星に願いを
猫の声が聞こえた気がして、エマは立ち止まった。
誰もいない静かな教会の、天井付近の窓からこぼれ落ちる光は儚い。
光の届かない四隅の暗がりには、ひっそりとした空気が漂っている。
……、……。
今度は確かに、どこからか声がしている。
エマは手に持った教本を抱えなおして、鳴き声のする方に歩き出した。
もしかすると、しばらく前からこの辺りに住み着いていた白猫が、仔猫を産んだのかもしれない。
声は告解室の裏側の、近所の女性達がいつも花を活けたりしている小部屋の方から聞こえて来るようだった。
仕切られたパーテーションの裏側をそっと覗くと、そこには、一人の青年が佇んでいた。
「あっ」
人がいるとは思わず、驚きに声を上げたエマに気付いて、その青年が振り返った。
その手には、鳴きながら身じろぐ、灰色の毛玉が載っている。
「ごっごめんなさい、人がいると思わなくて……!」
深い夜空のような不思議な髪色をしたこの美しい青年のことを、エマは知っていた。
エマだけではない、最近この町で、彼のことを噂していない少女などいないだろう。
慌てるエマを見て、その青年、エドは、美しい顔を僅かに綻ばせて微笑んだ。
(!……)
『エマ、彼は絶対、どこかの国の王子様に違いないわ!可哀想に、きっと国を追われて、身を隠すためにこんな辺鄙な町に逃げてきたのよ、絶対にそう!』
親友のナーシャが騒ぐだけのことはある。
こんな風に美しく、物哀しく笑う人を、エマは知らなかった。
「さっきから、この仔の震えが止まらなくて」
彼の手元の灰色の仔猫は、ようやっと目が開いたくらいの野良猫だった。
エドが集会所の生垣の側で見つけた時にはもう、母猫も、他の兄弟も見当たらなかったらしい。
「それはきっと寒いからだわ」
外はこれから夏になる陽気だとは言え、生まれたばかりの仔猫には、この教会のひっそりとした空気は冷たすぎるだろう。
迷わず、手に持っていた教本を包んでいた古いスカーフを引っぺがし、仔猫の寝床として設えられたらしい、この町ではどこにでも転がっている林檎の木箱に敷き詰める。
「牧師様に言って、湯たんぽと、余った毛布を分けてもらってきます」
テキパキと動き始めたエマを、手に灰色の毛玉を載せたまま、青年はきょとんとした顔で見つめていた。
「すごいなエマ。随分慣れているんだな」
牧師様の手を借りて諸々の用意をし、ようやくお互いに名乗りあったところだった。
灰色のふわふわした仔猫は、安心したように、毛布にくるまって眠りこけている。
「うちは牧場なんです。だから猫も犬もいるし、迷い込んだ野良猫が、仔猫を産むこともよくあって」
「ありがとう、君のお陰で助かった」
冷静になってくると、そう言って笑う美貌の青年と、こうして二人きりで言葉を交わしていることが夢のようだった。
なんとなく自分の様子が気になって、赤っぽいばかりの赤金色の髪を撫で付ける様にしてしまう。
(皆の憧れの“王子様”と話したなんて言ったら……ナーシャも、クラスの皆も驚くわね)
一年ほど前、冬の長いこの地で、ようやく春の気配が強くなってきた頃だった。
ある日突然に町に現れた美貌の青年の噂は、この町を一気に駆け巡って行った。
この町の領主である男爵様の、その屋敷に雇われている庭師の遠縁だという彼は、庭師夫婦の養子として庭師見習いを務めているのだそうだった。
『あれは絶対に仮の姿よ……!絶対、絶対、どこかの高貴な血筋のご落胤に違いないわ!きっと国からの迎えを待っているのよエマ、それまでこの町で身を隠しているんだわ』
ロマンス小説が好きなナーシャが、熱く語りたくなる気持ちもよく分かる。
エドは、明らかにこの町の青年達とは様子が違っていた。
