてきて目の前に立ったアルノルトさんがそんなことを聞いてきたので、わたしは素直に頷く。


「わたしが居たところでは、初任給で親族なんかに感謝の贈り物をするのが風習みたいなものになっているんです。それで、今日はお世話になった人達に贈り物を」

「ほほう、親族に」


 にこにこ。

 そこで言葉を止めたアルノルトさんは、何かを期待するかのように笑みを湛え続ける。

 えーっと。

 もしかしてあれかな。当然のように自分も貰えると思っていらっしゃるのかな。

 団長のことなんて頭にありませんでした、なんて素直に申し上げたら、このお方は一体どんな反応をしてくださるのだろうか。

 どうしよう。

 困ったのでグレンへと目配せしてみると、彼は、こっそりと紙袋の中を指差してから、わたしへと渡してくる。

 袋の中を見てみると……ああ、助かった。

 カサリと音を立てるそれを取り出して、わたしは、アルノルトさんの前へ差し出す。


「良かったら、受け取ってください」

「おお、ありがとう、アコ君……!」

「いえ、お礼を述べるべきはこちらです。ありがとうございます」


 他の女中さん達へ配ったものと同じ焼き菓子の包みを受け取ったアルノルトさんは、ぱあっと判り易く表情を輝かせた。更には、うきうきと小躍りとも取れるほどに身体を動かしている。

 白状すると、単に多めに買っておいたので余っていただけなのだけれど……

 それでそこまで喜ばれると、嬉しいを通り越して居たたまれなくなってくる。

 わたしは若干引き気味に。グレンとシュリはどことなく白い目でアルノルトさんを見ていた。

 おっさんの小躍りなんて可愛くも何ともない。

 ……と、おっさんはどうでも良くて。毒気を抜かれて苛立ちが沈静化しているらしいシュリにも、今のうちに渡してしまいたいところだけれど。アルノルトさんと一緒に居るということは、何か大切な仕事中なのだろう。