遠目からでも分かる、日に焼けていない白皙の肌と、艶めいて美しい藍色の髪、整った顔立ちはどう見たってどこかの、高貴な家柄のお貴族様だった。
(こんなに美しい男の人がいるのね)
エマの知っている同世代の青年達、幼馴染やクラスの彼らとはまるで違う。
着ているものこそ、自分達と変わらない洗いざらしのくたびれた衣服だが、それはなんら、彼の高貴さを損なうようなものではなかった。
「……これは?リーゼル語か、珍しい」
包んでいたスカーフを仔猫に提供したせいで、持っていた教本が床に散らばっていた。
その中の一冊に目を留めたエドが、手に取ってそっと表紙を捲る。
「あ、それ、あの……今勉強中で」
「この町ではリーゼル語を?」
「あっいいえ!それは個人的に」
大きい街では専門の授業もあるそうだが、この町の学校では教えられていない。
「でも教本だけだと、発音なんかがよく分からなくて。だから牧師様に、その、時々教えてもらっているんです」
別の街から赴任してきた牧師様はリーゼル語にも詳しく、時折、ここで勉強を見てもらっている。
けれど、副牧師もいないこの町では、いつも誰かしらが訪ねて来たりで、エマの為だけに時間を取ってもらうのは、なんとも心苦しいのだった。
「私でよければ、リーゼル語なら力になれると思う」
「えっ」
「その代わりと言っては何なのだが……時折、猫の様子を見に来てくれると嬉しい」
庭師の仕事があるから、と続けられた言葉は、それでも、願ってもみないことだった。
(今日だけじゃなく、また話せるなんて)
教会の中を通り抜ける涼やかな風までが、どこか暖かにさえ感じられて。
彼とまた、こうして会う機会が得られることに胸が高鳴る自分を、エマは認めざるを得なかった。
そうして教会で、時折顔を合わせるようになったエドは、決して見かけばかりの青年ではなかった。
お互いのタイミングが合うことは滅多になく、数えるほどではあったが、それでも、仔猫の傍で勉強を見てもらう時には、その知性と品の良さがしみじみと感じられるのだった。
リーゼル語だけでなく、詰まっていた数学や苦手な歴史でも、エドは学校の教師よりも分かりやすくエマの質問に答えてくれた。
まるでそうして、ずっと誰かの質問に答えて来たように、こちらのペースに合わせて、疑問を解きほぐす術を心得ているようだった。
そしてその知識だけでなく、立ち上がる瞬間に手を貸してくれる所作や、牧師様にエマ宛のお菓子を預けておいてくれたりと、さりげなく気が利いているのだった。
(さらりとこんなことを出来る人が……王子様じゃないなんてことある?)
朝、大声を上げながら、自分の横を追い抜いていく幼馴染のルーカスや、腹を掻きながら仕事に向かう父を見るにつけ、そんなことを思ったりしてしまう。
少なくとも、ただの庭師の遠縁の、平民の子などであるはずがない。
エド自身は、そのことに気付いているのかいないのか……その所作を隠すような素振りなどはなく、ただ、日毎に焼けていく肌や、荒くなでつけられただけの髪、そして白い指に少しずつ増えていく傷を見れば、この暮らしに馴染もうとする青年の様子に、エマは、何も聞くことなど出来なかった。
それに何より自分は、ここでのエドとの時間を壊したくなかったのだと思う。
賢く、知識も幅広いエドと話していると、エマは自分までどこか、優秀な人間になったような気がしてくるのだった。
だからだろうか、親友のナーシャにすら話していない、自分の夢について、ぽろりと打ち明けてしまったのは。
「……教師になりたいと思っていて。出来れば次の奨学試験をパスして、奨学金を貰って」
「ああ、それでリーゼル語を」
聡明なエドには、それで全て伝わったようだった。
今は廃れてきてはいるが、国の認定試験には必須の科目なのだ。
「エマのリーゼル語のレベルは高い、それは私が保証するよ」
そう言って微笑む、エドのどこか寂しげな笑みは、今日までずっと一人で走り続けてきた、エマの心をそっと温めてくれた。
窓の外には、この辺境の地では貴重な、夏の青空に映える白い雲がもくもくと、山よりも高く伸びているのが見える。
エマの夢を『君ならなれる』と、安易に肯定しない所も、好きだな、と思った。
「ねぇエマ、この間あの王子様が、お姫様を連れていたんですって!」
ナーシャがこそこそと、嬉しそうにそうエマに囁いたのは、ある日の暑い昼休みのことだった。
「通りの雑貨屋でね、一緒に買い物をしていたのをミシェル達が見たらしいの」
「それ私も聞いたわ!男爵様の遠縁のお嬢様らしいわよ」
昼休みの騒がしい教室では、内緒話などできるわけもなく。
すぐに周囲の友人達が、こぞって会話に加わってくる。
皆この時期だけの、袖の短い衣服を着て、互いに焼けた腕を見せびらかしている。
「違うわよ絶対、とても男爵様のご親戚には見えなかったって言ってたわ。珍しい白金の髪だったらしいもの」
「でもお屋敷に住んでるんでしょう?」
「そうよ、きっと二人して、男爵家に身を隠しているんだわ」
そんな会話を耳から聞き流しながら、エマはどこか、納得している自分に気付いていた。
保護した仔猫は幸いにも、体調を崩すこともなく、すくすくと育っている。
牧師館で元から飼われていた、気難しい毛の長い雌猫のティティが、たまたま仔猫を気に入って世話してくれたことも大きかった。
主人の了承が得られたら引き取りたいと、ころころと丸くなってきた仔猫を撫でながら、エドがそう話しているのを聞いていた。
「名前はもう決めたんですか?」
そういえばいつも、「あの猫」とか「猫ちゃん」とか、そんな風に呼ぶばかりだったことに気付いて、エマが尋ねた時だった。
「まだなんだ。引き取ってから決めたいと思っていてね」
その時はっと、冷や水を浴びたような気がしたのだ。
誰かと、一緒に名付けるつもりなのだと。
(きっとその、お姫様と一緒に名付けるんだわ)
いつも自然にこちらへ手を貸してくれる、エドの洗練された所作を思い出しながらそう思う。
同級生達のさざめく笑い声が、どこか遠くに感じられた。
ナーシャがいつも、貸してくれる小説の中では当たり前のことだった。
素敵な王子様の隣には、素敵なお姫様がいるものなのだから。
「おーいエマ!配達手伝ってくれ!」
階下から父が、そう言ってエマを呼ぶ声がする。
学校の休みである今日は、朝から自室で、試験に向けて勉強をしている所だった。
両親には、冬の始めに迫った奨学試験のことはまだ話せていない。
特に父は、顔を合わせれば隣のルーカスとの仲を聞いてきたりで、最近、頓に面倒なのだ。
父がエマに、ルーカスを婿に取り、この牧場を継いでほしいと思っていることには気付いている。
隣のルーカスも、エマのことはともかく、度々手伝いに来るくらいには、うちの牧場の仕事を気に入っているらしいことも。
「エマ!」
溜め息をつきながら、エマは立ち上がった。
どうにかこのまま、行かないで済ませられないかと思案していると、
「男爵様のお屋敷に寄るからな!汚れていないシャツで降りてきてくれ!」
「……分かったわ父さん、ちょっと待って!」
あの仔猫が、エドの雇い家である男爵家に引き取られてから、教会でエドと会う機会はほとんどなくなってしまっていた。
だから少しばかり期待する気持ちで、エマはミルクやチーズを乗せた荷台に揺られている。
ただの学生であるエマには、男爵様の屋敷に出入りする機会など滅多にないし、エドが実際に働いている姿を見てみたい気持ちもあった。