 今は諦めて、また今度顔を合わせた時にしようか。

 そんなことを考えていたら、わたしよりも先に、グレンが口を開いた。


「団長は、これからどちらに?」

「丁度、合同演習の件での打ち合わせが落ち着いたところでな。これから、各隊長への通達がてら、シュリと演習場の指導をして回ろうと思っていたところだよ」

「その付き添いって、俺でも出来ますよね。俺に同行させてください」

「うむ、仕事熱心なことで結構。という訳だ、シュリ。お前は届出関係の方を片付けておいてくれたまえ」

「……ああ、判った」


 多少強引な気がするグレンの申し出にも、上機嫌なアルノルトさんは気付いていないようで。

 グレンは一度だけわたしへと目配せしてから、アルノルトさんを引っ張っていく。

 わたしが諦めかけていたのを察して、機会を作ってくれたのか。それとも前言通り、ちゃんとシュリに事情を説明しておいてくれってことだろうか。

 どちらにせよ、折角グレンが作ってくれた機会だ。活用しない手は無い。

 アルノルトさんは、締まりの無い顔で名残惜しそうにわたしへと手を振りつつ、グレンに腕を引かれながら通路を奥へと消えて行った。

 その姿が見えなくなった頃に、ようやく、わたしは取り残されたシュリを見上げる。


「まあ、こんなところで立ち話も何だ。入るか?」


 彼が指差した先を見れば、そこには、今朝訪れた執務室の扉。

 わたしは頷いて、シュリの後へと続いた。






 十一台の執務机がコの字に並べられた室内を、奥へと進む。

 一番奥の三台のうち、真ん中……シュリの机の上へと書類を置くと、彼は、後へと続いていたわたしの方へ向き直った。

 彼はどことなく、ばつが悪そうな表情を浮かべている。

 よくは判らないけれど、不機嫌は解消されているのだろうか。


「急な護衛だったのに、対応してくれてありがとう」

「あ、ああ」

「グレン、良い子だね。結構無茶させたのに、文句言いながらも付き合ってくれたよ」

「……楽しかったのか?」

「うん。なかなか気に入ったものが買えたし。たこ焼きも美味しかった」

「…………そうかよ」


 ……そして何でまた、不機嫌に逆戻りするかな。報告がてら会話を試みているだけだというのに。

 自分が行けなかったのに、楽しかったって言ったのが悪かったの? でも、質問してきたのはそっちでしょうに。

 あ、何だかこっちまで苛々してきた。

 そっぽを向いてしまったシュリに、思わず、むっと眉根を寄せてしまう。


「何で怒るのよ」

「別に怒ってねぇよ」

「わたし、何かしたの?」

「だから別に……っ!?」


 言い返そうとしたシュリは、唐突に言葉を呑んだ。

 きっと、わたしが両手で顔を覆って俯いてしまったことに驚いたんだろう。小刻みに肩を震わせるわたしを見て、狼狽えているのが伝わってくる。

 泣かせてしまったとでも思っているのか。


「お、おい、アコ……」


「じゃあ何でそんな不機嫌全開なんじゃーーーー!!」


 ぐわっ! と縮こめていた身体を開放して、わたしは思いっっっ切り叫んだ。

 泣いてなどいよう筈もない。

 今のは、ただの溜めだ。爆発するための。

 その場にちゃぶ台でもあれば確実にひっくり返していたであろうわたしの勢いに、シュリは驚いて数歩後退した。

 そんなシュリを据わった目でギリッと睨み付けて、両手で思い切り後ろへと押してやる。

 動揺していた所為でバランスを崩したシュリは、ちょうどこちら側を向いていた彼の椅子へと座る形で倒れ込んだ。

 立ち上がれないように、わたしはすかさず彼の膝の上に片足を乗っけて対面する。

 この体勢、最初に会った日のことを思い出しますネ。

 けれどもあの日のように土下座などしてやらぬわ!!


「おっま、何す……」

「うっさいわ! これでも喰らえ!!」

「!?」


 わたしは持っていた紙袋の中から彼用の贈り物の包みを取り出して、目の前で包装を破り捨てる。

 その中身を勢い良くシュリの頭から被せ、ぐいっと持ち上げてやった。

 前髪が上がることではっきりと露になったオレンジ色の瞳が、驚きに瞬かれる。

 ……シュリ用の贈り物は、ターバンだ。

 獅子のような印象を受ける緋色の髪。シュリは、前髪が煩い時や訓練中にはそれをよくターバンで上げている。だから、これならば使って貰えるだろうと思って。彼に似合いそうなものを、一生懸命選んだ。

 わたしが選んだそれは、勢い任せで雑に付けてやっただけだというのに、良く似合っていて悔しい。


 わたしは悔しさと共にこみ上げてくるものを堪えるためにきゅっと唇を引き結び、彼の上から降りて全力で逃走――――しようとして失敗した。


 踵を返して走り出そうとしたところで、ぐいっと腕を引いてきたシュリに捕えられてしまったのだ。

 ……しかも、椅子に座ったシュリの上に、更に座るような格好で。


「……っ! 放せこのーっ! これじゃやり逃げにならないじゃないの!!」

「やっ……いいから、落ち着け。俺が悪かったから」

「そんなばかな! わたしが悪いから怒ってるんでしょ!? でも原因不明なのでわたしは謝らない!!」


 シュリの膝の上で思いっ切り暴れてやる。

 けれど、いくらじたばたしても。しっかりと抱き込むようにして背後からわたしのお腹に回された腕を、振り解くことは出来なかった。引っ張っても、叩いても、抓っても。びくともしない。

 くっ……悔し過ぎるうううううぅぅぅぅ!!


「あー、もう。あんまり暴れると実力行使すんぞー」

「なにっ……ふぬっ!?」


 不穏な言葉に言い返そうとした瞬間。シュリの男性らしい大きな手が、わたしの顔の下半分を覆った。更にはぴったりと彼の身体に密着するように引き寄せられて、身動きすら出来なくなってしまう。

 これでは昨日の二の舞……

 ……どころか、今日は鼻まで覆われているので、まともに呼吸も出来なくて苦しい。


「むー! ふむーっ!」

「苦しいだろ。早いとこ降参した方が身のためだぞ」


 幾ら頑張っても拘束から逃れることも出来ないし、暴れれば暴れただけ、酸欠状態が深刻になっていく。

 そのうえ耳に触れそうなほど近くでシュリが囁くものだから、ぞくりと背中が粟立った。

 酸欠とも相まって、どんどん抵抗する体力が奪われて……

 残念ながら、わたしには白旗を揚げる道しか残されていなかった。

 ギブ、ギブ! という意味を込めて、ぺしぺしと顔を覆っている彼の手を叩く。

 意図を汲んでくれたシュリは、すんなりと手を外してくれた。けれども腹に回されている腕はそのままなので、わたしはくの字に前かがみになって、ゼェハァと酸素を取り入れる。