裏門とは思えない程、十分に大きい立派な鉄製の門を潜って、庭園の横を抜けた先にある裏口で、父が屋敷の者に声を掛けている。
荷下ろしは、屋敷の下男達が請け負ってくれるから、エマにはさほどすることはない。
広い庭園を見渡して、少しこの辺りを散歩してもいいだろうかと、そんな風に思っていた時だった。
近くの茂みから、一人の少女が顔を覗かせた。
「あら、お客様かしら」
暮れ始めてもなお、まだまだ高い夏の日差しが、白い髪を眩しく照らしている。
白く伸びた腕が、色とりどりの花を抱えていて、まるで花の妖精のようだった。
少女が顔を傾けるのに合わせて、月の光の様に輝く白金の髪がふわりと揺れた。
(……お姫様だわ)
彼女が、エドの“お姫様”だと、エマにははっきりと分かった。
その整った顔から紡がれる声も、妖精のように可愛らしい。
「ねぇ貴女、花冠の作り方を知っているかしら?」
妖精が問うてきた内容を反芻して、エマは数度瞬きをした。
少女が手にしていた花で編んだ花冠は、その量も相まって、冬の祝祭日に玄関先に飾る、リースのようなサイズになった。
白く美しい手が、花冠をそっと、庭の片隅に埋め込まれた石の上に置く様子を、少し後ろから眺めている。
通ってきた庭園には、様々な種類の夏咲きの花々が、つかぬ間の季節を競い合うように咲き誇っていたのに、目の前の石の周囲には、白い花だけがぐるりと取り囲むように植えられている。
手を組んで祈りを捧げる少女の、しゃがんだ首筋が同じように白く眩しかった。
(これはお墓……?)
じっと首を垂れる少女からは、その悼みと哀しみが、静かに伝わってくる。
ふと、貰われていったはずの、あの灰色の仔猫のことが胸を過ぎって、エマの心臓が冷たくなった。
(まさか)
「白い犬だったの。花の匂いを嗅ぐのが好きだったから、きっと喜ぶわ。不躾なお願いを聞いてくださってありがとう」
しゃがんでいた少女が、立ち上がりながら振り返って、エマに笑いかけながらそう言った。
あの仔猫ではなかったことに、内心僅かに安堵して……けれど目の前の少女の濡れた瞳に、出会ったばかりのエマの胸も痛んだ。
人形のように整った容姿の少女が目を潤ませていると、かえってそれが、人間であることの証のように見えるのだった。
「もし良かったらお茶でも、」
少女が言葉を言い終わらないうちに、屋敷の方に続く茂みの奥から、人が近付いてくる気配がする。
「シャル?そこにいるのか?」
その声に、エマの心臓が跳ねた。
「ここよお兄様」
応える少女の声に誘い出される様にして、高い生垣の陰から、見知った青年が姿を現した。
「シャル、また帽子を忘れてる。……エマ?」
その瞬間、来なければ良かったと思った。
彼が少女を呼ぶ声が、こんなにも特別だと気付いてしまったから。
「どうしてここに?」
「父があの、配達で……それで」
エドの顔をどうしてか、いつものように見ることが出来ない。
何よりも、少女と二人、並んでいる姿を視界に収めることが、
「エマ、良かったらお茶でもどうだい?仔猫も随分大きくなったんだ」
「あの、私帰らないと」
一刻も早く、この場から立ち去ってしまいたかった。
「お兄様、また次の機会にお誘いしましょう」
そう言ってにこりと、少女が微笑む。
そこには、こちらを訝しげな様子で見ている青年を、僅かに押し留めるような響きがあった。
「花冠をありがとう、またいらしてね」
エマに美しく微笑む少女に、自分はなんと返したのだろう。
逃げる様にして、夏咲きの花が咲き誇る、美しい庭を後にしたのだった。
目の前のナーシャが、いつもの様に嬉々として、あの二人の様子を報告してくれる。
「聞いてエマ、ついにこの間、教会に入っていく二人を見かけたのよ!ご令嬢の白っぽい金の髪が、それは美しいったらなかったわ。あれは絶対にどこかのお姫様よ。男爵様とは全然似ていらっしゃらないもの」
あっという間の短い夏が、遠のいて行く気配が、すでに町中に漂っていた。
そろそろ朝晩は、長袖でないと寒気を感じるくらいの気候になってきている。
夏期休暇の間は、朝早く牧場の手伝いに駆り出されることも多く、その合間を縫って取り組んできた試験勉強の進捗は、あまり思わしくないものだった。
「エマ、聞いてる?あの二人は絶対、婚約者同士だと思うのよ。きっと二人して、いつか国から迎えがくるに違いないわ」
ナーシャのそばかすの散った顔を眺めながら、けれどその話の内容は、全く頭に入ってこない。
(お姫様の肌は、髪と同じくらい白かったわ)
あの時多分、あの少女……シャルは、気まずいエマを助けてくれたのだと思う。
きっと二人の親密な様子を、自分は直視することが出来なかっただろうから。
けれど彼女のそんなところも、なんだかやるせ無いのだった。
(……誰かが本当に、迎えに来たらいいのに)
あの日から、エドには会っていない。
夏は庭師の仕事だって忙しいだろうし、エマはエマで、休暇中は、学校帰りに教会に顔を出すといういつもの習慣から外れていた。
牧師様から一度だけ、可愛らしい花型の砂糖菓子を受け取った。
添えられたメモには、美しい筆致のリーゼル語で、あの時の花冠のお礼だと書かれていた。
このまま、あの二人がどこか遠くに行ってしまえばいいのに、とエマは思う。
思い返せばあの二人は、その空気も、どこか哀しい笑い方もよく似ていた。
けれどあの時の、エドが彼女を呼ぶ声や視線は、兄妹などであるはずがなかった。
「ねぇエマ、ちゃんと聞いてる?」
どこか、エマの知らない世界に、二人していなくなってくれればいい。
「聞いてるわナーシャ」
このまま、この胸のモヤモヤとした感情ごと、どこかへ行ってしまって欲しかった。
この年の初めて雪が降った日は、いつになく嵐になった。
ここでは初雪が降ると、雪崩のように他の季節を押しやって、あっという間に冬が迫ってくる。
奨学試験の願書に必要な、牧師様からの推薦文を受け取るため、エマは雪が小降りになった頃を見計らって、教会を訪ねて来ていた。
皆考えることは同じなのだろう、今のうちにと、商店や郵便局の店先に、急いで用事を済まそうとする人が行き交っている。
憂鬱なのは、何も天候の所為ばかりではない。
試験はもう目前だというのに、まだ家族に、進路について伝えられていないのだった。
家族の寝静まった夜遅く、一人で机に向かっていると、どうしようもない程の心細さが湧き上がってくる。
町の青年と結婚し、ここに住み続けるナーシャや友人達、煩いが優しい両親と、時折納屋から聞こえる動物達の鳴き声、硬いベッドと、剥がれかけた壁紙、自室の薄汚れた窓から見える、遮る物など何もない星空。
この全てに背を向けて、一人で追いかけている文字や数式が、本当に自分の将来を形作っているのだろうかと不安になってくる。
自分が描いている未来は、果たしてその先にちゃんとあるのだろうか。
そして、それを掴み取るだけのものが、自分の中に、あるのだろうかと。
訪れた教会の入り口で、外套の上に来ていた雪除けのオーバーから雫を払っていく。
奥の方から、僅かに人の声がしている。
牧師様に尋ねたいことがあり、この雪の中、教本を抱えてきたことをエマは少し後悔していた。
けれど一人きりで考えていた所で、最近の自分の状態では、勉強に身が入らないことも分かっている。
(願書を出したら……ううん、願書を出したからと言って、何も解決しないのよ)