 苦しさと悔しさで目尻に涙が浮かんでいることは承知で、それでも悔しくて。わたしはそのままの体勢で振り返り、シュリを睨み付けた。

 ぎくり。一瞬、シュリの肩が跳ねる。

 何故か不自然に目を逸らした彼の、さっきまで顔を覆っていた方の手が伸びてきて、わたしは無理矢理前を向かされた。


「その顔でこっち見んな。あー、色々と、危ないから」

「最後の抵抗だったのに……アナタヒドイヒトネ」

「ああ、悪かった。苛立ったのは、自分に問題があるっていうか……ともかくお前の所為じゃねぇから。気にしないでくれると助かる」

「でも、わたしが同行を断ったのが要因ではあるんでしょ?」

「あー……まぁ」

「グレンでは後見人にも保護者にもなれないでしょ? 年下だし」

「そういう心配をした訳じゃないんだが。まぁ、良いから。気にすんな」

「なによそれ……」


 ふぅ、と息を吐いて、わたしはくの字に折っていた身体を起こす。

 抵抗し疲れていたので、そのままシュリの筋肉質な胸板に背中を預けてやった。彼のせいで体力を消耗したのだから、そのくらいは勘弁して欲しい。



「お礼をね、買いたかったの」


 呼吸も落ち着いたところで、わたしはぽつりと事情を語り始めた。

 シュリも聞いてくれる態勢に入ったようなので、静かに続ける。


「だから、贈りたい本人に同行されたら、困るじゃないの」

「そういうもんか?」

「そういうもんなのよ。恥ずかしいじゃない」

「何でだよ」

「だ、だって……」

「だって?」

「贈り物を選んでいる時は、贈る人のことを考えてる、から」


 言ってしまってから、もの凄く恥ずかしい台詞を口走っていることに気付いた。本人を目の前にして、わたしは一体何を言っているのか。じわじわと顔が熱を持っていくのが判る。

 逃走したい衝動に駆られていると、カタン、と、微かな音が聞こえた。

 次の瞬間、シュリに距離を詰められる。

 詰めると言っても、シュリの上に座って寄り掛かるような体勢なので、距離というほどの距離も無いけれど。

 腹に回った右腕に力を込められて、左腕が身体ごと抱き込むようにして、わたしの右肩へと回された。


「つまり、俺のことを考えてた訳だ」

「かっ、考えなきゃ選べないじゃない」

「そうだな。ありがとうな」

「……っ、それは、こっちの台詞よっ」


 シュリの声が、また、耳のすぐ近くから聞こえてくる。身体を乗り出して密着させ、わざと耳元で喋っているのだろう。

 わたしが逃げないようにと思ってのことだろうけれど、なぜここまで密着する必要があるのか。理解不能だ。

 そもそも。耳元で喋られると……鳥肌のせいで力が抜けてしまうので、やめて欲しい。


「ところで近くないデスカ!?」

「気のせいだろ」

「気のせいなものか! そっ、そろそろ解放を要求する!」

「嫌だって言ったら?」

「シュリの名前もセクハラ族リストに書き加えてやるっ!」

「“も”ってどういうことだよ」

「最近セクハラ族が増えてきてるのよ! わたしの周囲に!」

「……そうか」


 多少不穏な声色で呟いてから、シュリはようやく両腕での拘束を解いてくれた。

 わたしは素早く彼から降りて、捕まらない程度の距離を取ってから振り返る。執務机に対して横向きで片肘を立て頬杖を突いたシュリは、苦笑していた。

 何に対してのものなのかは判らない。

 それにしても……お礼を伝えるつもりが、状況のせいでまともに伝えられなかった。

 改めて言うべきか、と。そんなことを考えていたら、シュリが、先に口を開いた。


「今度、護衛が必要な時は。俺にしておけよ」

「……隊長は、忙しいんでしょう」

「いいから。俺を選べよ」


 耳元で喋られている訳でもないのに、ざわりと背筋が騒ぐ。

 標的を射るかのように鋭く細められた、凄艶せいえんな瞳。

 拾ってもらった日の翌朝に見た光景と、とてもよく似ていたけれど……そのオレンジには、得体の知れない強い光が宿っている。


「……判ったわよ」


 向けられた強烈な光で、この身を焼かれてしまうのではないかという錯覚すら覚えて。

 わたしはその言葉だけを絞り出し、半ば逃げるようにして、親衛隊員の執務室を後にした。

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