隣町で行われる試験に行くための費用や足をどうするのか。
雪が深くなってきたら、泊まりがけで行かなければならなくなる。
それ以前に願書は通るだろうか。
保護者のサインを、どう切り出して頼んだらいいのだろう。
……そもそも自分には、試験を受けるだけの覚悟があるのだろうか。
閉めた扉の隙間から吹き込んできた風が、足元を通り抜けていく。
外套を脱ぐ手が、知らぬ間に止まっていた。
「あら、貴女は……エマ?」
鈴のような声が、奥からエマの名を呼んだ。
教会の奥から出てきたのは、白金の髪の少女と、エドだった。
「やぁエマ、雪は大丈夫だったかい?」
「ええ、今はもう小降りになっています」
グレーの外套を手に持ったエドが、同じようなグレーのドレスを纏った少女を伴って近付いてくる。
少女の格好は、飾り気のない分厚いジャガードのドレスだったけれど、彼女が着て動いているだけで、まるで舞踏会のドレスのようにだって見えた。
思った以上に普通に話せることに、エマは内心安堵していた。
それでも心臓は、思わぬ再会に煩く騒ぎ立てている。
「牧師様に用事かな?奥にいらっしゃるよ。丁度私達の用事が終わったところだから」
「ありがとう、じゃあ」
そう言って二人の横を通り過ぎようとした時だった。
「あっ」
慌てて抱えたオーバーと外套を持ち直した拍子に、懐から教本とノート代わりの紙が滑り落ちてしまった。
節約のため、綴じないままでいた紙が、教会の床を滑るように散らばって行く。
雪が溶けて床に溜まっていたのだろう、拾い上げた紙は、所々インクが滲んでしまっていた。
「大変だわ、直ぐに乾かしましょう」
同じように拾い集めてくれていた少女が、滲んだインクに目を留めて眉を寄せた。
「大丈夫です」
拾いながら、あまりの情けなさに余計に気が急いてしまう。
よりにもよって、この美しい二人の前でこんな。
「でも、大切なものでしょう?」
拾い上げた紙に綴っていた文字のインクが滲んで、黒い滲みになって広がっていく。
繰り返し練習した文字の綴りは、今や何の意味もないただの汚れだった。
(私の未来だって、こんな風かもしれない)
こんな風に勉強したって、両親を説得出来なければ、ただ無駄になって終わるのだ。
一人で足掻いたって、この先などないのかもしれない。
「エマ」
「もう放っておいてください!どうせ、どうせ意味ないんだからこんな……!」
荒げた声に、二人がはっとこちらを見るのが分かった。
声と共に溢れた感情は、一度溢れたら止められず、涙となってエマの目から溢れ落ちていった。
「この寒い雪の中、わざわざここに来たのでしょう?」
柔らかな少女の声が、静かな教会に響いた。
鼻を啜りながらそっとそちらを伺うと、少女……シャルが、集めた紙を見つめている。
「ここにある蝋燭の跡……夜、ランプのない中で書き取ったのが分かるわ。ねぇエマ、諦めてはダメよ。誰でもね、譲ってはいけない時があるの」
こんな、苦労を知らないような、令嬢然とした少女に何が分かるのだろう。
そう思っていたエマの手を、静かにシャルの手が取った。
添えられた小さな手の、その手の平の豆の感触と、爪の端の黒さにはっとする。
その手は、“お姫様”の手ではない。
取れない煤が残ったその指先は、エマ達と同じ、働く者の手だった。
赤く染まった指先の霜焼けは、夏でも変わらずに冷たい沢水を、日常的に触っているからだろう。
料理や洗濯に忙しい、エマの母と同じだった。
「でも、私」
「まずはこの紙を乾かしましょう。その後のことは、それから考えたらいいわ。でもねエマ、覚えておいて」
エマの手をぎゅっと握って、シャルがこちらの目を真っ直ぐに見つめながら言う。
長い睫毛に縁取られた瞳は、夏の青空のように澄んでいる。
「何かを言う前に、全部飲み込んでしまっては駄目よ。それは貴女の中で怒りや恨みになって、いつか、貴女自身を焼いてしまうわ」
「……でも私、両親に、言ったことないの。勉強したいって、先生になりたいって……許して、もらえないかもしれない」
「そうなのね。では、作戦を考えましょう?」
そう言って頷く少女は、エマよりも年下で、余程小柄なのに、まるで年上の姉のようだった。
「さぁ、まずはお茶でも飲みましょう。実は私はね、家族……周りから、“我が儘姫”って呼ばれていたの。だから私が望むことは、きっと叶えて見せるわ」
悪戯っ子のようなその笑みは、寂しさなど感じさせない、少しだけ貴族の傲慢さが滲んだ、けれど魅力的な笑みだった。
「覚悟を決めたほうがいいかもしれない」と、紅茶をもらうためにシャルが消えていった教会の扉を見つめながら、エドがぽつりと、そんな言葉を口にした。
気付けば止まっていた涙に、エマはいつの間にか、自分が泣いていたことも忘れていた。
目が合ったエドが、ふっとこちらに笑いかけながら、
「ああなったシャルは、きっと譲らないから」
その諦めと、愛しさの滲んだ笑みを見て、エマは自分の恋が、柔らかく解けて行くのを感じた。
(ナーシャ、二人は確かに“王子様”と“お姫様”かもしれないわ)
見た目よりもずっと強いお姫様と、それを見守る王子様。
ここにいるのは、お互いを想い慈しみ合う、ただの若い恋人達だった。
その後、教会を出た頃には雪は止んでいた。
送ってくれるという二人に断って、雪でぬかるんだ道を歩く。
短くなってきた日はもう疾うに暮れていて、辺りは薄闇に包まれていた。
雪と風が、全ての汚れを取り去ったのだろう。
怖いほどに晴れ渡り、昼間のように明るい夜空の中で、一際真っ白な北極星が、真っ直ぐに視線の先に輝いていた。
それはまるでエマの、これからを導き、照らしてくれる灯台のようだった。
この先の未来を、真っ直ぐにさし示してくれる光。
(帰ったら、言ってみよう。……我が儘を)
自分の未来のために。
駄目でも、許されなくても。
それでももう、自分の願いを無かったことにはしない
『ナーシャ“王子様”には“お姫様”がいるんだから、追いかけるのはもうやめたら?』
エドの情報収集に忙しいナーシャに、ある時エマは、そんな風に声をかけた。
ここしばらくずっと、エドへの気持ちを消化できなくてモヤモヤしていたのだった。
『なに言ってるのよエマ。分からないじゃない?そんなの、奪っちゃえばいいのよ』
ナーシャの言葉は、きっと正しい。
(戦えってことよね)
王子を手にするためではない、エマ自身の為に、戦わなければいけない時があるのだ。
さっきシャルが握ってくれた手の熱さを思い出し、ぎゅっと握りしめる。
小さい手から伝わってきたのは、思いもかけない熱さだった。
その熱が今、エマの心に乗り移ってきたように、身体の奥から、自分を温めているのを感じていた。
(“お姫様”だって、きっと戦っているんだもの)
そしてただひたすらに、家路を急いだのだった。
それから悩んだり、辛い時には、夜空で白い星を探した。
どんな大きな町の、星の見えない夜でも、その星だけは変わらずに、広い空の中心で静かに光ってくれている。
そして思い出すのだ。
あの時の少女の手の平の熱と、あの寒い夜道のことを。
エマの記憶の中で、あの二人はずっと、お互いを優しく見つめ合い、嬉しそうに笑っている。
あの頃の彼への淡い気持ちは、今はただ、砂糖菓子のように甘く優しいだけ。
あの白い星のように、あの二人も永遠であればいい。
雪深い故郷から遠く離れた地で、変わらぬ星に。
いつまでも、いつまでも。
そう、願いをかけている。




